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誰も救えない僕が、それでも魔王と生きる話  作者: 霜月ルイ
最終章【誰も救えない僕が、それでも魔王と生きる話】

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146/159

146.幕間【空白の地点】

 

 何も起きていない場所ほど、長く見張られる。


 王都の観測部門――そう呼ばれる場所は、戦場のような喧騒とは無縁だった。剣も槍も必要としない。必要なのは帳面と針と、沈黙に耐える目だけだ。


 部屋の窓は狭く、日差しは薄く切り取られるように落ちる。外では鐘が鳴り、荷車が石畳を鳴らし、人の声が流れているはずなのに、ここにはそれが届かない。壁に吸われ、書類の匂いに塗り替えられ、ただの背景音にされる。


 机の上には、木枠に収められた地図盤が置かれていた。黒い線で引かれた道。青い線で示された川。緑の陰影で示された森。そこに、ひとつだけ異物がある。


 半径五キロの円。


 黒く、太い円。定規とコンパスで描いたように正確で、だからこそ人間の手が持つ迷いの気配がない。地図は、出来事を記録しない。地図は、起きたことが「場所」になった後の姿だけを残す。


 記録補助官は、その円を見下ろしながら、いつもの刻限灯に目をやった。


 決められた時間。決められた手順。決められた項目。


 消失区域――観測継続。


 そう書かれた札は、もう何度も交換されている。最初のうちは、札を差し替えるたびに、紙の端が指に引っかかった。緊張があった。記録という仕事が、現場の血の匂いに繋がっていると意識してしまう日があった。


 今は違う。


 札は札だ。項目は項目だ。書類は書類でしかない。


 それでも、円の中だけは、いつまでも同じ顔をしている。


 封鎖。立入禁止。定期観測。


 補助官は、針のついた簡素な観測器の目盛りを確認し、紙に数字を書き込んだ。


 魔力値――安定。


 隣の欄も埋める。


 地形変化――なし。


 さらに隣。


 生体反応――なし。


 その三つの「安定/なし/なし」が、同じ列で何ヶ月も続いている。


 書類の上では、それは最も扱いやすい案件だった。数字が動かない。報告が増えない。緊急対応が発生しない。部署をまたいだ調整も、ほとんど要らない。


 それなのに、補助官は、書き終えた字を見下ろして、ほんの短い間だけ、ペン先を止めた。


 ――何も起きていない、という事実だけが、異常だった。


 この円の中で「何も起きない」ことは、他の場所の静けさと同じではない。森が静かなのは、そこに森があるからだ。湖が静かなのは、水がそこに留まっているからだ。


 だが円の中は、静けさの理由がない。


 補助官は、地図盤に視線を戻した。


 円は、町や村の名前を飲み込んでいる。かつてそこにあった地名は、注記の奥へ押し込まれ、地図の表面から消えた。今、そこに書かれているのは「消失区域」だけだ。


 事件ではなく地形。


 人の生活ではなく管理。


 誰が住んでいたかではなく、どこが空いたか。


 補助官は、薄い紙束の一番上に、新しい報告書を載せた。観測器の数値を写し、署名欄に自分の名前を書き、上席へ回すための印を押す。指先の動きは機械的で、迷いはない。


 仕事としては、簡単だった。


 簡単であることが、逆に嫌だった。


 ♢


 地図の中心点は、いつも正確だ。


 円の中心には小さな点が打たれ、その横に座標が添えられている。数字の列。北緯、東経。補助官にとっては、そこに意味を付ける必要のない文字列だ。


 だが、その点だけは、視線を引く。


 円の端なら理解できる。封鎖線だ。ここから先は入るな、という意味がある。線には用途がある。用途があるものは、世界に置ける。


 中心点には用途がない。


 どこにも属さない。境界ではない。守る線でも、分ける線でもない。単に円を成立させるための「中心」でしかない。


 元は、村の中央広場に相当する。


 そう記録には書いてある。村役場の前。井戸の近く。祭りの時には屋台が並び、子供が走り回り、老人が腰を下ろす場所――だった、らしい。


 らしい、という言葉が、補助官の胸に小さな棘のように残る。


 見たことがない。行ったことがない。だから「らしい」しか言えない。それなのに、この中心点は、王都の机の上で確かな位置を与えられている。


 円の中心は、どこにも属さない。


 その点があることで、円が成立し、円があることで「消失区域」が成立する。成立した瞬間に、生活は場所に置き換えられる。ここにあったはずの声も匂いも、地図の上では一つの点に収縮する。


 補助官は、無意識に指先でその点をなぞりそうになり、慌てて手を引いた。


 触れたところで、何も戻らない。


 戻らないのに、触れたくなる。


 それは人間の悪癖だ。


 ♢


 神殿にも、観測はある。


 神殿の観測は、王都のそれと違って、紙の上だけで完結しない。祈り、器、香、沈黙。信仰を装置にしたような手順で、世界の“応答”を待つ。


 神殿遠隔観測神官は、今日もいつもの儀式を行っていた。


 祭礼のための香ではない。神託のための豪奢な器でもない。必要最低限の道具が、必要最低限の順序で並べられる。形式は崩さないが、飾りもしない。祈りとは、本来そういうものだ。


 器は、静かだった。


 光らない。震えない。熱も持たない。


 いつも通りだ。


 いつも通りであるはずなのに、神官は、器の沈黙を見つめながら、眉間に微かな皺を寄せた。


 沈黙の質が違う。


 言葉にするのは難しい。沈黙は沈黙だ。音がないことに種類などあるはずがない。だが、祈りを続ける者の身体は、言葉より先に違いを受け取ってしまう。


 これまでは、沈黙が「空」に近かった。


 答えがない、という感じだった。拒絶でも肯定でもなく、ただ何も返らない。


 今日は違う。


 沈黙が、留まっている。


 空白が、そこに“ある”と感じてしまう。


 神官は、書記役の若い神官に視線を投げた。


「……どうだ」


「異常はありません。器も、香も、順序も。すべて規定通りです」


 若い神官は答える。まじめで、誤魔化しのない声だ。だからこそ、神官の胸の奥に残る違和感が際立つ。


 規定通り。異常なし。


 だが、異常なしであることが、異常だ。


 神官は、声を低くして言った。


「何も告げられていない。だが、何も無いとも言われていない」


 若い神官は、言葉を返せなかった。返そうとした瞬間、返せる言葉がないことに気づいた顔になる。


 神官はそれ以上責めなかった。


 神殿は万能ではない。


 それを一番知っているのは、神殿の中にいる者だ。


 ♢


 現地監視兵は、報告書を書くのが苦手だった。


 彼らは剣を持ち、足で歩き、目で見て判断する。それが仕事だ。紙の上で世界を扱うことは、王都の人間の仕事だと、どこかで思っている。


 だが、この案件は、足で歩いても、目で見ても、判断ができない。


 兵は、封鎖線の外側で、いつものように巡回をしていた。草は伸びる。獣は通る。風は吹く。世界は「普通」に動いている。


 封鎖線を越えると、普通が薄くなる。


 音が減る。


 風が止まる。


 木の葉の擦れる音が、遠くなる。鳥の声も、距離を取る。空気が冷えるわけではない。暑くもならない。ただ、世界が息を潜めているように感じる。


 兵は、中心点に向かって数歩進み、足が遅くなるのを自覚した。


 恐怖ではない。


 危険でもない。


 剣を抜きたいとも思わない。背中が冷えるわけでもない。何かに襲われる予感もない。


 ただ――立つ理由がない。


 そこに立つ理由が、どこにも見つからない。


 兵は報告書に書いた。


「中心点に近づくほど、巡回速度が自然に低下する。身体が拒否するというより、行動の目的が失われる感覚。恐怖反応なし。危険感知なし。理由の喪失のみ」


 書き終えて、兵は自分の文字を見下ろし、苦い顔をした。


 こんな報告が、王都で役に立つとは思えない。


 しかし、書かないと、仕事にならない。


 怖くはなかった。ただ、ここに居る理由が見つからなかった。


 報告書の最後に、その一文だけを残した。


 ♢


 微差は、最初、数字の揺らぎに見えた。


 記録補助官は、いつものように観測器の目盛りを読み、紙に写していた。数値は安定している。そう思い込んでいた。安定している、と書くことに慣れていた。


 だが、今日の数値は、ほんの僅かに違った。


 変化と言うには小さい。誤差と言えば誤差で済む。器具の癖、湿度、手の読み違い。いくらでも理由が付けられる程度の差。


 それなのに、補助官は、背筋の奥が微かに固くなるのを感じた。


 いつもと違う。


 数値が違うのではない。意味が違う。


 魔力量の増減ではない。属性の偏りでもない。これまでの分類のどれにも当てはまらない“反応”だった。数字としては同じ幅でも、指しているものが違う。


 補助官は、もう一度だけ観測器を確認した。


 同じ。


 次に、別の観測器を出した。交差確認。形式的な作業だ。だが、形式的だからこそ、違いが逃げない。


 同じ。


 補助官は、紙の欄に、いつものように「異常なし」と書きかけて、止めた。


 異常ではない。


 だが、通常とも言えなかった。


 書き直す。


「観測値:微差あり。既存分類に該当せず。継続観測を要す」


 その一行は、報告書の海に沈むだろう。緊急扱いにならない。警報も鳴らない。誰も机を叩かない。誰も夜中に叩き起こされない。


 ただ、ログに残る。


 ログに残ったものは、いつか拾われることがある。


 拾われた時には、遅いこともある。


 補助官は、ペン先を置き、紙の端を指で押さえた。


 自分が書いたその一行が、未来に何を連れてくるか分からない。


 分からないから、記録する。


 それが仕事だ。


 ♢


 会議は、小さかった。


 王国の上層が集まる大広間ではない。重い扉も、豪奢な絨毯もない。窓際の簡素な部屋に、数人の席があるだけだ。議題は「消失区域の観測継続と、対応の再確認」。


 誰も期待していない会議だった。


 議論は起きない。


 報告が読み上げられ、目が通され、頷きが返る。


「微差が出ています」


「分類は?」


「該当なしです」


「危険度判定は」


「保留で」


「対応案は」


「現状維持で」


 言葉は短い。感情は挟まれない。誰も声を荒げない。誰も責任を取らない。取れる責任がないからだ。


 新しい判断基準がない以上、判断はできない。判断できない以上、動けない。動けないなら、動かない方が安全だ。


 決めないことが、最も安全だった。


 その結論は、正しいのかもしれない。


 正しさが、世界を守るとは限らない。


 補助官は、末席でそのやり取りを聞きながら、胸の奥に小さな硬さを溜めていくのを感じた。


 何かが変わり始めている。


 だが、誰もそれを「変化」と言わない。


 変化と呼べば、対応が必要になるからだ。


 対応できないものは、言葉にされない。


 言葉にならないものは、存在しないことになる。


 この国は、それで回ってきた。


 回ってきたものが、いつまでも回るとは限らない。


 ♢


 世界は、空白を放置できない。


 空白とは、ただ何もない場所ではない。空白は、意味が置けない場所だ。置けない場所があると、世界はそれを避ける。避け続けると、その場所はますます空白になる。


 村が消えた。


 理由は無い。


 説明も無い。


 だが、空白は残った。


 残った空白は、世界の端ではなく、世界の中にある。道の途中にあり、人の生活圏のすぐ隣にあり、地図の上で明確な円を持つ。


 円は、世界にとって「置き場」だ。


 管理できる形。


 触れないことを決められる形。


 けれど、中心点は置き場にならない。


 中心点は、意味を受け取らない。


 それでも、世界は中心点を残してしまった。


 原因が消えた場所には、いずれ“意味”が置かれる。


 それが善か悪かは関係ない。人が耐えられる形かどうかが問題だ。人は、形を求める。形がないと、立てない。


 立てない場所に、立てるものを置きたがる。


 それが、物語だ。


 あるいは、怪物だ。


 あるいは、神だ。


 あるいは――魔王だ。


 ♢


 観測装置が示す座標は、ずっと変わらない。


 補助官は、最終報告書をまとめる前に、もう一度だけ地図盤を見下ろした。円。中心点。数字の列。どれも、昨日と同じ顔をしている。


 だが、今日の数値の微差が、その中心点にまとわりつくように感じた。


 意味を持たない点に、意味が寄ってくる。


 寄ってきてしまう。


 それを止める手段は、今の王国にはない。


 補助官は、紙に座標を書き写した。


 中心点。


 消えた村の中心。


 あの地点。


 書き終えた瞬間、なぜか喉が乾いた。水を飲んでも潤わない乾き。言葉にならない不安の乾き。


 彼は、報告書の最後に、極めて事務的な文言を添えた。


「当該地点において、既存分類に該当しない反応を確認。継続観測を要す」


 それだけだ。


 それだけしか書けない。


 魔王は、村が消えた地点に出現した。

 それは偶然ではない。

 そこしか、立てる場所が残っていなかった。


この幕間は、物語を進めるための話ではありません。

進んでしまった世界が、立ち止まれなかった場所を確認するための一話です。


村が消え、理由が失われ、説明が拒否されたあとでも、

世界は空白を放置できませんでした。

だからそこに「地点」が残り、因果が静かに集まり始めます。


次から始まるのは、侵略でも復讐でもなく、

空白に立たされた存在の物語です。


物語が欠けた場所から、次の章へ進みます。

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