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誰も救えない僕が、それでも魔王と生きる話  作者: 霜月ルイ
消失編

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144/162

144.物語にならない

 

 酒場は、いつもより少し騒がしかった。


 祭りがあるわけでも、収穫が良かったわけでもない。ただ、人が集まりやすい時間帯に、集まりやすい人間が集まっていただけだ。日が落ちて、仕事が終わり、食事と酒で一日の区切りをつけたい者たちが、自然と腰を下ろす場所。


 卓の上には木杯。中身は安い麦酒か、薄めた葡萄酒。香辛料の効いた煮込みの匂いと、湿った外套の匂いが混じっている。どこにでもある、ありふれた夜だった。


 噂が出たのは、特別な形ではなかった。


「――聞いたか?」


 声を潜めるでもなく、声を張るでもなく。問いかけは、ただの会話の入口だった。


「何をだ」


「ほら、南の方だよ。村が襲われたって話」


 その時点では、誰も身を乗り出さない。村が襲われる話は珍しくない。魔族、盗賊、疫病、火事。理由はいくらでもあるし、その大半は遠くで起きて、ここには直接関係しない。


「で?」


「守られたらしい」


 守られた、という言葉が出た瞬間、空気が少しだけ変わる。


 悲劇よりも、勝利の方が人の耳を引く。助かった話は、酒の席に向いている。


「誰が?」


「さあな……騎士団だって話もあるが、どうも違うらしい」


 行商人だった。街道をいくつも渡り、酒場を転々とする男だ。噂を拾うことが仕事みたいな人間で、だからこそ話半分で聞かれることも多い。


 その男が、わざとらしく杯を傾けてから続ける。


「魔族の数が尋常じゃなかったとか」


「何人くらいだ」


「何人って……百はいたとか」


 すぐ隣で、別の客が鼻で笑う。


「盛りすぎだろ。百もいたら村が残るわけがない」


「だが殲滅したって話だ」


「殲滅?」


 言葉が跳ねた。


 殲滅、という語は気持ちがいい。完全で、迷いがない。中途半端に追い払ったよりも、すべて終わらせた方が、聞いていて楽だ。


「誰がそんなことを」


「英雄がいたらしい」


 英雄。


 誰かが、面白がるようにその語を繰り返す。


「英雄って、どこの?」


「分からん。王都の騎士でもないらしい」


「じゃあ傭兵か?」


「いや、傭兵にしちゃ規模がおかしい」


 話は転がる。


 魔族の数は百から三百になり、やがて千になる。守った村の規模も、大きくなっていく。畑があり、井戸があり、教会があったことになる。話に彩りが足されるたび、現実からは遠ざかる。


 それでも、誰も止めない。


 英雄の話は、多少盛った方がいい。盛られた話は、人の心に残りやすい。


「一人だったって話もあるぞ」


「一人?」


「一人で全部やったらしい」


 ざわめきが起きる。


 一人で、という条件が加わると、英雄譚は一気にそれらしくなる。数の不利を覆す存在。圧倒的な力。選ばれた人間。


「名前は?」


 誰かが聞く。


 一瞬、間が空いた。


「……知らん」


 行商人は肩をすくめた。


「聞いた話じゃ、名は出てこない」


 名が出てこないことを、誰も不思議がらない。


 英雄の名は、後から付くことも多い。赤き剣、黒衣の騎士、暁の戦士。呼び名はいくらでも作れる。


「そのうち決まるだろ」


 そう言って、誰かが笑う。


 笑い声に紛れて、もう一つ、静かな違和感が沈んでいく。


「……で、助かった奴は?」


 それは、酒場の隅にいた男の声だった。飲み干した杯を机に置き、淡々と問いを投げる。


「村人だよ」


「だから、その村人が誰だって話だ」


 沈黙が一拍だけ落ちる。


 誰も、具体的な名を挙げられない。


「ほら……村だから、大勢いるだろ」


「誰か一人でもいい」


 誰も答えない。


 英雄が守ったはずの村なのに、救われた人の話が一切出てこない。泣いて感謝した老女も、抱き合った家族も、再建に励む若者もいない。


 代わりに出てくるのは、数字と力の話だけだ。


「まあ、無事だったってことだろ」


 誰かがそうまとめようとする。


 まとめようとする声は、噂を終わらせるためではなく、続けるためのものだった。細部が曖昧でも、結論が気持ちよければ、それでいい。


 行商人が、少し困った顔で付け足す。


「ただな……村の名前がな」


「何だ」


「聞くたびに違う」


 北だと言う者もいれば、南だと言う者もいる。川沿いだと言う者もいれば、森の中だと言う者もいる。どれも、それらしく聞こえるが、重ねると一致しない。


「まあ、噂なんてそんなもんだ」


 誰かが言って、話はまた英雄の強さへ戻る。


 剣を振るっただの、魔法を放っただの、空が裂けただの。どこかで聞いたことのある描写が、適当に継ぎ足されていく。


 それでも、酒場の空気は満たされていく。


 怖い話より、強い話。


 失った話より、勝った話。


 理由の分からない出来事より、意味のある物語。


 英雄の話は早い。


 事実より、気分の方が足が速い。


 その夜、酒場を出た誰もが、少しだけ満足していた。


 何か恐ろしいことが起きたらしいが、英雄がいた。


 それだけ分かれば、今夜は眠れる。


 ――誰一人として、

 その英雄が何を守り、何を失ったのかを、語れないまま。


 ♢


 街道沿いの宿は、噂が形を変える場所だった。


 酒場では英雄になれた話も、道の途中では長く保たれない。距離は、誇張を削る代わりに、別のものを足していく。夜の冷え、森の影、知らない土地――そういう不安が、言葉の向きを変える。


 その宿も、特別ではなかった。


 低い天井。薪の匂い。濡れた外套が壁に掛けられ、床板が軋む。旅人と行商人、数人の御者。皆、今日を終わらせるために集まっている。


 話題は、自然に出た。


「……村が消えたらしいな」


 声は小さかったが、宿の中では十分だった。酒場と違い、ここでは大声は出ない。知らない者同士が多い場所では、噂は慎重に投げられる。


「消えた?」


「消えたって……焼けたとか、奪われたとかじゃなくて」


 男は言葉を探すように、指先で杯を回した。


「無くなった、らしい」


 無くなった、という言い方が場を冷やす。


 誰かが鼻で笑った。


「大げさだ。村が丸ごと消えるわけがない」


「だが、そういう話だ」


 別の旅人が口を挟む。街道をよく使う者で、昼間に聞いた噂をそのまま持ち込んだ顔をしている。


「魔族だけじゃない。人も一緒だったって」


 一拍、沈黙が落ちる。


 英雄譚の時にはなかった、重さ。


「……一緒?」


「区別しなかったらしい」


 その言葉が出た瞬間、話の輪が変質する。


 守った、ではなく、区別しなかった。


 助けた、ではなく、消した。


 意味が逆転する。


「じゃあ、英雄じゃないだろ」


「英雄のはずがない」


 否定は早い。人は、気持ちよくない物語を、すぐに別の形にしたがる。


「怪物だ」


 誰かが言った。


 怪物。


 英雄よりも、ずっと古く、ずっと使い慣れた箱だ。


「力がありすぎたんだ」


「理性がなかったんだろう」


「魔族と同じだ」


 言葉が重なり、形を持ち始める。


 怪物は便利だ。理解しなくていい。距離を取れる。恐れていれば済む。


「村ごと、なかったことにしたらしい」


「子供もか?」


「……そういう話だ」


 誰も確認しない。確認できる者がいないからだ。


 怪物の話は、具体性を必要としない。恐怖は、輪郭が曖昧なほどよく増える。


 宿の奥で、子供がぐずった。


 母親が、すぐに抱き上げる。


「静かにしなさい」


 子供は泣き止まらない。昼の移動で疲れている。腹も減っている。


 母親は、少し声を落とした。


「……怪物が来るわよ」


 その言葉は、咄嗟だった。


 だが、宿の空気が一瞬だけ張りつめる。


「言うことを聞かない子は、ああなるって」


 母親は、誰かを見ているわけではなかった。ただ、噂の形を借りただけだ。


 子供は、ぴたりと泣き止んだ。


 目を見開いて、母親にしがみつく。


 怪物は、そうやって役割を持ち始める。


 子供を黙らせるため。


 夜を越えるため。


 説明できない不安を、外に置くため。


 宿の主人が、黙って杯を拭いている。


 長く街道沿いで宿をやってきた男だ。噂の流れ方を、何度も見ている。


「……で、その怪物を見た奴はいるのか」


 問いは、淡々としていた。


 一瞬、話が止まる。


「……いや」


「見た、って話は聞かないな」


「気づいたら、もう無かったらしい」


 怪物を見た者はいない。


 叫び声を聞いた者もいない。


 逃げてきた者もいない。


 遺族も、訪ねてこない。


「妙だな」


 主人が言う。


「怪物が出たなら、泣きつく奴がいる。復讐を誓う奴がいる。金を出してでも討伐を頼む奴がいる」


 だが、そういう話は一切ない。


 誰も、名を挙げない。


 誰も、顔を出さない。


 誰も、責任を求めない。


「……全部、飲み込まれたんだろ」


 誰かが、苦し紛れに言う。


 飲み込まれた、という表現は、怪物に似合う。


 似合うから、皆それに乗る。


「そうだ、怪物だ」


「だから残らなかった」


「だから誰も来ない」


 理屈は、無理やり繋がる。


 繋がるから、話として成立してしまう。


 宿の外では、風が鳴っていた。木立が揺れ、遠くで獣が鳴く。


 夜は、怪物の味方だ。


 だが、その話には、どうしても埋まらない穴がある。


 怪物がいたなら、痕が残る。


 怪物が動いたなら、目撃がある。


 怪物が殺したなら、誰かが泣く。


 ここには、それがない。


 あるのは、便利な説明だけだ。


 怪物の話は便利だ。


 だが、便利すぎる話は、だいたい誰のものでもない。


 その夜、宿に泊まった誰もが、怪物の話を胸にしまって眠りについた。


 恐怖は、形を与えられると、少しだけ安心になる。


 ――それが、事実からどれだけ離れているかを、確かめる者はいなかった。


 ♢


 吟遊詩人は、宿の二階の小さな机に向かっていた。


 灯りは一つ。油の量を惜しんで、芯は短い。影が壁に揺れ、羽根ペンの先が紙の上で止まっている。


 彼は、物語を仕事にしている。


 勝った話を歌にし、負けた話を哀歌にする。人が泣くところを見極め、息を吸うところで旋律を落とし、金が鳴る場所で韻を踏む。それができるから、街道を渡って生きていけた。


 ――いつもなら。


 紙の上には、最初の一行だけが書かれている。


 〈その日、闇は払われ〉


 そこで、止まった。


 払われた闇の向こうに、何を置けばいいのか分からない。


 勝利の歌にしようとすればできる。剣を振るった者を英雄にすればいい。魔族を敵にして、村を守った話にすれば、旋律は自然に流れる。


 だが、その先に来るはずのものが、来ない。


 救われた声がない。


 歓声がない。


 肩を叩く音がない。


 勝利の後に置くべき「人の温度」が、どこにも見当たらなかった。


 彼は、紙を裏返した。


 今度は悲劇にする。


 〈灰となった村よ〉


 書いて、また止まる。


 泣き所が無い。


 悲劇には、失われた名前が必要だ。母の名、子の名、恋人の名。抱きしめられなかった手。取り戻せなかった日常。そういう具体が、聴き手の胸を打つ。


 だが、この話には、それが無い。


 誰が死んだのか分からない。


 誰が泣いているのか分からない。


 遺された者がいない。


 嘆く声の置き場が無い。


 彼は、深く息をついた。


 歌は、形を与える仕事だ。


 だが、この出来事は、形を拒んでいる。


 英雄にすると、嘘になる。


 悲劇にすると、空虚になる。


 怪物の歌にすれば、子供は怖がるだろうが、大人は首を傾げる。怖がる理由が、どこにも残っていないからだ。


 翌日、彼は広間で一曲も歌わなかった。


 楽器を膝に乗せたまま、ただ酒を飲んだ。


 誰も金を置かなかった。


 誰も「その話をもう一度」と言わなかった。


 口伝は、ここで途切れる。


 聴き手が泣けない物語は、歌にならない。


 ♢


 年代記編纂者は、書庫の奥でため息をついていた。


 彼の仕事は、感情を入れないことだ。年号、場所、出来事。余計な修飾を削ぎ落とし、後の世に残す。英雄も怪物も、彼の机の上では同じ「記述対象」にすぎない。


 そのはずだった。


 羊皮紙の上には、枠線が引かれている。


 年:――

 場所:――

 概要:――


 概要の欄に、ひとつの語だけが置かれている。


 〈広域殲滅〉


 語だけが、浮いている。


 彼は、その前後を書こうとした。


 原因。


 戦争か。――違う。


 災害か。――違う。


 反乱か。――違う。


 事故か。――違う。


 前後関係が無い。


 何かが起き、その結果として何かが変わった、という連なりが作れない。始まりが無く、終わりだけがある。


 歴史は、冷たい。


 だが、それでも「形」を必要とする。


 形の無い事実は、記述できない。


 彼は、何度も書き直し、何度も消した。


 最終的に、概要の欄は短くなった。


 〈消失区域発生〉


 それ以上、書けなかった。


 歴史は事実を書く。


 だが、事実にも形が要る。


 ♢


 行政の補助記録係は、帳簿を閉じたまま、しばらく動けなかった。


 彼女は数字の人間だ。感情は扱わない。人口、税、補給、労働力。世界を最も正確に切り取るのが数字だと信じている。


 だからこそ、この案件は異常だった。


 人口減少数。


 ――確定不能。


 死者数。


 ――算出不能。


 被害額。


 ――前提不足。


 村の規模は分かる。だが、何人いたかが分からない。逃げた者がいるのか、最初から全員だったのか、判断できない。


 彼女は何度も計算をやり直した。


 どこかに、見落としがあるはずだと思った。


 だが、無い。


 数える対象そのものが、定義できない。


 最終的に、彼女は欄を埋めなかった。


 空欄。


 該当なし。


 注記のみ。


 それは敗北ではない。拒否だ。


 数字は嘘をつかない。


 だが、数えられないものは拒否する。


 こうして、この出来事は――

 噂にも、歌にも、歴史にも、統計にも、残らなかった。


 物語にならないからだ。


 真実が、善悪の形をしていないから。


 世界は、それを語ることを拒んだ。


 ♢


 同じ年の年表には、きちんと出来事が並んでいる。


 春、王都で行われた戴冠式。

 初夏、南部で発生した洪水。

 夏、隣国との小競り合い。

 秋、疫病の流行と沈静。

 冬、豊作を祝う祭礼。


 人の営みが、順序よく刻まれている。


 祝祭は残る。

 災害も残る。

 戦も残る。


 理由があり、影響があり、前後関係があり、語り継ぐ意味があるからだ。


 その年の、ある月。


 本来なら、そこに一行分の空きがあるはずだった。


 だが、何も書かれていない。


 空白ですらない。

 削除された痕もない。

 最初から、欄が存在しなかったかのように、滑らかに次の出来事へ繋がっている。


 調べなければ、存在を知らない。


 調べても、辿り着けない。


 参照先は注記に無く、注記は別紙に無く、別紙は保管庫に無い。

 保管庫に無いものは、記録として存在しない。


 書かれない出来事は、起きなかったのと同じ扱いになる。


 ♢


 噂は、何度も形を変えた。


 英雄だという話。

 怪物だという話。


 だが、どちらも定着しなかった。


 理由は単純だ。


 英雄には、救われた人が必要だった。

 怪物には、被害者が必要だった。


 救われたと名乗る者はいない。

 被害を訴える遺族もいない。


 拍手をする席が無い。

 怒りを向ける相手もいない。


 善悪は形だ。

 形にならない真実は、どこにも置けない。


 だから英雄譚は浮き、怪物譚は沈む。

 どちらも足場を失い、残らない。


 ♢


 やがて、人々はその話題を口にしなくなる。


 忘れたわけではない。

 禁止されたわけでもない。


 酒場で誰かが触れると、杯を置く音が一つ止まり、会話が途切れる。

 訂正する者はいない。

 続きを語る者もいない。


 沈黙が、自然に場を覆う。


 語られないのではない。

 語ると、壊れるからだ。


 気分が壊れる。

 場が壊れる。

 話した本人の立場が壊れる。


 壊れる理由を、誰も説明できないまま、全員がそれを察している。


 ♢


 真実は、善悪の形をしていなかった。


 だから世界は、物語化を拒否した。


 それは冷酷さではない。

 誠実さでもない。


 ただ、置き場が無かっただけだ。


 世界は沈黙を選んだ。

 それが、唯一の正直だった。


この話は、誰かを讃えるための章でも、誰かを断罪するための章でもありません。

噂や物語や記録という「人が世界を理解するための形」が、ことごとく役に立たなくなる瞬間を書きました。


英雄にも怪物にもならない出来事は、忘れられるのではなく、置き場を失う。

その静かな拒絶こそが、この世界の選んだ答えです。


ここまで読んでくれて、ありがとうございました。

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