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誰も救えない僕が、それでも魔王と生きる話  作者: 霜月ルイ
消失編

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143/147

143.戻った身体

 

 馬車は、装飾されていなかった。


 王都からの帰還であれば、家紋旗が立つ。凱旋であれば花がつく。罪人の護送であれば鎖が鳴る。けれどそれはどれでもない。ただ、必要だから運ぶための馬車だ。荷を運ぶのと同じ形で、人が運ばれてくる。


 護衛の騎士は、車輪の音を数えていた。石畳が一枚ずつ規則的に鳴り、車軸が軋む。規則は安心ではない。規則は、壊れたものを壊れたまま運ぶ時にだけ役に立つ。


 門が見えた。アルヴェイン家の門。鉄の意匠。古い家の威厳。護衛は合図を出し、門番が開ける。重い扉が回る音が、いつも通りに響いた。


 いつも通り。


 その言葉が、喉の奥に残る。


 馬車が止まり、従者が台を置いた。扉が開く。


 中の空気は、外より少し冷たい。人の体温ではない冷たさだ。人が長く居座ることで温まるはずの場所が、温まらないまま残っていた冷たさ。


 エルディオが、そこにいた。


 立てるはずの身体だった。傷がないのは報告にある。だが立たない。出ろと命じられない限り、出ない。


 護衛の騎士は、その「命じられ待ち」の姿に目を逸らしたくなる。逸らしたところで、事実は消えない。消えないものは見続けるしかない。見続けるのが職務だ。だが職務の中に、これを見続ける手順はなかった。


「……降りられますか」


 声は柔らかくしたつもりだった。柔らかくした瞬間、自分の中の何かが滑った。ここで柔らかさを使うと、それは慰めになる。慰めは、まだ許されていない。


 エルディオは、動かない。


 動かないのに、拒否ではない。拒否なら怒れる。怒りなら扱える。これは怒りでも拒否でもなく、ただ「指示が来ないから止まっている」という停滞だ。


 従者が一歩近づき、躊躇して、手を引いた。触れて支えるという行為が、今の彼にとって“何かを認める”ことになる気がしたからだ。認めたくないのではない。認めた瞬間に、家が壊れ始めることを全員が知っている。


 護衛騎士は息を整えた。整えるのは自分のためではない。命令のためだ。命令が乱れると、相手は動けない。


「エルディオ。降りてください」


 命令の形に落とすと、ようやく身体が反応した。


 彼は、ゆっくりと脚を動かした。急がない。遅いのではない。速度という概念が彼の中から抜け落ちているみたいに、ただ“動作”だけが進む。足が台に触れ、地面へ降りる。膝が折れない。体幹は保たれている。だから余計に、壊れているのが分かる。


 壊れ方が、内側だ。


 引きずられもしない。支えられもしない。自分で歩ける。だが、自分で歩かない。誰かが歩けと言わない限り、その場で止まる。


 護衛騎士は、背筋に冷たいものが走るのを感じた。背筋に走る冷たさは、恐怖ではなく理解だ。これは、戦場でよく見る「硬直」と違う。恐怖で固まる人間は、目が揺れる。呼吸が乱れる。周囲に助けを求める。だが彼は助けを求めない。助けの概念が、彼の中から欠落したように見える。


 屋敷の中から、足音がした。


 慌ただしくない。慌ただしくないのに、速い。家の者が“いつもの速度”で動こうとして、どうしても速くなってしまう歩幅だ。


 ミレイユが出てきた。


 薄い外套を羽織り、髪をまとめている。化粧はしていない。する余裕がなかったのではない。する手順が、今日に限って存在しない。家を整える前に、息子を受け止めるべきだという順序を、彼女が選んだのだと分かる。


 彼女はエルディオを見た。見た瞬間、胸が動いたのが分かった。けれど顔は崩れない。崩れれば、彼を“迎える”形になる。迎える形が成立すると、ここは帰還になる。帰還という言葉は救いに近すぎる。


 救いではない。


 救いにしてはいけない。


「……おかえりなさい」


 声は、ほとんど呼吸だった。言った瞬間、ミレイユの喉が小さく震えた。震えは泣きではなく、抑え込むための震えだ。泣いてはいけないと思っているのではない。泣けば、彼の前で世界が「終わった」ことになってしまう。終わったことになってしまったら、彼は戻れない。戻れるかどうか、その前提がすでに壊れているのに、母親はまだ前提を守ろうとする。


 エルディオは、返事をしない。


 しないのに、視線だけが僅かに動いた。母を見たのかどうかも分からない。見ているはずなのに、返ってこない目のまま、彼はそこに立つ。


 ミレイユは近づきかけて、止まった。


 抱きしめたい。


 抱きしめればいい。


 それが母親の手順だ。


 だが抱きしめると、身体の温度が伝わる。温度が伝われば、彼が“生きている”と確定してしまう。生きていると確定した瞬間に、次に来るのは「なら、なぜ」だ。なぜ生きている。なぜ一人で帰ってきた。なぜ、あの二人は。


「なぜ」は、家を壊す。


 壊れた家は、彼を支えられない。


 だから止まる。


 ミレイユは、抱きしめる代わりに言葉を選ぶ。


「中へ。……寒いでしょう」


 寒い、という言葉は便利だ。寒いなら、毛布をかければいい。寒いなら、部屋を温めればいい。寒いなら、火を入れればいい。寒いという言葉に落とせば、今この瞬間にできることが生まれる。


 できることがある、という形を作らないと、母は立っていられない。


 護衛騎士は頷き、短く合図を出す。従者が道を開ける。エルディオが動く。動き方は同じだ。指示があるから動く。指示が終われば止まる。彼の世界は、誰かの言葉の端でしか進まない。


 連れ帰ったのは人ではなく、状態だった。


 ♢


 屋敷は、変わらなかった。


 庭の芝は刈り揃えられ、植え込みの輪郭は正しく、噴水の水は一定の高さで落ちる。廊下の床は磨かれていて、踏みしめれば靴音が返る。壁の絵画は同じ位置に掛かり、窓辺の花瓶は季節の花を挿されている。


 家は、何も失っていない。


 そう見える。


 その「そう見える」が、残酷だった。


 使用人は、普段通りの動作を繰り返しながら、普段通りではないものだけを目で追った。トレイを持つ手が僅かに硬い。扉を開ける指が僅かに遅い。視線がつい、廊下の先へ走る。


 エルディオが通る。


 通るのに、足音がしない。足音がしないほど軽いのではない。足音を立てる必要がない歩き方なのだ。地面を蹴らない。急がない。迷わない。歩くという行為がただの移動手順になり、そこに意思が混ざらない。


 食堂の扉が開く。


 食堂にはいつもの席がある。家主の席、夫人の席、息子の席。いつもの距離。いつもの配置。いつもの食器。


 配置があるということは、日常が続いているということだ。


 続いているということは、失われたものがここには戻らないということでもある。


 使用人はそれを口にしない。口にするのは家族の仕事だ。家族が口にするまで、使用人は物を整える。整えることで、家が壊れないようにする。


 ミレイユが言った。


「窓際に。……あそこがいいわ」


 窓際の椅子。


 日差しが入る時間帯の椅子。


 座れば光が顔に当たり、肌の色が分かる椅子。


 生きているかどうかを確かめるための椅子みたいで、使用人は心の中でその言い方を殺した。そんな言い方をしてはいけない。そんな言い方をした瞬間、家の空気が変わる。


 椅子が用意される。布がかけられる。背当てが整えられる。


 そしてエルディオが、座らされる。


 座る、ではない。


 座らされる。


 彼は座ることを拒まない。拒まないから、座る意思があるように見える。だが違う。拒まないのは、何を拒めばいいのか分からないからだ。拒むという行為は、まだ「自分がある」証拠になる。その自分が、今は薄い。


 ブランケットが膝に掛けられる。


「寒くないですか」


 使用人がつい、口にしてしまった。口にした瞬間、後悔する。返事を期待したわけじゃない。返事がないと分かっているのに、返事を求める形の言葉を置いてしまった自分が、怖かった。


 返事はない。


 当然だ。


 当然なのに、部屋の空気が僅かに沈む。


 椅子に座った男は、動かない。


 目は開いている。


 窓の外を見るわけでもない。室内を見るわけでもない。焦点が合っているのかどうかも分からないまま、ただ視線がそこに置かれている。


 彼はそこに“置かれた”。


 ♢


 昼の食事が運ばれた。


 スープは湯気を立て、パンは焼き色を持ち、果物は切り口から香りを立ち上げる。温度も、塩加減も、ちょうどいい。今日の厨房は失敗していない。失敗していないのに、食卓が成立しない。


 ミレイユは、椅子の横に膝をついた。


 膝をつくと、目線が同じ高さになる。息子の顔が近くなる。近くなれば、目の色が分かる。目の色が分かると、人は安心してしまう。安心は危険だ。安心した瞬間に、次の手順が乱れる。


 それでも、母は近づかずにいられない。


「少しだけ、飲める?」


 声は押し殺されている。泣きそうだからではない。泣きたさが胸の底で固まっているのを、言葉で崩したくないからだ。崩したら、ここで崩れる。


 スプーンを差し出す。


 エルディオは、動かない。


 スプーンが唇に触れそうな距離で止まる。


 止めたのは彼ではない。ミレイユだ。触れさせた瞬間、唇が開かなかったら、母の心が壊れる。壊れると分かっているから、触れさせない。


 彼女は引っ込め、微笑もうとして、微笑めなかった。


「後でいいわ」


 後で、という言葉が嘘だと自分で分かっている。


 後でが来ないことを、戦場の報告より先に、母の身体が知っている。


 食事は机の上に残る。湯気は消える。香りは薄れる。スープは冷める。冷めることが、時間の正しさを証明する。時間は正しく進む。人の心だけが追いつかない。


 生きているはずの身体が、生きる手順を忘れていた。


 ♢


 時間が過ぎた。


 朝の光は窓枠の角度で床に落ち、昼には短くなり、夕方には伸びる。影が移動する。移動する影は、世界が続いているという事実を何度も突きつける。


 使用人は何度も出入りした。水差しを替え、薪を足し、カーテンを半分だけ閉め、また開けた。目的がある動作は心を保つ。目的がないと、人は崩れる。


 エルディオは、瞬き以外ほとんど動かない。


 呼吸はある。胸が僅かに上下する。だから生きている。生きていることが確認できるのに、安心はできない。安心という感情が、どこへ置けばいいか分からない。


 そして、眠らない。


 目を閉じない。


 眠れないのではない。眠る場所が、もう無かった。


 ♢


 夕刻、アインが帰ってきた。


 鎧を脱ぎ、手袋を外し、剣を壁に掛ける。その動作はいつもと同じだ。いつもと同じ動作が、今日だけは儀式に見える。父としての儀式ではない。兵としての儀式だ。身体に染みついた手順が、父の心を支えている。


 アインは、窓際の椅子を見る。


 椅子を見るという行為が、もう残酷だ。椅子に座るのは生きた人間の姿勢だ。だが椅子に座る彼は、生活の中にいない。生活の中にいない人間が椅子にいるという光景が、父を壊し始める。


 アインは近づき、立ったまま言った。


「……エルディオ」


 名を呼ぶ声は、かすかに揺れた。揺れを自覚した瞬間、彼は声を固くした。


「返事をしろ」


 命令の形に落とす。落とせば、動くと知っている。動くと知っているが、それを使ったら、父の負けだ。父が父でなくなる。


 返事はない。


 アインは拳を握りかけて、開いた。


 拳を握れば、怒りになる。怒りは楽だ。怒りは向け先を作る。向け先があれば、心は立てる。だが向け先がない怒りは、自分を壊す。壊れた父は、家を守れない。


 剣の稽古の記憶が、刃のように浮かぶ。少年だった頃の目。褒めた日。叱った日。汗と土の匂い。稽古の終わりに渡した水。あの時、彼は生きる手順を持っていた。


 今は持っていない。


 叱ることも、褒めることもできない。


 父であることは、今は何の資格にもならなかった。


 ♢


 夜が来た。


 灯りが消されない。屋敷の灯りは本来、決まった時刻に落ちる。落ちることで家は休む。だが今夜、家は休めない。休む手順が存在しない。


 廊下の足音が増える。扉が静かに開閉される。使用人が交代で見張り、誰も口にしない言葉を飲み込む。


 ――このまま、どうするのか。


 どうするのか、という問いは、答えがない。答えがない問いは、家を壊す。壊れないために、皆は動作を増やす。水を替える。毛布を整える。薪を足す。時計を確認する。


 エルディオは、その間も動かない。


 誰も眠らなかったが、彼だけが目を閉じなかった。


 ♢


 深夜、音がした。


 音と言っても大きくない。椅子の軋みでもない。床の鳴りでもない。彼の喉から漏れる、ほんの薄い空気の擦れだ。


 使用人が息を止めた。


 ミレイユが振り向いた。


 アインが身じろぎした。


 全員が同時に「何かが戻った」と錯覚しかける。錯覚は危険だ。錯覚は希望を連れてくる。希望は折れる。折れた希望は、今度こそ人を殺す。


 それでも、耳は拾ってしまう。


 エルディオの唇が、僅かに動いた。


 言葉は繋がらない。


 声も整っていない。


 それでも、単語だけが落ちた。


「……エミリア」


 名だけ。


 名が落ちた瞬間、ミレイユの喉が鳴った。鳴ってしまった音を、彼女は両手で押さえたくなる。押さえても、音は戻らない。音は母親の身体から出た。


 次に、もう一つ。


「……メイリス」


 その名が、部屋の空気を切った。


 返事ができない。


 返事をしたら、そこに居ることになってしまう。そこに居ることになった瞬間、彼女たちが“いない”という事実が確定する。確定は受け止めるには早すぎる。受け止めたら、家が崩れる。


 だから返事はない。


 名前だけが残り、呼ぶ意味は失われていた。


 ♢


 朝の光が差した。


 光は昨日と同じ角度で床を撫で、昨日と同じ位置に影を作る。新しい一日が始まる。世界は平然と次の朝を用意する。屋敷の者は動く。湯を沸かし、窓を開け、食卓を整える。


 椅子の男は、昨日と同じ姿勢だ。


 目は開いている。


 呼吸はある。


 それだけ。


 護衛騎士は廊下の端で立ち止まり、窓際の椅子を見た。


 帰還という言葉を、頭の中で転がしてみる。


 帰還。


 帰る、という行為には、戻る先がある。戻る先があるというのは、元の形が残っているということだ。元の形が残っているなら、人はそこへ戻れる。


 だが、元の形が残っていない。


 残っているのは屋敷だけだ。


 家だけが、彼を迎え入れる。


 生活は、彼を必要としない。


 彼は帰ってきた。


 ――だが、人としては戻らなかった。


帰ってきたのは「救われた人」ではなく、救いの外側に置かれたままの身体でした。

食事も会話も眠りも、日常の手順だけが淡々と並び、それに彼だけが噛み合わない。

名前だけが残り、意味だけが崩れていく——その静けさが、この章の痛みです。

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