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誰も救えない僕が、それでも魔王と生きる話  作者: 霜月ルイ
消失編

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142/146

142.神も法も黙る

 

 神殿は、朝の顔をしていなかった。


 夜が明けたことは分かる。石の柱の外側で風の温度が一段変わり、遠くの鳥が一つだけ鳴いた。だが神殿の内側に、それを「朝」と呼ぶ理由はない。ここにあるのは、継続だ。灯が絶えないこと。香が途切れないこと。祈りの席が空かないこと。


 継続の中に、祝祭は混じらない。


 香は焚かれている。けれどそれは、誰かを迎える匂いではない。祈りは続いている。けれどそれは、誰かに届く確信を伴っていない。声はあるが、言葉は少ない。言葉が増えると、願いが形を持ってしまう。形を持った願いは、叶わなかった時に折れる。折れたものは、拾う者を傷つける。


 上位聖職者は、祭壇の前に立っていた。


 立つのは習慣だ。背筋が伸びるのは威厳ではなく、長年の癖だ。膝が僅かに軋むのは老いだが、老いの自覚はここでは邪魔になる。神殿は、人間の限界を露出させる場所ではない――そう教えられてきた。だが、今日ばかりは違う。


 限界は、露出しないといけない。


 露出しない限界は、嘘になる。


 彼の目の前には、神託の器が置かれていた。磨かれた白い石の皿。縁に刻まれた古い文様。器は、すでに何度も「ここに神がいる」と証明してきた。証明してきたからこそ、今日は怖い。器が沈黙していることが、怖いのではない。


 器が沈黙したままでも、器が壊れていないことが怖い。


 壊れていないなら、手順は正しい。手順が正しいのに答えがないということは、答えが存在しない可能性がある。答えが存在しないという結論は、人が持ってはいけないと教えられてきた。神はいつだっている。答えはいつだってある。届かないのは人の側の問題だ、と。


 それは慰めの教義ではない。


 運用のための教義だ。


 上位聖職者は、器を見るのをやめ、少しだけ視線を下げた。若い神官が器のそばに控えている。神託の記録係だ。指先が、わずかに震えている。震えは恐怖ではない、と本人は言うだろう。寒いのだ、と。緊張しているだけだ、と。だが震えの言い訳を用意する癖がついている時点で、人間は自分の内部に何が起きているかを理解している。


 若い神官は、器の縁に触れないまま、喉だけを動かした。


「……もう一度、確認を」


 上位聖職者は頷いた。頷く動作は短い。余分な動作をすると、期待が混じる。期待は祈りの形を変える。祈りの形が変われば、神託の器は揺れる。揺れた器は「何かが起きた」と錯覚を生む。錯覚は、今もっとも危険だ。


 手順は形式通り、淡々と行われた。


 香を足す。息を整える。言葉を短くする。決まった祈祷句を、決まった速度で唱える。声を張らない。泣きそうな喉を殺す。祈祷句は人間を慰めるためにあるのではない。神を呼ぶためにある。慰めのための言葉は、神の前では雑音になる。


 若い神官が器の前に立ち、両手を器の縁から僅かに浮かせた。


 触れない距離。触れれば人の熱が入り、器の反応に混ざる。混ざった反応は、後で誰かを救うように見えて、誰かを殺す。だから触れない。触れないことが、彼らの誠実さだ。


 器は、反応しなかった。


 光らない。震えない。水面もないのに水面のように揺れるはずの薄い膜が、揺れない。無音に近い空間の中で、香の燃える小さな音だけが聞こえる。音が聞こえることが、妙に生活の匂いを連れてきてしまう。神殿に生活が混ざると、人間が混ざる。人間が混ざると、救いが欲しくなる。


 救いが欲しい、という欲望は、ここでは邪魔だ。


 若い神官は息を吸い、吐いた。吐いた息が自分の指先に触れて、白い器の上で消えた。消え方が、あまりに普通だった。普通すぎて、器が何も言わない事実がますます異常になる。


「……異常は」


 言いかけて、若い神官は止めた。異常、と言ってしまうと、「異常=原因がある」という前提が立つ。原因があるなら、対処がある。対処があるなら、神殿は何かをすべきだ。何かをすべきだという焦りは、手順を壊す。


 上位聖職者が代わりに答えた。


「異常なし」


 声は低かった。優しくもなく、冷たくもない。彼の声は、長年「こういう時にどう言えば人が崩れないか」を学んできた声だった。言葉の中に、甘さを混ぜない。甘さが入ると、若い者は縋る。縋った先に答えがなければ、縋った者は折れる。折れた者は、神殿に残れない。


 若い神官の喉が動いた。


 言いたいことがある。言ってはいけないことがある。どちらも分かっている顔だった。上位聖職者は、言わせないでもなく、言わせるでもなく、ただ待った。待つことしかできない時、待てる者が上に立つ。


 若い神官は、わずかに声を落として呟いた。


「……神が、怒っているのでは」


 言いかけて、すぐ自分で唇を閉じた。閉じた時点で、本人も分かっている。これは違う、と。怒っているなら兆しがある。器は濁る。香は重くなる。祈祷句が喉に引っかかる。祭壇の燈が揺れる。神殿の空気が、いかにも神らしく「圧」を持つ。


 今日の沈黙には、それがない。


 重さがないのに、答えがない。


 それが一番、扱いづらい。


 上位聖職者は、若い神官を責めなかった。責めることは簡単だ。「口を慎め」「神を疑うな」と言えばいい。言えば若い神官は黙る。黙れば神殿は秩序を取り戻したように見える。


 だが秩序は、見せかけで回してはいけない時がある。


 彼は、否定した。ただ、静かに。


「怒りなら、兆しがある」


 短い言葉。余計な慰めを混ぜない。慰めを混ぜれば、若い神官はその慰めを真実にしてしまう。真実にしたくなる。真実にしたくなれば、神託の器の沈黙を「神の怒り」という物語に押し込めてしまう。


 物語は、いま最も危険だ。


 物語に押し込めれば、次に必要になるのは裁きだ。神の怒りなら、誰かが悪い。誰かが悪いなら、誰かを罰せばいい。罰せば終わる。終わったことにできる。


 終わらせてはいけないものを、終わらせてしまう。


 上位聖職者は、器を見た。


 器は、ただそこにあった。


 沈黙は拒絶ではない。判断が存在しない、というだけだ――その言葉が、胸の奥で重くなる。重いのに、声にすると人が折れる。折れる人を出せば、神殿は今後の災厄に耐えられない。


 耐えるために、彼は次へ進むしかない。


 神殿の結論を作らなければならない。


 ♢


 結論を作る場所は、祭壇の前ではない。


 机の前だ。


 机は木でできている。木は温かい。温かい机があるだけで、神殿は神殿である前に人間の組織だと露出する。露出したくない。けれど露出させないと、今日の結論は嘘になる。


 上位聖職者は、記録官の席へ歩いた。


 歩く足取りは落ち着いている。落ち着いていないといけない。歩幅が乱れると、背後の若い神官たちがそれを見てしまう。見てしまえば、神殿が揺れていることを知る。揺れていると知った組織は、揺れを隠すために誰かを犠牲にし始める。


 犠牲を作って秩序を守る癖は、神殿にもある。


 だが今日は、その癖を使ってはいけない。


 机の上には、すでに用紙が用意されていた。紙は神殿では貴重だが、報告文は紙で残す。紙は燃える。燃えるからこそ、紙には「残す意志」が宿る。石板よりも不確かで、だからこそ誠実な時がある。


 記録官が筆を差し出した。


 上位聖職者はそれを受け取らず、自分の筆を取った。自分の筆跡で書く必要がある。責任を引き受けるという形は、組織にとって毒にも薬にもなる。だが今日の沈黙は、誰かが引き受けないといけない。


 最初の一行を書き始める前に、彼は一拍だけ止まった。


 書くべき言葉が、いくつもある。


「神託が得られなかった」


「神は沈黙した」


「該当する神代系統の兆候は確認されない」


「前例不足」


 どれも、嘘ではない。どれも、逃げになる可能性がある。逃げの言葉は滑らかだ。滑らかな言葉は読みやすい。読みやすい文書は、後で誰かを安心させる。安心は事故を呼ぶ。安心は「解決した」という錯覚を呼ぶ。


 解決していない。


 何も解決していない。


 上位聖職者は、筆先を紙に置いた。


 丁寧に書いた。丁寧に書くほど、読み手は「これは誠実だ」と思う。誠実に見える文書ほど、危険な時もある。だから丁寧さに甘えない。丁寧さは、嘘を包む布にもなる。


 彼が最初に書いたのは、事実だった。


 神託儀式を規定回数行い、規定の兆候を確認できなかったこと。


 器の反応が無いこと。


 術式の乱れが無いこと。


 異常が無いこと。


 異常が無いことが異常である、という言い方は書かない。比喩は要らない。比喩は感情を連れてくる。感情は読み手に「ではどうする」と迫る。


 どうする、という席が今はない。


 最後の一行の手前で、彼の筆が止まった。


 結論。


 結論は短い方がいい。短い結論ほど強い。強い結論ほど、後で人を縛る。縛る必要がある時もある。だが今日の結論は、人を縛るためのものではない。無いものを無いと言うためのものだ。


 その無さを、どう書くか。


 彼は「神託なし」と書ける。


 だがそれだけだと、読み手は「では次に別の儀式を」「別の器を」「別の聖遺物を」と手順を増やす。手順を増やせば、いつか偶然の反応が出る。偶然の反応を神託にしてしまえば、人間は楽になる。


 楽になってはいけない。


 楽になることが、嘘になる。


 上位聖職者は、最も無責任に見える言葉を選んだ。


 最も誠実な言葉を選んだ。


 ――判断不能。


 筆跡が紙に沈む。


 沈んだ文字は、驚くほど軽く見えた。


 判断不能、と書いた瞬間、全てが投げ出されたように見える。神殿が逃げたように見える。上位聖職者自身も、それを知っている。知っているから胸が痛む。痛むのに、その痛みを「悔い」と呼ばない。悔いと呼べば、次に「ではどうする」という席が生まれる。


 席がないものに席を作ることは、嘘だ。


 彼は、紙を記録官へ差し出した。


 記録官は、紙を受け取る時にほんの一瞬だけ目を伏せた。目を伏せるのは礼儀だ。礼儀という形で、人間は自分の感情を隠す。隠すことが正しい時もある。今日は、隠すしかない。


 上位聖職者は、言った。


「これを王都へ。……余計な言葉は添えるな」


 記録官が頷いた。


 若い神官たちは、紙を見たくて仕方がない顔をしていた。見たい。答えが欲しい。答えが無いなら、無いという答えが欲しい。答えが欲しいという欲望は、組織にとって自然だ。自然だからこそ、慎重に扱うべきだ。


 上位聖職者は、振り返らなかった。


 振り返れば、目が合う。目が合えば、慰めたくなる。慰めれば、神殿は「答えの代わりに優しさを渡す場所」になる。


 優しさは救いに見える。


 救いに見えるものほど、後で人を殺す。


 彼は、祈りの席へ戻った。


 祈りは続いている。続いているだけで、何も変わらない。変わらないことが、今日の真実だった。


 ♢


 王都の評議会は、怒りの顔をしていなかった。


 怒りの顔をする理由は揃っている。焦土。消失区域。半径五キロ。村がない。死体もない。生存者も確認できない。中心に立つ者がいる。誰がやったか分かる。分かるのに、分からないふりをしている。


 怒れる。


 怒りの席を作れる。


 だが、怒りは意味を持たなかった。


 評議会の大広間は広い。広いのに、人の声は低い。低い声は抑えているのではない。抑えたところで何も変わらないことを知っている声だ。机を叩く者はいない。叫ぶ者もいない。責任者の名を呼ぶ者もいない。


 全員が資料を見ている。


 紙の上に並ぶのは、数字と文言だ。


「消失区域(正式登録)」


「封鎖継続」


「広域殲滅が行われた」


 それだけで、事件は出来上がっている。出来上がっているのに、事件になっていない。事件なら、犯人がいる。事件なら、動機がある。事件なら、裁きがある。


 裁きがない。


 裁きがないなら、事件ではない。


 事件でないものを、評議会はどう扱えばいいのか分からない。


 評議員――軍でも法でもない文官の男は、自分の指先が紙を押さえすぎていることに気づき、そっと力を抜いた。紙に皺をつけるのは無作法だ。無作法は感情を露出させる。露出した感情は他者へ伝染する。伝染は、会議の空気を変える。


 空気が変われば、誰かが何かを言う。


 言った瞬間、物語が生まれる。


 物語は、今日の会議に要らない。


 軍代表が口を開いた。声は硬い。硬いが怒ってはいない。


「動員の名目が立ちません」


 短い一言。軍は、戦う理由が必要だ。敵国。反乱。侵攻。いずれも名目がある。名目があるから動員できる。動員は人を動かす。人を動かせば、国は戦争を始める。


 だが今回、何を敵にする。


 魔族は消えた。敵が消えた。敵が消えたなら勝利だと言えるはずだ。勝利と言うには、味方が救われていなければならない。救われていない。救われたかどうかすら確認できない。


 勝利でも敗北でもない。


 軍は、勝利でも敗北でもないものを扱えない。


 軍代表は、続けた。


「戦えと言われれば戦う。……だが今回は、何を敵にすればいいのか誰も言えません」


 誰も言えない、ではなく、誰も言わない。言わない理由は恐怖ではない。言えば嘘になるからだ。嘘の名目で動員すれば、後で人が死ぬ。人が死ねば、責任が生まれる。責任が生まれれば、裁く席が必要になる。


 裁く席がない。


 法務官が、紙束を僅かに持ち上げた。法務官の声は、疲れている。怒りではない疲れだ。決めたいのに決められない疲れ。決めることで世界を保ってきた者ほど、決められないことが苦しい。


「罪が定義できません」


 法務官は、丁寧に言った。丁寧に言うのは、相手を説得するためではない。丁寧に言わないと、自分が壊れるからだ。


「被害者が確定できない。加害行為の形式が存在しない。……分類がないのです。前例不足というより、言葉がない」


 言葉がない。言葉がないという事実が、評議会の空気を冷やす。冷えるのに、誰も怒らない。怒りは言葉を増やす。言葉を増やせば、分類が生まれる。分類が生まれれば、席が生まれる。席が生まれれば、裁きが始まる。


 裁きが始まれば、止まらない。


 止まらない裁きは、国を壊す。


 評議員は、神殿から届いた紙を見た。まだ封蝋が残っている。封蝋の形は整っている。整っている封蝋は、神殿が形式を守った証だ。形式が守られているのに、書かれているのは「判断不能」。


 彼は、苦笑しそうになって止めた。


 苦笑は軽さだ。軽さは侮辱に見える。侮辱に見えれば、神殿と王都の関係が揺れる。揺れは余計な争いを生む。争いは、今もっとも不要だ。


 評議員は紙を机に置き、指で一度だけ縁を叩いた。叩く、と言っても音は小さい。音を大きくすると、会議が始まったように見えてしまう。会議は始まっている。だが会議は決めない。決めない会議は、会議として成立しない。成立しないものに名前をつけるのは危険だ。


「神殿も、同じか」


 誰に言うでもない声だった。


 特務連絡官が答えた。特務の言葉は、どこかでいつも現場の匂いを持つ。だがこの連絡官は、現場の匂いを消してここへ来ている。匂いを残したままでは、評議会が崩れる。


「神託は出ませんでした。該当なし、の域を出ません」


 該当なし。


 便利な言葉だ。便利だから残酷だ。該当なし、と言えば、何もせずに済む。何もしないと書けば、誰も責任を取らなくて済む。責任を取らなくて済めば、国は延命する。


 延命のために、人が消える。


 評議員は、唇を薄く結んだ。結ぶしかない。何か言えば、言葉が物語を呼ぶ。物語は英雄か罪人を生む。英雄が生まれれば称えなければならない。罪人が生まれれば罰しなければならない。


 称える席も、罰する席もない。


 評議員は、敢えて口にした。言わずに済ませた方が楽な言葉を、あえて。


「……表彰は」


 言いかけて止めた。止めたのは咎められたからではない。自分で気づいたからだ。表彰案を出すことは、英雄の席を作ることだ。英雄の席を作れば、次は「救われた者」の席が必要になる。救われた者がいないかもしれない。いないかもしれない者を前提に英雄を作るのは嘘だ。


 嘘は、後で人を殺す。


 法務官が代わりに言った。


「称えれば嘘になります」


 軍代表が続けた。


「罰すれば壊れます」


 その二つの言葉が、ぴたりと噛み合ってしまう。噛み合ってしまうことが、この国の限界の形だ。誰も冷酷ではない。ただ、知っている。ここで一度でも「物語」を作れば、その物語に国が引きずられる。


 引きずられた国は、次の災厄で折れる。


 評議員の喉の奥で、言葉になりかけたものがあった。


 可哀想だな。


 救われないな。


 息子はどうなる。


 父はどうする。


 誰が泣く。


 それらの言葉は、人間の言葉だ。人間の言葉は、机の上の紙の形を変えてしまう。紙の形が変われば、制度が動く。制度が動けば、人が動く。人が動けば、傷が増える。


 傷を増やすために、誰も決めたくない。


 評議員は、結局、口にしたのはそれだけだった。


「……可哀想だな」


 呟きだった。呟きは責任を伴わない。責任を伴わない言葉だけが、ここでは許される。許されることが、残酷だ。責任を伴う言葉が言えない世界は、人を救う言葉も言えない。


 誰も、それ以上は言えなかった。


 言えなかったのではない。


 言う席がない。


 評議員は結論文書を取り上げた。文書は短い。短い文書ほど、人間味が消える。消えた人間味は、読む者の心を守る。守るために作られた文書は、同時に誰も救わない。


 彼は、読み上げた。


「本件は、いかなる既存の判断基準にも該当しない」


 言葉が、空気に落ちる。落ちても、跳ねない。跳ねないのは、怒りがないからではない。怒りが跳ね返る壁がないからだ。壁を作るには、敵が必要だ。敵がいない。敵を作れば嘘になる。


 次の一行。


「よって現時点では、判断不能とする」


 判断不能。


 その言葉は、逃げに見える。


 逃げに見えることを、全員が知っている。


 知っているのに、その言葉しか置けない。


 評議員は、ペンを取った。署名は王都の形式だ。形式は、国を保つ。保つための署名は、誰も救わない。それでも署名しなければならない。署名しないと、判断不能という言葉すら宙に浮く。宙に浮いたものは、人々の噂に飲み込まれる。噂は英雄と怪物を作る。英雄と怪物は、国を壊す。


 署名が、紙に沈む。


 沈む文字を見ながら、評議員は思った。


 誰も彼を赦さない。


 誰も彼を罰せない。


 ――それが、この世界の出した答えだった。


 答えは、慰めにならない。


 慰めにならない答えを出すことが、大人の仕事だと彼は信じてきた。信じてきたのに、今日の答えは大人の仕事に見えない。卑怯にも見える。無責任にも見える。


 だが、嘘よりはましだ。


 嘘の方が、優しい顔をする。


 優しい嘘ほど、長く人を殺す。


 評議会は静かに閉じられた。閉じられる、というより、次の案件が机に置かれた。会議は終わったのではない。稼働が継続しただけだ。


 誰も立ち上がって叫ばない。


 誰も、泣かない。


 怒りも、称賛も、罰も、発生しない。


 その発生しなさが、焦土よりも静かに世界を削っていった。


 判断不能。


 それは逃げではなく、唯一の誠実さとして記録された。


 記録された瞬間、物語は殺された。


 殺された物語の代わりに、世界は淡々と次の一日を用意し始める。


 誰のためでもない顔で。


この回で描きたかったのは、「裁かれない」ことではなく、「裁く席が最初から用意されない」ことでした。

 神殿は沈黙し、王都は決められず、怒りも称賛も罰も発生しない――その無風が、いちばん残酷だと思っています。


 次は、この“判断不能”が何を守り、何を壊していくのか。

 物語にならなかった悲劇の続きを、もう少しだけ追います。

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