表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
誰も救えない僕が、それでも魔王と生きる話  作者: 霜月ルイ
リィナ編

この作品ページにはなろうチアーズプログラム参加に伴う広告が設置されています。詳細はこちら

14/25

14.春が終わるまで-7

 夜の書庫は、昼間よりもずっと広く感じた。


 灯した蝋燭の火が、棚の影を長く引き伸ばす。古紙の匂いと、埃の気配。息を吸うたびに肺の奥が乾いて、吐くたびに胸が冷える。


 誰もいない。

 だからこそ、言い訳ができた。


(今すぐやるわけじゃない)


 自分にそう言い聞かせながら、僕は机の上に紙束を並べた。白い紙。羽ペン。黒いインク。手は震えていない。震えていないことが、怖かった。


 リィナは、ほとんど出てこない。

 僕の前にはいない。


 でも――どこにでもいる。


 棚の隙間。蝋燭の火の揺れ。紙をめくる音の中。自分の鼓動の裏側。

 思い出したくないのに、勝手に浮かんでくる。


 あの言葉。


()()()()()()()()()()


 喉の奥が、きゅっと縮む。


 僕は首を振って、視線を紙に落とした。

 今は考えない。考えるのは後でいい。救ってから考える。


 ――救う。


 その単語が口の中で、妙に甘く、重かった。


 机の端に置いた神代文献の写本を開く。文字は読みにくい。古い。意地が悪いほど曖昧で、結論を避ける言い回しばかりだ。なのに、そこにだけは、針のような確かさが刺さっている。


 《魔力を媒介とした場合、毒性の一部を中和できる可能性が理論上示唆される》


 可能性。

 理論上。


 その続きにある言葉を、僕はもう何度も読んでいる。


 《実例なし》

 《破棄》


 それでも、ページを閉じられなかった。


 破棄されたのは、「不可能だったから」じゃない。

「耐えられなかったから」だ。


 なら――()()()()()()()()


 頭の中で、考えが滑らかに繋がっていく。

 あまりに自然で、あまりに危険な繋がり方をする。


 僕は紙に線を引いた。

 円を描く。

 いくつかの記号を置く。


 術式の詳細は、書かない。

 書いてしまえば、それが現実になる気がした。

 だから僕は、形だけをなぞる。輪郭だけを確保する。


(準備だ)


 準備しておくだけ。

 知っておくだけ。

 可能性を捨てないだけ。


 自分の手元に、未来の逃げ道を作るだけだ。


 そう思うと、罪悪感が少しだけ薄まる。

 薄まるたびに、僕は深く沈んでいく。


 紙に描いた円の中心に、別の円を重ねる。

 二重。三重。

 交差する線。

 結び目。


 その結び目のところで、ペン先が止まった。


 ――手が、止まったのではない。

 止まってしまった。


 脳裏に声が響く。


『なかったことにしないで』


 紙の上の線が、急に汚く見えた。

 ただの黒いインクだ。

 ただの線だ。

 なのに、それが誰かの人生に触れてしまう線に見える。


 僕はペンを置き、目を閉じた。


 リィナの顔が浮かぶ。

 笑っている顔。

 困ったように笑って、でも目だけが少し遠い顔。

 痛みに慣れてしまった人間の、静かな目。


 ――春が終わっちゃうね。


 言葉が、刺さる。


 僕は目を開けた。

 蝋燭の火が揺れていた。

 風はないのに、揺れていた。


(今は考えない)


 もう一度、同じ言葉を自分に叩きつける。

 救ってから考える。

 救ってから向き合う。

 救ってから――


 ()()()()


 その最後の条件だけ、僕はわざと見なかった。


 ♢


 準備は、静かに進む。


 まず、写す。


 神代文献の該当箇所を、紙に書き写していく。文字は難しい。筆圧が強くなる。線が震えそうになるたび、深呼吸をして、指先を落ち着かせる。


 写している間だけは、心が静かだった。

 写す行為は、祈りに似ている。

 意味を噛み砕かず、ただ形を移すだけ。


 次に、測る。


 机の引き出しから古い魔力測定器を取り出した。ミレイユが昔使っていたものだ。透明な球体に触れて、魔力を流すと、内部の液体が反応する。


 理論は簡単だ。

 でも結果は、残酷だ。


 僕は球体に手を当て、魔力をゆっくり流した。

 液体が淡く光り、次第に濃くなる。


 まだ足りない。

 もっと。

 もっと。


 無意識に流量が増える。


 液体が一気に色を変え、球体の内部で細かな光が弾けた。


 眩しい。

 熱い。


 僕は手を離した。

 手のひらがじんじんする。


 自分の魔力量は、確かに測定できないほど多い。

 それは分かっていた。

 でも――


(足りるのか?)


 誰に問うでもなく、胸の中で問いが立ち上がる。

 足りるかどうかは、量じゃない。

 器であるリィナが、術者である僕が耐えられるかどうかだ。


 次に、確かめる。


 僕は椅子から立ち上がり、書庫の奥――魔法試験用の小部屋へ向かった。石壁に囲まれた、音が外に漏れない場所。昔、魔法訓練で使った空間だ。


 床に、簡易の結界を描く。

 自分にだけ作用するように調整する。


 身体に負荷をかける。

 限界を見ておく。


 やり方は簡単だ。

 魔力循環を最大まで上げて、維持する。

 呼吸を乱さず、意識を落とさず、耐える。


 ――あくまで、準備だ。


 僕は結界の中央に立ち、目を閉じた。

 魔力を回す。


 血が温まる。

 身体の奥が熱を帯びる。

 視界が冴えて、音が遠のく。


 次第に、手足が痺れる。

 それでも回す。

 もっと回す。


 熱が、痛みに変わる。

 痛みが、圧迫に変わる。


 胸が苦しい。

 喉が狭い。


 それでも止めない。


 ――止めたら、何もできない人間に戻る。


 その考えが、僕を支える。

 支えるものが、それしかないのが、分かっているのに。


 視界の端が暗くなる。

 心臓が、変な跳ね方をする。

 吐き気が込み上げる。


 僕はようやく循環を落とし、結界を解除した。

 膝が、少し笑った。


 笑っている場合じゃないのに。


 床に手をつき、息を整える。

 汗が背中を伝って落ちる。


(……これでも、足りないかもしれない)


 その思考が、静かに僕を壊す。


 足りないかもしれない。

 耐えられないかもしれない。

 成功しないかもしれない。


 それでも――


 可能性があるなら。


 僕は立ち上がった。

 ふらつきながら、机に戻る。


 蝋燭は半分ほど溶けていた。

 夜が、こんなに短かったはずがない。

 僕の中の時間感覚が、壊れ始めている。


 ♢


 紙の上に、輪郭だけの術式が増えていく。


 円。

 線。

 結び目。

 余白。


 余白のほうが多い。

 余白のほうが、怖い。


「ここに何かを書けば、完成してしまう」

 そんな感覚が、指先にまとわりつく。


 書いてはいけない。

 でも、書きたい。


 僕はペンを持ったまま、何度も手を止めた。


『それを理由にしないで』

『なかったことにしないで』


 声が邪魔をする。

 優しい声が邪魔をする。

 責める声じゃない。

 だから余計に邪魔をする。


 怒鳴られたら、反発できる。

 拒絶されたら、諦められる。


 でも――優しさは、止まれない。


 僕はペンを握り直し、紙に小さく書いた。


(後で向き合う)


 自分への言い訳。

 自分への契約。


 救ってから。

 救った後で。

 彼女の言葉の意味を、ちゃんと受け取る。


 だから今は――


 紙の上に、新しい線を引いた。


 たった一本。

 それだけで、胸の奥が少し軽くなる。


 軽くなることが、いちばん怖い。


 僕は蝋燭の火を増やした。

 書庫の影が濃くなる。

 影が増えるほど、リィナが増える気がした。


 棚の奥、陰の中に、白い髪が揺れる幻が見える。

 瞬きすると消える。


 幻だ。

 当然だ。

 彼女はここにいない。


 それでも、僕は誰かに見られている気がした。

 監視じゃない。

 責めでもない。


 ただ、見届けられている気がした。


 ――エル。


 名前を呼ばれた気がして、背筋が冷える。

 振り返っても、誰もいない。


 僕は笑ってしまいそうになった。

 壊れている。

 でも止まらない。


 ♢


 夜が深まる頃、僕は小部屋に戻った。


 机の上の紙を、折り畳んで懐に入れる。

 持ち出すつもりはない。

 ただ、持っていたい。

 いつでも触れられる場所に置いておきたい。


 そこに、希望がある気がするから。


 結界を張る。

 簡易のもの。

 外から見えないようにするためじゃない。

 自分を外から切り離すためだ。


(今すぐやるわけじゃない)


 何度目か分からない言い訳を、胸の中で繰り返す。


 床に立ち、目を閉じる。

 魔力を流す。


 結界の内側の空気が、少しだけ重くなる。

 蝋燭の火が、ぶれる。


 術式はまだ未完成だ。

 輪郭しかない。

 なのに、身体が勝手に「次」をしようとする。


 ――やめろ。


 頭のどこかが叫ぶ。

 でも手は動く。

 指先が、床に線を描こうとする。


 たった一歩。

 たった一線。


 描いてしまえば、戻れない線。


 僕は膝をついた。

 床に触れた指先が、冷たい石を感じる。


 その瞬間、脳裏に声が落ちてきた。


『私は、もう選んでる』

『数えてる』

『受け入れてる』

『それを、なかったことにしないで』


 呼吸が止まった。

 胸が痛い。


 僕は指先を石から離した。

 離したのに、指が震えている。

 石の冷たさじゃない。

 自分の中の熱が、制御を失いかけている。


(今は……だめだ)


 僕は何度も息を吸って、吐いた。

 吸って、吐いて、吸って、吐いた。


 魔力が暴れたままなのに、無理やり落とす。

 落ちる。

 落ちきらない。

 残る。


 残ったものが、僕の中で黒く沈殿する。


 僕は結界を解除し、その場に座り込んだ。

 汗で髪が額に張りつく。

 喉が焼けるみたいに痛い。


 止めた。

 止められた。


 それだけが救いのはずなのに――


 胸の奥が、冷えていく。


(……止めたのは、優しさじゃない)


 怖かっただけだ。

 今やってしまったら、彼女の顔を見られなくなると思っただけだ。


 明日なら。

 準備が整った明日なら。

 彼女に説明できる明日なら。

 ちゃんと謝れる明日なら。


 そんな、都合のいい明日を積み上げて。


 僕は、今日を見ないふりをしている。


 立ち上がろうとした瞬間、眩暈がした。

 世界が少し傾く。

 壁に手をついて、耐える。


 ふと気づく。


 ――僕は今、自分の身体すら正しく扱えていない。


 それなのに、誰かの身体に触れようとしている。


 笑えない。

 泣けない。

 ただ、吐き気だけがこみ上げる。


 僕は書庫に戻り、机の上の紙束を見下ろした。


 輪郭だけの術式。

 余白だらけの線。


 それが、やけに完成に近く見えた。


 僕は紙を一枚引き寄せ、ペンを取った。

 書き足せば、もっと確かになる。

 書き足せば、明日が来る。


 ペン先が、紙に触れる寸前で止まる。


『それを理由にしないで』


 まただ。


 僕は笑ってしまった。

 喉がかすれて、息が変な音になる。


「……うるさい」


 誰に言ったのか分からない。


 うるさいのは、リィナじゃない。

 僕の中の、僕だ。


 僕はペンを置き、両手で顔を覆った。


 蝋燭の火が、ぱちり、と音を立てた。

 その小さな音が、やけに大きく響く。


 夜はまだ終わっていない。

 でも僕の中では、何かが確かに終わっていた。


 ――越えてはいない。

 けれど、もう戻れない場所まで来てしまった。


 書庫の窓の外が、ほんの少し白み始めていることに気づく。

 朝が来る。


 僕は、朝が怖かった。


 リィナに会うのが怖い。

 会わないのも怖い。


 選べない。

 でも、止まれない。


 その夜、僕は確かに思った。

「明日なら、できるかもしれない」と。


 ♢


 夜明けの光が、書庫の窓から差し込んだ。


 いつの間にか、蝋燭はすべて燃え尽きていた。

 机の上には、開かれた書物と、書きかけの紙。

 インクはまだ乾ききっていない。


 ――どれだけの時間、ここにいたのだろう。


 立ち上がろうとした瞬間、視界が揺れた。

 思った以上に、身体が重い。


 その時だった。


「……エル?」


 背後から、柔らかい声がした。


 振り返ると、書庫の入口にミレイユが立っていた。

 寝間着の上に羽織を重ねただけの姿。

 髪もまだきちんと結われていない。


 それでも、その目だけは――

 いつもの穏やかさより、ずっと鋭かった。


「……朝まで、ここにいたの?」


「……うん」


 誤魔化す気は起きなかった。

 声も、思ったより掠れている。


 ミレイユはゆっくりと歩み寄り、机の上を見た。

 広げられた文献。

 神代文字。

 毒物学の本。

 そして、無言で置かれた紙の束。


 彼女は何も言わなかった。

 ただ、その場に立ち尽くしたまま、静かに息を吸った。


「……ねえ、エル」


 その声は、叱責ではなかった。

 問い詰める響きでもない。


「あなた、ちゃんと寝てる?」


「……最近は、あまり」


「食事は?」


「……必要な分は」


 答えながら、自分がどれだけ壊れた返事をしているか、はっきり分かった。


 ミレイユは目を伏せた。

 一瞬だけ。

 本当に一瞬だけ。


「……それは、“ちゃんと”じゃないわ」


 彼女は紙を一枚、指先で持ち上げた。

 書きかけの術式の輪郭。


 詳しい内容を、彼女は読まない。

 読まなくても分かってしまうからだ。


()()は……今すぐやるつもりのものじゃないわよね」


「……うん」


 即答だった。


「ただ、可能性を……」


「エル」


 名前を呼ばれただけで、言葉が止まる。


 ミレイユは、紙をそっと机に戻した。


「あなたね、“今すぐじゃない”って言葉を、

 自分を守るために使い始めたら、もう危ないの」


 胸の奥が、きしんだ。


「準備してるだけ」

「知っておくだけ」

「いつかのために」


 ――それ全部、

 “やる人間”の言い方よ。


 そう言われている気がした。


「……母上」


 何か言い返そうとして、言葉が見つからない。


 ミレイユは、僕の顔をじっと見た。

 疲れた目。

 血の気の引いた顔色。

 無理を隠す癖のある、息の仕方。


「あなた、今――

 誰のために動いてるか、分からなくなってる」


「……」


「それが“優しさ”だって思ってるなら、なおさらよ」


 優しさ。

 その言葉が、胸に刺さる。


「エル。

 あなたが誰かを救いたいと思う気持ちを、私は否定しない」


 ミレイユは、ゆっくり言葉を選ぶ。


「でもね、

 “救う”っていう役割は、人を簡単に壊す」


 視線が、紙に落ちる。


「特に――

 救われる側が、それを望んでいない時は」


 息が、止まった。


 リィナの顔が浮かぶ。

 困ったような笑顔。

 静かな拒絶。


「……リィナは、望んでないわけじゃない」


 反射的に、そう言っていた。


「ただ……」


「“生きる理由にしないで”って言われた?」


 ミレイユは、確信を持ってそう言った。


 僕は、何も言えなかった。


 それだけで、十分だった。


「……そう」


 彼女は目を閉じた。


「なら、なおさらよ」


 静かな声だった。


「あなたは今、

 その子の“選んだ人生”を、

 あなたの希望で上書きしようとしてる」


「……違う」


「違わないわ」


 即座に返された。


「あなたは、“奪うつもりがない”だけ。

 でも結果は、同じになる可能性がある」


 重い沈黙が落ちる。


「エル」


 ミレイユは、僕の前に立ち、はっきり言った。


「今のあなたは――

 止まらなきゃいけないところに、

 もう片足を突っ込んでる」


 止まれない。

 そう言いたかった。


 でも、その言葉を口にする勇気はなかった。


「……今は」


 ミレイユは、少しだけ声を和らげた。


「今は、何もしないで」


「……」


「“できるかもしれない”って考えるのも、今日はやめなさい」


 それは、命令じゃなかった。

 お願いでもなかった。


 ――警告だ。


「あなたが壊れたら、

 誰も救えないわ」


 その言葉だけが、

 どうしようもなく現実だった。


 ミレイユは、机の上の紙を整え、

 そっと布で覆った。


「朝食の時間よ」


 それだけ言って、書庫を出ていく。


 扉が閉まる直前、彼女は一度だけ振り返った。


「……エル」


「あなたは、もう十分、優しい」


 だから、と続けなかったのが、

 一番きつかった。


 扉が閉まる。


 書庫に、再び静寂が戻る。


 机の上には、覆われた紙。

 隠された可能性。

 隠しきれない衝動。


 止められた。

 確かに、止められた。


 でも――

 止まったわけじゃない。


 そのことだけが、

 はっきりと分かっていた。


もしここまでの物語で、


何か一つでも心に残るものがあれば、


ブックマークや評価、感想という形で


そっと教えてもらえると嬉しいです。

評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

この作品はリンクフリーです。ご自由にリンク(紹介)してください。
この作品はスマートフォン対応です。スマートフォンかパソコンかを自動で判別し、適切なページを表示します。

↑ページトップへ