14.春が終わるまで-7
夜の書庫は、昼間よりもずっと広く感じた。
灯した蝋燭の火が、棚の影を長く引き伸ばす。古紙の匂いと、埃の気配。息を吸うたびに肺の奥が乾いて、吐くたびに胸が冷える。
誰もいない。
だからこそ、言い訳ができた。
(今すぐやるわけじゃない)
自分にそう言い聞かせながら、僕は机の上に紙束を並べた。白い紙。羽ペン。黒いインク。手は震えていない。震えていないことが、怖かった。
リィナは、ほとんど出てこない。
僕の前にはいない。
でも――どこにでもいる。
棚の隙間。蝋燭の火の揺れ。紙をめくる音の中。自分の鼓動の裏側。
思い出したくないのに、勝手に浮かんでくる。
あの言葉。
『それを理由にしないで』
喉の奥が、きゅっと縮む。
僕は首を振って、視線を紙に落とした。
今は考えない。考えるのは後でいい。救ってから考える。
――救う。
その単語が口の中で、妙に甘く、重かった。
机の端に置いた神代文献の写本を開く。文字は読みにくい。古い。意地が悪いほど曖昧で、結論を避ける言い回しばかりだ。なのに、そこにだけは、針のような確かさが刺さっている。
《魔力を媒介とした場合、毒性の一部を中和できる可能性が理論上示唆される》
可能性。
理論上。
その続きにある言葉を、僕はもう何度も読んでいる。
《実例なし》
《破棄》
それでも、ページを閉じられなかった。
破棄されたのは、「不可能だったから」じゃない。
「耐えられなかったから」だ。
なら――耐えられればいい。
頭の中で、考えが滑らかに繋がっていく。
あまりに自然で、あまりに危険な繋がり方をする。
僕は紙に線を引いた。
円を描く。
いくつかの記号を置く。
術式の詳細は、書かない。
書いてしまえば、それが現実になる気がした。
だから僕は、形だけをなぞる。輪郭だけを確保する。
(準備だ)
準備しておくだけ。
知っておくだけ。
可能性を捨てないだけ。
自分の手元に、未来の逃げ道を作るだけだ。
そう思うと、罪悪感が少しだけ薄まる。
薄まるたびに、僕は深く沈んでいく。
紙に描いた円の中心に、別の円を重ねる。
二重。三重。
交差する線。
結び目。
その結び目のところで、ペン先が止まった。
――手が、止まったのではない。
止まってしまった。
脳裏に声が響く。
『なかったことにしないで』
紙の上の線が、急に汚く見えた。
ただの黒いインクだ。
ただの線だ。
なのに、それが誰かの人生に触れてしまう線に見える。
僕はペンを置き、目を閉じた。
リィナの顔が浮かぶ。
笑っている顔。
困ったように笑って、でも目だけが少し遠い顔。
痛みに慣れてしまった人間の、静かな目。
――春が終わっちゃうね。
言葉が、刺さる。
僕は目を開けた。
蝋燭の火が揺れていた。
風はないのに、揺れていた。
(今は考えない)
もう一度、同じ言葉を自分に叩きつける。
救ってから考える。
救ってから向き合う。
救ってから――
救えたら。
その最後の条件だけ、僕はわざと見なかった。
♢
準備は、静かに進む。
まず、写す。
神代文献の該当箇所を、紙に書き写していく。文字は難しい。筆圧が強くなる。線が震えそうになるたび、深呼吸をして、指先を落ち着かせる。
写している間だけは、心が静かだった。
写す行為は、祈りに似ている。
意味を噛み砕かず、ただ形を移すだけ。
次に、測る。
机の引き出しから古い魔力測定器を取り出した。ミレイユが昔使っていたものだ。透明な球体に触れて、魔力を流すと、内部の液体が反応する。
理論は簡単だ。
でも結果は、残酷だ。
僕は球体に手を当て、魔力をゆっくり流した。
液体が淡く光り、次第に濃くなる。
まだ足りない。
もっと。
もっと。
無意識に流量が増える。
液体が一気に色を変え、球体の内部で細かな光が弾けた。
眩しい。
熱い。
僕は手を離した。
手のひらがじんじんする。
自分の魔力量は、確かに測定できないほど多い。
それは分かっていた。
でも――
(足りるのか?)
誰に問うでもなく、胸の中で問いが立ち上がる。
足りるかどうかは、量じゃない。
器であるリィナが、術者である僕が耐えられるかどうかだ。
次に、確かめる。
僕は椅子から立ち上がり、書庫の奥――魔法試験用の小部屋へ向かった。石壁に囲まれた、音が外に漏れない場所。昔、魔法訓練で使った空間だ。
床に、簡易の結界を描く。
自分にだけ作用するように調整する。
身体に負荷をかける。
限界を見ておく。
やり方は簡単だ。
魔力循環を最大まで上げて、維持する。
呼吸を乱さず、意識を落とさず、耐える。
――あくまで、準備だ。
僕は結界の中央に立ち、目を閉じた。
魔力を回す。
血が温まる。
身体の奥が熱を帯びる。
視界が冴えて、音が遠のく。
次第に、手足が痺れる。
それでも回す。
もっと回す。
熱が、痛みに変わる。
痛みが、圧迫に変わる。
胸が苦しい。
喉が狭い。
それでも止めない。
――止めたら、何もできない人間に戻る。
その考えが、僕を支える。
支えるものが、それしかないのが、分かっているのに。
視界の端が暗くなる。
心臓が、変な跳ね方をする。
吐き気が込み上げる。
僕はようやく循環を落とし、結界を解除した。
膝が、少し笑った。
笑っている場合じゃないのに。
床に手をつき、息を整える。
汗が背中を伝って落ちる。
(……これでも、足りないかもしれない)
その思考が、静かに僕を壊す。
足りないかもしれない。
耐えられないかもしれない。
成功しないかもしれない。
それでも――
可能性があるなら。
僕は立ち上がった。
ふらつきながら、机に戻る。
蝋燭は半分ほど溶けていた。
夜が、こんなに短かったはずがない。
僕の中の時間感覚が、壊れ始めている。
♢
紙の上に、輪郭だけの術式が増えていく。
円。
線。
結び目。
余白。
余白のほうが多い。
余白のほうが、怖い。
「ここに何かを書けば、完成してしまう」
そんな感覚が、指先にまとわりつく。
書いてはいけない。
でも、書きたい。
僕はペンを持ったまま、何度も手を止めた。
『それを理由にしないで』
『なかったことにしないで』
声が邪魔をする。
優しい声が邪魔をする。
責める声じゃない。
だから余計に邪魔をする。
怒鳴られたら、反発できる。
拒絶されたら、諦められる。
でも――優しさは、止まれない。
僕はペンを握り直し、紙に小さく書いた。
(後で向き合う)
自分への言い訳。
自分への契約。
救ってから。
救った後で。
彼女の言葉の意味を、ちゃんと受け取る。
だから今は――
紙の上に、新しい線を引いた。
たった一本。
それだけで、胸の奥が少し軽くなる。
軽くなることが、いちばん怖い。
僕は蝋燭の火を増やした。
書庫の影が濃くなる。
影が増えるほど、リィナが増える気がした。
棚の奥、陰の中に、白い髪が揺れる幻が見える。
瞬きすると消える。
幻だ。
当然だ。
彼女はここにいない。
それでも、僕は誰かに見られている気がした。
監視じゃない。
責めでもない。
ただ、見届けられている気がした。
――エル。
名前を呼ばれた気がして、背筋が冷える。
振り返っても、誰もいない。
僕は笑ってしまいそうになった。
壊れている。
でも止まらない。
♢
夜が深まる頃、僕は小部屋に戻った。
机の上の紙を、折り畳んで懐に入れる。
持ち出すつもりはない。
ただ、持っていたい。
いつでも触れられる場所に置いておきたい。
そこに、希望がある気がするから。
結界を張る。
簡易のもの。
外から見えないようにするためじゃない。
自分を外から切り離すためだ。
(今すぐやるわけじゃない)
何度目か分からない言い訳を、胸の中で繰り返す。
床に立ち、目を閉じる。
魔力を流す。
結界の内側の空気が、少しだけ重くなる。
蝋燭の火が、ぶれる。
術式はまだ未完成だ。
輪郭しかない。
なのに、身体が勝手に「次」をしようとする。
――やめろ。
頭のどこかが叫ぶ。
でも手は動く。
指先が、床に線を描こうとする。
たった一歩。
たった一線。
描いてしまえば、戻れない線。
僕は膝をついた。
床に触れた指先が、冷たい石を感じる。
その瞬間、脳裏に声が落ちてきた。
『私は、もう選んでる』
『数えてる』
『受け入れてる』
『それを、なかったことにしないで』
呼吸が止まった。
胸が痛い。
僕は指先を石から離した。
離したのに、指が震えている。
石の冷たさじゃない。
自分の中の熱が、制御を失いかけている。
(今は……だめだ)
僕は何度も息を吸って、吐いた。
吸って、吐いて、吸って、吐いた。
魔力が暴れたままなのに、無理やり落とす。
落ちる。
落ちきらない。
残る。
残ったものが、僕の中で黒く沈殿する。
僕は結界を解除し、その場に座り込んだ。
汗で髪が額に張りつく。
喉が焼けるみたいに痛い。
止めた。
止められた。
それだけが救いのはずなのに――
胸の奥が、冷えていく。
(……止めたのは、優しさじゃない)
怖かっただけだ。
今やってしまったら、彼女の顔を見られなくなると思っただけだ。
明日なら。
準備が整った明日なら。
彼女に説明できる明日なら。
ちゃんと謝れる明日なら。
そんな、都合のいい明日を積み上げて。
僕は、今日を見ないふりをしている。
立ち上がろうとした瞬間、眩暈がした。
世界が少し傾く。
壁に手をついて、耐える。
ふと気づく。
――僕は今、自分の身体すら正しく扱えていない。
それなのに、誰かの身体に触れようとしている。
笑えない。
泣けない。
ただ、吐き気だけがこみ上げる。
僕は書庫に戻り、机の上の紙束を見下ろした。
輪郭だけの術式。
余白だらけの線。
それが、やけに完成に近く見えた。
僕は紙を一枚引き寄せ、ペンを取った。
書き足せば、もっと確かになる。
書き足せば、明日が来る。
ペン先が、紙に触れる寸前で止まる。
『それを理由にしないで』
まただ。
僕は笑ってしまった。
喉がかすれて、息が変な音になる。
「……うるさい」
誰に言ったのか分からない。
うるさいのは、リィナじゃない。
僕の中の、僕だ。
僕はペンを置き、両手で顔を覆った。
蝋燭の火が、ぱちり、と音を立てた。
その小さな音が、やけに大きく響く。
夜はまだ終わっていない。
でも僕の中では、何かが確かに終わっていた。
――越えてはいない。
けれど、もう戻れない場所まで来てしまった。
書庫の窓の外が、ほんの少し白み始めていることに気づく。
朝が来る。
僕は、朝が怖かった。
リィナに会うのが怖い。
会わないのも怖い。
選べない。
でも、止まれない。
その夜、僕は確かに思った。
「明日なら、できるかもしれない」と。
♢
夜明けの光が、書庫の窓から差し込んだ。
いつの間にか、蝋燭はすべて燃え尽きていた。
机の上には、開かれた書物と、書きかけの紙。
インクはまだ乾ききっていない。
――どれだけの時間、ここにいたのだろう。
立ち上がろうとした瞬間、視界が揺れた。
思った以上に、身体が重い。
その時だった。
「……エル?」
背後から、柔らかい声がした。
振り返ると、書庫の入口にミレイユが立っていた。
寝間着の上に羽織を重ねただけの姿。
髪もまだきちんと結われていない。
それでも、その目だけは――
いつもの穏やかさより、ずっと鋭かった。
「……朝まで、ここにいたの?」
「……うん」
誤魔化す気は起きなかった。
声も、思ったより掠れている。
ミレイユはゆっくりと歩み寄り、机の上を見た。
広げられた文献。
神代文字。
毒物学の本。
そして、無言で置かれた紙の束。
彼女は何も言わなかった。
ただ、その場に立ち尽くしたまま、静かに息を吸った。
「……ねえ、エル」
その声は、叱責ではなかった。
問い詰める響きでもない。
「あなた、ちゃんと寝てる?」
「……最近は、あまり」
「食事は?」
「……必要な分は」
答えながら、自分がどれだけ壊れた返事をしているか、はっきり分かった。
ミレイユは目を伏せた。
一瞬だけ。
本当に一瞬だけ。
「……それは、“ちゃんと”じゃないわ」
彼女は紙を一枚、指先で持ち上げた。
書きかけの術式の輪郭。
詳しい内容を、彼女は読まない。
読まなくても分かってしまうからだ。
「これは……今すぐやるつもりのものじゃないわよね」
「……うん」
即答だった。
「ただ、可能性を……」
「エル」
名前を呼ばれただけで、言葉が止まる。
ミレイユは、紙をそっと机に戻した。
「あなたね、“今すぐじゃない”って言葉を、
自分を守るために使い始めたら、もう危ないの」
胸の奥が、きしんだ。
「準備してるだけ」
「知っておくだけ」
「いつかのために」
――それ全部、
“やる人間”の言い方よ。
そう言われている気がした。
「……母上」
何か言い返そうとして、言葉が見つからない。
ミレイユは、僕の顔をじっと見た。
疲れた目。
血の気の引いた顔色。
無理を隠す癖のある、息の仕方。
「あなた、今――
誰のために動いてるか、分からなくなってる」
「……」
「それが“優しさ”だって思ってるなら、なおさらよ」
優しさ。
その言葉が、胸に刺さる。
「エル。
あなたが誰かを救いたいと思う気持ちを、私は否定しない」
ミレイユは、ゆっくり言葉を選ぶ。
「でもね、
“救う”っていう役割は、人を簡単に壊す」
視線が、紙に落ちる。
「特に――
救われる側が、それを望んでいない時は」
息が、止まった。
リィナの顔が浮かぶ。
困ったような笑顔。
静かな拒絶。
「……リィナは、望んでないわけじゃない」
反射的に、そう言っていた。
「ただ……」
「“生きる理由にしないで”って言われた?」
ミレイユは、確信を持ってそう言った。
僕は、何も言えなかった。
それだけで、十分だった。
「……そう」
彼女は目を閉じた。
「なら、なおさらよ」
静かな声だった。
「あなたは今、
その子の“選んだ人生”を、
あなたの希望で上書きしようとしてる」
「……違う」
「違わないわ」
即座に返された。
「あなたは、“奪うつもりがない”だけ。
でも結果は、同じになる可能性がある」
重い沈黙が落ちる。
「エル」
ミレイユは、僕の前に立ち、はっきり言った。
「今のあなたは――
止まらなきゃいけないところに、
もう片足を突っ込んでる」
止まれない。
そう言いたかった。
でも、その言葉を口にする勇気はなかった。
「……今は」
ミレイユは、少しだけ声を和らげた。
「今は、何もしないで」
「……」
「“できるかもしれない”って考えるのも、今日はやめなさい」
それは、命令じゃなかった。
お願いでもなかった。
――警告だ。
「あなたが壊れたら、
誰も救えないわ」
その言葉だけが、
どうしようもなく現実だった。
ミレイユは、机の上の紙を整え、
そっと布で覆った。
「朝食の時間よ」
それだけ言って、書庫を出ていく。
扉が閉まる直前、彼女は一度だけ振り返った。
「……エル」
「あなたは、もう十分、優しい」
だから、と続けなかったのが、
一番きつかった。
扉が閉まる。
書庫に、再び静寂が戻る。
机の上には、覆われた紙。
隠された可能性。
隠しきれない衝動。
止められた。
確かに、止められた。
でも――
止まったわけじゃない。
そのことだけが、
はっきりと分かっていた。
もしここまでの物語で、
何か一つでも心に残るものがあれば、
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