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誰も救えない僕が、それでも魔王と生きる話  作者: 霜月ルイ
消失編

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139.報告

 

 特務騎士団の管制室は、朝の顔をしていない。


 正確には、朝という概念がここには必要ない。夜明けの光で目覚める者も、鐘の音で動き出す者もいない。ここにあるのは、稼働の開始と継続だけだった。


 白い石壁は、湿りも温度も吸い取る。灯りは窓から入らない。天井近くに埋め込まれた刻限灯が、一定の間隔で淡く脈動し、それが“時刻”の代わりになる。針時計はない。針が回るほどの余白が、この部屋には許されていなかった。


 机は並び、魔導具は整列し、人も整列している。


 整列という言い方は乱暴かもしれない。兵のように背筋を伸ばしているわけではない。だが、各自が与えられた席に座り、与えられた視野の中でのみ世界を見ている。その姿は、十分に整列に見えた。


 声は少ない。


 必要語だけが飛ぶ。


「第一盤、定時観測、継続」


「結界層、変動なし」


「外縁監視、異状なし」


 言葉が短いのは、忙しいからではない。長く言う必要がないからだ。ここでは、余計な形容は事故の種になる。形容は感情を連れてくる。感情は判断を鈍らせる。判断が鈍れば、手順が狂う。手順が狂えば、都市が巻き添えになる。


 だから、言葉は削られる。


 削られた言葉の代わりに、記録板が光る。


 壁際に並んだ黒い石板――表面に細い光文字が走る記録板は、報告を受け取っては即座に並べ直す。紙はない。紙は燃える。紙は汚れる。紙には余白がある。余白があると、人は書き足す。書き足せば、物語が生まれる。物語は、真実より先に人の心を動かす。


 ここでは物語が最も危険だった。


 管制官は、自分の指先を見た。


 指先に、ほんのわずかな痺れがある。


 痺れは珍しくない。魔力場観測の勤務が長い者ほど、こういう“薄い不調”に慣れる。慣れてしまうことが、職務の必須条件になる。慣れない者は、いずれ退く。退けない者は壊れる。壊れた者は、ここでは扱えない。


 扱えないものは、記録されない。


 管制官は、手袋の上から指を握り直した。痛みを確認するためではない。感覚があるかを確認するためだ。感覚は業務を続ける条件になる。条件が満たされる限り、処理は回る。処理が回れば、都市は続く。


 “今日も処理が回る。”


 その確認が先に来る。


 安心ではない。麻痺の形式だ。安心という言葉がここで許されるのは、結界が落ちた後だけだ。落ちた後に、ようやく人は泣ける。泣くために生き残る、という順序が、この国にはある。


 刻限灯がひとつ、淡く脈動した。


 合図ではない。報せでもない。ただ、“いま”が更新されたという事実の提示だ。


 管制官は視線を前へ戻す。


 正面の観測盤――半球状の結晶に埋め込まれた光点が、都市の外縁を表示している。光点は小さく、規則的で、等間隔だ。規則があるうちは、世界は理解できる。


 理解できる世界には、手順が置ける。


 手順が置ける世界は、まだ守れる。


 その時だった。


 盤面の一角が、ほんのわずかに“色”を失った。


 失った、と言ってしまうのは早い。光が消えたわけではない。暗くなったわけでもない。むしろ明るさは同じまま、色だけが抜けた。青が、白に寄った。白に寄ったのに、祝福の白ではない。安全の白でもない。


 管制官の喉が、ひとつだけ動いた。


 唾を飲み込む、という行為が、ここではほとんど音にならない。けれど、その動きが自分の内部で大きく響いた。身体が先に知っている。これは“いつもの変動”ではない、と。


 隣の席の補助官が、短く言った。


「……反応」


 それだけ。


 反応、という単語には感情が乗らない。乗せてはいけない。反応が反応であるうちは、処理ができる。


 管制官は、観測盤の数値列へ目を滑らせた。


 針は動かない。


 針は、本来“戻る”ことを前提に作られている。上がって、戻って、また上がる。戻るから、上がったことが異常だと判定できる。


 だがいま、針は戻らない。


 戻らないということは、異常が継続しているということだ。継続している異常は、災害に分類される。災害は、個人の勇気では扱えない。扱うのは、手順だけだ。


 補助官が、もう一度だけ言った。


「閾値……」


 言い切らなかった。


 言い切らなくても分かる。既定の観測閾値を超えた。超えたと言った瞬間に、室内の空気が一段薄くなる。薄くなるのは気のせいではない。人の身体が、危険に合わせて呼吸を浅くするからだ。


 管制官は息を吐き、吸い直した。


 吐いて、吸っても、肺が満ちない。満ちないのに、酸素はある。息が足りないのではない。現実の輪郭が薄い。薄い現実の中で、呼吸という手順だけが浮いている。


 指先の痺れが、ほんの少し強くなった。


 痺れは広がらない。広がってほしい、と一瞬だけ思った。広がれば痛みになる。痛みになれば、人はそれを“症状”として扱える。症状なら、処置がある。処置があるなら、救いの形になる。


 だがこれは症状ではない。


 “当てられている”。


 王都が、魔力場に当てられている。


 都市そのものが患っている。


 患うという言葉の怖さは、そこに“病理”があることだ。病は、敵と違って倒せない。病は、倒すという手順を拒否する。病は、ただ続く。続くことが、治る保証ではない。


 管制官は、言葉を胸の内で切った。


 患う、という語感が危険だ。危険な語感は余計な想像を連れてくる。想像は恐怖を連れてくる。恐怖は口を開かせる。口を開けば、場が騒ぐ。騒げば、事故が起きる。


 事故は最も記録しづらい。


 記録しづらいものが増えると、国家は弱る。


 だから、切る。


 管制官は、冷静に指示を出した。


「第二盤、相関。外縁監視、再照合。結界層――閉じたまま、微細変動を拾え」


 言葉の端に、ひとつも“怖い”が付かない。


 怖い、という語は手順にない。


 手順にないものは、この部屋では言えない。


 記録板の光文字が走った。


 《観測:逸脱反応 継続》


 《閾値:既定値超過 未回復》


 文字が冷たく並ぶ。


 並んだ瞬間、室内の数人が同時に瞬きをした。瞬きは反射だ。反射は個人のものだ。個人のものが露出した瞬間、空気が少しだけ人間に戻りかける。


 管制官は、それを戻さない。


 戻してはいけない。


 救いは祈りの形をしていない。ここでは、手順の形をしている。


 第三盤の担当が、短く言った。


「範囲……広い」


 広い、という形容はまだ許される。広いは、測れるからだ。測れるものは手順になる。


 管制官は頷き、地図盤に視線を移した。


 地図盤は、王都を中心にした周辺領域の“観測”を重ねるためのものだ。点、線、円。情報はいつも、記号に落とされる。記号に落とされると、悲鳴は消える。消えた悲鳴の上で、対処だけが残る。


 盤の外縁に、薄い光が走る。


 走り方が、正常ではない。正常なら、波紋のように広がっていく。中心があり、そこから距離が増えるほど薄まる。


 だが今回は、中心が見えない。


 中心が見えないのに、外縁が先に揺れる。


 それは、遠いところで起きたものが、遅れて王都へ届いているということだ。届いているということは、距離がある。距離があるなら、まだ時間がある――そう言いたくなる。


 その言葉を、誰も口にしない。


 時間がある、という言葉は希望を呼ぶ。希望は事故を呼ぶ。事故は記録を汚す。


 汚れた記録は、後で人を殺す。


 管制官は、淡々と言った。


「中心推定。測地を回せ」


 測地士が動く。机の端の器具が光り、盤の上に角度線が追加される。点が増える。線が伸びる。円が重なる。


 重なり始めたとき、伝令札が一枚、管制台へ滑り込んだ。


 札は紙ではない。薄い金属板に、光文字が焼き付いている。焼き付けられた文字は短い。短いまま、内容だけが刺さる。


 《外部拠点速報:光柱観測 空に円環 方角一致》


 管制官は、文字を読む。読み終えても顔を動かさない。顔が動くと、感情の影が出る。影は連鎖する。


 彼は札を記録官へ回す。


 記録官は札を受け取り、光文字を記録板へ落とす。落とされた瞬間、報告は“出来事”から“ログ”になる。ログになったものは、もう叫ばない。


 測地線が、ひとつの方角へ収束し始める。


 点が一致する。線が揃う。揃うということは、そこに明確な一点があるということだ。


 明確な一点がある、というのは――“そこが発生源だ”ということだ。


 管制官の指先の痺れが、ほんの少しだけ強くなった。


 痺れはここで“報せ”になる。身体が、言葉より先に異常を告げる。告げるのに、口は冷たい。


「……シリル村方面」


 誰かが呟いた。


 呟きは本来、感情を伴う。だがこの呟きには感情がない。あるのは、地名の情報だけだ。王都は家族ではなく、地図でそこに辿り着く。辿り着いた瞬間、そこにいる人の名前は出ない。出せない。


 地名が出ると、次に出るべきは“回線”だった。


 補助官が、盤面の隅を指し示す。


「……回線、残存」


 管制官の胸の奥が、わずかに沈んだ。


 回線が残っている。


 通常なら、発生源がこれほど極大なら、念話回線は焼き切れる。焼き切れるのが自然だ。切れるべきものが切れていない。


 切れていないということは、誰かが残しているということだ。


 残しているということは――意図がある。


 意図があるなら、そこには“人”がいる。


 人がいるなら、助けを求める声があるはずだ。


 そのはず、という形を、管制官は即座に自分の内側で折った。


 はず、は手順にない。


 手順にあるのは、確認と抽出だけだ。


 切れるべきものが切れていない時、人は安心ではなく恐怖を覚える。


 恐怖を覚えたことを、誰も言わない。


 言わない代わりに、管制官は指を動かした。


 回線の項目に触れる。


 観測盤の光が、ひとつだけ強くなる。


 強くなった光は、祝福の光ではない。


 “接続可能”という表示だ。


 管制官は、喉を鳴らさずに命じた。


「回線の照合。名義――エルディオ。保護層、展開。例外接続の申請を上げる」


 声は低い。揺れない。


 揺れない声のまま、記録板に新しい文字が並ぶ。


 《回線:残存 接続可能》


 《名義:エルディオ》


 “名”が出た瞬間、部屋の空気がほんの一拍だけ止まった。


 止まったのに、誰もそれを止まったと呼ばない。


 止まった、と呼んだら、人間になる。


 人間になれば、怖いと口にしてしまう。


 怖いと口にしたら、次に出るのは“なぜ”だ。


 なぜ、回線が残っている。


 なぜ、切れていない。


 なぜ、まだ――。


 なぜ、は手順にない。


 管制官は、その“なぜ”を飲み込んだまま、淡々と手続きへ戻った。


 王都は患っている。


 患っているのに、動かなければならない。


 動くために必要なのは、感情ではない。


 “規定”“手順”“記録”。


 そして最後に並ぶ言葉は、いつも決まっている。


 ――以上。


 ♢


 念話回線の項目に触れた指先が、ほんのわずかに痺れた。


 管制官は、その痺れを“異常”として扱わない。扱うと、処置が必要になる。処置が必要になると、手順が遅れる。遅れはこの状況では致命になる。致命の定義は、都市が落ちることだ。個人の不調は都市の致命より優先されない。


 だから、痺れは無視する。


 無視したまま、確認だけを進める。


 記録板に並ぶ光文字は短い。


 《回線:残存》


 《名義:エルディオ》


 《保護層:未同期》


 《接続:規定外(例外申請要)》


 保護層が未同期――つまり、当人の同意が前提になっている安全術式が噛んでいない。噛んでいない回線は、本来なら触れてはいけない。触れれば、術者側も相手側も傷つく。念話というのは会話ではなく、精神と精神を“接続”する行為だからだ。


 倫理ではなく、規定にそう書いてある。


 規定は、守れば人を守る。


 守れない時、規定は人を黙らせる。


 管制官は、倫理を考えない。考えるのは規定の適用条件だけだ。規定は状況を分類し、分類は行為を許可する。許可されれば、迷いは事故にならない。迷えば、事故になる。


 事故は、都市を殺す。


 管制官は淡々と言った。


「回線例外発動、条件照合」


 記録官が即座に返す。声に熱がない。


「国家緊急事態条項、適用可。災害級魔力場、該当。発生源不明、該当。観測閾値超過、継続、該当」


 単語が並ぶ。並ぶ単語が、行為の許可証になる。


 副官が一歩だけ近づいた。足音は石床に硬く落ちるが、室内の誰もその音に反応しない。反応すると、音に感情が宿る。


「例外発動を許可する。――目的は状況抽出。会話は禁止。余剰問答は記録外。規定に従え」


 命令は命令として、切れ味だけを残す。


 管制官は頷き、手元の申請板へ指を滑らせた。


 申請板は紙ではない。光刻印の“型”が並び、該当項目に触れると自動で記録板へ流れる。そこに個人の筆跡は残らない。筆跡が残ると、そこに人間が残る。人間が残ると、責任が生まれる。責任が生まれると、誰かが泣く。泣きは事故を呼ぶ。


 規定は、事故を嫌う。


 光刻印がひとつ、点いた。


 《例外発動:承認》


 承認という文字の冷たさだけが、室内に落ちる。


 落ちた文字に、誰も「やめたほうがいい」と言えない。


 止める語彙が存在しないからだ。


 管制官は、念話回線の起動を指示した。


「接続儀式、開始。術式――管制台直結。輪は不要。抽出設定、最小。反射防護、上げろ」


 輪を組む必要はない。祈りのような形を取る必要もない。ここは神殿ではない。ここは施設だ。接続は儀式ではなく操作になる。


 術者は三名。術者と言っても、祈祷師のような顔はしていない。腕に刻まれた術式印と、手袋の内側に仕込まれた導線で回線を扱う“技術者”だ。彼らは並び、管制台の溝に指を差し込む。


 差し込む、という言い方が正しい。


 掌を重ねない。目を合わせない。互いの呼吸を合わせない。


 ただ、端子に接続する。


 接続は会話の準備ではない。


 抽出の準備だ。


 刻限灯が一拍だけ弱くなった。


 暗転、と呼ぶほどではない。だが“薄くなる”。室内の灯りが、わずかに色を失う。魔力が吸われている。王都の灯りが、どこか遠い一点へ向かって引かれていく。


 管制官の耳の奥で、低い音が鳴った気がした。


 鳴った気がした、だけだ。実際に音がしたかどうかは分からない。念話回線が開く瞬間、人の脳が勝手に“接続音”を作ることがある。接続という現象に、日常の比喩を当てはめようとする補完だ。


 補完は、危険だった。


 補完は物語を作る。


 物語は、この章では殺さなければならない。


 管制官は、待つ。


 返答が来る前の「間」が最も怖い――そう思う余地すら、職務の中では許されない。怖いという感覚を持った瞬間、呼吸が乱れる。乱れた呼吸は術式の精度を落とす。精度が落ちれば、回線が焼ける。焼けた回線は、情報を持っていかない。


 情報が取れなければ、都市は死ぬ。


 だから、待つのは“間”ではなく“工程”だ。


 工程が進む。


 光文字が並ぶ。


 《接続:進行》


 《抵抗:低》


 《信号:受信可能》


 抵抗が低い――それは、接続が容易という意味ではない。相手側が“抵抗していない”という意味だ。抵抗がないというのは、同意があるという意味でもない。抵抗しないほど壊れている、という意味もある。


 末端の騎士が、ほんの一瞬だけ口を開きかけた。


「生存確認を――」


 管制官は、言い終える前に切った。


「後。規定。まず状況」


 “生存確認”という言葉は、人間の言葉だ。ここでは人間の言葉は後回しになる。状況を取る。敵性を判定する。派遣を決める。封鎖を決める。王都の防護を維持する。


 救済は、その後にしか存在しない。


 回線が開いた。


 声が落ちてくる。


 落ちてくる、というのも違う。声は空間に響かない。喉から出て、空気を震わせて届くものではない。脳の内側へ直接置かれる。置かれ方が、あまりに整っている。


 低い声。


 揺れない。


 抑揚が無い。


 余計な呼吸が無い。


 生きている声の条件を、いくつも外している。


 それでも、言葉は正確だった。


『敵兵力。五千超』


 管制官は、記録官へ目線だけを送る。


 記録官の指が動く。光文字が即座に記録板へ落ちる。声は“ログ”になる。ログになった瞬間、言葉は人を殺さない。ただ数字として並ぶ。


『カースドラゴン。三』


『上位魔族。複数』


『全敵。殲滅済み』


 間が無い。


 語と語の間に、迷いがない。


 迷いがないというのは、強さの証明ではない。


 迷いがないのは、迷う席が無いからだ。


『以上』


 最後の二文字が、奇妙に重い。


 重いのに、何も飾らない。


 管制官は、問いを投げる。問いもまた手順だ。感情の問いではない。抽出の問いだ。


「味方損耗」


『不明』


 不明、と即答される。


 不明は“分からない”ではない。“扱わない”の温度を含む。不明という語は、報告書の中で一番便利だ。便利な語は、悲劇を隠す。


「村の状況」


『確認していない』


 管制官の指先が一瞬だけ止まる。


 止まりは感情ではない。工程の擦れだ。通常、現地任務の最優先は周辺状況の確認にある。確認していない、というのは手順の欠落だ。欠落は事故の匂いを持つ。


 だが、事故と断定はできない。断定すれば物語化する。物語化すれば、英雄や罪の形が生まれる。


 この章は、それを拒否する。


「生存者の有無」


『確認していない』


 同じ言葉が繰り返される。繰り返しが、会話の断絶を強調する。


 会話ではなかった。


 抽出だった。


 抽出に、情は混ぜられない。


「当人の状態」


 管制官は、ここだけ少しだけ言葉を慎重に選んだ。


 状態、というのは人間の言葉だ。だから規定の言い回しに落とす。怪我、意識、魔力残量。そういう項目に落とせば、手順の中で扱える。


「負傷の有無。意識。魔力残量」


『必要事項は伝達した』


 拒否でも反抗でもない。


 ただ、線を引く。


 線を引かれた瞬間、管制官は理解する。


 相手は“協力している”のではない。


 相手は“報告書”になっている。


 人間が報告書になっているのは、勝利の形ではない。


 壊れた形だ。


 それでも、管制官は壊れに触れない。触れれば自分も当てられる。王都はすでに患っている。これ以上、個人の心が患う余裕はない。


 管制官の心の中で、テーマの一文が立ち上がった。


 ――正確すぎる報告は、悲劇を隠す。


 隠すからこそ、残酷だ。


 隠したまま、記録板には冷たい文字が並ぶ。


 《敵兵力:五千超》


 《カースドラゴン:三》


 《上位魔族:複数》


 《全敵:殲滅済》


 《以上》


 四行と二文字。


 それだけで、戦は終わったことになる。


 終わったことにされる。


 終わらせてはいけないものまで、終わったことにされる。


 管制官が次の指示を出そうとした瞬間――回線が、ふっと薄くなる。


 灯りがまた一拍だけ弱くなる。


 低い耳鳴りが、今度は“気がした”では済まないほど内側を撫でた。


 そして、声が途切れた。


 途切れた、というより。


 最初からそこに無かったみたいに、回線が空白へ戻った。


「エルディオ、応答せよ」


 呼びかけは、規定の言葉で行われる。名を呼んでも、祈りにはならない。


「回線確認。応答せよ」


 返事は来ない。


 来ないから、工程が次へ進む。


 副官が淡々と言った。


「回線断絶。――現地調査部隊を派遣。封鎖区分の準備。記録、確定」


 救済ではない。


 処理が始まる。


 管制官は頷き、指を動かす。


 派遣の刻印。


 封鎖の刻印。


 報告の刻印。


 刻印が点き、記録板に新しい文字が並ぶ。


 《現地調査:派遣》


 《到着予測:遅延》


 遅延、と書かれた瞬間、管制官の胸の奥で、何かがほんのわずかに沈んだ。


 沈んだものの名前を、彼は付けない。


 名前を付ければ、感情になる。


 感情になれば、物語になる。


 物語になれば、英雄か怪物が生まれる。


 この回は、それを許さない。


 ただ、正確な報告と、正確な手順が残る。


 そして残った正確さが、悲劇をいちばん綺麗に隠していく。


 ♢


 回線は、ぷつりとは切れなかった。


 ぷつり、という音は生活の音だ。糸が切れる、紙が破れる、蝋が折れる。そういう小さな破断の音は、世界がまだ日常に属している証拠になる。


 これは違う。


 回線の“光”が、一瞬だけ白くなった。


 白く――焼けた。


 管制台の溝に差し込まれた術者の指先から、淡い発光が走る。走った光が、途中で細く折れる。折れるというより、折れる前に“拒まれる”。


 線が、折れてはいけない角度で折れた。


 その瞬間、刻限灯の白が戻った。


 戻った、というのがまた嫌だった。さっきまで確かに室内は薄かった。王都の呼吸が狂って、空気が水みたいに重かった。その重さが、回線が切れた途端に“元に戻る”。元に戻ったことが、まるで――都市が「もうそれは自分のものではない」と手を放したみたいに見える。


 苦しさだけが残る。


 苦しさだけが、身体の中に居座る。


 管制官は、即座に呼びかけを投げた。


 声ではない。術式としての呼びかけだ。規定の形式を持った、届くはずの手続き。


「回線確認。発信元、応答せよ」


 返答は来ない。


 来ない、ではない。


 “届かない”。


 呼びかけが、術式として成立しない。回線は残っているように見えるのに、接続点が存在しない。まるで相手側で、線の根元だけを丁寧に抜かれたみたいに。


 術者の額に汗が浮いた。


 汗が浮くのは、恐怖ではなく負荷だ。負荷が掛かっている。掛かっているのに、繋がらない。繋がらないのに、押し返される。押し返されるということは、相手が“在る”ということだ。


 在って、拒んでいる。


 管制官は指先を滑らせ、規定を読み上げるように言った。


「再接続、不可」


 副官が短く確認する。


「理由」


「例外発動は一回限り。第二回は、規定上“回線保護違反”に該当。術者側の焼損リスク上昇。――以上」


 “以上”という語尾が、ここでも刃になる。


 止めたくても止められない、と言う代わりに、“規定”が口を塞ぐ。


 その瞬間、室内にほんの一瞬だけ、人間が顔を出した。


 末端の騎士が、呆然とした声で呟く。


「……なに、あれ」


 問いの形をしているのに、答えを求めていない声だった。求めた瞬間に、何かが壊れることを身体が知っている。


 記録官が、視線も上げずに切る。


「私語を控えろ。記録を続ける」


 言葉が、刃のまま落ちる。


 管制官の喉の奥に、別の刺しが残った。


 返事がないのではない。


 返事が“不要”だと言われた。


 そういう切断だった。


 拒絶は、怒りを生むものだ。


 だがここには怒る手順がない。


 怒ったら人間になる。


 人間になったら、処理が止まる。


 処理が止まれば、都市が死ぬ。


 だから、怒れない。


 怒れないまま、手続きが始まる。


 ♢


 管制官は、回線項目を閉じる。


 閉じる動作は、葬送ではない。画面を閉じるのと同じだ。終わったから閉じる。扱えないから閉じる。扱えないものを“未処理”のまま机に残すと、次の処理が回らない。


 回らないことが、罪になる。


 だから閉じる。


 そして次の刻印へ指を滑らせる。


 《現地対応》


 《派遣》


 文字が点く。点いた瞬間、悲劇の後に“すぐ次の紙”が来る。


 それが残酷だった。


 副官が淡々と読み上げる。


「派遣隊編成。目的は現地調査。救助目的と誤認される表記は禁止」


 救助、と言うと希望が立ち上がる。


 希望が立ち上がると、間に合うという前提が立ち上がる。


 前提は、今この部屋で最初から壊れている。


 管制官は、規定の言語で編成を並べる。


「人数、十六。内訳――特務騎士八。結界術師二。治癒士二。測地士一。記録官一。補助二。装備、対災害級。対魔族戦装備は補助的。……任務名、現地調査」


 “救助”という単語は一度も出ない。


 出さないことが、優しさではなく制度の冷たさになる。


 記録官が記録板へ落とす。


 《任務:現地調査》


 《想定:二次災害》


 《区分:消失区域の可能性》


 消失区域。


 言葉が、軽い。


 消失という語は、遺体も血も匂いも隠す。隠すから、誰も泣けない。泣けないまま、手順だけが進む。


 神殿への照会も、祈りではなく書類になる。


 管制官が文官へ言う。


「神殿照会。――神託依頼ではない。“照会書”。発生源が神代系統に属する可能性、確認。返答期限、刻限三」


 文官は頷くだけだ。頷きの中に期待はない。返答が来ないことを前提に、別の手順も走らせるからだ。


「並行で封鎖手続き。王都警備隊へ連絡。道路封鎖は“避難”名目。原因は伏せる」


 原因を伏せるのは隠蔽ではない。混乱防止だ。混乱防止という言葉の便利さが、また悲劇を覆い隠す。


 管制官の内側で、感情らしきものが湧きかける。


 湧きかけて――すぐ押し潰される。


 押し潰すのは副官でも記録官でもない。


 処理そのものだ。


 処理が、感情の席を奪う。


 奪われることに慣れてしまっている自分への、薄い嫌悪が胸の奥に残る。


 嫌悪は、処理の邪魔だ。


 邪魔になる前に、嫌悪も沈める。


 ここには、悲しむ暇は規定に存在しない。


 ♢


 最後に残るのは、記録だけだ。


 記録官が、最終行を整える。


 整える、という言い方が正しい。言葉はそのままだと暴れる。暴れる言葉は感情を呼ぶ。感情を呼べば、誰かが人間になる。人間になれば、ここは施設として壊れる。


 だから、言葉を整える。


 刃を鞘に入れるみたいに。


 記録板へ落ちる最終行は、あまりにも正しい形をしていた。


 《広域殲滅が行われた》


 《敵勢力、排除》


 《当人、応答不能》


 それだけで、事件は“完了”する。


 完了してしまう。


 管制官は、承認刻印に指を置く。


 置いた瞬間、胸の奥で何かが確かに消える感覚があった。


 だが、それに名前を付けない。


 名前を付ければ、喪失になる。


 喪失になれば、誰かの顔が浮かぶ。


 顔が浮かべば、この出来事は物語になってしまう。


 物語になれば、英雄か怪物が生まれる。


 この回は、それを許さない。


 承認刻印が点く。


 《承認》


 その光は、祝福に見えなかった。


 祝福に見えない光が、平然と次の業務を呼ぶ。


 管制官は、椅子に深く腰を落とし直すこともせず、淡々と次の札を取る。


 派遣隊の発令。


 封鎖の指示。


 神殿照会の送付。


 全部、同じ速度で処理される。


 報告は完了した。


 ――悲劇だけが、未入力のままだった。


王都は泣かない。泣けない。

異常は数字へ落とされ、恐怖は規定へ回収され、言葉は記録の形に整えられる。


四行の報告と「以上」で、出来事は“完了”になる。

けれど完了したのは手続きだけで、悲劇だけが未入力のまま残った。

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