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誰も救えない僕が、それでも魔王と生きる話  作者: 霜月ルイ
消失編

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138.見えてしまった光

 

 朝は、静かだった。


 静かだというのは、音が無いという意味じゃない。屋敷の朝はいつも、音を“並べて”くる。火のはぜる音、湯の沸く音、布の擦れる音、庭で葉が揺れる音――それらが勝手に鳴るのではなく、誰かの手順に沿って、順番に置かれていく。


 置かれていく音の間に、空白がある。


 空白は、安心の形をしていた。


 アインはその空白を、いつもより長く感じていた。


 窓辺の椅子に腰を下ろすまでの数歩が、わずかに遅い。膝が重いというより、関節が「朝だ」と納得するまでに時間がかかる。痛いわけではない。ただ、若い頃なら無かった“間”が、身体に増えた。


 老いは、突然ではなく、手順の中に混ざってくる。


 昔は鎧の重さを当たり前に受け止められた。今は屋敷着の布の軽さにすら、身体が一度、重心を探す。


 それでも、やることは同じだ。


 机の上には書類がある。伝令が置いていった報告が二つ。境界線の見回りと、村への補給の帳面。兵の交代表。昨夜の巡回の記録。


 戦は遠い。


 遠い、ということにしている。


 遠いと言えば、人はまだ朝の紅茶を飲める。遠いと言えば、窓を開けて庭の匂いを入れてもいい。遠いと言えば、紙の上の数字が、ただの数字のままでいてくれる。


 ミレイユが、紅茶の盆を運んできた。


 香りは強くない。花の香りも、甘い果実の香りも、彼女は選ばない。朝の匂いが濃くなると、それだけで胸がざわつくからだ。ざわつきは、今の二人にとっては敵だった。敵は、外にいる。外にいる敵を、家の中へ入れたくない。


 カップが、受け皿の上で小さく揺れて、止まる。


 止まるまでの時間が、いつもより少しだけ長い。


 ミレイユは、何も言わなかった。


 言葉にした瞬間に、心配が“形”になってしまうからだ。形になった心配は、置き場を要求する。置き場を作ったら、そこに住み着く。


 だから彼女は、手順を増やす。


 窓辺の花瓶の水を替える。薄い色の花を一輪だけ差す。窓の留め具を確かめる。布を揃える。紅茶を置く。アインの指先が冷えていないか、目だけで確認する。


 祈りではない。


 祈りは届くものだと信じる者がする。


 彼女がしているのは、届かないものに対して、手を動かすことだ。


 手を動かしている間だけ、心は言葉にならないで済む。


 屋敷の庭は、初夏の顔をしていた。


 木陰は深くなり、草は柔らかく伸びる。朝露がまだ残り、光を受けて細い糸のように煌めいている。庭師が早起きして刈った跡が、線として残っている。鳥が枝を渡る気配がする。


 ――気配、というのも、曖昧な言い方だ。


 鳥が鳴く。葉が擦れる。風が抜ける。


 そういう“普通”は、今もここにある。


 その普通を、二人は大事にしていた。


 息子が戦場に立っていた頃は、屋敷の普通が“罪”に見えた。暖炉の火が、食卓のパンが、眠れる寝台が、どれも不公平に思えた。自分たちだけが安全な場所で息をしていることが、何かを裏切っているように感じた。


 だが今は違う。


 息子は騎士団を離れた。


 剣を捨てたわけじゃない。戦いを知らないわけでもない。ただ、あの子は“戻った”。


 そういうことにしている。


 村で、平穏に過ごしている。


 嫁と、孫と。


 ――その言葉を口にした瞬間に、ミレイユの指先がほんの少し止まる。


 止まったのは、紅茶の盆の縁に触れていた指だ。


 そのまま、何事もなかったように動く。


 止まったことを、誰も指摘しない。


 指摘したら、それは“確認”になる。確認は、救済の入口になる。救済は、間に合うという前提の上にしか成立しない。


 間に合うという前提は、ずっと壊れている。


 壊れたまま、二人は暮らしている。


 心配は消えない。


 慣れただけだ。


 アインは書類に目を落とした。


 数字を追う。線を追う。文字を追う。追っている間だけ、心は“手続き”の形を保てる。領主としての目で世界を見ると、世界は整理される。整理された世界には、まだ対処がある。


 境界線の巡回は予定通り。


 兵の補充も、欠員はない。


 村への補給は――。


 そこで、アインの指が止まる。


 止まったのは、補給の欄ではない。


 紙の上の文字が、急に読めなくなったわけでもない。


 ただ、窓ガラスが白くなった。


 白くなった、というのは正確ではない。光が落ちた。窓から入る光が、床の上に“置かれた”。置かれた光が、いつもの朝の光と違う。


 違いは色ではなく、質だ。


 太陽の光は、温度を連れてくる。影を連れてくる。埃の粒を浮かび上がらせる。朝の光は、眠気をほどく。


 今、床に落ちた光は、どれにも属していなかった。


 白い。


 白いのに、温かくない。


 アインが顔を上げるより先に、ミレイユが手を止めた。


 止めたのは、花瓶の水差しだ。水差しの口から落ちるはずだった一滴が、落ちない。落ちないのではなく、落ちる前の状態のまま、彼女の指が止まっている。


 その止まり方が、異様に正確だった。


 まるで身体が、何かを見てしまった瞬間の“止まり方”を先に知っていたみたいに。


 廊下に、光が落ちる。


 落ちた光が、伸びる。


 伸び方が、太陽の角度と合わない。


 合わないのに、光はそこにある。


 アインは立ち上がった。椅子が床を擦る音がした。音がしたことに、彼自身が驚くほど、空気が薄く感じる。音があるのに、音が遠い。


「……何だ」


 言葉は出た。だが、言葉が空気に馴染まない。馴染まないまま、窓の外が白い。


 白いというより、空が“明るすぎる”。


 明るさは、視界の奥で確定している。視界の奥で確定しているのに、瞳がそれを捉えたがらない。瞳が拒否しているのではない。身体が先に拒否している。


 見えた時点で遅い、と。


 身体が先に知っていた。


 庭の木々の影が、薄くなる。


 薄くなるのではなく、影が“成立しなくなる”。


 柱の影が、地面から抜ける。木の影が、草から浮く。影が浮く、という言い方はおかしい。影は本来、物に縫い付けられている。縫い付けられているはずのものが、ほどける。


 ほどけた影の代わりに、白が増える。


 屋敷の結界灯が、窓枠の片隅で脈打ち始めた。


 音ではない。灯りの脈動だ。いつもなら安全を示す青い光が、今は不安の色を帯びている。青が薄く、白が強い。白が強いのは、危険が近いという合図だ。


 警戒石が、棚の上で微かに震えた。


 震えるのは物理ではない。魔力の圧を“伝える”震えだ。戦場で何度も見た反応。遠くの爆発、遠くの大魔法、遠くの古い術式が動いた時、石はこうして脈打つ。


 アインは、窓を開けようとした。


 手が留め具に触れた瞬間、皮膚が粟立つ。


 寒いわけではない。


 汗が引いたわけでもない。


 ただ、空気が肌に触れた瞬間に、身体が「これは違う」と判断した。空気がいつもの朝と同じ顔をしていない。


 ミレイユが、ようやく呼吸をした。


 吸った息が浅い。浅いのに、胸が膨らんだことだけが分かる。息を吸ったという行為が、彼女の中で“生存の確認”になってしまっている。


「……アイン」


 名を呼ぶ声は小さい。


 小さいのに、いつもより鋭い。


 アインは、窓を開けた。


 開けた瞬間、光が一段濃くなる。空は、白い。白いというより、空のどこかに巨大な“輪郭”がある。


 円。


 円環の輪郭。


 だが、はっきりとは見えない。雲が邪魔をする。薄い灰の層が、視界の奥を曇らせる。曇らせるのに、円は成立している。成立していることだけが、逆に恐ろしい。


 欠けているのに、完成している。


 完成しているのに、見せる必要がないみたいに、空は淡々としている。


 円の内側に、線が走る。


 幾何だ。式だ。線が線を呼び、角が角を呼び、空そのものが“紙”になっている。紙ではない。だが、世界の上に世界の仕様が書かれている。


 魔法陣。


 それが、屋敷から見えてしまう。


 見える距離ではないはずのものが、見えてしまう。


 アインの喉が、ひとつ鳴った。


 唾を飲み込む音が、異様に大きい。


 太陽ではない。


 雷ではない。


 神殿の祝福でもない。


 王都の儀式でもない。


 これは――。


 言葉にしようとした瞬間、ミレイユのカップが受け皿の上でわずかに鳴った。揺れて、止まる。その止まり方が、また正確すぎる。


 ミレイユは、空を見たまま、言った。


「……あれは」


 言い終える前に、彼女は口を閉じた。


 名付けたくないのだ。


 名付けた瞬間、現実になるから。


 アインは、名付ける側の人間だった。


 領主は、名付けて、対処する。名付けなければ、命令が出せない。命令が出せなければ、兵は動けない。動けなければ、間に合わない。


 間に合う、という言葉が、ここではもう毒に近い。


 毒に近いのに、領主はそれを握るしかない。


 アインは、目を細めた。


 測る。


 測って、切り分ける。


 切り分ければ、まだ手順が残る。


 だが、その測り方が、いつもより遅い。


 老いではない。


 恐怖が、測り方を狂わせる。


 恐怖は、理由を探さない。


 先に身体を壊す。


 そして、壊れた身体のまま、目だけが空を見ている。


 白い円の中で、線が動く。


 動くというより、そこに刻まれていく。


 刻まれていくものは、誰かの願いではない。


 誰かの祈りでもない。


 仕様だ。


 世界の上書きだ。


 ミレイユが、アインの袖に指を触れた。


 触れた指は冷たい。


 冷たいのに、彼女の手は震えていない。


 震える余裕がない震え方だった。


「……見えてしまった」


 言葉は、独り言のようだった。


 見えてしまった。


 その言葉に、救いはない。


 見えた時点で、もう遅い。


 そういう冷たさだけが、屋敷の朝に混ざっていく。


 庭の草は揺れる。


 鳥は鳴く。


 紅茶は香る。


 それでも、空が一枚、壊れている。


 壊れた空の下で、屋敷の朝の手順だけが、いつも通りに並んでいる。


 並んでいることが、あまりにも不自然だった。


 ♢


 円は、空に“浮かんでいる”のではなかった。


 浮かぶなら、まだ自然に見える。雲の切れ間から月が覗くように、太陽の暈が広がるように、視界の中で「そこにある理由」を身体が勝手に作ってしまう。


 だが、あれは違う。


 あれは――空に刻まれている。


 刻まれるというのも、まだ生ぬるい。刻みは傷だ。傷なら、治る可能性が残る。消える可能性が残る。時間が経てば、薄まる可能性が残る。


 あれは、仕様だった。


 世界の上に、新しい世界の仕様が“認証”されている。


 アインは、その認証の形を、戦場で何度も見てきた。


 軍の儀式魔法の前兆。王都の大結界の起動。要塞の防衛陣が展開される時の、空気の張り。――そういうものは、準備がある。合図がある。人が集まり、鐘が鳴り、文官が走り、祈りが声にされ、最後に光が落ちる。


 だが今、屋敷の窓から見えてしまうそれには、準備が無い。


 合図も無い。


 ただ、空が「使われている」。


 窓の外の白は、増えていた。


 増えたというより、視界の奥で“確定”していく。


 空の高いところに、巨大な円環の輪郭が走る。輪郭は滑らかではない。雲と灰の層に欠け、途切れ、薄くなり、ところどころ消えている。


 消えているのに、成立している。


 欠けているのに、完成している。


 その矛盾が、喉の奥を締めた。


 円環の内側に、線が走る。


 線は一本ではない。数十、数百――いや、それ以上。幾何の線が重なり、角度の違う図形が同じ中心へ集約していく。計算式のように、正確で、冷たく、迷いがない。


 美しさは、そこにあった。


 だが、美しいから怖い。


 美しいものは、手加減をしない。


 美しいものは、目的のために人を切る。


 アインは無意識に、測る。


 視線で距離を割り出す。円の直径を、屋敷の塔と比較する。雲の流れと重ねて、図形の位置が“空のどこ”ではなく、“世界のどこ”に固定されているかを探る。


 固定されている。


 動いていない。


 雲は流れているのに、線は流れない。


 風が吹いて雲がずれても、欠けた輪郭の“欠け方”が変わらない。つまりあの円は、雲の奥にあるのではない。雲そのものより、外側にある。


 外側――。


 そんなものは、本来見えない。


 見えてしまう時点で、規模が間違っている。


 アインの胸の奥に、嫌な理解が落ちる。


 これは戦争ではない。


 戦争の道具ではない。


 これは地形を変える。


 地図を書き換える。


 ――そういう規模だ。


 ミレイユは、窓枠に指を添えたまま動けなかった。


 理解は、していない。


 していないのに、拒絶だけが先に立ち上がっている。


 彼女の目は円を追っていない。追っていないのに、瞳が逃げられない。見てしまう。見てしまうから、心が拒む。拒むから、息が浅くなる。


 理解する前に、心が拒絶する。


 それは、正しかった。


 理屈で追いついた瞬間に、心が壊れるからだ。


 アインは、喉の奥で声を殺した。


「……神代だ」


 言語化した瞬間、屋敷の空気がわずかに重くなる。


 神代。


 古い時代の魔法。王国の通常の系譜ではない。学院で学ぶ体系でもない。神殿が管理する祝福の範囲でもない。王の印章を持つ術式でもない。


 “世界の規則そのもの”に触れる、禁忌に近いもの。


 アインは領主として、その名前を軽々しく口にすることを嫌っていた。


 だが、今は言わなければならない。


 言葉にしなければ、命令が出ない。


 命令が出なければ、兵は動けない。


 動けなければ――。


 その先の言葉が、口の中で砕ける。


 間に合う、という前提は、もう壊れている。


 壊れているのに、口がその言葉を探そうとする。


 探そうとすること自体が、恐ろしかった。


 円環の中心から、何かが“落ちる”気配がした。


 落ちる、というより。


 そこに、確定する。


 光が“落下”してくる時、人は時間を感じる。まだ間がある。避けられるかもしれない。祈れるかもしれない。叫べるかもしれない。


 だが今のそれは、時間を持たない。


 最初から、そこにある。


 最初から、地上と接続している。


 アインは唇を噛んだ。


 歯が触れる音が、自分の耳にだけ響く。


 屋敷の結界灯が、いよいよ白く脈動している。


 警戒石は震えを増し、棚の上の小物が目に見えない細い振動で揺れている。


 世界が、警告している。


 だが警告は、遅い。


 警告は「もう起動している」と告げるだけで、「止められる」とは言わない。


 ミレイユが、やっと言った。


「……それ、王国の……?」


 問いの形をしているのに、答えを欲していない声だった。


 答えを聞いた瞬間、心が確定してしまうからだ。


 アインは短く首を振った。


「違う」


 違う、と言ってしまうことの重さが、胸に沈む。


「王国の大儀式でも、ああはならん。……規模が違う」


 規模。


 その単語は、戦場の単語だ。


 兵数、距離、補給、時間、城壁の厚さ、魔力の貯蔵量。


 勝てるかどうかを決める、冷たい単語。


 だが今、それは勝敗の話ではない。


 生存の話だ。


 地図の話だ。


 世界の“形”の話だ。


 アインは、窓から身を引いて、部屋の奥へ向かった。


 動くと、身体が“判断”に戻る。判断に戻れば、命令が出せる。命令が出せれば、何かをしているという形が残る。


 形が残ることは、今の恐怖に対して唯一の抵抗だった。


 壁際の棚――軍用の測角器具が収められている箱に手を伸ばす。


 古い木箱。金具が鈍く光る。蓋を開けると、内部に黒い布が敷かれ、真鍮の器具が丁寧に固定されていた。使う機会が無くなったものだ。だが捨てられなかった。捨てれば、「もう戦は来ない」と信じることになってしまうからだ。


 信じるには、世界は裏切りすぎている。


 アインは器具を取り出した。


 窓へ戻る。


 円環に向け、角度を取る。


 数字が目に入る。角度が刻まれている。方角が刻まれている。軍は世界をこうやって測る。世界を測れば、世界はまだ“手に入る”気がする。


 ミレイユは、その背中を見ていた。


 背中が少しだけ小さく見える。


 それが老いのせいなのか、恐怖のせいなのか、彼女には分からない。分からないまま、胸の奥で何かがぎゅっと縮む。


 縮むのに、泣けない。


 泣くのはまだ早い、という拒絶が働いている。


 拒絶しなければ、生きていられない。


 アインが器具を覗いたまま、低く言う。


「……方角を取る」


 それは宣言だった。


 誰に向けたものでもない。自分に向けた宣言だ。領主として、夫として、父として――崩れないための手順だ。


 器具の針が、円環の中心を捉える。


 捉えた瞬間、数字が“揃う”。


 揃う、というのが嫌だった。


 揃うということは、そこに明確な一点があるということだ。明確な一点があるということは、そこに“何か”が起きているということだ。起きているなら、間に合っていない可能性が高い。


 アインの指が、器具の縁で止まる。


 止まった指の爪が、白くなる。


 彼は器具を下ろし、すぐに机の上の地図を広げた。


 地図は、屋敷の机に似合わないほど大きい。


 領の地勢図。村の位置。川の流れ。林道。丘陵。境界線。要塞跡。補給路。


 地図は、本来なら安心の道具だ。


 地図があれば、部隊を動かせる。救助を送れる。避難を誘導できる。戦術を組める。


 だが今、地図は“間に合わなさ”を確定させるための紙に見えた。


 アインは、測角の数値を地図に当てる。


 指を置く。


 線を引く。


 線の先が――ひとつの場所に重なる。


 重なった場所に、文字がある。


 地名だ。


 小さな文字。


 生活の延長にある、ただの名前。


 その名前を目が拾った瞬間、ミレイユの呼吸が浅くなった。


 浅くなったのに、息は止まらない。


 止まらないことが、怖い。


 止まらないことが、続いてしまうことの証明みたいで。


 アインの指先が、地図の一点で完全に止まる。


 そして、声が出た。


「……シリル村」


 名前が出た瞬間、部屋の空気が軋む。


 軋むのは窓ではない。木材でもない。二人の胸の内側だ。心臓の外側にあるはずの空気が、心臓の内側に入り込んで、骨を鳴らすみたいに軋む。


 遠い戦争の話が、家の中まで踏み込んできた。


 シリル村。


 そこは、戦場ではない。


 それが最悪だった。


 戦場なら、覚悟ができる。


 戦場なら、死は手順として理解できる。


 だが村は、生活だ。


 畑があり、井戸があり、夕方の煙があり、子どもの足跡がある場所だ。


 そして――。


 ミレイユが、地図の文字を見たまま、喉の奥で小さく呟いた。


「……メイリスが……」


 言い切れない。


 嫁の名を口にすれば、そこに繋がってしまう。


 孫の名を口にすれば、もっと深く繋がってしまう。


 繋がれば、助けに行けるという前提が立ち上がる。


 前提が立ち上がって、もし間に合っていなかったら、心は壊れる。


 だから、言い切れない。


 アインは言い切る側だった。


 言い切らなければ、動けない。


 彼は、地図から目を離さず、短く言った。


「……滞在している」


 一行で、事実だけを置く。


 避難の都合。任務の都合。補給線の都合。どれでもいい。理由の詳細は、今は必要ではない。


 必要なのは、“そこにいる”ということだけだ。


 家族が遠い戦場ではなく、生活圏の延長にいる。


 それが、刃のように胸へ刺さる。


 ミレイユは、地図の上の一点を見つめたまま、指先が小さく震えるのを自覚した。


 震えているのに、声が出ない。


 声を出したら、救いを呼んでしまうからだ。


 救いは、まだ来ない。


 来ないというより――来たとしても、それは救済ではない。


 手続きだ。


 記録だ。


 処理だ。


 アインは、指をその一点から離さなかった。


 離せば、現実から逃げてしまう気がした。


 逃げてしまったら、息子を見捨てることになる気がした。


 見捨てたくない。


 だが、見捨てないことが救いになるとは限らない。


 その矛盾が、すでに胃の奥に沈んでいた。


 窓の外で、白い円環はまだ成立している。


 欠けているのに、成立している。


 成立しているのに、止めようがない。


 地図の一点は、動かない。


 シリル村、と書かれた小さな文字だけが、異様に重い。


 アインは、ようやく顔を上げた。


 ミレイユと視線が合う。


 彼女の目は、泣いていない。


 泣ける余裕がない目だ。


 アインは、そこで初めて、命令を言葉にする準備をした。


 口を開く前に、胸の奥に“あってほしくない未来”が、ふっと浮かぶ。


 ――間に合わなかった未来。


 未来、という言い方すら優しい。


 それは、もう起きているかもしれない。


 起きているかもしれないのに、二人は今、屋敷の朝の中にいる。


 朝は静かだ。


 静かなまま、世界は壊れた形を見せている。


 ♢


 白い円環を見ているうちに、身体が遅れて反応し始めた。


 遅れて、というのがまた嫌だった。理解より先に来るべきものが、遅れて来る。つまりこの異常は、目が捉えるよりも先に世界へ染み込んでいて、屋敷の中にまで届いているということだ。


 皮膚が、粟立った。


 寒いわけではない。


 初夏の朝だ。窓辺に立てば、普段なら肌に軽い風の感触が触れて、庭の草の匂いが薄く混じる。そういう季節の手触りが、ここにはあっていいはずだった。


 だが今、肌が反応しているのは気温ではない。


 “圧”だ。


 見えない圧が、薄い膜のように全身へ貼りついて、毛穴をひとつずつ押し広げる。毛穴が開くと、空気が入る。空気が入ると、肺が勝手に危険を判断する。危険を判断すると、心臓が先に速度を変える。


 脈が、ひとつ飛ぶ。


 飛んだ脈が、戻らないまま次の鼓動を連れてくる。


 アインは、器具を握る指に力が入っているのを自覚した。


 握りしめる必要などない。


 だが、握らなければならない気がする。握っていなければ、手のひらの骨がほどけてしまうみたいに。世界の輪郭が薄くなっていく中で、唯一「固い」ものへ縋りたくなる反射だ。


 真鍮の縁が、冷たくない。


 冷たくないのに、冷える。


 金属が鳴った気がした。


 鳴った気がした、だけだ。実際の音ではない。屋敷の中は静かだ。風鈴もない。鐘も鳴っていない。なのに耳の内側で「キィ」と金属が擦れるような感覚だけが起きる。


 音ではない。


 緊張の幻聴でもない。


 ――世界が薄くなる時、脳が勝手に“いつもの世界の音”を当てはめようとする。


 アインはその感覚を、戦場で一度だけ味わったことがあった。


 極大の術式が起動する瞬間。


 魔力場が厚くなりすぎて、空気が水のように重くなる瞬間。


 息を吸ったはずなのに、肺が「吸えていない」と誤判定を起こす瞬間。


 あれと同じだ。


 同じなのに、規模が違う。


 規模が違うから、反応の質も違う。


 世界が、“紙”みたいになる。


 厚みのあるものが、薄い一枚の膜へ変わっていくような感覚。床の堅さも、壁の重さも、屋敷の歴史も、積み重なった日々も、全部が「そこにあること」だけを残して中身が抜けていく。


 薄くなる。


 薄くなるのに、崩れない。


 崩れないから、余計に気持ち悪い。


 ミレイユが、窓枠から手を離した。


 離したというより、指が勝手に引っ込んだ。


 熱いものに触れてしまった時の反射と同じ動きだった。だが窓枠は熱くない。冷たくもない。なのに身体が「触ってはいけない」と判断している。


 彼女の喉が動いた。


 息子の名を呼びかけて――止まる。


 呼べば繋がってしまう。


 そんな理屈が、頭で整うより先に心が拒絶した。呼んだ瞬間に“向こう側”が返事をする気がする。返事が返るなら、まだ救いが残る。だが返事が返らなかったら、その瞬間に確定してしまう。


 確定したら、崩れる。


 崩れてはいけない。


 崩れたら、妻として終わる。母として終わる。領主夫人として終わる。終わったところで、誰も救われない。


 だから、呼べない。


 ミレイユは唇を強く噛んだ。


 涙が出そうになった。


 悲しいからではない。


 反射だ。


 恐怖が、涙腺を先に壊しにくる。涙を出して視界を曇らせ、呼吸を乱し、思考を止める。恐怖は理由を探さない。先に身体を壊す。


 アインの古い傷が、疼いた。


 鎖骨の下。かつて槍が掠めた場所。魔獣の爪が裂いた線。治癒で塞がっても、季節の変わり目や魔力の濃い場所では、皮膚の下が“思い出す”ように疼く。


 痛みは、外から来ない。


 世界の内側から来る。


 アインは胃が裏返りそうになるのを、歯を食いしばって堪えた。吐けば終わる。吐いた瞬間に、身体が「ここは危険だ」と確定してしまう。確定したら、逃げるという手順が立ち上がる。


 逃げるわけにはいかない。


 逃げたくなる自分を作ってはいけない。


 だから堪える。


 堪えている間に、結界灯の白が一段強く脈動した。


 脈動は、鼓動みたいだった。


 屋敷が生き物のように怯えている。


 怯えているのに、屋敷は何もできない。


 ミレイユが、やっと息を吐いた。


 吐いた息が震えていた。


「……ねえ、アイン」


 名前は言える。


 隣にいる者の名前は言える。


 だが、息子の名は言えない。


 その違いが、胸をえぐる。


 アインは答えなかった。答えるべき言葉がない。慰めは嘘になる。希望は残酷になる。祈りは届かない。


 だから、手続きに戻る。


 だから、命令に戻る。


 アインは地図を畳む手を止めず、声を低く落とした。


「出る」


 その一語で、屋敷の空気が切り替わる。


 切り替わりは、救いの切り替えではない。


 戦時の切り替えだ。


 家令が廊下から駆け込んできた。足音は聞こえない。聞こえないのに、視界の揺れと呼吸の乱れで分かる。老いた家令の顔は血の気が引いていて、目だけが動いている。


「旦那様、今の光は――」


「見た」


 アインは短く切った。


 副官が続いて現れる。鎧ではなく、屋敷詰めの軽装のまま。だが腰の剣だけは抜いていない。いつでも抜けるようにしている。それがこの屋敷の“最近の普通”だった。


「領主が動くのは危険です。まずは王都へ報告を――」


「報告は走らせろ」


 アインは言い切った。


 切り捨てるように。迷いを挟まないように。


「使者を二つ。ひとつは王都。ひとつは西の詰所。状況を伝え、部隊を集めろ」


「しかし――」


「俺は行く」


 その言葉には、理屈がない。


 理屈はある。領主として領民を守る責務。家族の安否確認。魔力災害の初動対応。全部、理屈として並べられる。


 だが、並べた瞬間に遅れる。


 遅れてしまったら、間に合わない。


 ――間に合うかどうかではない。


 行かないという選択肢がない。


 それだけだ。


 副官の目が揺れた。


 止めるべきか、従うべきか、その手順を探している。だがアインの声の硬さが、その手順を許さない。今のアインは領主ではなく、父の顔をしている。それを部下は見てしまった。


 見てしまうと、止められない。


 ミレイユは、言葉を失っていた。


「行くな」と言ってしまえば、夫を止めることになる。


 止めれば、間に合わなかった未来が確定してしまう気がする。


「連れて行って」と言ってしまえば、領主夫人の役割が崩れる。


 崩れれば、屋敷の手続きが止まる。


 止まれば、救いの可能性がまた削れる。


 だから、言えない。


 言えない代わりに、彼女は一歩だけ前へ出た。


 それが精一杯の「参加」だった。


 アインは、ミレイユを見た。


 見てしまった。


 見てしまったからこそ、胸の奥で“時間”が鳴る。


 若い頃の無謀ではない。


 時間の残りの少なさが、決断を速くしている。


 領主としての時間ではない。


 父としての時間だ。


 父として「まだ間に合う」と言える時間が、尽きる恐怖。


 その恐怖が、彼を迷わせない。


 迷う暇がないと、身体が先に知っている。


 アインは淡々と命じた。


「馬を出せ。歩兵二十、騎兵十。治癒士を二名。結界術師を一名。……それ以上は要らん。速さが死ぬ」


「旦那様、危険です。相手が神代なら――」


「だから行く」


 声は低いのに、刃みたいだった。


 ミレイユが、やっと小さく言った。


「……わたしは?」


 問いではない。


 縋りでもない。


 ただ、役割を確認する声だ。


 アインは一拍だけ止まった。


 止まってしまうと、そこに“個人”が入る。


 個人が入ると、行動が鈍る。


 鈍れば、間に合わない未来が確定する。


 だから彼は、優しさを入れない声で言った。


「屋敷を守れ。伝令の整理。物資の準備。王都からの返答が来たら、判断を回せ」


 領主夫人としての命令。


 それが、彼女をこの場に縫い止める。


 ミレイユの喉が、息子の名をもう一度だけ呼びかけた。


 呼びかけて――飲み込んだ。


 呼べば繋がってしまう。


 繋がった先がもし、空白だったら。


 その恐怖が、彼女の舌を止める。


 止めたまま、彼女は頷いた。


 頷くという動作だけが、役割を保つ。


 廊下の奥で、人が動き始める。


 鎧が運ばれ、鞍が出され、武器庫が開く。音はまだ穏やかだ。屋敷の朝は、まだ朝の顔をしている。だが窓の外の円環は、朝の顔をしていない。


 空が、まだ使われている。


 使われているのに、止まらない。


 止まらないから、こちらが動くしかない。


 アインは外套を手に取った。


 その瞬間、ふっと胸の奥に“見たくない映像”が滑り込んだ。


 馬が間に合わず、地図の一点が黒く塗り潰されている未来。


 声を呼んでも返ってこない未来。


 帰ってきた夫の鎧が、灰で白くなっている未来。


 ――間に合わなかった未来。


 ミレイユも同じものを感じたのか、肩がわずかに震えた。


 震えたのに、口は結局、息子の名を呼べなかった。


 呼べないまま、夫の背中を見送るしかない。


 救済の顔は、どこにもない。


 あるのは、出立という手順だけだ。


 そして手順の底に、最初から沈んでいる不安だけが、静かに重くなる。


 ♢


 兵が集まる音は、思ったよりも整っていた。


 鎧が擦れる音。革紐を締め直す音。馬が鼻を鳴らす音。蹄が地面を打つ音。号令が短く飛び、復唱が返る。どれもが、これまで何度も見てきた――いや、聞いてきた――「普通の出立」の音だった。


 だからこそ、胸の奥が冷えた。


 この音は、救済の音ではない。


 この音は、遅れの音だ。


 アインは馬に跨り、前方を見据えた。視線は鋭いが、焦点は遠い。遠くを見ているというより、見てはいけないものを見ないようにしている視線だった。


 ミレイユは、彼の隣に馬を進めた。


 同行する、と告げたとき、誰も止めなかった。止める理由が見つからなかったのだ。領主夫人が前線へ出るのは異例だが、これは戦争ではない。災害だ。災害の前では、規範は簡単に剥がれる。


 そして何より――彼女自身が、行かないという選択肢を持てなかった。


 見に行ってしまう。


 それが母という存在の、最も残酷な性質だった。


 見なければ、まだ“想像”で済む。


 見てしまえば、現実になる。


 それでも、見に行ってしまう。


 兵の一人が、馬を並べながら口を開きかけた。


「大丈夫でしょう。これだけの――」


「言うな」


 アインが、即座に遮った。


 声は強くない。怒気もない。ただ、切る。


「現地に着くまで、その言葉は使うな」


 兵は口を閉ざし、深く頷いた。


 大丈夫、という言葉は、ここでは禁句だ。


 使った瞬間に、“まだ間に合う”という幻想が立ち上がる。


 幻想は、希望の顔をしている。


 希望は、裏切る。


 隊列が動き出す。


 屋敷を離れ、街道へ出る。道は整っている。轍は浅く、草は刈られ、橋は補修されている。平時の道だ。平時の景色だ。子どもが駆け回り、農夫が畑を見回り、商人の荷車がすれ違う。


 誰も、空を見上げていない。


 誰も、異常に気づいていない。


 それが、現実だった。


 ミレイユは、馬上からその景色を見下ろし、唇を噛んだ。


 普通だ。


 あまりにも、普通だ。


 この道の先に、最悪が待っているなど、誰が信じるだろう。


 普通の道が続く。


 普通のまま、最悪に向かっている。


 距離が、罪になる。


 一歩進むごとに、時間が過ぎる。


 時間が過ぎるという事実が、そのまま“間に合わなかった可能性”を積み上げていく。


 急げばいい、という問題ではない。


 すでに、遅れている。


 その感覚が、馬の背からじわじわと染み上がってくる。


 日が傾き始めた。


 夕暮れ、と呼ぶには色が曖昧だった。空は灰を孕み、光はあるのに温度が分からない。影が伸びるのかどうかも判然としない。ただ、時間が「進んでいる」という事実だけが、薄く確定していく。


 ミレイユの視界に、一瞬だけ、別の景色が重なった。


 黒い地面。


 風が冷たい。


 気温ではない冷たさ。


 名を呼ぶ。


 呼んでも、返事がない。


 声は出ているのに、世界に届かない。


 それは予知ではない。


 魔法でもない。


 ただ、親の脳が最悪を先回りして組み立てただけの、想像だ。


 想像なのに、やけに具体的だった。


 彼女は、視線を前へ戻した。


 アインの背中がある。


 兵たちの列がある。


 道が続いている。


 続いているからこそ、怖い。


 希望は、口にしない。


 口にした瞬間、壊れるから。


 馬は進む。


 普通の道を、普通に進む。


 その先で待っているものを、誰も口にしないまま。


 ――間に合わなかった未来が、先にこちらを見ていた。


屋敷の朝は、いつも通りに“並べられて”いくのに、空だけが先に壊れていました。

見えてしまった光は、救いの合図ではなく――遅れの証明で。


大丈夫という言葉すら禁句になるほど、家族の距離は罪に変わっていく。

それでも進むしかない、進むことしかできない。


次話は、同じ異常を“王都”がどう受け取るのか。

そして、そこにいるはずの彼が、何も語らない理由へ繋がっていきます。

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