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誰も救えない僕が、それでも魔王と生きる話  作者: 霜月ルイ
消失編

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137/143

137.黒い雨の中で

 

 空は――戻っていた。


 戻っている、という言い方が正しいのかどうかは分からない。少なくとも、あの「終末の円」が消えたあとの空だ。円の中心から落ちた光が、世界の情報を削っていったあとに残った、空の形だ。


 けれど色は戻らない。


 青は来ない。朝の青でも、昼の青でもない。薄い灰が空の全体に貼りついたまま、光だけが「そこにあること」になっている。太陽はあるのに、太陽らしい温度がない。雲はあるのに、雲らしい影がない。


 影がないのに、黒い雨だけは降っていた。


 雨ではない。水の匂いがしない。地面を濡らす音がしない。頬に当たっても冷たさがない。ただ、重さだけが落ちてくる。燃え尽きたものの粒子が、遅れて重さを思い出して、遅れて落ちてくる。


 黒い粒が、肩に落ちる。


 落ちた粒は、溶けない。


 溶けないから、雨じゃない。


 溶けないのに落ちてくるから、ずっと降り続けるみたいに感じる。止まるべきものが止まらず、終わるべきものが終わらない。


 エルディオは、それを見上げていなかった。


 見上げる、という動作が、何かの意味を連れてくるからだ。意味が戻ってしまうと、次が来てしまう。次が来る、という言葉を口にした瞬間に、身体が勝手に戦場の手順を思い出す。


 次。


 次の敵。

 次の村。

 次の救えなかったもの。


 そういうものが、あまりにも簡単に世界に馴染む。馴染んでしまうのが怖い。


 だから彼は、ただそこにいた。


 立っているのか、膝をついているのか。そんなことはどうでもいい。重力に従って身体がそこにある。それだけだ。姿勢がどうであれ、彼の内側では「戻る道」が折れたままだ。


 風が吹いた。


 吹いたはずだ。灰の粒の軌道が、ほんのわずかに横へずれた。髪の先が揺れた気がした。外套の端が、ひとつ波を作ったように見えた。


 ――なのに。


 それを風だと認識する感覚が、彼の中に来ない。


 風が吹く、というのは、世界がまだ生活に属している証拠だった。匂いを運ぶ。声を運ぶ。火の粉を散らす。葉を鳴らす。風は、日常の手続きだった。


 日常が、ここにあるはずがない。


 日常があるのなら、あれは起きていない。


 だから、風は風であってはいけない。


 彼の脳は、そういう拒絶を挟んでしまう。拒絶を挟むから、同じ現象でも「ただの空気の移動」としてしか入ってこない。


 空気が動く。


 それだけ。


 それだけで、世界は「動いている」という事実を突きつけてくる。


 遠くで鳥が鳴いた――気がした。


 気がしただけだ。


 音は、戻っていない。


 戻っていないのに、脳だけが勝手に鳴いたことにしてしまう。世界が動き出したのだから、鳥も鳴くだろう。村外れなら、林がある。林があるなら、鳥はいる。いるなら、鳴く。鳴くなら――。


 そうやって、存在しない音が、因果で補完される。


 補完されて、胸の奥が少しだけ揺れる。


 揺れた瞬間、彼はその揺れを潰した。


 音が戻ったわけじゃない。


 戻ったのは、彼の中の「戻りたい」という手順だ。


 それは違う。


 違うのに、世界は平気で続く。


 終わったはずの場所で、鳥が鳴く気がしてしまう。


 終わったはずの場所で、風が吹いてしまう。


 終わったはずなのに。


 ――世界は、再起動してしまった。


 再起動、という言葉が彼の中に浮かぶのは、そこに「切り替え」があったからだ。光が落ち、情報が削がれ、空白が生まれ、そして空白の上にまた世界が上書きされていく。機械の処理みたいに、淡々と。


 淡々と。


 淡々と動くものは、誰も慰めない。


 慰めないくせに、置いていく。


 エルディオは、息を吸った。


 吸いたくて吸ったわけじゃない。呼吸は選択肢じゃない。肺は律儀に空気を取り込む。取り込んだ空気が、肺の内側でざらつく。


 灰が混じっている。


 口の中が、砂を噛んだみたいに乾く。


 舌の上に、味がない。苦いのか甘いのかすら判別できない。ただ粉が触れている感触だけがある。味覚の欠落が、妙に現実的だった。匂いも音も奪われているのに、触覚だけが生きている。生きているから、現実を否定できない。


 肩に落ちた黒い粒が、積もる。


 積もっても、溶けない。


 払おうとしても、払えない。


 払えないのは量が多いからじゃない。指で拭えば落ちる。落ちるはずだ。――でも、落とすという手順が、彼の中で“許可”されない。


 落としたら、綺麗になる。


 綺麗になったら、また歩けてしまう。


 歩けたら、次へ行けてしまう。


 次へ行けてしまう、というのが最悪だ。


 次が来ないのに、次へ行けてしまう。


 その矛盾が、彼を壊す。


 だから、払わない。


 払わないまま、灰が積もる。


 積もる灰は、葬送のように静かだった。


 誰かが弔っているわけではない。


 神が弔っているわけでもない。


 世界が、遅れて処理しているだけだ。


 燃えたものの残りを、ただ落としているだけだ。


 それが、最も残酷だった。


 体温に反応しない。


 灰は冷たくもなく、温かくもない。生きている肌に触れても、何かを交換しない。雨なら濡れる。汗なら冷える。血なら熱い。体温は世界とやり取りをする。


 でもこの黒い雨は、彼の体温を“無視”する。


 無視される、という感覚は、攻撃より痛いことがある。


 殴られるなら、殴られたという事実が残る。


 切られるなら、切られたという線が残る。


 だが無視は、線すら残さない。


 線すら残らないのに、存在だけが置いていかれる。


 エルディオは、呼吸をもう一度した。


 肺が乾く。


 乾いて、咳が出そうになる。


 咳をすれば、音が出るはずだった。


 音が出るという確信が、喉の奥で立ち上がる。


 立ち上がった確信が、すぐに折れる。


 音は戻らない。


 戻らないから、咳をしても「咳をした」という感覚だけが残る。喉が震えた、という身体感覚だけが残る。世界に届かない振動だけが残る。


 届かない。


 届かないという現実が、肺の内側に貼りつく。


 息を吸うたびに、それを確定してしまう。


 ――まだ生きている。


 生きている、という事実が、こんな形で確定してしまうのが最悪だった。


 生きていることは赦しじゃない。


 生きていることは救いじゃない。


 生きていることは、ただ継続だ。


 継続は、罰になり得る。


 エルディオは、目を閉じなかった。


 閉じれば、楽になる。


 閉じれば、世界を感じなくて済む。


 閉じれば、灰の粒も、乾く肺も、風の“ただの動き”も、鳥の“気がする”も、一度手放せる。


 でも閉じてしまうと、次に開けたとき、世界が「普通に」そこにある。


 普通にある、というのが最悪だ。


 終わったはずなのに、普通に続く。


 続くのが、赦しではないのに。


 続いてしまうことが、赦しではない。


 その言葉を口にすれば音は出ない。出ないのに、喉の形だけがその言葉を作る。


 続いてしまう。


 続くなら、僕も続かなきゃいけないのか。


 答えは来ない。


 神は沈黙した。


 世界は止めなかった。


 だから、答えは用意されない。


 用意されないまま、風が吹く。


 風が吹くのに、それを風だと言えない。


 黒い雨が降るのに、それを雨だと言えない。


 鳥が鳴いた気がするのに、それを音だと信じられない。


 信じられないまま、肺だけが律儀に空気を取り込む。


 取り込んだ空気が、喉を通ってしまう。


 通ってしまうたびに、彼は思う。


 終わらせたいわけじゃない。


 ――終われないのが、最悪だ。


 死にたいのではない。


 生きたいのでもない。


 ただ、終わる場所に辿り着けない。


 辿り着けないまま、世界だけが先に次へ進む。


 それが、“ログアウトできない”ということだった。


 世界は再起動した。


 彼だけが、その再起動の外側に置かれたまま。


 ♢


 次がない。


 その言葉が、脳のどこかで形になる前に、身体だけが先にそれを否定しようとした。


 指が動く。


 剣の柄に触れている手が、ほんのわずかに握り直す。滑りを確かめるように。噛み合わせを直すように。いつでも抜ける、いつでも振れる、と――その“いつでも”を確保するために。


 剣は、まだ重かった。


 重さは残っている。金属の密度と、掌にかかる圧と、手首の筋の張り。握れば握るほど、骨がそこにあると分かる。


 分かるのに。


 その重さが、何の意味にも接続しない。


 かつては、守るために握った。


 守るために、という目的が先にあり、剣はその目的に沿って“手順”になった。抜く。構える。間合いを取る。斬る。防ぐ。押し返す。――一連の動作は、意味に繋がっていた。


 今は違う。


 握っているのは、守るためではない。


 握っているのは――握っている側の人間であるという証明のためだ。


 生きている側が、まだ“何かをする手”を持っている。その手が、勝手に手順を探してしまう。探してしまうことが、残酷だ。


 剣は武器ではなくなっているのに、身体は武器の扱いだけを忘れていない。


 忘れていないことが、救いにならない。


 救いにならないのに、手は律儀に同じことをする。


 次がないのに。


 次がないのに、身体だけが次を探す。


 エルディオは、膝をついていた。


 そうしていた、というより、そうなっていた。地面の硬さが膝へ伝わり、骨がその硬さを受け止めている。受け止めている感覚だけがある。痛みとしては鈍い。それがまた現実的だった。


 膝をつく理由がない。


 祈るためではない。


 謝るためでもない。


 祈りは届かないと知っている。


 謝罪が届く相手も、いない。


 それでも膝が折れているのは、身体が「終わったあとに取る姿勢」を知っているからだ。終わったあとに崩れる、という“手順”だけが残っているからだ。


 終わった。


 終わったはずなのに。


 世界は動いている。


 黒い雨が降り、空気が動き、どこかで鳥が鳴いた気がする。


 それらの現象が、どれも“次”の準備みたいに見える。


 準備。


 準備があるなら、次がある。


 次があるなら、また戦える。


 また守れる。


 ――守れるはずがないのに。


 エルディオは、立とうとした。


 立ち上がろうと思ったわけではない。足の筋が勝手に力を入れる。腰が浮く。膝が伸びる。重心が上がる。身体が「立つ」という機能を実行する。


 立てる。


 立てることが、また残酷だった。


 立てるというのは、次へ進めるということだ。


 次へ進めるのに、次がない。


 立った瞬間、脳が空白になる。


 何をすればいい?


 どこへ行けばいい?


 誰を呼べばいい?


 どれも来ない。


 来るはずだった言葉が、来ない。


 来ないのは、忘れたからじゃない。


 意味に接続する線が切れているからだ。


 立つ、という動作の先に、本来なら“目的”があった。


 逃がすな。

 追え。

 確認しろ。

 救助しろ。

 遺体を守れ。

 敵の残党を探せ。


 そういう手順が、立つという動作に自然に繋がっていた。


 だが今は、繋がらない。


 立つ、だけが単独で存在してしまう。


 動作だけが切り離されて、世界に浮いている。


 エルディオは、立ったまま動けなかった。


 動けない、というより、動いた先が名付けられない。名付けられない動作は、ただの“無駄”になる。無駄をした瞬間、世界が軽くなる。軽くなるのが嫌だった。


 軽くなってしまったら、あれが“ただの出来事”になる。


 ただの出来事にしてはいけない。


 だから動けない。


 黒い雨が、立った身体に落ちる。


 肩に、髪に、まつ毛に。


 落ちて、溶けない。


 溶けない黒は、皮膚の上にただ乗っている。乗っているだけなのに、重さが増えていく気がする。世界が、遅れて罰の形を整えているみたいだった。


 視線が、勝手に地面へ落ちた。


 黒い。


 焦げた黒ではない。


 焼けた黒とも違う。


 地面が“黒いまま固まっている”。


 土の粒が、土の粒としての役割を失っている。柔らかさがない。湿りがない。畝も、轍も、足跡も、生活が残した凹凸が消えている。


 平らだ。


 平らな黒が、どこまでも続く。


 続く黒の中に、欠けがある。


 欠け、という言い方が一番近い。家があったはずの場所が、ただ“無い”。燃え残りの柱も、倒れた梁も、瓦礫の山もない。何かが崩れた形跡すらない。


 最初からそこに無かったみたいに、抜け落ちている。


 抜け落ち方が、正確すぎる。


 戦闘の後なら、破片が散らばる。


 火の後なら、炭が残る。


 刃の後なら、血がある。


 でもここには、残らない。


 残らないのではなく、残すという選択肢が削除されている。


 エルディオは、さらに視線を動かした。


 魔族の死体がない。


 いや、死体がない、という断言はまだできない。見えていないだけかもしれない。黒い雨の下で、灰が積もって、黒いものは黒いものとして紛れているだけかもしれない。


 ――なのに。


 “気配”がない。


 あれだけの数がいたはずだ。


 叫び、踏み鳴らし、匂い、血の熱、魔力の渦。生物が密集すれば、それだけで世界が重くなる。重さが増える。


 今の世界は、軽い。


 軽い、というのは違う。


 軽いのではなく――空っぽだ。


 空っぽなのに、黒い。


 黒い空っぽ。


 悪が消えたから空っぽになったのではない。


 善が残ったから空っぽになったのでもない。


 ただ、等しく欠けている。


 ここにいたはずのものが、等しく“無い”。


 悪も善も、同じ欠け方をしている。


 それが、殲滅の結果だった。


 結果だけが残る、と詠唱した。


 その詠唱の通り、結果だけが残っている。


 そして結果は、何も語らない。


 語らないから、正義にもならない。


 語らないから、復讐にもならない。


 語らないから、物語にならない。


 物語にならないまま、地面が黒い。


 黒い地面を見ているうちに、視線が自然と“中心”へ戻っていく。


 戻りたくて戻るのではない。


 戻ってしまう。


 中心は、そこにある。


 中心だけが、形を持って残っている。


 外套が敷かれている。


 土の上に直接置きたくない、という手順が残ってしまった痕。彼自身がそうした。そうしたはずだ。そうした、という記憶が、意味に繋がる前に胸を締める。


 その上に、二つの重みがある。


 重み、としか呼べない。


 名前を呼べば、意味が戻ってしまう。


 意味が戻れば、喉が叫びを探す。


 叫びを探せば、救いが生まれてしまう。


 救いは、ここにない。


 だから、呼ばない。


 呼ばないまま見てしまう。


 見てしまった瞬間、ひとつだけ、痛点が刺さる。


 軽かった。


 あの小さな身体は、軽かった。


 軽いまま、重い。


 軽いという現実が、重いという現実を完成させてしまう。


 エルディオは、目を逸らした。


 逸らしたわけじゃない。


 視線が落ちた。


 落ちた視線の先にも、黒い地面がある。


 黒い地面は、どこまでいっても同じ顔をしている。


 同じ顔をしている、という事実が、彼の中の何かを冷やした。


 次がない。


 次がないのに、身体だけが次を探す。


 その探し方が、剣の握り直しになって現れる。


 その握り直しが、生きている側の証明になってしまう。


 証明がいらないのに、証明してしまう。


 黒い雨が降る。


 世界が動く。


 彼は立っている。


 立っているのに、どこにも行けない。


 ――世界は再起動した。


 ――僕だけ、ログアウトできない。


 その感覚だけが、静かに確定していった。


 ♢


 風が、もう一度吹いた。


 吹いた――はずだった。


 頬に触れるものがあった。外套の端が、わずかに揺れた。髪の先が、皮膚から離れて、また落ちた。そういう“物理”は起きている。起きているのに、その現象に「風」という名前が付かない。


 名付けられないまま、灰だけが舞った。


 黒い粒が、地面から持ち上がって、空で一度迷って、それからゆっくり落ちる。雨のように落ちるのに、雨と違って濡れない。濡れないから、落ちた場所を変えない。ただそこに積もる。


 エルディオの髪に積もる。


 外套の肩に積もる。


 剣の鍔に積もる。


 刃の欠けた輪郭を、灰がなぞっていく。光を反射しない金属の上に、さらに光を奪う粉が重なる。重なるほど、“今”が増える。


 時間が、進んでいる。


 進む音はない。


 進む匂いもない。


 でも、積もる。


 積もるという物理だけが、「さっき」と「いま」の差を作る。


 差が作られるたび、エルディオの中で何かが遅れて呻いた。


 続いてしまう。


 続いてしまうことが、赦しではない。


 世界が続くなら、僕も続かなきゃいけないのか。


 問いは言葉にならない。言葉にすれば、答えが必要になる。答えが必要になれば、次の手順が生まれてしまう。手順が生まれたら、また世界に参加してしまう。


 参加できない。


 参加できないまま、続いてしまう。


 それが、刑だ。


 エルディオは、自分の身体が冷えていくのを感じた。


 寒いわけじゃない。


 初夏だ。血は固まりにくい季節だ。夜でも凍えることはないはずの気温だ。肌に触れる灰は、冷たい粒子というより、ただの“無関心”だった。体温に反応しない。濡れない。溶けない。吸っても、喉を湿らせない。


 なのに、冷える。


 冷えていくのは、気温じゃない。


 世界の手触りだ。


 世界が、手のひらから滑り落ちていく感覚。熱があったはずの場所が、手応えを失っていく感覚。生きている側の体温が、世界にとって何の意味も持たない、と確定していく冷え。


 息を吸う。


 肺が、乾く。


 乾きは痛みにならない。ただ、薄くなる。吸い込んだ空気が、肺の奥に届く前に砂になって崩れるみたいに、息が軽い。軽い息が、また「まだ生きている」を確定する。


 いらない確定だ。


 終わらせたいわけじゃない。


 終われないのが最悪だ。


 遠くで、水の音がした気がした。


 川が近い。湿った土の匂いだけが残っている。だから、水が流れている、と脳が判断してしまう。判断してしまった瞬間、耳がそれに合わせて音を作る。


 ちゃぷり。


 さらさら。


 子どもが手を叩くみたいな、水面の跳ね。


 ――違う。


 エルディオは、すぐにそれを否定した。


 音は戻らない。


 戻らない世界で聞こえた気がするものは、全部、脳の補完だ。


 世界が再起動するたびに、僕の脳だけが昔の世界を呼び戻してしまう。


 バグだ。


 希望に見せかけたバグ。


 そのバグが一番残酷なのは、ほんの一瞬だけ“居るはずのもの”を居るように感じさせるからだ。


 感じさせて、すぐに落とす。


 落とすことで、欠けた場所がより鮮明になる。


 エルディオの視線が、また中心へ引かれる。


 外套。


 敷かれた布。


 その上の、二つの形。


 形、としか言えない。


 言えば、世界に繋がってしまう。


 繋がれば、救いの手順が立ち上がる。


 立ち上がった救いは、必ず遅れて自分を刺す。


 だから、言わない。


 言わないまま、記憶だけが走る。


 エミリアが笑った時の“口の形”だけが、頭に浮かぶ。


 声ではない。


 笑い声でもない。


 口角が上がる角度。歯の見え方。息が漏れる前の頬の膨らみ。


 音は無い。


 無いのに、口の形だけが浮かぶ。


 浮かんだ瞬間、脳がそこに音を当てはめようとする。


 きゃ、とか、ふふ、とか。


 ――違う。


 否定する。


 否定すると、口の形だけが残る。


 口の形だけ残るのが、拷問みたいだった。


 次に浮かぶのは、メイリスの言葉の断片だった。


「大丈夫って言わない。……でも、ここにいる」


 声は無い。


 無いのに、言葉だけが残る。


 言葉は音を伴わないまま、胸の内側に貼りついている。貼りついた言葉が、今の空白と重なって、刃になる。


 “ここにいる”という言葉が、もう一度だけ刃になる。


 ここにいる、のに。


 ここにいる、という言葉だけが残って。


 相手がいない。


 戻ったのは世界じゃない。


 戻ったのは、僕の中の“手順”だけだ。


 手順だけ戻って、相手がいない。


 エルディオの指が、また剣を握り直す。


 強く握ったわけじゃない。


 抜け落ちるものを落とさないための、無意識の微調整。手順の残りカス。守るための癖。戦うための癖。


 癖だけが残って、守る相手がいない。


 戦う敵もいない。


 そして――救う誰かが、いるかもしれない。


 思考が一瞬だけ走る。


 瓦礫の下。


 黒い地面の割れ目。


 遠い影。


 息を潜めている誰か。


「助けて」と言えない誰か。


 いるかもしれない。


 その“かもしれない”が、喉を掴んだ。


 救済の手順が、立ち上がりかける。


 探知。


 確認。


 救助。


 呼びかけ。


 ――間に合う、かもしれない。


 間に合う、という言葉の形が浮かんだ瞬間、エルディオの胸が一段深く冷えた。


 間に合う、という言葉は、もう許されない。


 間に合うを許したら、ここで起きたことが“救うためだった”と錯覚できてしまう。


 錯覚は、次の口実になる。


 次の口実は、次の殲滅を生む。


 それだけは、もうできない。


 エルディオは、何も言わずに、その手順を踏み潰した。


 踏み潰したのは優しさじゃない。


 勇気でもない。


 拒絶だ。


 拒絶の萌芽。


 確認しない。


 まだ言葉にはしない。


 ただ、行かない。


 行かない、という行動だけが、冷たく確定する。


 足が、一歩前へ出る。


 どこへ行くかは決めない。


 決めたら道になる。


 道になれば戻りが生まれる。


 戻りが生まれれば、世界がまた救いの顔をしてしまう。


 そんな顔は、もう信じない。


 黒い雨が背中を打つ。


 灰が外套の縫い目に溜まって、重さが増える。


 増える重さが、罰みたいで、慰めみたいで、どちらでもない。


 どちらでもないものだけが残る。


 ふと、遠景が揺れた。


 旗のようなものが、灰の向こうで一瞬だけ形を変えた。


 鎧の光のようなものが、鈍く瞬いた。


 馬の影のようなものが、地面に伸びた。


 誰かが来ている。


 遅れて、誰かが来ている。


 救済が来るのではない。


 処理が来る。


 記録が来る。


 手続きが来る。


 それでも――それに反応する感情が、エルディオの中に立ち上がらない。


 立ち上がらないというより、立ち上がる席がない。


 彼は、そこにいるだけだ。


 黒い雨は止まらない。


 灰は積もる。


 風は吹く――はずなのに、風という名前が付かない。


 世界は動く。


 彼は参加できない。


 再起動したのは世界で、彼ではなかった。


終わったはずの場所で、世界だけが先に動き出す。

その違和感を、救いに変えないためにこの話を書きました。


黒い雨は弔いではなく、ただの遅延処理です。

風も鳥も、優しさではなく“続いてしまう”という事実でしかない。


エルディオは、生き残ったのではありません。

置き去りにされたまま、まだ息をしているだけです。


次の章で来るのは救済ではなく、記録と処理。

その冷たさを、最後まで見届けてください。

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