表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
誰も救えない僕が、それでも魔王と生きる話  作者: 霜月ルイ
「  」編

この作品ページにはなろうチアーズプログラム参加に伴う広告が設置されています。詳細はこちら

135/144

135.焦土の誓い-4

本日は二話投稿予定です。

最終話は21:30。

見届けてください。

 

 地形が、敵の手の中で“書き換えられて”いった。


 最初は、逃げ道の形があるように見えた。林を抜ければ、畑の端を回って丘へ出られる。丘を越えれば旧道に合流できる。旧道が塞がれているなら、脇道を取って隣村へ――そういう、紙の上の地図なら成立する線。


 だが現実は、線ではない。


 現実は、足場で、息で、視界で、そして――空の下にいるという事実そのものだ。


 上空で、カースドラゴンが旋回していた。


 影が落ちるたび、空気の温度が変わる。太陽が遮られるせいではない。圧だ。生き物が持つ“威圧”が、魔力の層を伴って地面へ沈み、草を伏せ、人間の背骨を黙らせる。


 エミリアが息を呑んだ。


 怖い、という言葉がまだ出ない。ただ、身体が先に縮む。小さな胸が固まり、呼吸が浅くなる。子どもは本能で知っている――空の上の影は、逃げるべきものだと。


 メイリスが、エミリアの手をより強く握った。


 強く握ると痛い。痛いと泣く。泣けば走れない。走れなければ――


 だから、強くは握らない。


 指を絡めるだけ。


 離れないための形を作るだけ。


 エルディオは、その形を見て、息を吸った。


 父の手順は、まだ崩してはいけない。


 だが、敵はその手順を崩すために“地形そのもの”を折りに来る。


 カースドラゴンが、吼えた。


 咆哮は音ではなく、衝撃だった。


 耳の奥で鼓膜が震えるより先に、胸郭が押し潰される。肺が縮み、呼吸が奪われる。足元の土が細かく跳ねる。木々の葉が裏返り、枝が軋む。


 それだけで、道が変わる。


 逃走ルートが、音に押し潰されて歪んでいく。


 エルディオは咄嗟に小さな結界を張る。


 家族の周囲を包むのではない。


 喉と肺の周り。


 呼吸を守るためだけの結界。


 その結界が、ギリギリで三人の息を繋ぐ。


 ――それが、“守り”の最低ラインになった瞬間、もう村は終わっている。


 次に来たのは、ブレスだった。


 炎ではない。


 赤く燃える火のように見えて、あれは“焼く”ためのものではない。瘴気と炎と、何か別の呪いの混ざった黒い熱だ。触れたものを燃やすのではなく、朽ちさせる。石を割り、土を腐らせ、木を炭に変える速度が異常に速い。


 狙いは、人ではなかった。


 道だ。


 丘へ上がるはずだった緩い坂、その“途中”へ向けて、ブレスが横薙ぎに走る。


 轟、と空気が裂ける。


 次の瞬間、地面が消える。


 土が焼けるのではない。土が“脆くなる”。踏んだ瞬間に崩れるような、黒い灰の層に変わる。草が一瞬で萎れ、木の根が露出し、匂いが喉に貼り付く。


 進めない。


 進めば落ちる。


 落ちれば起き上がれない。


 起き上がれない場所は、追撃のための皿になる。


 エルディオは立ち止まらない。


 立ち止まれば、背中が死ぬ。


 彼は即断で方向を切り替える。


 迂回。


 湿地へ寄せる。


 寄せたくなかった場所だ。足を取られる。子どもが死ぬ。妊婦が倒れる。だが、他が消えた以上、ここしか残っていない。


 逃げ道が“選択肢”ではなく、“残骸の中の一つ”になる。


 それが敵の狙いだった。


 カースドラゴンの翼が、低く風を作った。


 風はないはずだった朝に、突然、風が生まれる。


 生まれた風は、救いではない。


 衝撃波だ。


 空気が塊になって叩きつけられる。木柵が吹き飛ぶ。畑の杭が折れ、柵の板が舞い、家畜が悲鳴を上げて散る。


 柵が飛ぶ、ということは――境界が消えるということだ。


 村の内と外の区別がなくなる。


 守られている線が、線として存在しない。


 エルディオの中で、「防衛」という言葉が崩れる。


 防衛は線があって成立する。


 線がない場所にあるのは、ただの虐殺だ。


 メイリスが息を呑んだ。


 声は出さない。


 出せない。


 声を出すと、その声が敵の誘導に吸われることを、彼女も本能で理解していた。悲鳴は救いを呼ばない。悲鳴は“位置情報”になる。


 ――そして、援軍は来ない。


 それが、ようやく“理由”として形を持ち始めた。


 村の中心へ目を向けると、狼煙が上がっていない。


 上げられていないのではない。


 上げても、届かない。


 煙は空へ抜ける前に、薄い壁にぶつかって崩れている。村の上空に、見えない蓋がある。結界だ。風向きが変わらないのに煙の流れが歪むのは、そのせいだ。


 声も同じ。


 叫びも、笛も、鐘も、遠くへ伸びる前に歪んで落ちる。


 助けを求める手段が、“構造として”切られている。


 だから援軍が来ないのは、偶然ではない。


 間に合わなかったのではない。


 間に合えないように、最初から組まれている。


 エルディオはその事実を、探知の奥で見た。


 村の外周に張られた複数の膜。


 北の封鎖。


 南の陣。


 上空の蓋。


 そして、逃走路を焼き潰すブレス。


 これは襲撃ではない。


 計画だ。


 包囲殲滅の“手順”だ。


 自分が、戦場で散々見てきたものと同じ手順で――今度は「守るべき生活」が解体されていく。


 エルディオの喉が、ぎり、と鳴る。


 怒りではない。


 恐怖でもない。


 理解の音だ。


 理解してしまった者の音だ。


 ――逃走ルートは、最初から潰されている。


 だから、走っているのに、前に進んでいる感覚がない。


 進んでいるのは足だけで、世界の出口は動いていない。


 むしろ、出口が遠ざけられている。


 カースドラゴンが、また低く旋回した。


 次のブレスの予兆。


 エルディオは、手順を更新する。


 メイリスを背中側に。


 エミリアを中央に。


 三人の塊を崩さない。


 そして――道は“探す”のではない。


 道は“作る”のでもない。


 残された数秒の中で、道の代わりになるものを“奪う”。


 奪うしかない。


 そう理解した瞬間、エルディオの中で何かが静かに死んだ。


 正しい逃げ方、という概念。


 善良な世界なら許される順序。


 助けが来る前提。


 救いが巡回として配られる“制度”。


 その全部が、今この場では無効だった。


 エミリアが、小さく呟いた。


「おとうさん……どこいくの……?」


 その声は、泣き声ではない。


 子どもが世界の形を失ったときの声だ。


 エルディオは答えない。


 答えられないのではない。


 答える言葉が、この世界から消えている。


 ――行ける場所が、残っていない。


 それでも彼は走る。


 走りながら、背後を斬り、上を弾き、横をズラし、足元の崩れを避ける。


 避けるたびに、地形がさらに壊れる。


 壊れるたびに、逃げ道がさらに減る。


 敵の執拗さは、偶然じゃない。


 これは“意図”だ。


 村を終わらせるための意図。


 そして――エルディオに、間に合わなかったという現実を刻みつけるための意図。


 その意図の中で、三人の塊はまだ走っている。


 まだ走れている。


 だから、まだ終わっていない。


 終わっていない限り、父は手順を捨てない。


 捨てられない。


 捨てた瞬間に、世界が勝つからだ。


 そこで、エルディオは低く吐き捨てるように言った。


「走れ。振り向くな」


 命令ではない。祈りに近い指示だった。振り向いた瞬間、背中が止まる。止まった背中は、矢になる。矢になった背中は、刺さる。


 メイリスは頷かない。頷く余裕を捨てて、ただ声だけで返した。


「大丈夫、って言わない。……でも、ここにいる」


 “ここにいる”。


 それだけが、父の手順を成立させる合図だった。


 エミリアが、息を詰めた声で言う。


「おとうさん、はやく」


 急かしているのではない。世界に置いていかれないために、父の背中に縋っているだけだ。


 エルディオは振り返らないまま、もう一度言った。


「止まるな。手を離すな」


 その言葉は、誰に向けたものでもあり、同時に自分自身への命令でもあった。止まった瞬間、守りの手順は崩れる。手を離した瞬間、守る対象は“対象”ではなくなる。――ただの数になる。


 ♢


 小川が見えた瞬間、エルディオは――一度だけ、呼吸を取り戻した。


 水だ。


 細い。深くない。飛び石が並び、普段なら子どもが裸足で渡る程度の、村外れの小川。


 だが今は、その細さが救いに見えた。


 水は瘴気を薄める。

 流れは足跡を消す。

 何より、向こう側は林だ。


 林へ入れば、遮蔽が取れる。

 遮蔽が取れれば、上空の視線が切れる。

 視線が切れれば――追撃の精度が落ちる。


 いける。


 本当に、ほんの一瞬だけ。

 エルディオの中で、そう判断が下りた。


 判断は甘くない。

 希望でもない。


 戦場の勘としての「いける」だ。


 ここまで、数え切れないほどの“間に合わない”を潜り抜けてきた。

 手が届き、声が届き、視界が届かなくなっても、なお動かし続けてきた。

 その結果として、ここに立っている。


 だからこそ、この一瞬の「いける」は、残酷だった。


 メイリスも気づいた。


 小川の水面が視界に入った瞬間、彼女の肩の力が、ほんのわずかに抜ける。

 抜けてはいけない力だと分かっているのに、身体が勝手に反応してしまう。


「……エル」


 声が出る。


 今まで出なかった声が、出てしまう。


 それは「助けて」ではない。

 「怖い」でもない。


 「ここまで来た」という声だ。


 エルディオは頷いた。


 小さく。

 確かに。


 それが、二人の間で交わされた唯一の“確認”だった。


 だが、その確認の直後――メイリスの声が、もう一度だけ形になった。


「エル、行かないでじゃない。……離さないで」


 言葉の選び方が、彼女の強さだった。情に縋らない。命令もしない。すがるのではなく、手順に組み込む。――離さないで。それは「父」としての位置を保てという指示でもあった。


 エルディオは、返事をしない。


 返事をすれば、希望が確定する。

 確定したものは、奪われる。


 代わりに、短く息を吐き、喉の奥で一度だけ願った。


「……頼む、間に合ってくれ」


 誰に頼んだのか分からない。神でも世界でもない。たぶん、自分の足と、自分の手と、自分の判断へ向けてだ。


「エミリア」


 名前を呼ぶ。


 今度は、声が届く距離だった。


「お父さん……」


 エミリアの声は掠れている。

 泣いていない。

 泣く力を、もう使い切っている。


「川を渡る。僕が先に行く」


 命令ではない。

 手順だ。


「僕が渡ったら、同じ場所を踏め」


 飛び石の位置を、目で示す。

 左、右、右、左。

 いつもなら、遊びの説明だ。


 エミリアは、頷く。


 理解しているかどうかは分からない。

 だが、父の声を“従うもの”として受け取る力だけは、まだ残っている。


 その頷きが、あまりに幼くて、残酷だった。


 エミリアは小さく息を吸って、言った。


「ねえ、こわい」


 訴えではない。報告だ。怖い、という感情を、世界の辞書に追加する声だ。


 エルディオは「怖くない」とは言わない。


 言えば嘘になる。


 言えば、嘘を証明するために世界が動く。


 だから彼は、嘘じゃない言葉だけを残した。


「見ろ。僕だけ見ろ」


 背中だけ、という以前の言葉を更新して、目線の手順として固定する。視界が散れば足が散る。足が散れば手が離れる。


 エルディオは一歩、前に出た。


 川に足を入れる。


 水は冷たい。

 だが、冷たさは現実だ。

 現実は、掴める。


 一歩。

 二歩。


 石を踏む感触が、確かにある。


 振り返らない。


 振り返ったら、気が緩む。

 緩んだ瞬間に、世界はそれを奪いに来る。


 三歩目で、対岸に届く。


 林の影が、すぐそこだ。


 遮蔽が、ある。


 エルディオは振り返り、腕を伸ばした。


「来い」


 その瞬間だった。


 ――空気が、変わった。


 重くなるのではない。

 圧でもない。


 “正確になる”。


 世界の動きが、急に整理される。

 雑音が消え、敵意の焦点が、一点に絞られる。


 探知魔法が、静かに告げた。


 ――上位個体。


 一級相当。

 いや、“それ以上”。


 川の上流。

 林の縁。

 小川を挟んだ“逃げ道の先”。


 そこに、立っていた。


 魔族。


 だが、今までのそれとは違う。


 数で押す存在ではない。

 瘴気で包む存在でもない。


 立っているだけで、戦場が“完成”してしまう個体。


 黒い外套。

 細身の体躯。

 顔は人間に近い。


 だが、目が――違う。


 エルディオを見ている。


 初めて会った相手を見る目ではない。

 観察でもない。


 “知っている”目だ。


 魔族は、ゆっくりと拍手した。


 音は、小川のせせらぎに吸われるほど静かだ。


「見事だ」


 声は、落ち着いている。

 戦場の高揚がない。


「ここまで“手順”を崩さずに来るとは思わなかった」


 エルディオの背中が、凍りつく。


 ――読まれている。


 逃走ルート。

 判断の速度。

 守り方。

 下がりながら戦う癖。


 すべて。


 魔族は一歩、前に出る。


 小川を越えない。

 越える必要がない。


「君は、道を作る戦いをしていた」


 言い当てる。


「殺さず、割り、ズラし、時間を稼ぐ。英雄の戦いではない。――父の戦いだ」


 その言葉が、刃になる。


 魔族は、指を鳴らした。


 音は小さい。


 だが、それだけで、世界が応えた。


 上空で、カースドラゴンが動く。


 旋回ではない。

 位置調整だ。


 ブレスの角度が変わる。


 狙いが――エルディオではなくなる。


 その事実を、彼の目より先に、背中が理解した。


 背後の空気が、薄く冷える。冷えるというより、圧が引く。圧が引いた瞬間に、人間は「来る」と思ってしまう。押し潰されるより、空白の方が恐ろしい。そこに何が入るのか分からないからだ。


 エルディオは、足を止めないまま“角度”を変えた。


 前に出るのではない。飛び込むのでもない。川の中へ戻る――それすら遅い。


 彼がやったのは、ただ一つ。


 腕を伸ばす距離を、魔法で短くすることだった。


 手順は、最後まで手順のまま。


 短剣を抜く。刃を振らない。刃を“置く”。


 刃先が水面すれすれを切った瞬間、小さな光の線が走る。結界ではない。防壁でもない。ほんの一瞬だけ、空間の抵抗を増やす――“遅延”の術式。


 槍が来るなら、槍の速度を殺す。

 ブレスが来るなら、空気の流れを歪める。


 守るための魔法ではない。


 間に合わせるための魔法だ。


 魔族が、目を細めた。


 その表情は、驚きではなかった。

 「そう来る」と分かっていた者の、静かな愉悦だった。


「遅らせるのか」


 声は軽い。

 軽いからこそ、残酷だった。


「なら、遅らせる順番も決めてあげよう」


 魔族は指をもう一度鳴らした。


 今度は音が聞こえた気がした。


 聞こえた、と思った瞬間――視界の端が、燃えた。


 上空から落ちるのは火矢ではない。

 瘴気弾でもない。


 “黒い雨”だ。


 細い線が無数に落ちてくる。雨に見えるのは、数が多すぎるからだ。一本一本は槍のように細く、狙いを持っている。


 狙いは、メイリスの周囲。

 逃げ道の地面。


 踏めば痛い。

 踏めば動けない。

 踏めば足が遅れる。


 遅れた足は、手を離す。

 離れた手は、死ぬ。


 エルディオは、息を吸って吐いた。


 吐いた息が、冷たい。


 ――間に合う。


 間に合うはずだ、とまだ思っている自分がいる。


 小川まで来た。

 遮蔽が取れる。

 林へ入れる。


 ここで折れるのは、嫌だ。


 彼は短剣を投げた。


 狙いは敵ではない。

 落ちてくる黒い雨の“束”の中心だ。


 短剣が空中で弾け、光が花火のように散る。散った光が、落下物を“押し返す”のではなく、落ちる位置をずらす。


 雨は止まらない。

 止められない。


 だが、道の真ん中だけが空く。

 メイリスとエミリアが踏むはずの場所だけが、細く残る。


 ――いける。


 エルディオは叫ぶ。


「メイリス、今――!」


 声は届く距離だった。


 メイリスは、反射で動いた。

 動けるのが、彼女の強さだった。


 彼女はエミリアの手を引き、飛び石へ踏み出す。


 その一歩が、確かに“間に合う”一歩だった。


 エミリアが、擦れた声で言う。


「おとうさん、はやく……!」


 急げ、ではない。追いつきたい、という声だ。父のところへ行けば助かる、とまだ信じている声だ。


 だからこそ、魔族は――そこだけを折りに来た。


 魔族は歩かない。


 跳ぶでもない。


 ただ、立っている場所の“意味”を変える。


 彼が指先で空をなぞった瞬間、川面が揺れた。

 揺れたのは水ではない。


 水の上に薄い膜が走る。

 透明な術式の橋が、逆方向に架かる。


 それは道ではない。

 道のふりをした罠だ。


 メイリスの足が、そこに触れ――


 滑る。


 ほんの僅か。

 だが、戦場では僅かが致命だ。


 彼女の身体が傾く。


 傾いた瞬間に、エミリアの手が引かれる。

 引かれた手が、離れかける。


 エルディオの胸の奥で、何かが裂けた。


「やめろ」


 声が、喉の奥から零れた。


 命令ではない。

 懇願だ。


 世界そのものへ向けた、無意味だと分かっている懇願。


 声が出る前に、身体が動く。


 彼は踏み込んだ。


 初めての、完全な前進。


 守る戦いでは禁じたはずの動き。

 前へ出れば囲まれると知っている動き。


 それでも――父として、そこだけは踏み込む。


 剣を抜く時間はない。

 短剣で足場を切る。


 透明な膜を斬る。

 斬れた。


 斬れたはずなのに――膜は“橋”ではなかった。


 膜は、合図だった。


 斬られた瞬間、術式が完成する。

 完成した術式が、狙いを固定する。


 固定された先は――メイリス。


 固定された“点”に向けて、瘴気の槍が走る。


 エルディオは槍を見た。


 速いのではない。

 速さという概念がない。


 最初からそこにあったみたいに、空間が裂けて、結果だけが現れる。


 彼は、身体を捻った。


 槍とメイリスの間に入る――それが最短の守りだ。


 だが、その最短は、最短であるがゆえに読まれている。


 魔族の視線が、エルディオの動きを“肯定”する。


「そうだ。そうするしかない」


 声が優しい。


 優しい声で、選択肢を奪う。


 エルディオの脳が叫ぶ。


 違う。

 違う。


 それでも身体は、最短を選ぶ。


 選んでしまう。


 槍が、エルディオの肩を掠める。


 掠めただけで、肉が落ちる。

 血が出る。


 だが、刺さらない。


 刺さらない――はずだった。


 槍は“貫く”ためではない。

 軌道を作るための槍だ。


 槍が掠めた瞬間、その軌道に沿って“次”が来る。


 小さな、見えない刃。

 切断の術。


 メイリスが、反射でエミリアを庇う。


 庇うことができてしまう。

 庇えてしまう。


 その優しさが、術式の正解になる。


 刃が、メイリスの胸を正確に裂いた。


 派手ではない。

 音もない。


 ただ、息が――止まる。


 メイリスの口が僅かに開く。


 呼ぶだけの声が、落ちる。


「エル」


 それが、最後だった。


 エルディオの喉の奥が、焼ける。


「やめろって言ってる……!」


 叫んだはずだ。

 叫びは、誰にも届かないのに。


 エミリアが目を見開く。


 声は出ない。


 声を出す時間が、世界から削られた。


 エミリアの口が動く。


 言葉の形ができる。


 最後に、彼女が世界へ置こうとした言葉は――それだった。


「おねえちゃ――」


 言いかけで、切れる。


 切れたのは声ではない。

 熱だ。

 息だ。

 世界との接続だ。


 上空が、光る。


 カースドラゴンのブレス。


 狙いが“点”ではなく“面”になる。


 逃げる、という概念が潰れる。


 守る、という概念も潰れる。


 ただ、結果が落ちる。


 エルディオは、口を開いた。


 叫んだ。


 叫んだはずだ。


 けれど――その叫びは、届かない。


 届かないまま、世界の音量が、ゆっくり落ちていく。


 虫も、風も、せせらぎも、燃える音も。


 全部が遠のく。


 代わりに、鼓動だけが暴力的に響く。


 ドン、ドン、ドン。


 大きすぎて、耳が壊れる。


 ――間に合わなかった。


 まだ“いける”と思った直後に。


 だから、より残酷に。


 そして、次の瞬間。


 熱が、消えた。


 ♢


 炎に包まれたはずなのに、次の瞬間には――温度が、無い。


 熱い、という感覚が来ない。

 痛い、という判断も来ない。


 ただ、視界の中で、二つの“形”が崩れた。


 メイリスの身体が、前に倒れる。

 エミリアの小さな身体が、軽く弾かれる。


 それだけだ。


 派手な破裂音も、骨の砕ける音もない。

 血が噴き上がることもない。


 落ちる音すら、薄い。


 短い音。

 湿った音。

 土に、何かが触れた音。


 エルディオは、それを“見た”。


 だが、“見た”という認識が、すぐには意味にならない。


 膝が、崩れる。


 意識して折ったわけじゃない。

 衝撃を受けたわけでもない。


 力が、要らなくなった。


 支える理由が、消えた。


 口が、開く。


 音が出る前に、形だけが生まれる。


「――あ……」


 言葉にならない。


 言葉にすれば、現実が完成する。

 完成した現実は、もう戻らない。


 だから、言葉にならないまま、息だけが漏れる。


 エルディオの視界の中で、世界が妙に鮮明になる。


 川の水面。

 林の影。

 焼け落ちた屋根の輪郭。


 そして――土。


 血の匂いが来るより先に、土の匂いが来た。


 湿った土。

 踏み固められた土。

 作物を育てていた土。


 人が死んでも、土は変わらない。


 土は、何も思わない。


 その事実が、暴力的に胸を殴る。


 世界は、何も変えていない。


 風は、吹かない。

 だが、止まったわけでもない。


 虫の声が、しない。

 だが、死んだわけではない。


 ただ、音量が――下げられた。


 世界全体の音量が、誰かの手で絞られたみたいに。


 遠くの爆音も、

 近くの炎の音も、

 魔族の声も、


 すべてが、遠くなる。


 代わりに、聞こえるものがある。


 鼓動だ。


 自分の胸の中の音。


 ドン、ドン、ドン。


 大きすぎる。

 速すぎる。


 それだけが、暴力的に響いている。


 エルディオは、口を開いた。


 声を出そうとした。


 ――名前を。


 呼べば、返ると信じていた名前を。


 だが、声が――届かない。


 届かないのではない。

 出ているかどうかすら、分からない。


 叫びは、喉を震わせたはずだ。

 肺を押し上げたはずだ。


 それでも、その叫びは――


 自分の耳にすら、届かなかった。


 音が無い。


 世界に、音が無い。


 あるのは、視界と、鼓動と、匂いだけ。


 エルディオは、這うように前に進んだ。


 歩いたのではない。

 走ったのでもない。


 距離を詰める、という行為だけが残った。


 メイリスのそばに、膝をつく。


 触れる。


 触れた瞬間、分かる。


 冷たい。


 血は、もう温度を持っていない。


 エミリアにも触れる。


 小さな身体は、軽い。

 抱き上げるほど軽い。


 それが、現実だ。


 抱き上げても、泣かない。

 声を上げない。

 目も、動かない。


 ――ああ。


 そこで、ようやく言葉が生まれる。


 間に合わなかった。


 同じだ。


 同じ形だ。


 逃がそうとして。

 庇おうとして。

 目の前で。


 守れる距離だと、信じていた場所で。


 確定した幸福を、抱えたままで。


 その理解が、完全に形になった瞬間――


 音が、戻らなかった。


 戻らないまま、代わりに“叫び”が来る。


 遅れて来る。


 あまりにも遅く。


 喉が裂けるほどの叫び。


 胸を破るほどの叫び。


 だが、その叫びは――


 世界には、届かない。


 神にも。

 世界にも。

 敵にも。


 届くのは、ただ自分の内側だけ。


 それが、この世界の残酷さだった。


 救いの無い静寂の中で、

 二つの命が冷えていく。


 そしてエルディオは、理解してしまう。


 これは、偶然じゃない。

 これは、正義でもない。

 これは、間違っている。


 それでも――


 次に自分が選ぶものが、

 もう“救い”ではあり得ないことを。


 世界は、何も止めなかった。


 だから、音は消えたままだった。


ここまで読んでくださり、ありがとうございました。


この章は「守れる」と信じた手順が、力不足ではなく“世界の構造”によって崩されていく過程を描きました。

間に合いそうだった一瞬が、いちばん残酷に折られる――その地点まで、読者の呼吸を運ぶことだけを意識しています。


次章では、この喪失がエルをどこへ連れていくのか。

「救うための力」が「救わないための力」へ転じる必然を、最後まで見届けてください。

評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

↑ページトップへ