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誰も救えない僕が、それでも魔王と生きる話  作者: 霜月ルイ
「  」編

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130/143

130.望んだ未来-6

 

 家の中に入ると、外の光が一段だけ薄くなった。


 扉を閉める音は小さい。けれど、村の広い静けさと切り離されて、家の静けさが輪郭を持つ。その輪郭の中では、人の息づかいも、布の擦れる音も、ちゃんと「音」として聞こえる。


 居間の卓は片づいていた。木目がそのまま見えて、余計なものがない。診察のために空けたわけではなく、いつもの生活がそうなっているだけだ――その「いつも通り」が、ヘルマンの目には何よりの情報になる。


 ヘルマンは、戸口で一度だけ立ち止まり、視線を部屋の中に滑らせた。


 窓の位置。

 炉の残り火の匂い。

 薬草の束が吊られているかどうか。

 水桶の水が澄んでいるかどうか。


 医師の視線は、暮らしの温度を測る。


「……ここは、空気がいい」


 独り言のように言って、ヘルマンは帽子を外した。帽子の内側に指を入れ、汗の具合を確かめるように軽く拭う。その動作も、習慣の中にある丁寧さだった。


 メイリスが、椅子を引いて言う。


「先生、こちらへ」


「ありがとう」


 ヘルマンは腰を下ろさず、まず鞄を卓の端に置いた。鞄は古い革で、角が丸い。何度も開閉され、何度も雨に濡れ、何度も乾かされてきた色だ。重さがある。中身の重さだけではなく、時間の重さ。


 エルディオは、その鞄を一度見た。見て、胸の奥がひとつだけ締まる。


 医師の鞄は、いつも「確定」を連れてくる。


 軽い風邪も、擦り傷も、熱も――確定することで落ち着く。

 だが同じように、確定することで世界の形が変わるものもある。


 メイリスは、笑っていた。


 笑っているが、先ほど畑で見せた笑いより少しだけ、呼吸が浅い。本人はそれを隠しているつもりではない。隠すべきだとも思っていない。ただ、身体が先に知っている。何かが決まる瞬間の前には、どうしても息が短くなる。


 ヘルマンは、椅子を一つ指さした。


「メイリスさん、座ってください。――エルディオは」


 名前を呼ぶところで、ヘルマンの視線がエルディオに向く。


「申し訳ないが、少しだけ外で待ってもらえますか」


 言い方は柔らかい。拒絶ではない。形式でもない。医師として、当たり前の配慮だと分かる声。


 エルディオは、一瞬だけ眉を動かす。


 理由を問うほどではない。

 だが、問わなくても分かる。診察には、本人だけで話す方がいいことがある。身体のこと、気分のこと、月の巡りのこと。家族の前では言いにくいことは、確かにある。


 それを理解できるようになった自分を、エルディオは少しだけ不思議に思う。


 昔なら――外に出されることは、情報を遮断されることだった。

 情報を遮断されることは、危険の兆しだった。


 だから、反射で「理由」を探したはずだ。


 でも今は、探さない。


 代わりに、短く頷く。


「……分かりました」


 それだけ言って立ち上がり、扉へ向かう。歩幅は大きくない。足音も、殺さない。生活の中の歩き方だ。


 扉の前で、メイリスがちらりとこちらを見る。


 視線が合う。


 声をかけるほど長くはない。けれど、そこに確かに「一緒にいる」という約束にも似たものがある。


 エルディオは、口元だけで笑う。


 大丈夫、とは言わない。

 彼女も言わない。


 代わりに、ただ頷く。


 その頷きは、戦場の合図ではない。

 家の合図だ。


 扉が閉まる。


 閉まった音が、思ったよりもはっきり聞こえて――エルディオはその音に、少しだけ心臓を持っていかれる。


 外に出ると、初夏の入口の空気が頬に触れた。


 畑の緑は濃くなり始めている。風は弱い。鳥の声は遠く、村はいつもの速度で動いている。何も変わらない景色の中で、家の中だけが別の時間に入ったような気がする。


 エルディオは、家の壁にもたれかからず、少し離れたところに立った。


 窓の下。

 庭の端。


 視線が無意識に窓へ向かいそうになって、止まる。覗きたいわけではない。聞き耳を立てたいわけでもない。ただ、確認したい。何が行われているのかを知っておきたい。


 癖だ。


 だが――今は、その癖を「意味」に変えない。


 彼は視線を畑へ戻す。


 エミリアは、外にいる。


 さっきまで土を触っていた手で、今は小さな草を握っている。握った草を掲げて、何かを見せたいようにこちらをちらちら見る。でも、今のエルディオはそこへ行かない。


 行けば、彼女は抱きついてくるだろう。

 抱きつかれれば、心が落ち着く。

 落ち着けば、今この「待たされている時間」を薄められる。


 けれどエルディオは、薄めない。


 この時間を、そのまま受け取る。


 ここ数ヶ月、何度も彼は「受け取る」練習をしてきた。怖いものも、甘いものも、何も言わずに置かれるものも。受け取ることが、家族のやり方だと知ったからだ。


 扉の向こうで、声がした。


 聞こえないほど小さい。

 だが、聞こえた気がする。


 ――ヘルマンの声ではない。

 メイリスの声でもない。


 布が擦れる音だ。

 鞄が開く音だ。

 金具が触れ合う音だ。


 医師の道具は、音まで整っている。


 その音が、確定へ向かう足音に似ていて、エルディオは一度だけ喉を鳴らす。


 ◇


 居間の中で、ヘルマンは手を洗っていた。


 桶の水に手を浸し、指の間をこすり、爪の縁を確かめる。石鹸の匂いは強くない。村の医師が使うものは、派手な香りではなく、清潔さのための香りだ。


 水滴が指先から落ちるたび、床板に小さな点ができて、すぐに吸われる。


 ヘルマンは布で手を拭き、次に鞄の口を開いた。


 鞄の中は整然としている。

 布。

 木の箱。

 小瓶。

 金属の器具。


 器具は光っていない。磨かれていないのではなく、必要以上に光らせないだけだ。光沢は患者を緊張させることがある。医師はそういうことも知っている。


 メイリスは椅子に腰を下ろし、膝の上で手を組んだ。


 組んだ指が、すこしだけ白い。


 緊張している。


 でも、表情は穏やかだ。穏やかであることを、彼女は今いちばん上手にできる。エミリアがいる。エルがいる。家がある。世界は正しい。そう思えるだけの積み重ねがある。


 だから、緊張は「不安」ではない。


 祝福の前に訪れる、静かな整列だ。


「……最近、立ちくらみがあると言っていましたね」


 ヘルマンが口を開く。


「ええ。ちょっとだけ」


「吐き気は」


 メイリスは一瞬迷ってから、正直に頷く。


「朝が、少しだけ」


 言い方が柔らかい。深刻にしない、という彼女の方針が、ここでも生きている。


 ヘルマンは、頷くだけで否定も肯定もしない。すぐに結論へ飛ばない。医師はまず、丁寧に集める。


「食欲はどうです」


「日によるわ。食べられる日もあるし……今日は、パンの匂いが少し強かった」


「匂いに敏感になっていますね」


 ヘルマンは、何かを手帳に書き留める。


 文字の形が整っている。急いでいるのに、乱れない文字だ。診察とは、急ぎながら丁寧である仕事だ。


「月の巡りは」


 メイリスの指先が、ほんの少しだけ動く。


 その質問が来るのを分かっていた。


 それでも、口に出されると、身体が先に反応する。生活の中で隠していたわけではない。けれど、言葉にした瞬間にそれは「確定」へ近づく。


 メイリスは、息を吸って、吐く。


「……止まっている」


 その一言は、短い。


 短いのに、居間の空気が一段だけ澄む。


 ヘルマンは、顔色を変えない。


 医師は、祝福の表情を先に出さない。患者が喜びたいのか、怖がりたいのか、まだ分からないからだ。


「いつから」


「二度」


 メイリスは、目を伏せる。


 伏せて、笑うでも泣くでもない顔のまま、続ける。


「……数えたのは、久しぶりよ。忘れていたくせに、こういうときだけちゃんと数えるのね、私」


 自嘲ではない。生活の中にある小さな照れだ。


 ヘルマンは、穏やかに息を吐く。


「数えるのは、悪いことではありません」


 それだけ言って、鞄から布を取り出す。


 布の端を指で撫で、折り目を整える。手つきが静かだ。患者の呼吸を乱さないための速度。


「診察します。痛みがあれば言ってください。痛くなくても、違和感があれば言ってください」


 メイリスは頷く。


「ええ」


 ヘルマンは椅子を引き寄せ、患者との距離を測る。近すぎない。遠すぎない。必要な距離だ。


 手を伸ばす前に、医師は一度だけ目を合わせる。


 目を合わせるのは、安心させるためではなく、同意を確認するためだ。


「よろしいですか」


「……ええ」


 メイリスは、頷きながら、指先をゆっくり開く。膝の上で組んでいた手がほどける。自分の身体を医師に預ける準備だ。


 ヘルマンの手が、腹部に触れる。


 触れ方は、強くない。

 押すのではない。

 置く。


 掌が、そこに置かれた瞬間、メイリスの呼吸が一拍だけ止まる。


 止まって、すぐに戻る。


 彼女は深呼吸をする。吐く息が、少し長い。


 ヘルマンは、指先で圧を変える。


 右。

 左。

 下腹部。

 少し上。


 指の腹で確かめ、掌で感じる。硬さ、張り、温度、反応。医師の触診は、触れるというより聞く行為に近い。皮膚越しに身体の言葉を拾う。


 メイリスは、痛みを訴えない。


 だが、緊張は抜けない。


 抜けないのは当然だ。医師の手が触れている場所は、未来の入口と直結している。


 ヘルマンは、ふっと眉をわずかに上げる。


 それは驚きではなく、確信が積み重なったときの動きだ。


 続いて、鞄から小瓶を取り出す。


 薬ではない。試験のためのものだ。医師が巡回で持ち歩ける範囲の簡易な検査。


 器に水を少量。

 そこへ、粉末をひとつまみ。

 木の棒で混ぜる。


 混ぜる手つきが、淡々としている。

 淡々としているのに、目が真剣だ。


 メイリスは、その手元を見る。


 見るだけで、胸が熱くなる。


 これまで何度も、この手が命を「こちら側」に引き戻してきたのを見てきた。エミリアのときも、村の誰かのときも。


 その手が、今、自分のために動いている。


 ヘルマンは、混ぜ終えた器を少し置き、布で指を拭う。濡れたまま触れない。冷たさが患者の呼吸を乱すから。


「……少し待ちます」


「ええ」


 待つ時間ができると、メイリスは急に言葉が欲しくなる。欲しいが、喋りすぎれば自分の緊張を誤魔化すことになる。


 彼女は、喋らない。


 ただ、背筋を正す。


 背筋を正すのは、強がりではない。祈るような姿勢でもない。生活の姿勢だ。


 医師の目が、器の中の変化を追う。


 光の加減で、液体の色が少しずつ違って見える。その違いが、決定的な境目へ向かっていく。


 メイリスの手が、膝の上で無意識に腹に近づく。


 触れない。

 触れないけれど、そこを庇う位置へ手が落ち着く。


 その仕草に本人は気づいていない。


 気づいていないからこそ、読者だけが分かる。

 身体はもう、知っているのだと。


 ヘルマンが、器から目を上げた。


 そのとき、彼の表情がほんの少しだけ柔らかくなる。医師としての均衡は崩さない。けれど、人としての温度が落ちてくる。


 メイリスの呼吸が浅くなる。


 浅くなっても、止めない。


 彼女は待つ。待てる。待つことも、もう怖いだけの行為ではなくなった。


 ヘルマンは、ゆっくりと言う。


「……おめでとう」


 言葉は小さい。


 小さいのに、居間の空気を変える。


 祝福の言葉は、鐘の音みたいに派手ではない。むしろ、床板に落ちる水滴のように静かだ。静かなまま、確実に染みていく。


 メイリスは、瞬きを一つした。


 それだけ。


 泣かない。

 笑わない。

 声も出ない。


 その無音が、彼女の中でいま言葉が形になっていく途中なのだと教える。


 ヘルマンは続ける。


「順調だ」


 二つ目の言葉は、祝福ではなく保証だ。


 保証と言っても、永遠の保証ではない。

 医師は、未来を誓わない。


 けれど今の時点で言えることを、きちんと言う。


 それが医師の「正常さ」だ。


 メイリスの肩が、ほんのわずかに落ちる。


 力が抜けたのではない。

 抱えていた緊張が、置き場所を見つけただけだ。


「……本当に?」


 ようやく声が出る。


 声は震えていない。震えないようにしているのでもない。彼女は、現実を確かめる声を持っている。


 ヘルマンは頷く。


「本当です。まだ初期だ。無理は禁物です。重いものは持たない。走らない。立ちっぱなしにしない。――水を飲むこと。食べられるときに食べること」


 言葉が、すぐに生活へ落ちてくる。


 祝福の直後に生活の指示が来るのが、この世界の優しさだ。夢ではない。現実だ。現実だから、守れる。


 メイリスは、頷きながら、腹に手を置く。


 今度は、ちゃんと置く。


 庇うのではなく、触れる。


 触れた瞬間に、彼女の目が少しだけ潤む。


 泣くほどではない。

 でも、潤む。


 その潤みが、いちばん静かな幸福だった。


「……エルには」


 言葉がそこで止まる。


 彼女は、外にいる男の顔を思い浮かべてしまう。


 誇らしげに笑っていた顔。

「ここで生きてます」と言った声。


 その男が、この確定を知ったときにどうなるか。


 喜ぶ。

 きっと喜ぶ。


 けれど同じだけ、怖がる。


 怖がり方を、彼はまだ捨てきれていない。


 メイリスは、それを分かっている。


 分かっているから、言葉が重くなりかけて――彼女は重くしないように息を吐く。


「……先生。私、どう言えばいい?」


 相談というより、確認だ。


 ヘルマンは、少しだけ微笑む。


「そのままでいい」


 医師の答えは、いつも現実的だ。


「あなたは彼に、何かを証明する必要はない。彼はあなたの言葉を信じるでしょう。――ただ、ひとつだけ」


 ヘルマンの声がわずかに低くなる。


「外で待たせたのは、あなたの時間を作るためです」


 メイリスは、目を瞬く。


「あなたが先に知り、先に息を整え、先に腹に手を置くための時間。……その時間があるだけで、言葉は優しくなる」


 メイリスは、ゆっくり頷く。


 理解できる。


 この数ヶ月、彼女は「優しくすること」が何より強いと知った。強く押せば折れる相手に、優しさは武器になる。


 ヘルマンは鞄を閉じる。


 金具が小さく鳴る。


「では、彼を呼びましょう」


 メイリスは、一度だけ深呼吸をする。


 その深呼吸は、祈りではない。

 準備だ。


 彼女は立ち上がり、扉へ向かう。


 歩幅は小さい。

 でも、迷わない。


 扉を開ける前に、ほんの一瞬だけ止まり、腹に手を置き直した。


 その仕草は、誰に見せるためでもない。


 自分に教えるためだ。


 ――ここに、いる。


 扉を開けると、外の光が差し込む。


 庭の端に立っていたエルディオが振り向く。


 その目が、すぐにメイリスを探す。


 彼女は笑う。


 深刻な顔をしない。

 泣きもしない。


 ただ、いつもより少しだけ柔らかく笑って、言う。


「エル。……先生が、呼んでる」


 それだけ。


 それだけで、エルディオの胸の奥に、何かが触れてしまう。


 彼は、頷いて歩き出す。


 早足にはならない。

 走らない。


 けれど、焦りがないわけではない。


 焦りがないふりをしないまま、生活の速度で扉をくぐる。


 扉の向こうで、医師ヘルマンが待っている。


 鞄は閉じられ、卓は変わらず、部屋は整っている。


 整った部屋の真ん中で、ヘルマンはエルディオを見て言う。


 その目が、医師の目だ。


 保証を告げる目だ。


「……おめでとう」


 その言葉が落ちる瞬間、エルディオだけがまだ知らないはずだった時間が、ようやく同じ速度で流れ始める。


 そして読者だけが分かる。


 この静かな確定が、次に何を呼ぶのかを。


 けれど今はまだ、祝福の前段階だ。


 ただ、確定しただけの、静かな幸福がそこにある。


ここまでお読みいただき、ありがとうございました。


この章は「不幸の前触れ」を描くためのものではなく、

何ひとつ疑わず、正しく、静かに幸福が積み上がっていく瞬間を描く章でした。

だからこそ、誰も間違えず、誰も疑わず、誰も身構えていません。


エルの誓いも、メイリスの笑顔も、医師ヘルマンの「順調だ」という言葉も、

すべてがこの世界では正しい。

正しすぎるほどに、正しい。


――それが届かないことを、知っているのは読者だけです。


次章で、その“正しさ”がどのように壊れていくのか。

どうか、最後まで見届けてください。

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