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誰も救えない僕が、それでも魔王と生きる話  作者: 霜月ルイ
「  」編

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128.望んだ未来-4

 

 初夏の入口の朝は、夜の名残を薄い膜のまま引きずっている。


 冷えはもう鋭くない。けれど温かさも、まだ決定打みたいには押し寄せない。朝露が草の先に丸く残り、土の匂いが湿ったまま空気に混じっている。村は起きているのに、騒がしくない。人の声は遠く、鶏の鳴き声も控えめで、全てが「今日もいつも通りだ」と言っているみたいだった。


 家の中も、同じだった。


 火は焚かれている。鍋は温まり、湯気が立ち上がる。窓から入る光は強すぎず、床板の色を少しだけ明るくする。何かが始まる気配はあるのに、何かが起きる気配はない。


 それが、いちばん安心する種類の朝だった。


 エルディオは、目を覚ましてすぐに起き上がることはしなかった。


 寝台の上で一度だけ、呼吸の深さを確かめる。自分のものと、隣のもの。隣の寝息は静かで、規則正しく、途中で引っかからない。メイリスの眠りは、ここ数ヶ月でいちばん穏やかになっていた。


 穏やかであることが、怖くない。


 前なら、穏やかさは「何かが起きる前触れ」に聞こえた。静けさは、音がないからこそ危険を連れてくる。そういう身体の癖が、彼にはあった。


 けれど今は――


 静けさは、ただ静けさとしてそこにある。


 エルディオは、ゆっくりと起き上がる。足を床に下ろす。床板は冷たくない。冬の鋭さが消えている。季節が進んだ証拠だ。


 そして、視線が部屋の隅へ滑る。


 剣がある。


 いつもの位置。いつもの角度。鞘の向き、手を伸ばせば届く距離。変わらない。


 変わらないものを見て、彼は安心する……はずだった。


 だが、安心の種類が違う。


 守るための安心ではない。確認のための安心でもない。そこにあるから、そこにあると分かる。家具と同じ質量で、「ある」ものとして受け取れるようになってきている。


 エルディオは、剣を凝視しない。


 一歩近づかない。


 触れもしない。


 ただ、見て、それで終わる。


 それが、朝の始まりの一部になっていた。


 ♢


 台所から音がする。湯気の立つ音。木の器が触れる音。布が擦れる音。生活の音は、戦場の音と違って、意味を要求しない。


 意味を要求しない音に囲まれていると、身体の方が勝手にほどけていく。


 エルディオは寝室を出て、居間を横切り、台所へ入った。


 メイリスが背を向けて立っている。


 長い髪は軽く束ねられ、襟元に落ちないようにしてある。彼女の手元の動きは、いつも通りに見える。鍋の蓋をずらし、湯気を逃がし、香りを確かめる。


 ただ――


 ほんの少しだけ、ゆっくりだ。


 鍋を持ち上げるときの重心移動。布巾を取るときの腕の上がり方。器を並べるときの指の開閉。全てが「遅い」ほどではないが、「軽くない」みたいに見える。


 エルディオはそれに気づく。


 気づくが、危険とは結びつけない。


 結びつけない、ということができるようになっている。


 疲れているのだろう。


 それだけで済むようになっている。


「起きたのね」


 メイリスが振り向かずに言う。声は穏やかで、朝の声だ。深刻さも、焦りもない。


「ああ」


 エルディオは短く答える。短くても、そこに棘はない。以前の短さは、距離を取るためのものだった。今の短さは、無駄がないだけだ。


 メイリスは鍋の中身を木杓子でかき混ぜる。湯気が上がって、空気が柔らかく膨らむ。香草の匂いと、煮えた野菜の甘い匂い。少しだけ焼いたパンの匂いもする。


「今日は畑、行く?」


 メイリスの問いは、未来の話ではない。生活の話だ。今日の動きを決めるだけの問い。責任も、誓いも、載せない。


「行く」


 エルディオはすぐに答える。


 すぐに答えられることが、ここでは当たり前だ。戦場では、決める前に確認がいる。情報が要る。ここでは違う。畑に行くかどうかは、命の分岐ではない。


 それが、信じられる。


「じゃあ、エミリアも連れていく?」


「……本人に聞け」


 言いながら、エルディオは居間の方へ視線を投げる。


 エミリアは、まだ家の中にいる気配がない。


 外だ。


 家の外、畑の端。朝の光が柔らかい場所。彼女は朝のうちから、そこへ行ってしまう。大人が起きてくる前に、何かを「見つけて」戻ってくるのが好きだ。


 それが分かっている。


 分かっているから、探しに行かない。


 これもまた、彼の変化だった。


 ♢


 戸を開けると、外の空気が入ってくる。冷たくない。湿り気がある。土と草の匂いが濃い。初夏の入口の匂いだ。


 畑は緑に満ち始めている。


 まだ背丈の低い苗が等間隔に並び、畝の間に細い道ができている。冬の名残の固さが抜けて、土が少し柔らかい。踏めば沈み、足跡が残る。


 畑の端で、エミリアがしゃがんでいた。


 小さな背中。肩が少しだけ丸くなっていて、集中しているのが分かる。髪が短く揺れ、指先が何かを拾っている。


 たぶん、虫だ。


 彼女は虫を怖がらない。小さな生き物を見つけると、まず観察したくなる。どこから来て、どこへ行くのか。飛ぶのか、跳ねるのか。土に潜るのか。彼女はその「動き」が好きだった。


 エルディオは畑に足を踏み入れ、彼女の背中へ近づく。


 近づくが、足音を殺さない。


 殺す必要がない。


 畑の中で足音を殺すのは、敵に気づかれないためだ。ここに敵はいない。敵がいないという確信が、彼の中で揺らがない。


 それでも、彼の歩幅は静かだ。癖として、音が小さい。けれど、それは警戒ではなく、ただの習慣に落ちている。


「エミリア」


 呼ぶと、エミリアの肩がぴくりと動き、振り向く。


「お父さん!」


 声が明るい。眩しいほどに真っ直ぐだ。笑うと頬が上がり、目が細くなる。歯が少し見える。そこに何の影もない。


 エルディオは、その顔を見るだけで胸の奥が緩む。


 緩んで――戻らない。


 戻らないまま、そこに留まれる。


「なにしてる」


「みてみて! これ、ちっちゃいの!」


 エミリアが掌を開く。小さな甲虫か、何かの幼虫か、よく分からない。とにかく小さい。小さなものが、小さく動いている。


 エルディオは屈んで、それを見る。


 昔なら、こういうときにも周囲の音を拾った。視線が外へ滑った。畑の外縁、林、村道、空。今は違う。見ているのは、掌の上だ。


「……生きてるな」


 当たり前の言葉が出る。


「うん! ここにいたの! ね、かわいい?」


「……かわいい、のか」


 疑問形になるのが、彼らしい。


 エミリアはそれを気にしない。


「かわいいよ! だって、がんばってる!」


 がんばってる、という評価は、彼女の世界の基準だ。強いから偉い、ではない。勝つから偉い、でもない。動いていること、生きていること、それがもう「がんばってる」になる。


 その言葉が、エルディオの胸に刺さる。


 英雄として刺さるのではない。


 父として刺さる。


 この子は今、自分の目の前にある小さな命を見て、「がんばってる」と言った。なら、その命より大きい自分に対しては、どんな言葉を置くのだろう。


 エルディオは一瞬、言葉を探す。


 探して、見つけない。


 見つけないままでも、ここでは困らない。


 彼はただ、エミリアの頭に手を置く。


 軽く。押さえつけない。撫でるほどでもない。そこにある、と確認するだけの触れ方。


 エミリアが嬉しそうに笑う。


「お父さん、きょうね、はたけのはしまでいったの!」


「勝手に遠くへ行くな」


 叱る言葉の形をしているが、声は厳しくない。エミリアも怖がらない。


「だって、みどりいっぱいだった!」


 エミリアは立ち上がって、畑の緑を両手で示す。畝の間を走りそうになるが、走らない。彼女なりに「畑は大事」と理解している。


 そういうところが、もう村の子だ。


 エルディオは、畑を見渡す。


 緑がある。


 土がある。


 朝の光がある。


 村の生活がある。


 この世界が「もう壊れない」と錯覚するには、十分な景色だった。


 ♢


 家に戻ると、メイリスが食卓を整えていた。


 整える、というほど大げさじゃない。器を並べ、パンを切り、湯気の立つ汁を注ぐ。どれも、よくある朝の動きだ。


 ただ、やっぱり少しだけ、ゆっくりだ。


 エルディオはそれを見て、同じように思う。


 疲れているのだろう。


 季節の変わり目だ。夜が短くなって、朝が早い。畑も忙しい。村の行事も増える。身体が追いつかない日があってもおかしくない。


 そういう「普通の理由」で片づけられることが、ここでは正しい。


 正しいから、安心する。


 エルディオは椅子に座り、エミリアを隣へ座らせる。エミリアは器を覗き込み、湯気に向かって「わあ」と声を上げる。


「おなかすいた!」


「食べる前に手」


「はーい!」


 エミリアが外へ飛び出して手を洗いに行く。足音が軽い。戻ってくる音も軽い。家の中が、音で満ちていく。危険の音じゃない。生活の音だ。


 メイリスが椅子に座る。


 そのとき、無意識に腹のあたりへ手が行く。


 ほんの一瞬。


 服の皺を整えるみたいに。姿勢を直すみたいに。誰にも見られないほど自然に。本人も気づかないほど自然に。


 けれど、読者だけは分かる。


 守るような動き。


 庇うような動き。


 理由を持ってしまう動き。


 メイリスはすぐに手を引っ込め、いつも通りに笑う。


「冷めないうちに食べて」


「うん!」


 エミリアが元気よく答え、スプーンを持つ。


 エルディオはパンを手に取り、ひと口齧る。


 香ばしい。硬くない。噛めば素直に割れる。村のパンだ。特別じゃない。特別じゃないのに、満たされる。


 メイリスは汁を口に運び――ほんの少しだけ間を置く。


 そして、微かに眉を寄せる。


 嫌な顔ではない。痛みでもない。ただ、味を確かめるみたいな間。


「……どうした」


 エルディオが聞く。


 聞き方は短いが、刺さる短さじゃない。


 メイリスはすぐに笑って首を振る。


「ううん。ちょっと、匂いが強いかなって思っただけ」


「匂い?」


「季節のせいよ。ほら、暑くなってきたから」


 軽く言って、話を終わらせる。


 終わらせられることが、ここでは正しい。


 エルディオも頷く。


「そうか」


 それで終わる。


 疑わない。


 追及しない。


 不安を膨らませない。


 それができる朝は、幸福そのものだ。


 エミリアがパンを頬張りながら喋る。


「きょうね、むしさんいたの! ちっちゃいの!」


「食べながら喋るな」


「んー! でもね!」


 口いっぱいに言葉を詰め込んで、エミリアは笑う。笑うたびに、欠けた歯のところが少し見える。子どもは、成長しながら壊れていく。歯が抜けることすら、成長の一部になる。


 エルディオは、それを見ている。


 怖くない。


 壊れることが、全部終わりを意味しないことを、ここで覚えていく。


 メイリスが笑う。


「ほら、ゆっくり食べなさい」


「はーい」


 メイリスの声は柔らかい。


 そしてまた、無意識に腹部のあたりへ手が行きそうになり――行かない。


 代わりに彼女は、杯を取る。


 口をつける。


 ほんの少しだけ、眉が動く。


 そして、また笑う。


 何事もない朝の顔で。


 エルディオは、そこに違和感を「危険」として結びつけない。


 疲れているのだろう。


 季節のせいだろう。


 それで十分だ。


 十分で、足りてしまう朝だ。


 ♢


 食卓が終わると、自然に手が動く。


 エルディオが器を運び、メイリスが布を取る。エミリアは「おてつだい!」と言って小さな皿を持つ。持ち上げた途端にふらついて、エルが支える。


「落とすな」


「おとさない!」


「……危ない」


「だいじょうぶ!」


 その「だいじょうぶ」は、祈りでも虚勢でもなく、子どもの確信だ。小さな確信が、家の中に増える。確信が増えるほど、未来の言葉も増える。


 増えるのに、まだ誰も未来の話はしない。


 今だけで満ちているからだ。


 エルディオは桶へ水を張り、皿を沈める。手が水に触れる。冷たすぎない。季節が進んだ証拠。


 その手の動きの途中で、ふと剣の位置を思い出す。


 思い出すが、確認しに行かない。


 行かないという選択を、選択だと意識しない。


 意識しないほど、生活が身体の方を塗り替えている。


 幸福は、こうやって厚くなる。


 危険がなくなるから厚くなるのではない。


 危険を“生活の理由”で上書きできるようになるから、厚くなる。


 そして厚くなった幸福は、薄い幸福よりもずっと脆い。


 けれど、この朝には、脆さの音がない。


 あるのは、湯気の音と、布が擦れる音と、子どもの足音だけだ。


 エルディオは、その音を聞いて――


 胸の奥で一度だけ、確信に近いものを抱いてしまう。


 この世界は、もう壊れない。


 壊れないというより、壊れる理由が見当たらない。


 そう思える朝が、ここにある。


 そしてそれは、誰の努力でもなく、ただ「ここにいる」という事実の積み重ねで生まれてしまう。


 エルディオは、まだ知らない。


 その積み重ねが、のちに「届かない誓い」を生むことを。


 けれど今は、知らなくていい。


 知らないまま、朝を生きていればいい。


 初夏の入口の朝は、そういう顔をしていた。


この章では、何かが起きる前の「正しすぎる日常」を、あえて丁寧に積み重ねました。

警戒は癖として残りながらも意味を失い、違和感はすべて生活の理由に回収されていく――その状態こそが、エルにとっていちばん安らかな時間だったのだと思います。


誰も不安にならず、誰も疑わず、世界が静かにうまく回っている朝。

だからこそ、この幸福は疑いようがなく、揺るぎないものに見えます。


次の章で壊れるのは、運命ではなく、この「正しさ」です。

その瞬間まで、彼らは何ひとつ間違えていません。

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