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誰も救えない僕が、それでも魔王と生きる話  作者: 霜月ルイ
「  」編

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127/144

127.望んだ未来-3

 

 夜は、静かに深さを変えていった。


 居間から寝室へ移るまでの距離は、ほんの数歩しかない。けれどその数歩は、今日という一日をきちんと畳んで、次の時間へ渡すための距離だった。誰も急がない。足音は小さく、言葉はさらに少なくなる。もう、多くはいらない。余白があることが、今夜の正しさだった。


 寝室の灯りは低い。芯の赤さが、布と壁の境目を曖昧にしている。影は揺れない。外からの音はない。風もない。村は完全に眠っていて、この家だけが、静かな呼吸を続けている。呼吸は深く、規則正しく、誰にも急かされない。


 メイリスが先に腰を下ろす。


 寝台の端だ。横になるでもなく、招くでもなく、ただ座る。その姿勢が、今夜の合図だった。待つでも、促すでもない。ここにいる、というだけの合図。エルディオは少し遅れて、その隣に座る。距離は近い。触れないようで、触れている。太腿の位置、肩の角度、呼吸の重なり方。どれも、もう測らない。測らなくても、ずれないことを知っている。


 メイリスが、何も言わずに髪に手を伸ばす。


 自分の髪だ。束ねていた紐を外す。ほどけた髪が、肩に落ちる。音は小さく、夜に吸い込まれる。その動作は、飾りじゃない。夜に戻るための、ただの仕草だ。日中の役割を一枚脱ぐような、そんな動き。


 エルディオは、それを見ている。


 見るだけで、意味を付けない。意味を付ければ、整えたくなる。整えれば、また鎧が戻る。今夜は、それをしない。


 メイリスが振り向く。


 目が合う。


 どちらも、笑わない。


 でも、硬くもない。緊張はない。柔らかさが、間に置かれている。


 彼女が少しだけ身を寄せる。額が近づく。触れる前で止まる。その距離に、息が混じる。温度が分かる。言葉がなくても、ここにいることが分かる。確かめなくても、確かだ。


 短いキス。


 触れるだけ。


 すぐに離れる。


 それで終わりにしないで、また触れる。


 短く、何度も。


 確かめるみたいに。数を数えるほどではない。だが、数えないからこそ、残る。


 メイリスが、小さく名前を呼ぶ。


「エル」


 声は低く、柔らかい。夜に溶ける声だ。


 エルディオは答えない。


 答えない代わりに、額を合わせる。


 額と額が触れると、視界が狭くなる。見るべきものが、ひとつになる。彼女の目だけが、そこにある。そこにある、という事実が、今夜の中心になる。


 剣は見ない。


 窓も見ない。


 音を拾わない。


 それは、彼にとって小さな反逆だった。


 確認しない、という選択は、何もしないこととは違う。長年、身体に染みついた動作を、意識的に止めるということだ。剣の位置を確かめない。音を拾わない。影の濃さを測らない。その一つ一つが、彼の中では「備えを捨てる」に等しかった。


 捨てれば、楽になる。

 捨てれば、きっと眠れる。


 だが同時に、それは自分を無防備に晒す行為でもある。守る術を持たないまま、夜に身を委ねるということだ。夜は、彼にとっていつも敵でも味方でもあった。


 ――それでも。


 彼は、目を閉じたまま、その衝動をやり過ごす。剣の輪郭が脳裏に浮かびかけるたび、意識を引き戻す。今ここにある体温へ。呼吸へ。隣にいる人間へ。戻る先を、ひとつに絞る。


 戦場では、確認を怠った者から死ぬ。

 だが、ここでは違う。


 ここでは、確認し続けることが、誰かを遠ざける。距離を作り、温度を下げ、言葉を固くする。


 その矛盾を、彼はようやく理解し始めていた。


 彼は、今夜初めて、意識的に「何も確認しない」ことを選んでいた。選ぶ、というほど強い言葉ではない。ただ、手を止めた。それだけだ。


 メイリスの手が、彼の背に触れる。


 抱きしめるほどでもない。


 離れない、と言う位置に、ただ置かれる。押しも引きもない触れ方。境界線の上に置かれた手。


「大丈夫じゃなくてもいいの」


 囁くような声。


 命令じゃない。


 慰めでもない。


「怖いままでいい」


 エルディオの喉が、静かに鳴る。


 怖さは、まだ胸にある。確かにある。


 消えていない。


 消す必要も、ない。消そうとした瞬間、別の形で戻ることを、彼は知っている。


「それでも」


 メイリスが続ける。


「選んでくれて、ありがとう」


 その言葉は、重くない。押し付けない。感謝として落ちて、床に沈む。踏めばきしむほどの重さではない。そこにあると分かる重さだ。


 エルディオは、ゆっくりと息を吐く。


 吐いた息が、彼女の頬に触れる。触れたことが、分かる。


 彼は、初めて小さく言った。


「……ここにいる」


 それは、約束でも誓いでもない。


 今の状態を、そのまま言葉にしただけだ。形にしないから、壊れない。


 メイリスは、それで十分だと知っている顔をする。うなずきもしない。評価もしない。ただ、受け取る。


 また、短いキス。


 今度は、ほんの少しだけ長い。


 長いと言っても、数えるほどの時間だ。


 でも、その間、誰も逃げない。呼吸が合い、視線が合い、夜が進む。


 メイリスが、そっと彼の肩に額を預ける。


 体重をかけない。


 寄りかかりすぎない。


 ただ、触れる。


 その触れ方が、「一緒にいる」を完成させる。完成させても、終わらせない。


 エルディオは、彼女の背に腕を回す。


 抱きしめるほどではない。


 落ちないように、囲うだけ。囲いは檻ではない。境界だ。


 それで、十分だった。


 名前を呼ぶ。


 もう一度。


「メイリス」


「うん」


 返事は短い。


 言葉が多くなると、また何かを整えたくなる。整えない夜でいい。今夜は、怖さも、温度も、呼吸も、そのままでいい。


 寝台の上で、二人はゆっくりと横になる。


 何かが始まる、という気配はない。


 ただ、終わらせない夜が、静かに続いていくだけだ。続くこと自体が、今夜の意味になる。


 灯りは落とされる。


 闇は、怖くない。


 隣に、体温があるからだ。


 エルディオは、目を閉じる。


 剣を見ない。


 窓を見ない。


 確認をしない。


 メイリスの呼吸だけが、すぐそばにある。近すぎず、遠すぎない。


 怖いままでいい。


 未完成のままでいい。


 それでも、ここにいる。


 その事実が、今夜のすべてだった。


 ♢


 夜は、まだ終わりきっていなかった。


 家の中は静かで、静かすぎて、かえって音の輪郭がはっきりしている。柱が軋むこともない。風が戸を撫でることもない。村は完全に眠っていて、眠りの深さが、そのままこの家の安全を保証しているみたいだった。保証は仮のものだと知りながら、今は受け取れる。


 エミリアの寝息が、途切れずに続いている。


 規則正しい呼吸。泣いた夜の浅さではない。笑った日の、その先に自然と辿り着いた眠りだ。布団の中で、小さな体がわずかに上下する。その動きが、確かに「今日が終わった」ことを教えてくれる。


 エルディオは、その寝息を聞きながら、目を閉じていた。


 閉じているが、眠ってはいない。眠りに落ちる準備をしているだけだ。


 隣には、メイリスがいる。体温がある。呼吸の間隔が近い。触れてはいないのに、離れてもいない距離。互いの存在が、暗闇の中ではっきりと分かる。分かることが、安定になる。


 剣は、いつもの場所にある。


 部屋の隅。手を伸ばせば届く位置。置き方も、角度も、変わっていない。そこにあることは分かっている。分かっているが、今夜は触れない。


 触れない、という選択が、こんなにも重いとは思わなかった。重いが、痛くはない。


 確認すれば、楽になる。いつも通りに戻れる。危険を外に追いやって、内側を整えられる。でも、それをしないまま夜を越えることを、彼は選んだ。


 選んだ、というほど強いものではない。


 ただ、触れなかった。


 それだけだ。


 エミリアの寝息が、また一つ、深くなる。


 その呼吸を聞いていると、時間の感覚がずれる。過去と未来が薄くなり、今だけが残る。


 彼女は、ほんの数年前まで、抱き上げなければ眠れなかった。夜中に泣き、理由も分からず不安をぶつけてきた。そのたびに、彼は戸惑いながらも、腕を伸ばしてきた。


 今は違う。


 一人で眠り、夢の中で笑い、朝になれば自分の足で起きてくる。背中は少し大きくなり、声もはっきりした。できることが増え、「大丈夫」と言える場面も増えた。


 ――それでも、失う可能性は減らない。


 むしろ、増えた。


 彼女が生きる時間が長くなればなるほど、危険に触れる機会も増える。選択肢が増え、世界が広がるほど、守りきれない領域が生まれる。


 もし、もう一人増えたら。


 同じように眠る小さな背中が、隣に並ぶ光景。

 同じように、名前を呼ばれ、手を引かれ、泣き顔を見て、笑い声を聞く日々。


 その想像は、甘い。

 だが、同時に刃物のようだった。手に取れば、切れる。


 彼は、その未来を掴まない。

 掴めば、きっと逃げたくなるからだ。


 今は、ただ「ここにいる」ことだけを選ぶ。


 夢の中で何かを掴もうとしたのか、指が少し動いて、すぐに止まる。その小さな動きに、胸の奥が静かに締まる。


 失うかもしれない。


 その可能性は、消えていない。消えるはずがない。名前を変えても、距離を置いても、未来を拒んでも、失う可能性だけは、必ずどこかに残る。


 彼はそれを、よく知っている。


 リィナを失った夜も、シャルロットを失った朝も、どちらも「まさか」はなかった。兆しはあった。分かっていた。分かっていたのに、止められなかった。


 だから、怖い。


 怖さは、今も胸の中で息をしている。眠ってはいない。追い出されてもいない。ただ、静かに居座っている。


 それでも――


 拒まなかった。


 メイリスの言葉を、押し返さなかった。


「兄弟がいたらどう思う?」という問いを、危険として切り捨てなかった。未来を計算だけで閉じなかった。失う可能性を理由に、可能性そのものを否定しなかった。


 それは、強さではない。


 覚悟でもない。


 まして、英雄的な選択でもない。


 壊れたままの人間が、それでも逃げなかっただけだ。


 隣で、メイリスの呼吸がわずかに変わる。眠りに入ったのか、意識の縁に留まっているのかは分からない。ただ、その呼吸が、ここにいることを教えてくれる。


 彼女もまた、怖さを抱えたままだ。


 安心していない。

 保証もない。

 未来を確定させてもいない。


 それでも、同じ夜に留まっている。


 同じ暗さを、同じ温度で受け取っている。


 それだけで、今夜は十分だった。


 エルディオは、目を開けない。


 剣を見ない。

 窓を見ない。

 音を拾わない。


 ただ、エミリアの寝息と、メイリスの呼吸と、自分の鼓動が同じ空間にあることを、静かに受け入れる。


 未来は、まだ来ていない。


 名前も、形も、約束も持たないまま、夜の向こうに置かれている。


 選んだ、とは言えない。


 彼は、胸を張って決断したわけではない。恐怖を振り切ったわけでも、痛みを乗り越えたわけでもない。ただ、否定しなかった。それだけだ。


 否定しない、という行為は、彼にとっていつも最も困難だった。否定すれば、世界は整理できる。危険は排除され、責任は先延ばしにできる。


 だが、否定しなかった。


 怖さを理由に、扉を閉めなかった。

 未完成であることを理由に、未来を遠ざけなかった。


 それは勇敢でも、立派でもない。

 むしろ、弱さの延長にある選択だ。


 壊れたままでも、ここにいる。

 怖いままでも、手を離さない。


 その姿勢だけが、今夜の答えだった。


 だが――選ばれた。


 拒まれなかった。


 それだけで、この夜は、もう戻らない。


 失うかもしれないと知りながら、

 それでも彼は、未来を拒まなかった。


ここまでお読みいただき、ありがとうございました。

「望む」と口にすることは、幸せの宣言ではなく、怖さを抱えたまま生き方を選ぶことだと――そんな夜を書きたかった章です。


次は、この“選ばれた未来”が日常の中でどう積み重なっていくのかを、もう少しだけ丁寧に追っていきます。

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