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誰も救えない僕が、それでも魔王と生きる話  作者: 霜月ルイ
「  」編

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125/143

125.望んだ未来-1

 

 夜は、きちんと終わりを知っていた。


 笑い声が消え、器の触れ合う音も途切れ、家の中にはもう新しい出来事が入り込む余地がない。今日はここまでだと、誰に言われるでもなく理解できる夜だった。終わった、というより――納まった、に近い。


 居間の灯りは落とされていない。けれど明るくもない。芯だけが赤く残った火が、壁に淡い影をつくっている。影は揺れない。風がないからだ。戸口も、窓も、外は静かで、音という音が遠い。村が完全に眠りに入った合図が、空気そのものに染みている。


 エミリアは、もう眠っていた。


 寝室の扉は半分だけ閉じられている。中を覗けば、布団の中で丸くなった小さな背中が見えるだろう。だが、エルディオは覗かない。覗かなくても分かる。今夜の寝息は、深く、規則正しく、途中で途切れない。泣いた夜ではない。夢の続きを探して身じろぎすることもない。ただ、笑った日の終わりにそのまま辿り着いた眠りだ。


 それを思うだけで、胸の奥が一度だけ緩む。


 緩んで――すぐに戻る。


 癖だ。


 癖は、消えない。


 居間の端に立てかけられた剣が、視界に入る。いつもと同じ位置。いつもと同じ角度。手を伸ばせば届く距離。エルディオは、無意識に一歩近づきかけて、止まった。


 今日は、もういいか。


 そう思ったのは、本当に一瞬だった。息の合間に浮かんで、すぐに消える程度の考え。それでも、消えきる前に身体が動く。視線が刃の根元をなぞり、鞘の向きを確かめ、床との距離を測る。


 確認する。


 結局、確認する。


 歪みは残る。


 残ったままでも、今夜はそれが家の音に溶けていた。剣は危険を連れてこない。ただ、ここにある。いつも通りに。


 エルディオは、剣から視線を外して、居間の中央へ戻った。


 そこに、メイリスがいる。


 寝室ではない。居間だ。今日の終わりは、まだここにある。二人は並んで腰を下ろしている。座布の上、卓の端。距離は近い。近いが、詰めていない。肩が触れるか触れないか、その境目に自然に収まっている。


 やがて、触れた。


 エルディオが息を吐いた拍子に、メイリスの肩に軽く当たる。彼女は動かない。避けない。謝らない。エルディオも同じだ。触れたまま、動かない。


 それが、もう特別じゃない。


 特別じゃない距離が、今夜の空気を完成させていた。


 二人の前には、何もない。器は片づけられ、布は畳まれ、卓は素肌を晒している。片づいたという事実が、今日という一日を過去にしている。これ以上、何かを足す必要がない。


 しばらく、言葉はなかった。


 言葉がないことが、不足ではない沈黙。共有している景色があるから、言葉を置く場所が見つからないだけだ。


 やがて、メイリスが小さく言う。


「今日は、いい一日だったね」


 声は低く、静かだ。祈りでも、確認でもない。感想だ。


 エルディオは、すぐに返さない。返さないが、否定もしない。胸の奥で一度だけ、同意が形を持つ。


「……ああ」


 短い返事。頷きが混じる。


 その一音に、棘はない。警戒もない。ただ、受け取っている音だ。


 メイリスは、少しだけ視線を落とす。卓の木目を見ているのか、影を見ているのかは分からない。


「エミリア、ずっと楽しそうだった」


 事実をなぞるような言い方。


「……そうだな」


 エルディオは、今度は間を置かずに答えた。記憶が、すぐに浮かぶ。笑った顔。跳ねる足。眠る前に置いていった言葉。未来の匂いを含んだ、軽い声。


 その記憶が胸に満ちる。満ちて、溢れない。今夜は、溢れない。


 肩が、まだ触れている。


 触れたまま、二人は動かない。


 風はない。外は静かだ。村は眠っている。家は起きているが、騒がしくはない。火は強くない。剣は所定の位置にある。エミリアは眠っている。


 もう壊れた一日ではない。


 ちゃんと終わった一日の夜が、ここにある。


 特別なことは、何も起きていない。


 だからこそ、今が十分に満ちている。


 二人は並んで座り、肩を触れさせたまま、その満ち足りた静けさを受け取っていた。


 ♢


 夜は、まだ続いていた。


 終わった一日の余熱が、家の中に薄く残っている。火は落ち、音はない。それでも、完全な静寂にはならない。人が暮らしている家の静けさだ。壁が呼吸し、床が記憶を留め、今日という一日が「ここにあった」と、声を上げずに主張している。


 メイリスは、何も言わずに立ち上がった。


 立ち上がる理由は、片付けでも仕事でもない。流れだ。夜が深くなり、動くべきものが自然に動く、その延長にある仕草だった。


 彼女は、椅子の背に掛けられていたエルディオの外套に手を伸ばす。


 外套は、少しだけ重い。剣ほどではないが、着る人間の癖を吸い込んだ重さだ。肩の癖、腕の癖、歩くときの揺れ。メイリスはそれを、いちいち意識しない。ただ、手に取って、当たり前のように扱う。


 外套を広げ、折り目を整える。


 布が擦れる音が、小さく鳴る。


 エルディオは、それを見ている。


 見ているが、何も言わない。


 外套を畳まれることに、違和感がない。預けることに、意味を考えない。それが“してもらっている”ことだとも、“守られている”ことだとも思わない。


 ただ、ここにある流れのひとつとして、受け取っている。


 メイリスが外套を畳み終えると、自然に彼の横へ戻ってきた。


 戻ってくる位置も、もう決まっている。


 近すぎず、遠すぎず。


 肩が、また触れる。


 触れたまま、動かない。


 そこに意味は付けられない。付ける必要がない。触れていること自体が、すでに意味を超えている。


 メイリスは、エルディオの方を見ずに言う。


「外套、明日も使う?」


 明日の話だ。


 でも、未来の話ではない。


 生活の話だ。


「……ああ」


 短い返事。


 それで十分だった。


 メイリスは、畳んだ外套を脇に置く。置く場所も、もう決まっている。そこに置くと、邪魔にならない。朝、手を伸ばせば届く。


 その配置が、何度も繰り返されてきたことを、二人とも知っている。


 メイリスは、次にエルディオの方を向いた。


 向いた、というより、向いていたことに気づいた。


 彼の髪が、少しだけ乱れている。


 昼の名残だ。外を歩き、風に当たり、子どもに引っ張られ、肩車をして、戻ってきたままの髪。


 メイリスは、何も言わずに手を伸ばす。


 指先が、髪に触れる。


 整える、というほどでもない。ただ、流れを戻す。指で梳く。耳の後ろに、軽く寄せる。


 エルディオは、動かない。


 驚かない。


 息も、乱れない。


 触れられていることに、意味を探さない。


 意味を探す前に、それが“当たり前”として身体に落ちてくる。


 メイリスの指は、長く留まらない。


 撫でるでも、確かめるでもない。


 ただ、そこにあったものを、そこに戻す。


 整え終わると、彼女は手を引っ込める。


 何事もなかったように。


 その距離感が、甘かった。


 エルディオの胸の奥で、言葉にならない感覚が膨らむ。


 守っている、という感覚ではない。


 守られている、という感覚でもない。


 ただ――ここにいる。


 この家に。


 この夜に。


 この人の隣に。


 それだけだ。


 それだけなのに、胸が満たされる。


 満たされるほど、怖くなる。


 何かを失う恐怖ではない。


 “ここにいる”ことが、どれほど脆いかを、彼は知っている。


 戦場では、位置を取れば生き残れる。


 役割があれば、立っていられる。


 でも、ここでは違う。


 立っていなくていい。


 構えなくていい。


 ここにいるだけでいい。


 それが、一番怖くて、一番幸せだった。


 メイリスは、ふっと息を吐く。


 それは疲労でも、溜息でもない。


 今日を終えた人間の呼吸だ。


「……夜、静かだね」


 感想。


 エルディオは、頷く。


「……ああ」


 それ以上、何も足さない。


 足さなくていい。


 二人は、並んで座ったまま、しばらく動かなかった。


 肩が触れ、外套が畳まれ、髪が整えられ、言葉が尽きる。


 欲情はない。


 安心とも、少し違う。


 ただ、この人と一緒にいるのが当たり前だ、という感覚だけが、静かに積み重なっていく。


 その積み重なりが、後で何を呼ぶのか――


 エルディオは、まだ知らない。


 知らないまま、今夜の甘さを、何の疑いもなく受け取っていた。


 この静かな夜が、特別ではないことを。


 そして、それがいちばん危険で、いちばん愛おしいということを。


 ♢


 夜は、すでに十分に静かだった。


 居間の灯りは落とされ、芯だけが赤く残っている。外からの風はなく、戸も鳴らない。村は完全に眠っていて、遠くの物音すら届かない。ここには、揺らぎがない。


 エルディオとメイリスは、並んで座っていた。


 寝室ではない。居間だ。日中を過ごし、片付けを終え、ただ腰を下ろすための場所。特別な場所ではないからこそ、二人はここにいる。


 肩が、触れている。


 触れているが、動かない。


 寄せたわけでも、寄せられたわけでもない。座った結果、そこに肩が来ただけだ。それを直そうとも、広げようとも思わない。


 エルディオは、前を見ている。


 壁でも、窓でもない。床だ。灯りの名残が落ちて、影が薄く伸びている床板。その継ぎ目を、視線がなぞっている。


 剣は、いつもの場所にある。


 視界の端に、確かにある。


 今日はもういいか、と一瞬だけ思った。


 確認しなくても、分かっている。

 異変はない。

 何も起きない夜だ。


 それでも――彼は、結局確認した。


 視線を走らせるだけの、ほんの一瞬。

 触れない。

 立ち上がらない。


 それで終わる。


 歪みは、残っている。

 残っているが、今はそれでいい。


 メイリスは、その一連を見ていた。


 見ていたが、何も言わない。


 それもまた、当たり前になっている。


 しばらく、何も起きない時間が続いた。


 音もない。

 会話もない。


 重くはない沈黙だ。


 むしろ、満ちている。


 今日という一日が、ちゃんと終わったあとの沈黙。壊れたものを拾う時間ではなく、何も起こらなかったことを確かめるための時間だ。


 メイリスが、小さく息を吸う。


 その呼吸が、合図になる。


 だが、彼女はすぐには話さない。


 少し迷う。


 迷いは、長くない。

 一瞬だけ、言葉を選ぶための間だ。


 声を落とさない。

 表情も、深刻にしない。


 ただ、思いついたことを口にするみたいに――

 それでいて、逃げない。


「ね、エル」


 呼びかけは、柔らかい。


 エルディオは、視線を上げない。


「なに」


 返事も、短い。

 だが、拒まない。


 メイリスは、少しだけ彼の方を向く。


 向いて、すぐに見つめない。

 肩が触れたままの距離で、視線を前に置いたまま、言う。


「エミリアに……兄弟がいたら、どう思う?」


 声は、いつもと同じだ。


 重さを載せていない。

 試す響きでもない。


 まるで、今日の天気を聞くみたいに。

 でも、冗談ではない。


 言葉は、居間の空気に落ちる。


 落ちて、すぐには波紋を広げない。


 エルディオは、すぐに答えなかった。


 顔を上げない。

 剣も見ない。


 視線は、床に落ちる。


 床板の継ぎ目。

 影の境目。


 そこに、何か答えがあるわけじゃない。

 ただ、目を向ける場所として、そこを選んだだけだ。


 胸の奥で、反射が走る。


 ――また、失うかもしれない。


 言葉にならない思考が、形を持つ前に広がる。

 家族。

 増える命。

 守るもの。


 守れなかった過去が、すぐ隣に並ぶ。


 彼は、その連なりを、一度受け止める。


 押し返さない。

 否定もしない。


 沈黙が、伸びる。


 重いが、逃げ場のない沈黙ではない。


 メイリスは、急かさない。


 同じ沈黙の中に、留まる。


 そして、そっと手を伸ばした。


 エルディオの手に、指先が触れる。


 絡めない。

 握らない。


 触れるだけ。


 そこにいる、という合図だ。


 エルディオは、その温度を感じる。


 感じて、呼吸を整える。


 自分が今、ここにいることを確認する。


 戦場ではない。

 過去でもない。


 今だ。


 彼は、ゆっくりと息を吐いた。


 答えは、まだ口にしない。


 だが、逃げない。


 床を見たまま、肩に触れる感触と、手に伝わる温度を受け取りながら、沈黙の中に留まる。


 この問いを、重さごと引き受ける準備をするために。


 夜は、静かなままだった。


 静かなまま、この家の中に、新しい可能性だけを置いていった。


この夜は、何かが決定的に変わる場面ではありません。

誰かが救われるわけでも、傷が癒えるわけでもない。ただ、一日がきちんと終わっただけの夜です。


けれどエルディオにとって、それはとても大きなことでした。

剣を確認し、歪みを抱えたまま、それでも誰かの隣に座り続けること。

守るでも、誓うでもなく、ただ「ここにいる」ことを選ぶこと。


この静けさが、これから先の言葉や選択を受け止められる土台になります。

特別ではない夜だからこそ、後に語られる未来は唐突にならない。


幸福が厚くなった夜の、その一枚目として。

そんな位置づけの章でした。

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