表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
誰も救えない僕が、それでも魔王と生きる話  作者: 霜月ルイ
「  」編

この作品ページにはなろうチアーズプログラム参加に伴う広告が設置されています。詳細はこちら

124/143

124.『一年という時間』

 

 夜は、村の輪郭を消していた。


 昼間にあれだけあった声が、火が爆ぜる音が、鍬の鳴る乾いた響きが――全部、土の中に埋められたみたいに消えている。戸の隙間から入る風も控えめで、木々のざわめきすら遠い。眠っているのは人間だけじゃない。世界そのものが、呼吸を薄くしている夜だった。


 エルディオは、その静けさを受け取る前に、いつも通りの順番を踏む。


 寝台に腰を下ろし、布団を整え、灯りの芯が赤くなるのを見て――最後に、剣を見る。


 位置。

 角度。

 手を伸ばしたときに指が届く距離。


 変わらない。


 変わらないことを、確認しないと横になれない。


 その癖を、彼は「悪い」とは思わない。悪いかどうかを考えるより先に、身体がそれを“必要”だと覚えてしまっている。忘れようとすると、別の場所が壊れる。なら、壊さない方を選ぶ。そうやって生きてきた。


 でも――。


 今夜は、布団に入る瞬間、胸の奥がふっと柔らかくなるのを感じた。


 さっきまで、エミリアの誕生日の名残が家のどこかに残っていたからだ。片付けられた卓の上。洗われた器。布に染みた果実の甘い匂い。寝息が深く沈む隣室。未来の言葉を置いて眠った子どもの呼吸。


 幸福が、重い。


 重いのに、温かい。


 その温かさが、今夜は怖さより先に来て――彼は、剣から視線を外し、横になった。


 その直後だった。


 短い声が、闇を裂いた。


「――っ」


 叫びと呼ぶほど長くない。言葉にもなっていない。ただ、喉が悲鳴の形を取っただけの音。息を吸う途中で潰れたみたいな、短い破片。


 エルディオの身体は、考える前に起き上がっていた。


 布団が揺れる音を最小にする。

 足を床に落とす角度を調整する。

 呼吸を浅くする。


 立ち上がる速度が戦場だった。


 そのことを、本人だけが最初に自覚する。


 ――今、なにをしている。


 でも止まれない。止まった瞬間、もし外だったら死ぬ。そういう回路が、まだ抜けていない。抜けていないことを、彼はもう否定しない。否定できないほど、深く刻まれている。


 足音を殺して、扉へ向かう。


 扉を見る。

 鍵の位置を見る。

 窓を見る。

 窓の外の闇の濃さを見る。

 耳を澄ます。


 風の音。

 木が擦れる音。

 遠い犬の寝返り。

 何もない。


 何もない、という情報を得ても、彼の思考は止まらない。


 ――襲撃なら、どこから入る。

 ――村の外縁は。

 ――柵は。

 ――最初に狙われるのは子どもだ。

 ――火を消せ。声を出すな。


 瞬間で展開される想定が、あまりにも正確で、あまりにも冷たい。


 それが、彼の生き方だった。


 けれど次の瞬間、扉の向こうから聞こえたのは、足音ではなく――小さな、擦れる音だった。


 布団が揺れる音。

 短い息。

 呼吸が速い。


 エミリアの部屋だ。


 エルディオは、扉に触れかけた手を止める。


 止める理由はひとつ。


 ――外ではない。


 外ではないと分かった途端、胸の奥に別の緊張が生まれる。


 それは危険への緊張じゃない。


 壊したくないものへの緊張だ。


 エルディオは、ゆっくり扉を押した。


 軋みが出ないように、力を分ける。蝶番の癖を知っている。角度を間違えれば音が鳴る。音が鳴れば――子どもはもっと怖がる。


 扉が、わずかに開く。


 薄暗い部屋の中で、エミリアが布団の上に丸まっていた。


 小さな肩が震えている。

 髪が額に貼りついている。

 汗が、こめかみに浮いている。


 目は開いているのに、焦点が合っていない。見ているのは、目の前の部屋じゃなく、夢の中の何かだ。


「……エミリア」


 声を落として呼ぶ。


 呼び方は、村で呼ぶ声とは違う。戦場で指示を出す声とも違う。家の夜の声だ。柔らかいのに、揺らがない声。


 エミリアが、びくりと肩を跳ねた。


 そして、目がエルディオを捉える。


 捉えた瞬間、堰が切れたみたいに唇が震える。


「……お、と……」


 言葉がほどけない。

 声が形にならない。


 小さな指が布団の端を掴む。掴んで、離せない。離したら落ちるみたいに、必死で握りしめている。


 エルディオは、一歩近づく。


 近づきながら、身体が一度、止めようとする。


 抱きしめるな。

 強く触れるな。

 急に近づくな。


 ――戦場の経験が、子どもの夜に割り込もうとする。


 けれど彼は、そこで止まらなかった。


 止まったら、エミリアは一人のままだ。


 父として、そこを選べない。


 彼は、布団の脇に膝をつき、ゆっくり手を伸ばす。


 最初は抱きしめない。


 背中に触れる。


 手のひらを広く使って、肩甲骨のあたりを撫でるのではなく、押さえる。そこにいる、と伝える位置に置く。呼吸のリズムを、こちらに引き寄せるための触れ方。


「……ここだ」


 短い言葉。


「……今は、夜だ」


 “大丈夫”ではない。

 でも、同じ意味の言葉だ。


 今は夜。

 夜は過ぎる。

 今はここ。


 エミリアの肩が、少しだけ緩む。


 それでも震えは止まらない。


「……こわい」


 ようやく言葉が出る。

 小さく、切れ切れに。


「なにが?」


 問いも短い。


 余計な言葉を足さない。足せば、夢に形を与えてしまう。形を与えれば、怖さが増える。増えた怖さは、次の夜に残る。


 エルディオは、それを知っている。


 エミリアは、口を開く。閉じる。息を吸う。吐けない。


「……わかんない……」


 涙が、目の端に溜まる。


「……おっきい……」


 それだけ。


 おっきい、という単語に、何の情報もない。

 でも、その単語が持つ怖さは、子どもにとって十分すぎるほど大きい。


 エルディオの胸が、きゅっと締まる。


 締まって――反射が走る。


 ――戦場の夢か。


 自分の夢の形式で、目の前の子どもを見てしまう。


 おっきいもの。

 押し潰すもの。

 足音のない影。

 視界の端で迫る何か。


 “戦場の夢”という枠に当てはめてしまえば、対処できると思ってしまう。原因を分類し、危険を測り、逃げ道を考える。


 それは――父として最悪だ。


 子どもの怖さを、

 自分の怖さの型に入れてしまう。


 エルディオは、背中に置いた手をわずかに強くする。


 強くするのは、押さえつけるためじゃない。


 自分の中の反射を、押し込めるためだ。


 ――違う。

 ――これは、エミリアの夜だ。

 ――僕の戦場じゃない。


 彼は、息を整える。


 戦場の呼吸ではなく、家の呼吸に戻す。


 そして、次の一歩を選ぶ。


 抱きしめる。


 遅れた分だけ、丁寧に。


 エミリアの背中に回していた手を、ゆっくり胸の方へ回し、肩を包む。身体の小ささに驚く。去年より少し大きくなったはずなのに、まだこんなに軽い。


 抱き寄せると、エミリアがすぐに彼の服を掴んだ。


 掴む力が強い。


 強さが、怖さの濃さだ。


「……お父さん」


 声が震える。


「……いる」


 それだけ言う。


 いる、という言葉は短い。

 でも、エルディオの全てがそこに入っている。


 エミリアの震えが、少しずつ収まっていく。完全には止まらない。けれど、呼吸が深くなる。息が吸えるようになる。


 その変化を感じた瞬間、エルディオの胸にまた別の痛みが走る。


 ――僕は、普通の父になりきれていない。


 普通の父なら、最初から抱きしめる。

 普通の父なら、扉を見ない。

 窓を見ない。

 外縁を想定しない。


 普通の父なら、最初に思うのは「怖かったね」だ。


 なのに自分は、最初に「襲撃」を思った。


 その事実が、刃みたいに刺さる。


 刺さるのに、エルディオはその刃を抜かない。


 抜けば、彼はまた黙る。

 黙って、剣の位置を直して、何も言わない英雄に戻る。


 戻りたくない。


 彼は、声に出さないまま、自分の中で言い切る。


 ――父として最悪だ。

 ――でも、最悪だと分かっているなら、ここから直せる。


 エミリアが、彼の胸元で小さくしゃくり上げた。


「……いや、だった」


「うん」


 否定しない。


「……おっきくて……」


「うん」


 繰り返す。


 同じ返事を返すのは、説明じゃなく受け止めだからだ。


 説明は、朝にできる。

 今は夜だ。


 エミリアの指の力が、少しだけ緩む。


 その瞬間、部屋の戸が、かすかに鳴った。


 次いで、足音。


 静かで、迷いのない足音。


 メイリスだ、と分かる。


 彼女は扉を少しだけ開けて、中を覗いた。灯りを持っていない。暗さを壊さないためだ。声も、壊さない。


「……起きちゃった?」


 囁き。


 エルディオは頷く。


「……悪夢だ」


「そう」


 メイリスは、それ以上、原因を聞かない。


 聞けば、言葉が増える。

 言葉が増えれば、夜が長くなる。


 彼女は部屋に入り、寝台の反対側に膝をついた。


 そして、エミリアの髪を指で梳いた。


 梳くというより、撫でるでもなく――整える。


 乱れたものを、元に戻す手つき。


「今は、夜だよ」


 メイリスは同じ言葉を言う。


 “ここは安全”と断言しない。

 でも、今は夜で、夜は終わる。

 その確かさを、声にする。


 エミリアが小さく頷く。


 涙で濡れたまつげが、震えながら閉じる。


 メイリスは、エルディオの方を見る。


 責める目じゃない。

 試す目でもない。


 ただ、「戻っておいで」と言う目だ。


 エルディオの胸が、少しだけ緩む。


 彼は、息を吐いて――初めて、言葉にする。


「……僕は、すぐ戦場に戻る」


 声が低い。

 自嘲に近い。


「夢の話なのに、最初に襲撃を考えた」


 言ってしまってから、喉が痛くなる。

 自分の弱さを言う痛みじゃない。

 父としての未熟を言う痛みだ。


 メイリスは、すぐには返さない。


 返さず、エミリアの髪を整え続ける。


 そして、静かに言う。


「それでも、抱きしめた」


 短い評価。


 できたことだけを拾う言葉。


 エルディオは、目を伏せる。


「……遅かった」


「遅くても、来た」


 メイリスの言葉は、柔らかいのに鋭い。


 エルディオの胸が、また締まる。


 締まって――少しだけ温かい。


 エミリアが、二人の間の空気を感じ取ったのか、エルディオの服をもう一度ぎゅっと掴んだ。


「……お父さん、いる?」


 確認の言葉。


 エルディオは、即答する。


「いる」


 今度は迷わない。


 迷わない声は、エミリアの呼吸をさらに深くする。彼女の指がほどけていく。体の震えが止まっていく。


 メイリスが、囁く。


「今日は、ここで寝ようか」


 エミリアは小さく頷く。


 頷いて、エルディオの胸に額を押し当てた。


 その重さが、父の重さだ。


 エルディオは、抱きしめる腕を少しだけ締める。


 締めて、思う。


 幸福が厚くなったからこそ、悪夢は刺さる。


 刺さるのに――


 刺さったまま、こうして抱きしめていられる。


 普通の父になりきれていない自覚は、痛い。

 でも、その痛みがあるから、彼は今夜も戻ってこられる。


 メイリスが、灯りのない暗がりで、そっと言った。


「今は、夜」


 繰り返す。


 夜は終わる。

 終わって、朝が来る。


 エルディオは、目を閉じた。


 剣の位置を確認したい衝動が、喉の奥に残っている。

 残っているけれど――


 今夜は、それよりも先に、腕の中の温度を確かめる。


 父として。


 そして、まだ完全には抜けない壊れ方ごと、ここにいる人間として。


 エミリアの呼吸が、ゆっくりと整っていく。


 村は眠っている。


 家も眠りに戻ろうとしている。


 その静けさの中で、エルディオだけが、静かに理解していた。


 ――悪夢が刺さったのは、幸福がちゃんと届いている証拠だ。


 ♢


 夜は、すでに深かった。


 家の中には、さっきまで確かにあった緊張の余韻が、薄く残っている。

 けれどそれは、戦場の残り香ではない。

 泣き声が収まったあとの、子どもの呼吸がつくる静けさだった。


 エミリアは眠っている。


 頬には、さっきまで涙が流れていた痕が、かすかに残っている。

 乾ききらないその跡は、悲しみの名残というより、現実に戻ってきた証みたいだった。

 夢の中で見た何かを、まだ言葉にできないまま、身体だけが安心を思い出している。


 寝息は、少し不規則だ。

 けれど、確かに深い。


 エルディオは、その寝顔を見下ろしながら、胸の奥で一度だけ息を整えた。

 抱きしめた腕の感触が、まだ残っている。

 軽すぎず、重すぎず、守るというより「ここにいる」と伝えるための力。


 ――それでよかったのか。


 問いは、消えない。

 けれど、否定もしない。


 部屋の外では、村が眠っている。


 風はなく、戸は鳴らず、遠吠えも聞こえない。

 見張るべき音が、何ひとつない夜だ。

 それが、逆に現実味を帯びて胸に落ちる。


 平和だ。


 平和だからこそ、壊れたら致命的だと、身体が理解してしまう。


 エルディオは、ゆっくりと視線を動かす。

 部屋の隅。

 影の濃さ。

 闇の奥行き。


 そして――剣の位置。


 いつも通りだ。

 手を伸ばせば届く距離。

 角度も、鞘の向きも、変わっていない。


 確認して、ようやく視線を戻す。


 再び、エミリアの寝顔へ。


 さっき泣いていた子どもは、もう夢の底に沈んでいる。

 その顔は、世界がまだ優しいと信じている顔だ。

 守るべきものだと、考える前に、そう感じてしまう顔だ。


 その事実が、胸に残る。


 一年分の時間。

 一年分の季節。

 一年分の声と、温度と、重さ。


 それらは確かに、彼の中に積み重なってしまった。


 だから、失う音を想像してしまう。

 だから、夜が怖い。

 だから、剣から視線を外しきれない。


 それでも。


 エルディオは、最後にもう一度だけ、エミリアの布団を整える。

 音を立てないように。

 起こさないように。


 そして、灯りを落とした。


 暗闇は、以前ほど冷たくない。


 一年を生き延びたのではない。

 一年を、生きてしまった。


幸福が積み重なった先にも、癖や壊れ方は簡単には消えません。

それでも、反射で剣を見る手を止め、子どもを抱きしめることを選べた夜を書きました。

“普通”になりきれない自覚を抱えたまま、それでも父であろうとする姿が、静かに届いてくれたなら嬉しいです。

評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

↑ページトップへ