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誰も救えない僕が、それでも魔王と生きる話  作者: 霜月ルイ
「  」編

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123/143

123.一年という時間-4

 

 夜は、家の中に残った笑いを、静かに薄めていく。


 火はもう強くない。鍋の底に残った温かさが、まだ卓の上の木目に移っている。パンの香ばしさと、煮詰め果実の甘い匂いが、薄い膜みたいに空気に張りついていて――それが今日という一日の「終わり」を、優しく引き留めていた。


 エミリアは寝た。


 寝る直前まで、頬が赤かった。笑い疲れて、言葉がほどけて、最後は「また、らいねんもね」と未来を置いていったまま、あっけなく眠ってしまった。


 その寝息は深い。


 深い寝息が、今日はちゃんと“届いた”という証明みたいで、エルディオは胸の奥で一度だけ息を緩める。


 緩めて――すぐに戻す。


 癖だ。


 癖は、消えない。


 けれど、今夜はその癖すら、家の音に溶けていた。遠くの壁のきしみ、火の名残が立てる小さな音、布が落ち着く気配。すべてが、同じ速度で夜へ沈んでいく。


 ♢


 片付けは、いつも通りに始まった。


 誰かが「片付けよう」と言ったわけじゃない。食卓が終わると、自然に手が動く。器を重ね、布を取って、桶に水を張る。音が、生活の速度に戻っていく。


 エルディオは皿を持ち上げ、桶へ運ぶ。


 メイリスは卓を拭く。


 二人の間に会話はない。


 ないけれど、今日の無言は、嫌な無言じゃなかった。重く沈む沈黙ではなく、同じ景色を共有している沈黙だった。今日という日を、同じ角度から見終えた者同士の、整った無言だ。


 布が擦れる音。

 水が揺れる音。

 器が触れ合って小さく鳴る音。


 それらが、家の中で規則みたいに繰り返される。


 規則の中に、甘さが混じっている。


 甘さは、派手じゃない。

 声を上げたり、抱きしめたり、特別な言葉を並べたりする甘さじゃない。


 肩が触れる。

 そのまま離れない。


 ただそれだけ。


 エルディオが桶へ皿を沈めるために少し身を屈めると、メイリスの肩が彼の肩に、かすかに当たった。


 触れた瞬間、二人とも動きを止めない。


 避けない。

 謝らない。

 わざとでもない。


 それがもう、“生活の中の距離”になってしまっている。


 エルディオは、触れ合った肩の感触を、意識の端で受け取ったまま皿を洗う。水の冷たさと、背に残る温度が、同時に在る。


 メイリスは布を動かす。


 そして、ふと彼女が言った。


「今日は平和だったね」


 声は小さい。


 祈りの声ではなく、結論の声でもなく、ただの感想の声だ。


 エルディオは、皿の縁を指で確かめる。欠けがないか、という意味じゃない。いつもの癖で、指先が縁をなぞるだけだ。


 そして、短く答える。


「……ああ」


 頷きが混じる。


 言葉は短いのに、否定が一切ない。

 そこに棘もない。


 メイリスは、布を畳み直しながら、ほんの少しだけ笑う。


「あなたが“ああ”って言うと、本当に平和だったんだなって思う」


「……どういう基準だ」


 エルディオの返しは、冗談めいている。


 冗談が、自然に出る。


 それだけで、今日の夜は十分甘かった。


 メイリスは肩をすくめる。


「基準はあなたよ。いつも厳しいから」


「……厳しくしてるつもりはない」


「してるわ」


「……してない」


 言い合いの形だけが続く。


 続くのは、続いていいからだ。


 この家では、言い合いが危険を呼ばない。

 言い合いは、失敗ではない。


 ただの生活になる。


 エルディオは、皿を最後の一枚まで洗い終え、桶の水を捨てに立ち上がった。


 その動きに合わせて、メイリスも一歩だけ動いた。


 肩が触れ合う角度が、少し変わる。


 その距離が、怖いほど、心地いい。


 ♢


 桶を捨てて戻ると、メイリスが棚の上段へ手を伸ばしていた。


 背伸びをする。指先が皿の縁に触れて、少しだけ届かない。


 普段なら、彼女はもう少し無理をして届かせる。

 でも今日は、無理をしない。


 代わりに、何も言わずにこちらを見る。


 それだけで、エルディオの身体が動いた。


 彼は後ろからそっと皿を取って、上段へ置いた。音を立てないように、という意識はない。ただ、自然にそうなる。


 手が、近い。


 メイリスの耳の後ろに垂れる髪が、わずかに揺れる。


 匂いがする。


 火と果実の甘さに混じった、彼女の匂いだ。


 昔から変わらない匂いだと、エルディオは思ってしまう。


 思って、喉が少しだけ詰まる。


 メイリスは、ありがとう、と言わない。


 言うほどのことではない距離になっているからだ。


 代わりに、息だけ吐く。


 その息が、なぜかくすぐったい。


 エルディオが一歩退くと、メイリスも同じだけ退く。


 動きが揃う。


 揃うことが当たり前になっている。


 しばらく、二人は並んで立っていた。


 部屋は薄暗い。

 灯りは落とされて、芯の赤さだけが残っている。


 それで十分だった。


 十分で、足りてしまう夜だ。


「……去年は、うまく祝えなかったのにね」


 メイリスが言う。


 責めじゃない。

 蒸し返しでもない。


 ただ、今日の夜に浮かんできた事実を、そっと置いただけの声。


 エルディオは、すぐ返さない。


 返せないわけじゃない。

 言葉にしてしまうと、去年の自分がここに現れてしまう気がする。


 それは、もう置いていきたい。


 でも――


 置いていきたいものほど、言葉にして置き直さないと消えないことも、彼は知っている。


「……祝えなかった」


 エルディオは低く言う。


 短い。

 言い訳はない。


 メイリスは、頷く。


「うん。祝いたかったのにね」


 彼女は、そこまで言って止める。


 ――分かっている、という合図。


 エルディオの胸が少しだけ温かくなる。


 温かくなって――

 いつもの癖が首をもたげる。


 外を見ろ。

 音を拾え。

 危険を確認しろ。


 それを、彼は一度だけ飲み込んだ。


 飲み込むことを、今日は選べる。


 メイリスが、彼の横顔を見ていた。


 見て、目を細める。


「今日、あなた、本当に嬉しそうだった」


「……そう見えたなら、そうなんだろう」


 自分の感情を自分で断言するのは、まだ少し怖い。


 でも、否定はしない。

 逃げもしない。


 メイリスは、静かに笑う。


「あなた、変わったね」


 変わった。

 それは祝福にも、恐怖にもなる言葉だ。


 エルディオは、少しだけ眉を寄せる。


「……変わらなきゃ、ここにはいられない」


 ぽつり。


 生活の言葉でもなく、戦場の言葉でもなく、彼の本音が一瞬だけ落ちる。


 メイリスは、すぐにそれを拾わない。


 拾わないで、ただ一歩、近づいた。


 その距離の詰め方が、あまりにも自然で――


 エルディオの呼吸が、一拍遅れる。


 ♢


 “昔みたいに”は、音もなく生まれた。


 メイリスが、ふっと顎を上げる。

 それだけ。


 何かを宣言しない。

「いい?」とも聞かない。

 誘惑するみたいな目もしない。


 ただ、確かめるみたいに近づく。


 確認するみたいに。


 そして、唇が触れる。


 軽い。

 短い。

 体温を置くだけのキス。


 昔みたいに。


 ――昔みたいに、という言葉が胸の中で鳴って、エルディオは一瞬、固まった。


 身体が動かない。

 拒むわけじゃない。

 逃げるわけでもない。


 ただ、受け取る準備が遅れる。


 それでも、彼は拒否しなかった。


 拒否する理由がない。


 拒否するのは、怖いからだ。

 怖いから拒否するのは――もう、やめたい。


 メイリスが離れる。


 離れても、勝ち誇った顔はしない。


 ただ、小さく笑った。


 “できた”と喜ぶ笑いじゃない。


 “ここにいる”と確かめただけの笑いだ。


 エルディオは、息を吐いた。


 吐いた息が、やけに熱い。


「……今のは」


 言いかけて、言葉が見つからない。


 メイリスは肩をすくめる。


「昔みたいに、って思っただけ」


「……昔みたいに、は」


 エルディオの声が少しだけ低くなる。


「……ずるい」


 それは責めじゃない。

 降参だ。


 メイリスは、笑う。


「ずるくないわ。あなたが、ちゃんとここにいるから」


 その言葉は甘い。

 甘いのに、鋭い。


 “ここにいる”ということは、

 居続ける前提が生まれるということだ。


 エルディオの胸が、静かに締まる。


 締まったまま、温かい。


 彼は、ふっと目を逸らしかけた。


 外を見る癖が、出かける。


 でも――出ない。


 メイリスが、彼の視線を逃がさない距離にいるからだ。


 逃がさないのは、縛るためじゃない。

 戻すためだ。


「ねえ」


 メイリスが、小さく言う。


「怖い?」


 直球だった。


 でも、優しい直球だ。


 エルディオは、すぐ答えない。

 答えたら、自分の中の“警戒”に名前をつけてしまうから。


 名前をつけたものは、確定する。

 確定したものは、役割になる。


 それでも――


 今日は、誕生日だった。


 エミリアの誕生日。

 “未来”を口にしてしまう日。


 エルディオは、短く言った。


「……怖い」


 初めて、言い切った。


 メイリスは驚かない。


 ただ、頷く。


「うん」


 それだけ。


 そして、もう一度近づく。


 今度は、さっきより少しだけ長いキス。


 軽いまま。

 でも、逃げ道を与えない長さ。


 エルディオは、今度は固まらなかった。


 受け取る。


 受け取って、返す。


 唇が離れると、メイリスの額が彼の胸に当たった。


 寄りかかる、ほどではない。

 でも、触れる。


 その接触が、彼を人に戻す。


 父の背中ではなく、

 男の胸を持っていることを思い出させる。


「……メイリス」


 エルディオが名前を呼ぶ。


 呼び方が、昔と同じだ。


「なに?」


 メイリスが、顔を上げる。


 灯りが弱いせいで、彼女の目は少しだけ濃く見える。

 濃く見えるのに、柔らかい。


 エルディオは、言ってしまう。


 言ってしまった。


「……いつまで経っても、あの頃のまま綺麗だ」


 その瞬間、メイリスの動きが止まった。


 止まってから、頬が少しだけ赤くなる。


 火のせいじゃない赤さ。


「……もう、何言ってるの」


 声が、少しだけ上ずる。


「私、もう四十だよ? 若くないって」


 言いながら、視線を逸らす。


 逸らすのに、離れない。

 離れないまま、口元だけが照れている。


 エルディオの胸が、ふっと緩む。


 緩んで、笑いが出る。


 小さく。

 自然に。


「……若いとかじゃない」


「じゃあ、なに」


 メイリスが、拗ねたみたいに言う。


 その拗ね方が、昔のままだ。


 エルディオは、少しだけ言葉を探して――

 見つける。


「……変わらないところが、ある」


 彼の声は低い。

 優しい低さだ。


「……それが、救いになる」


 救い。


 その単語は、重い。


 戦場なら、言わない単語だ。

 言えば弱さになる単語だ。


 でも、今はここだ。

 家だ。

 夜だ。


 メイリスは、息を吐いて笑う。


「救いって言い方、あなたらしい」


「……悪いか」


「悪くない」


 即答だった。


 そして、メイリスはまた近づいてくる。


 今度のキスは、さっきよりさらに短い。


 短いのに、深い。


 確認。

 確認。

 確認。


 ――ここにいる。

 ――離れていない。

 ――壊れていない。


 幸福の厚みが、確かに増えていく。


 増えていくほど、壊れたときの致命傷も厚くなる。


 その事実を、エルディオは知っている。


 知っているのに、今夜だけは――

 その厚みを、増やすことを選んだ。


 ♢


 片付けは、いつの間にか終わっていた。


 桶は空になり、布は干され、卓の上は何もない。


 それでも二人は、まだ台所に立っている。


 理由はない。

 理由がないから、甘い。


 メイリスが小さく言った。


「エミリア、今日はすごく幸せそうだった」


「……ああ」


「あなたも」


 エルディオは、少しだけ目を伏せる。


「……そうだったかもしれない」


 “かもしれない”がつくのは、彼の癖だ。

 確定が怖い。


 メイリスは、彼の手に自分の指を絡める。


 絡めて、軽く握る。


 握る強さは、強要じゃない。

 ただの確認だ。


「大丈夫よ」


 “安心しろ”じゃない。

 “守ってあげる”でもない。


 ただ、大丈夫だと置く。


 エルディオは、その言葉を受け取って――

 息を吐く。


「……大丈夫、か」


 疑っているわけじゃない。

 自分の中の癖を、確かめているだけだ。


 メイリスは頷く。


「大丈夫。少なくとも、今夜は」


 今夜は。


 その限定が、優しい。


 永遠を約束しない。

 でも、今を否定しない。


 エルディオは、ゆっくり頷く。


「……ああ」


 その返事は、今日一番柔らかかった。


 ♢


 寝室へ向かう前に、エルディオはいつものように一度だけ部屋を見る。


 窓。

 戸。

 闇の濃さ。

 音の距離。


 剣の位置。


 変わらない。


 変わらないまま、彼はその横に立ち止まる。


 手を伸ばして微調整しそうになって、止める。


 今日は、しない。


 さっきメイリスが言った。


 少なくとも、今夜は。


 彼はそれを、守る。


 守るのは、剣の位置じゃない。


 今夜の甘さだ。


 今夜の生活だ。


 エルディオが剣から離れると、メイリスが背後からそっと近づき、彼の背中に額を当てた。


 抱きしめない。

 でも、触れる。


 その触れ方が、昔みたいで――

 今みたいだった。


「ねえ」


 メイリスの声。


「今日、あなた、外を見なかったね」


 静かな指摘。


 責めじゃない。

 誇りでもない。


 ただの事実を、そっと撫でる声だ。


 エルディオは、小さく笑う。


「……見ようとした」


「したの?」


「ああ」


「でも、しなかった」


「……しなかった」


 メイリスが頷く気配がした。


「それでいい」


 エルディオは、背中に触れる額の温度を感じたまま、目を閉じる。


 幸福の厚みが、増えていく。


 増えていくのが、怖い。


 怖いのに、今夜は――その怖さごと、抱ける。


 父としての自分がいる。

 男としての自分もいる。


 その二つが、衝突せずに同じ胸の中で並んでいる。


 エルディオは、振り返ってメイリスを見る。


 そして、今度は彼の方から、軽く口づけた。


 確認みたいに。

 でも、逃げ道のない確認だ。


 メイリスが、息を吐いて笑う。


 勝ち誇らない笑い。


 ただ、嬉しいという笑い。


「……もう」


「……うるさいか」


「ううん」


 メイリスは、少しだけ照れた目で言った。


「昔みたいで、嬉しい」


 エルディオは、目を逸らさない。


「……昔より、ちゃんと嬉しい」


 言ってしまってから、自分で驚く。


 でも、取り消さない。


 メイリスは、何も言わずにもう一度、短いキスを落とした。


 軽いのに、確かだ。


 そして、二人は寝室へ向かう。


 途中、エルディオはもう一度だけエミリアの寝顔を覗く。


 七歳の寝顔。

 未来の言葉を置いて眠る顔。


 その顔を見て、胸が少しだけ締まり、

 すぐに温かくなる。


 壊れたら致命的だ。


 だから、怖い。


 怖いのに――


 それでも、今夜の甘さは、確かに生活の中にあった。


 特別じゃない夜の顔をして、

 特別なものとして積み重なっていく。


 エルディオは、メイリスの手を取る。


 指を絡める。


 握る。


 そして、息を吐いた。


 今日は平和だった。


 平和だったからこそ、

 この甘さが、何よりも怖くて、

 何よりも愛しかった。


 ♢


 夜は、もう深かった。


 祝いの名残は片づき、灯りは落とされ、家の中には生活の静けさだけが残っている。風が戸を揺らすこともなく、虫の声も遠い。エミリアの寝息が、別の部屋からかすかに届いてくる。それは規則正しく、何の不安も含まない呼吸だった。


 寝室には、二人だけ。


 寝台に腰を下ろしたメイリスは、外套を脱いだまま、少しだけ背中を丸めていた。髪はほどかれて、肩に落ちている。昼間の祝宴の顔とは違う、生活の終わりの顔だ。


 エルディオは、少し離れた位置に立っていた。癖で、戸の位置を一度だけ確認し、それからようやく彼女を見る。


 メイリスが、静かに声をかける。


「ね、エル」


 呼び方は昔のままだ。


「なに?」


 返事も、柔らかい。


 メイリスは、しばらく何も言わなかった。言葉を探しているというより、今ここにいることを確かめるように、指先で寝台の縁をなぞる。


「私はね……昔からずっと、あなたのことを愛してるわ」


 唐突な告白だった。


 けれど、甘ったるさはない。夜にこぼれ落ちた、事実のような声だ。


 エルディオは、わずかに目を瞬かせる。


「……うん。どうしたの、急に」


 否定しない。驚きもしない。ただ、受け止める。


 メイリスは、小さく息を吸った。


「あなたが生まれた日のこと、よく覚えてる」


 視線は、彼ではなく、遠い過去を見ている。


「泣かなくてね。でも、呼吸だけはしてた。だから……不安だったの。生きてるのは分かるのに、存在が薄くて」


 彼女の声は、静かだった。


「歩けるようになるのも早かった。言葉を覚えるのも、文字を読むのも。私が教えたこと、全部すぐに理解してしまって……喋り方だって、気づいたら普通の大人と変わらなかった」


 そこで、少しだけ笑う。


「可愛い弟みたいだって、思ってた」


「なんだよ、それ」


 エルディオが、苦笑まじりに言う。


 メイリスは、その反応を嬉しそうに受け止める。


「でもね」


 声が、少しだけ低くなる。


「大きくなるにつれて、どんどん格好よくなって……そして、リィナさんが現れた」


 名前を出すとき、躊躇はない。


「エルは、本気であの子を愛してた。それは、ちゃんと分かってる」


 エルディオは黙ったまま、目を伏せる。


「でもね、その頃にはもう……私は、あなたを可愛い弟じゃなくて、一人の男性として見てた」


 沈黙が落ちる。


 メイリスは、その沈黙を壊さない。


「正直、嫉妬したわ。あなたが、どんどん遠くへ行くのが……すごく、つらかった」


 指先が、きゅっと布を掴む。


「リィナさんの病気を治すために、毎日書庫に籠もって……魔法で、何十冊もの本を同時に開いて。人間じゃないみたいな知識の詰め込み方をしてるあなたを見てるのが、つらかった」


 エルディオの喉が、小さく鳴る。


「……ごめん」


 絞り出すような声。


 メイリスは、すぐに首を振った。


「謝らないで」


 優しく、でもはっきりと。


「リィナさんが亡くなってからのあなたは……本当に、見ていられなかった」


 戦場に身を置き、死を恐れない戦い方をする姿。

 言葉にしなくても、二人の間にははっきりとした映像がある。


「私には、何もできなかったの。あなたを癒してあげる方法が、思いつかなかった」


 一拍、置いて。


「だから……あなたに、抱かれた」


 言い訳はない。


「リィナさんの代わりでも、よかった。そうだとしても、その時だけは……私のことを見てくれてるって、思えたから」


 彼女は、エルディオを見る。


「“愛してる”って言ったのは、嘘じゃない。本当に、あなたのことを愛してた」


 エルディオは、何も言えない。


「妊娠が分かった時は……怖かった。でも、嬉しかった」


 声が、ほんの少しだけ震える。


「でも、クリストフや旦那様たちは、それを許さなかった。アルヴェイン家は、私をここに隔離した。噂が漏れないように……あなたの未来を潰さないように」


 沈黙。


「……そして、あなたはシャルロットさんを見つけた」


「なんで、そのことを……」


「知ってるよ。この国は、広いようで狭いもの」


 叙勲の話。

 王国騎士団の話。

 どんな活躍をしていたか。


「とっても、誇らしかった」


 メイリスは、はっきりとそう言った。


「でもね。シャルロットさんでは、あなたを管理できないって考えた旦那様たちは……私と婚姻を結ばせようとした」


 エミリアの出産。

 逃げ場のない状況。


「でも、それ以上に……シャルロットさんは、強かった。あなたの心を、守れるくらい」


 メイリスは、目を伏せる。


「エミリアが生まれたとき……とても怖かった」


 知らない土地。

 父親のいない子育て。

 向けられる色眼鏡。


「捨てられた侍女だとか、いろいろ言われた。でも……それでも、エミリアだけは守らなきゃって、必死だった」


 少し間を置いて。


「エミリアが物心ついた頃……シャルロットさんは、亡くなってしまった」


 エルディオは、唇を噛む。


「同じ女だから、分かるの」


 メイリスの声は、責めない。


「あなたが危険な任務ばかりについていたから。きっと彼女は……自分がいるから、あなたは折れずに戦えるって、思ってしまったんだと思う」


 だから、自分で終わらせた。

 あなたを守るために。


「僕は……」


「大丈夫」


 即座に遮る。


「分かってる。あなたの心が、まだシャルロットさんにあることも」


 そして。


「それでも……私たちと家族になろうと、必死になってくれてることも」


 エルディオの目が、潤む。


「メイリス……」


「あなたの心が、どこにあってもいい」


 メイリスは、ゆっくりと彼に近づいた。


「私は、あなたを愛してる。これから先も……一生」


 額が、触れるほど近くで。


「後にも先にも、愛してるのは……あなただけ」


「メイリス……!」


 エルディオが、彼女を抱きしめる。


 深く、口づける。


 確認するように。

 失わないことを確かめるように。


 唇が離れても、距離は離れなかった。

 息が混じる。互いの呼吸が、どちらのものでもない温度になる。


 エルディオは、抱き締める腕に力を入れ直す。強くすれば折ってしまいそうで、弱くすれば落ちてしまいそうで――その加減が分からないまま、ただ“ここにいる”を確かめる。


 戦場なら、確かめるのは地形だ。風向きだ。音の距離だ。

 今夜は違う。確かめるのは、目の前の温度だ。


 メイリスの指が、エルディオの背に回ってくる。

 背中を撫でるでもなく、縋るでもなく、ただ“離れていない”と告げる位置に、指が置かれる。


 その静かな触れ方が、いちばん残酷だった。

 ――壊れたら致命的だ。

 だから怖い。

 怖いのに、離れたくない。


 エルディオは、息を吐く。

 吐いた息が震えていることに、吐いてから気づく。


 涙が、止まらない。


 エルディオの肩が震え、嗚咽が漏れる。


「ごめん……ごめん……!」


 謝罪は、癖だった。

 過去に向けた謝罪。

 許されなかった夜に向けた謝罪。

 そして、今ここにある幸福に向けた――怖さの謝罪。


 メイリスは、「やめて」とは言わなかった。

 止めれば、彼はまた“我慢できる英雄”の顔に戻ってしまう。

 戻ってほしくなかった。今夜だけは、人のまま泣いてほしかった。


 だから彼女は、ただ彼の頬を両手で包む。

 涙を拭うのではなく、涙が落ちていい場所を作るみたいに。


「ごめんじゃなくて」


 小さな声。

 命令じゃない。

 お願いでもない。

 ただ、生活の言葉。


「……“ここにいる”って言って」


 エルディオの喉が震える。

 そして、かろうじて声になる。


「……ここにいる」


 それだけで、メイリスの目が一瞬だけ潤む。

 嗚咽にはならない。けれど、確かに泣いていた。


「謝らないで、エル」


 メイリスの声は、崩れない。

 震えているのに、崩れない。

 嗚咽にならない泣き方を、彼女はずっと覚えてしまっている。


 泣きたい夜に泣けなかった。

 声を上げれば、誰かに聞かれると思った。

 聞かれれば、守るべきものが増えると知っていた。


 だから彼女は、泣くときほど姿勢を正す。

 泣くときほど、言葉を選ぶ。

 泣くときほど、“大丈夫”の形を崩さない。


 けれど今夜だけは、ほんの少しだけ――その完璧が緩む。

 まつげの先に溜まった雫が落ちて、エルディオの胸元に染みた。

 それが合図みたいに、彼の中の堰が切れる。


 メイリスは、彼を抱き返す。


「あなたが、私たちと一緒にいることを選んでくれた。それが……すごく、嬉しかった」


 エルディオは、声を殺して泣く。


「あなたの強さも、優しさも……これからは全部、エミリアにあげて」


 その言葉に、胸の奥がきしむ。

 “全部”という響きが、命令じゃないのに命令みたいに重い。


 父としての自分は、すでに頷いている。

 エミリアにあげたい。あげるべきだ。

 あの寝顔に、強さも優しさも、全部注ぎたい。


 でも同時に、男としての自分が、目の前のメイリスに縋ってしまう。

 この夜の体温を失いたくない。

 この肩の触れ方を、明日になっても覚えていたい。


 矛盾じゃない。

 どちらも同じ根から生えている。

 失ったら壊れるものが、増えたというだけだ。


 エルディオは、言葉を探してから、やっと頷く。

 頷きは、誓いというより――受け取りだった。


「……ああ。分かってる」


「うん……ありがとう」


 エルディオは、彼女の額に額を寄せた。


「だって、僕は……エミリアの、お父さんだから」


 その言葉に、メイリスは目を閉じる。


 夜は静かで、壊れやすくて、それでも確かだった。


 エルディオは、ふと視線を落とす。

 寝台の影。床板の線。扉の隙間。

 いつもの“確認”が、喉の奥まで上がってくる。


 今夜の幸福が濃いほど、確認は鋭くなる。

 この温度を失う可能性を、身体が勝手に計算してしまう。


 けれどメイリスは、彼の視線の先を追わなかった。

 剣の影ではなく、彼の目にだけ触れる。


「ね、エル」


 名を呼ぶ声が、鎖じゃなく、帰路になる。


 エルディオは、戻ってくる。

 闇からではなく、彼女の方へ。


 ――安心は共有されなくても、戻る場所は共有できる。


 その事実が、今夜の甘さを“生活”に変えていった。


 生活の中に溶け込む甘さが、二人の間に、確かに残っていた。


ここまで読んでくださって、ありがとうございました。


 誕生日は「特別な日」なのに、祝って片付けて眠って――結局はいつもと同じ夜に戻っていきます。だからこそ、この回では、特別を特別のまま飾るのではなく、生活の中に溶かして残すことを大事にしました。


 父としての手つきが増えていく一方で、失うことを前提にした癖は簡単には消えない。けれど、その癖ごと抱えたまま「ここにいる」と言える夜がある。そんな厚みを、エルとメイリスの距離で描けていたら嬉しいです。


 次はまた、明日。

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