121.一年という時間-2
朝の光は、薄い布みたいに家の中へ滑り込んでいた。
鍋の蓋が鳴る音も、井戸の縄が軋む音も、もう驚かない。驚かないほどに、この家の朝は「続いている」。続いていることが、時々怖いのに――それでも、朝は淡々と来る。
その淡々を、今日は最初から崩す声があった。
「お父さん、いこ!」
エミリアの声は、起こすための声じゃない。命令でもない。待っていられない喜びが、先に足を動かしてしまった声だ。
エルディオは、手を止めた。
止めたのは動作だけで、意識は止まらない。彼女の足音が軽い。廊下の板が鳴る。窓の外は明るい。村の気配は、いつも通り。――いつも通り、という言葉が、まず胸を掠めてから、奥へ沈む。
「……どこへ」
「かわ!」
即答だった。
川、という単語の後ろに何が付くかを、彼は一瞬で並べる。川の流れ、深さ、足場、濡れた石、滑る土。誰がいるか。誰が見ているか。村からの距離。叫んだ声が届くか。
考えが走るのは一瞬で、言葉にしてしまえば彼女の朝を汚すと分かっているから、彼は口を閉じた。
代わりに、頷くだけ。
「……靴を履け」
「うん!」
エミリアは嬉しそうに飛び跳ね、戸口へ駆けていく。外に飛び出す勢いで、靴を片方だけ履きかけたところで止まる。
止まって、振り返る。
「お父さん、はやく!」
急かす言い方に怒りはない。待てないだけだ。待てないのは、信じているからだ。信じている相手が、ちゃんと付いてくると知っているから、先に走れる。
その信じ方が、胸に刺さる。
エルディオは、腰を落として自分の靴に手を伸ばす。靴紐を引き締める。結び目を作る。――作りながら、紐の張り具合より先に、戸の隙間の光を見る。
外だ。
いつも通りの村の朝。煙の匂い。鳥の声。誰かの笑い声。
何も起きていない。
何も起きていないことを、彼は無意識に“確認”してしまう。川へ行く前の確認でも、遊びの前の確認でもない。身体が勝手にやる確認だ。
結び目が完成する。
それでも、彼の視線はもう一度だけ、家の外縁へ滑る。
――逃げ道は。
――声は届くか。
――人の影は。
やめろ、と自分に言う暇もなく、確認は終わる。終わってから、ようやく彼は息を吐いて立ち上がる。
エミリアが手を差し出してきた。
小さな手。
握るための手。
エルディオは、その手を取る。
指先は温かい。柔らかい。壊れそうな温度。壊れそうなのに、毎日こうして強くなる。強くなるほど、守るべき範囲は広がる――そんな計算は、今日はしまっておくべきだと分かっている。
分かっているのに、しまい切れない。
それでも、彼は握ったまま戸を開けた。
♢
川へ向かう道は、春の匂いが濃い。
土が柔らかい。草が伸び始め、踏むたびに少しだけ湿った匂いが立つ。遠くの畑から鍬の音がする。村の人間の声がする。どれも生活の音で、危険の音ではない。
エミリアは、それを全部聞き流している。
聞き流して、前だけを見る。
「お父さん、こっち!」
「……分かってる」
彼女は引っ張る。
引っ張られて、エルディオは歩く。
歩きながら、彼の視線は時々だけ外へ滑る。家と家の隙間。小道の曲がり角。川の方角。もし何かが来るなら、どこから来るか。来ない、と分かっているのに、来る可能性を捨てられない。
エミリアはそれを気にしない。
気にしないことが、今日の主役だ。
“守る”ではなく、“遊ぶ”。
彼はその主語を、握った手の温度で覚え直そうとする。
♢
川辺は、光が反射して眩しかった。
水の音が、一定のリズムで流れている。石にぶつかる音が混じり、泡が弾け、鳥がそれに重なる。風が通るたび、草が揺れて、葉の擦れる音がする。
戦場の静けさとは違う。
村の夜の静けさとも違う。
ここは、音が絶えない。
音が絶えないことが、安心だと身体が覚えるには、まだ時間が要る。それでも――エミリアは最初から安心していた。安心を選ぶのではなく、安心の中で生きている。
「みて!」
エミリアが、川辺の石を拾い上げる。掌に収まる小石。丸い。濡れて、光っている。
「これ、なげるの!」
言って、彼女は肩を回した。勢いだけは一人前だ。だが、腕の振り方がまだ安定しない。石は前に飛ばない。飛んでも、すぐ足元に落ちる。
ぽちゃん。
小さな水音。
それでもエミリアは満足そうに笑う。
「できた!」
「……できた、のか」
エルディオがそう言うと、エミリアは胸を張る。
「できた!」
言い切る力が強い。
エルディオは、川の流れを目で追いながら、少しだけ口元を緩めた。笑い、と呼ぶほど大きくはない。でも、笑う形だ。
それを見て、エミリアが目を丸くする。
「お父さん、わらった!」
「……笑ってない」
「わらった!」
彼女は嬉しそうに笑い返す。笑いは増殖する。増殖した笑いは、空気を柔らかくする。
柔らかくなった空気の中で、エルディオの視線が一度だけ、川の上流へ滑る。
水の流れの先。
曲がり角。
もし誰かが来るなら、見える位置。
足場。
――逃げ道。
確認して、戻す。
戻したとき、エミリアがまた石を拾っていた。
「もっと!」
「……手が冷える」
彼はそう言いながらも、エミリアの手の濡れ具合を見る。指先の赤み。爪の色。冷えすぎていないか。転んだ傷がないか。
叱らない。
怒鳴らない。
駄目だ、と止めない。
代わりに、見守る。
その見守り方が、彼の中で少しずつ“父の手つき”になっていく。
「だいじょうぶ!」
エミリアが、胸を張って言った。
「お父さんつよい!」
その「強い」は、英雄への言葉じゃない。
剣が強い、でもない。
戦いが強い、でもない。
彼女の言う「強い」は、冷たい水に触れても平気な人。転んでも立ち上がる人。石を投げて笑ってくれる人。自分の隣にいてくれる人。
父の意味の「強い」だった。
エルディオの胸が、きゅっと縮む。
縮んだ後、緩む。
緩んだ直後――また、視線が外へ跳ねる。
川の向こうの草むら。
人が隠れられる影。
石の死角。
癖だ。
歪みだ。
それでも、彼は戻ってくる。
エミリアの方へ。
「……強いか」
呟くように言う。
「うん!」
エミリアは即答して、また石を投げる。今度は少しだけ遠くへ飛び、川面で跳ねた。
ぽちゃん、ぽちゃん、と二回跳ねて沈む。
エミリアの顔がぱっと明るくなる。
「みた!? いまの!」
「……見た」
エルディオは、今度ははっきり答えた。
答えた瞬間、彼女が飛び跳ねて、彼の袖を引っ張る。
「もっと! もっとやる!」
「……次は、もう少し軽いのにしろ」
「なんで?」
「……指が痛くなる」
「いたくない!」
「痛くなる」
言い合いの形になる。
それが、彼にとっては奇跡みたいに普通だった。
命令ではない。
指示でもない。
危険の共有でもない。
ただの親子の言い合い。
彼は声を荒げない。
叱らない。
ただ、少しだけ“ルール”を混ぜる。
「……ほら、これ」
彼は川辺の小石の中から、丸くて軽いものを拾って、エミリアの掌に置く。置くとき、指が触れる。触れて、彼女はそれを当たり前に受け取る。
「これ、ちいさい」
「……ちいさい方が跳ねる」
「ほんと?」
「……やってみろ」
エミリアは、真剣な顔になった。
投げる。
腕を振る。
石が飛ぶ。
――ぽちゃん、ぽちゃん、ぽちゃん。
三回。
跳ねた。
エミリアの顔が、信じられないくらい輝く。
「できた!!」
叫んで、彼の方を見る。
褒めてほしい目だ。
エルディオは、一拍置いてから、言う。
「……上手い」
その一言は短い。
でも、確かに“父の言葉”だった。
エミリアは、満足そうに笑って、次の石を探し始める。草むらに手を突っ込もうとする。
エルディオは、反射でその手首を掴みかけて、止めた。
掴むと、彼女の遊びが“危険”に変わる。
危険に変えたくない。
だから、声だけで止める。
「……そこは、だめ」
強く言わない。
でも、揺らがせない。
エミリアは振り返る。
「なんで?」
理由を知りたい、というより、会話を続けたい目。
エルディオは、言葉を選ぶ。
“危ない”とだけ言えば、彼女の心に余計な影を落とす。
“魔獣がいる”と言えば、世界が変わる。
彼は、生活の言葉を探す。
「……虫がいる」
「むし?」
「……刺す」
エミリアは少しだけ顔をしかめる。
「いや!」
「……こっちで探せ」
彼が指さしたのは、日が当たっていて見通しがいい場所。
見通しがいいのは、虫のためじゃない。
逃げ道のためだ。
それでも、今日の主語は遊びだ。
だから彼は、その理由を胸の中に隠したまま、同じ場所に立っている。
「わかった!」
エミリアは素直に頷き、日なたの石を拾いに行った。素直であることが、彼の胸にまた刺さる。刺さって、それでも彼は笑ってしまう。
彼女の成功が嬉しい。
彼女の笑顔が嬉しい。
嬉しいことを、今日は否定しない。
否定しない代わりに――
彼は、笑いながら、もう一度だけ周囲を見る。
川の音が大きい。
音が大きい分、遠くの足音は消える。
草が揺れれば、ただの風でも、違和感になる。
違和感を拾うのが、彼の癖だ。
拾ったあとで、彼はちゃんと戻ってくる。
エミリアの方へ。
「お父さん! つぎ、いくよ!」
石を握りしめた小さな手が、またこちらに伸びる。
エルディオは、その手を取った。
守るためではなく――今日は、遊ぶために。
♢
川辺の遊びが一段落すると、声の数が増えた。
「なにしてるの?」
いつの間にか、村の子どもたちが集まってきていた。裸足のままの子、草で編んだ輪を持った子、年の近い兄妹。エミリアが顔を上げて、すぐに胸を張る。
「かくれんぼするの!」
宣言だった。
「お父さんも!」
エルディオは、一瞬だけ言葉に詰まる。
戦い方は知っている。
追い方も、見つけ方も、逃げ道の潰し方も。
だが――“勝ち方”は知らない。
♢
鬼は、エルディオだった。
決まった瞬間、子どもたちは一斉に散る。草むらへ、木の陰へ、石積みの裏へ。軽い足音が四方に広がり、すぐに消える。
エルディオは、目を閉じる。
数を数える真似をしながら、耳を澄ます。
――息。
――草の擦れる音。
――水際の石を踏む感触。
遊びのはずなのに、身体は勝手に“配置”を描く。どこに誰が行ったか。誰が無理な姿勢を取っているか。誰が隠れたつもりで、見えているか。
数え終わる前に、彼の中ではもう全員の位置が分かってしまっていた。
「……行くぞ」
声は低い。
子ども相手だということを、頭では分かっている。だが、声と動きが一致しない。足は静かに、視線は低く、風上を選ぶ。
一人目は、あまりにも早かった。
「いた」
「えっ!?」
木の陰から、年下の男の子が飛び出す。驚いた顔がそのまま悔しさになる。
「ずるい!」
「……隠れきれてない」
正論だった。
二人目も、すぐだった。
草の揺れ。
呼吸の速さ。
足の向き。
「そこだ」
「うそでしょ!」
三人目、四人目。
子どもたちの顔が、だんだんと複雑になる。楽しさより先に、困惑が出てくる。
最後に残ったのは、エミリアだった。
彼女は、少し離れた場所で、小さな背中を丸めていた。隠れ方は下手だ。だが、呼吸を殺している。必死だ。
エルディオは、立ち止まる。
――見えている。
――もう、見つけられる。
その瞬間、胸の奥で何かが引っかかった。
自分は今、何をしている?
遊びだ。
かくれんぼだ。
なのに――
“探索”をしている。
敵を探すときと、同じ目をしている。
逃げ場を潰すときと、同じ歩き方をしている。
子ども相手に。
その自覚が、はっきりと浮かび上がる。
エルディオは、一歩、わざと大きく足音を立てた。
草が鳴る。
エミリアの肩が、ぴくりと揺れる。
「……あ」
わざと、視線を外す。
川の方を見るふりをする。
「……どこだ」
わざと、探すふりをする。
数秒。
そして、エミリアが耐えきれずに、飛び出してきた。
「ここ!!」
顔いっぱいの笑顔。
それを見た瞬間、胸がほどける。
「……みつけた」
声が、いつもより柔らかい。
「やったー!!」
子どもたちが寄ってくる。
「次はわたしが鬼!」
「ずるい!」
「さっき早すぎた!」
口々に文句が飛ぶ。遊びの文句だ。
エルディオは、その輪の中で、少しだけ息を吐いた。
勝たなくていい。
全部見つけなくていい。
それが、分かった。
分かった上で――
自分がまだ“本気で探してしまう人間”だという歪みも、はっきり見えた。
♢
夕方になると、空気が変わる。
光が低くなり、川の反射が眩しさを失う。風が冷たくなり始め、子どもたちの声も、少しずつ減っていく。
エミリアは、動きが鈍くなっていた。
走らない。
跳ねない。
ただ、エルディオのそばに来て、服の端を掴む。
「……つかれた」
小さな声。
エルディオは、すぐに抱き上げる。
躊躇がない。
体の使い方が自然だ。
彼女の重さを、腕と腰で受け止める。首に回された腕。肩に当たる額。呼吸の温度。
“父の動作”になっている。
エミリアは、彼の肩に頬を預けて、目を細める。
「お父さん……」
「……ん」
返事は短いが、そこにいる。
帰り道、村へ向かう小道。
空は橙色に染まり、影が長く伸びる。昼間はただの草むらだった場所が、暗がりに変わる。
エルディオは、一度だけ足を止めた。
音を聞く。
気配を見る。
暗くなり始めた場所。
誰もいないこと。
何も動いていないこと。
確認は、ほんの一瞬。
その間、エミリアは彼の肩で眠りかけている。無防備な重さ。
確認を終え、彼はまた歩き出す。
もう、急がない。
家が見える。
灯りがある。
エルディオは、エミリアを抱いたまま、静かに息を吐いた。
今日は、“守る”が主語じゃなかった。
それでも、完全には捨てられなかった。
その両立を抱えたまま――
彼は父として、村へ帰っていった。
ここまで読んで下さり、ありがとうございます。
「守る」ではなく「遊ぶ」という主語で過ごした一日が、エルにとってどれほど難しく、同時にどれほど救いだったのか――その温度を残したくて書きました。
笑いながら周囲を測ってしまう癖はまだ抜けない。それでも、差し出された小さな手を握ることだけは、もう迷わない。そんな時間が積み重なっていけばいいと願っています。




