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誰も救えない僕が、それでも魔王と生きる話  作者: 霜月ルイ
「  」編

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121/145

121.一年という時間-2

 

 朝の光は、薄い布みたいに家の中へ滑り込んでいた。


 鍋の蓋が鳴る音も、井戸の縄が軋む音も、もう驚かない。驚かないほどに、この家の朝は「続いている」。続いていることが、時々怖いのに――それでも、朝は淡々と来る。


 その淡々を、今日は最初から崩す声があった。


「お父さん、いこ!」


 エミリアの声は、起こすための声じゃない。命令でもない。待っていられない喜びが、先に足を動かしてしまった声だ。


 エルディオは、手を止めた。


 止めたのは動作だけで、意識は止まらない。彼女の足音が軽い。廊下の板が鳴る。窓の外は明るい。村の気配は、いつも通り。――いつも通り、という言葉が、まず胸を掠めてから、奥へ沈む。


「……どこへ」


「かわ!」


 即答だった。


 川、という単語の後ろに何が付くかを、彼は一瞬で並べる。川の流れ、深さ、足場、濡れた石、滑る土。誰がいるか。誰が見ているか。村からの距離。叫んだ声が届くか。


 考えが走るのは一瞬で、言葉にしてしまえば彼女の朝を汚すと分かっているから、彼は口を閉じた。


 代わりに、頷くだけ。


「……靴を履け」


「うん!」


 エミリアは嬉しそうに飛び跳ね、戸口へ駆けていく。外に飛び出す勢いで、靴を片方だけ履きかけたところで止まる。


 止まって、振り返る。


「お父さん、はやく!」


 急かす言い方に怒りはない。待てないだけだ。待てないのは、信じているからだ。信じている相手が、ちゃんと付いてくると知っているから、先に走れる。


 その信じ方が、胸に刺さる。


 エルディオは、腰を落として自分の靴に手を伸ばす。靴紐を引き締める。結び目を作る。――作りながら、紐の張り具合より先に、戸の隙間の光を見る。


 外だ。


 いつも通りの村の朝。煙の匂い。鳥の声。誰かの笑い声。


 何も起きていない。


 何も起きていないことを、彼は無意識に“確認”してしまう。川へ行く前の確認でも、遊びの前の確認でもない。身体が勝手にやる確認だ。


 結び目が完成する。


 それでも、彼の視線はもう一度だけ、家の外縁へ滑る。


 ――逃げ道は。


 ――声は届くか。


 ――人の影は。


 やめろ、と自分に言う暇もなく、確認は終わる。終わってから、ようやく彼は息を吐いて立ち上がる。


 エミリアが手を差し出してきた。


 小さな手。


 握るための手。


 エルディオは、その手を取る。


 指先は温かい。柔らかい。壊れそうな温度。壊れそうなのに、毎日こうして強くなる。強くなるほど、守るべき範囲は広がる――そんな計算は、今日はしまっておくべきだと分かっている。


 分かっているのに、しまい切れない。


 それでも、彼は握ったまま戸を開けた。


 ♢


 川へ向かう道は、春の匂いが濃い。


 土が柔らかい。草が伸び始め、踏むたびに少しだけ湿った匂いが立つ。遠くの畑から鍬の音がする。村の人間の声がする。どれも生活の音で、危険の音ではない。


 エミリアは、それを全部聞き流している。


 聞き流して、前だけを見る。


「お父さん、こっち!」


「……分かってる」


 彼女は引っ張る。


 引っ張られて、エルディオは歩く。


 歩きながら、彼の視線は時々だけ外へ滑る。家と家の隙間。小道の曲がり角。川の方角。もし何かが来るなら、どこから来るか。来ない、と分かっているのに、来る可能性を捨てられない。


 エミリアはそれを気にしない。


 気にしないことが、今日の主役だ。


 “守る”ではなく、“遊ぶ”。


 彼はその主語を、握った手の温度で覚え直そうとする。


 ♢


 川辺は、光が反射して眩しかった。


 水の音が、一定のリズムで流れている。石にぶつかる音が混じり、泡が弾け、鳥がそれに重なる。風が通るたび、草が揺れて、葉の擦れる音がする。


 戦場の静けさとは違う。

 村の夜の静けさとも違う。


 ここは、音が絶えない。


 音が絶えないことが、安心だと身体が覚えるには、まだ時間が要る。それでも――エミリアは最初から安心していた。安心を選ぶのではなく、安心の中で生きている。


「みて!」


 エミリアが、川辺の石を拾い上げる。掌に収まる小石。丸い。濡れて、光っている。


「これ、なげるの!」


 言って、彼女は肩を回した。勢いだけは一人前だ。だが、腕の振り方がまだ安定しない。石は前に飛ばない。飛んでも、すぐ足元に落ちる。


 ぽちゃん。


 小さな水音。


 それでもエミリアは満足そうに笑う。


「できた!」


「……できた、のか」


 エルディオがそう言うと、エミリアは胸を張る。


「できた!」


 言い切る力が強い。


 エルディオは、川の流れを目で追いながら、少しだけ口元を緩めた。笑い、と呼ぶほど大きくはない。でも、笑う形だ。


 それを見て、エミリアが目を丸くする。


「お父さん、わらった!」


「……笑ってない」


「わらった!」


 彼女は嬉しそうに笑い返す。笑いは増殖する。増殖した笑いは、空気を柔らかくする。


 柔らかくなった空気の中で、エルディオの視線が一度だけ、川の上流へ滑る。


 水の流れの先。

 曲がり角。

 もし誰かが来るなら、見える位置。

 足場。


 ――逃げ道。


 確認して、戻す。


 戻したとき、エミリアがまた石を拾っていた。


「もっと!」


「……手が冷える」


 彼はそう言いながらも、エミリアの手の濡れ具合を見る。指先の赤み。爪の色。冷えすぎていないか。転んだ傷がないか。


 叱らない。


 怒鳴らない。


 駄目だ、と止めない。


 代わりに、見守る。


 その見守り方が、彼の中で少しずつ“父の手つき”になっていく。


「だいじょうぶ!」


 エミリアが、胸を張って言った。


「お父さんつよい!」


 その「強い」は、英雄への言葉じゃない。


 剣が強い、でもない。

 戦いが強い、でもない。


 彼女の言う「強い」は、冷たい水に触れても平気な人。転んでも立ち上がる人。石を投げて笑ってくれる人。自分の隣にいてくれる人。


 父の意味の「強い」だった。


 エルディオの胸が、きゅっと縮む。


 縮んだ後、緩む。


 緩んだ直後――また、視線が外へ跳ねる。


 川の向こうの草むら。

 人が隠れられる影。

 石の死角。


 癖だ。


 歪みだ。


 それでも、彼は戻ってくる。


 エミリアの方へ。


「……強いか」


 呟くように言う。


「うん!」


 エミリアは即答して、また石を投げる。今度は少しだけ遠くへ飛び、川面で跳ねた。


 ぽちゃん、ぽちゃん、と二回跳ねて沈む。


 エミリアの顔がぱっと明るくなる。


「みた!? いまの!」


「……見た」


 エルディオは、今度ははっきり答えた。


 答えた瞬間、彼女が飛び跳ねて、彼の袖を引っ張る。


「もっと! もっとやる!」


「……次は、もう少し軽いのにしろ」


「なんで?」


「……指が痛くなる」


「いたくない!」


「痛くなる」


 言い合いの形になる。


 それが、彼にとっては奇跡みたいに普通だった。


 命令ではない。

 指示でもない。

 危険の共有でもない。


 ただの親子の言い合い。


 彼は声を荒げない。

 叱らない。

 ただ、少しだけ“ルール”を混ぜる。


「……ほら、これ」


 彼は川辺の小石の中から、丸くて軽いものを拾って、エミリアの掌に置く。置くとき、指が触れる。触れて、彼女はそれを当たり前に受け取る。


「これ、ちいさい」


「……ちいさい方が跳ねる」


「ほんと?」


「……やってみろ」


 エミリアは、真剣な顔になった。


 投げる。

 腕を振る。

 石が飛ぶ。


 ――ぽちゃん、ぽちゃん、ぽちゃん。


 三回。


 跳ねた。


 エミリアの顔が、信じられないくらい輝く。


「できた!!」


 叫んで、彼の方を見る。


 褒めてほしい目だ。


 エルディオは、一拍置いてから、言う。


「……上手い」


 その一言は短い。


 でも、確かに“父の言葉”だった。


 エミリアは、満足そうに笑って、次の石を探し始める。草むらに手を突っ込もうとする。


 エルディオは、反射でその手首を掴みかけて、止めた。


 掴むと、彼女の遊びが“危険”に変わる。

 危険に変えたくない。


 だから、声だけで止める。


「……そこは、だめ」


 強く言わない。

 でも、揺らがせない。


 エミリアは振り返る。


「なんで?」


 理由を知りたい、というより、会話を続けたい目。


 エルディオは、言葉を選ぶ。


 “危ない”とだけ言えば、彼女の心に余計な影を落とす。

 “魔獣がいる”と言えば、世界が変わる。


 彼は、生活の言葉を探す。


「……虫がいる」


「むし?」


「……刺す」


 エミリアは少しだけ顔をしかめる。


「いや!」


「……こっちで探せ」


 彼が指さしたのは、日が当たっていて見通しがいい場所。


 見通しがいいのは、虫のためじゃない。


 逃げ道のためだ。


 それでも、今日の主語は遊びだ。


 だから彼は、その理由を胸の中に隠したまま、同じ場所に立っている。


「わかった!」


 エミリアは素直に頷き、日なたの石を拾いに行った。素直であることが、彼の胸にまた刺さる。刺さって、それでも彼は笑ってしまう。


 彼女の成功が嬉しい。


 彼女の笑顔が嬉しい。


 嬉しいことを、今日は否定しない。


 否定しない代わりに――


 彼は、笑いながら、もう一度だけ周囲を見る。


 川の音が大きい。

 音が大きい分、遠くの足音は消える。

 草が揺れれば、ただの風でも、違和感になる。


 違和感を拾うのが、彼の癖だ。


 拾ったあとで、彼はちゃんと戻ってくる。


 エミリアの方へ。


「お父さん! つぎ、いくよ!」


 石を握りしめた小さな手が、またこちらに伸びる。


 エルディオは、その手を取った。


 守るためではなく――今日は、遊ぶために。


 ♢


 川辺の遊びが一段落すると、声の数が増えた。


「なにしてるの?」


 いつの間にか、村の子どもたちが集まってきていた。裸足のままの子、草で編んだ輪を持った子、年の近い兄妹。エミリアが顔を上げて、すぐに胸を張る。


「かくれんぼするの!」


 宣言だった。


「お父さんも!」


 エルディオは、一瞬だけ言葉に詰まる。


 戦い方は知っている。

 追い方も、見つけ方も、逃げ道の潰し方も。


 だが――“勝ち方”は知らない。


 ♢


 鬼は、エルディオだった。


 決まった瞬間、子どもたちは一斉に散る。草むらへ、木の陰へ、石積みの裏へ。軽い足音が四方に広がり、すぐに消える。


 エルディオは、目を閉じる。


 数を数える真似をしながら、耳を澄ます。


 ――息。

 ――草の擦れる音。

 ――水際の石を踏む感触。


 遊びのはずなのに、身体は勝手に“配置”を描く。どこに誰が行ったか。誰が無理な姿勢を取っているか。誰が隠れたつもりで、見えているか。


 数え終わる前に、彼の中ではもう全員の位置が分かってしまっていた。


「……行くぞ」


 声は低い。


 子ども相手だということを、頭では分かっている。だが、声と動きが一致しない。足は静かに、視線は低く、風上を選ぶ。


 一人目は、あまりにも早かった。


「いた」


「えっ!?」


 木の陰から、年下の男の子が飛び出す。驚いた顔がそのまま悔しさになる。


「ずるい!」


「……隠れきれてない」


 正論だった。


 二人目も、すぐだった。


 草の揺れ。

 呼吸の速さ。

 足の向き。


「そこだ」


「うそでしょ!」


 三人目、四人目。


 子どもたちの顔が、だんだんと複雑になる。楽しさより先に、困惑が出てくる。


 最後に残ったのは、エミリアだった。


 彼女は、少し離れた場所で、小さな背中を丸めていた。隠れ方は下手だ。だが、呼吸を殺している。必死だ。


 エルディオは、立ち止まる。


 ――見えている。

 ――もう、見つけられる。


 その瞬間、胸の奥で何かが引っかかった。


 自分は今、何をしている?


 遊びだ。

 かくれんぼだ。


 なのに――


 “探索”をしている。


 敵を探すときと、同じ目をしている。

 逃げ場を潰すときと、同じ歩き方をしている。


 子ども相手に。


 その自覚が、はっきりと浮かび上がる。


 エルディオは、一歩、わざと大きく足音を立てた。


 草が鳴る。


 エミリアの肩が、ぴくりと揺れる。


「……あ」


 わざと、視線を外す。

 川の方を見るふりをする。


「……どこだ」


 わざと、探すふりをする。


 数秒。


 そして、エミリアが耐えきれずに、飛び出してきた。


「ここ!!」


 顔いっぱいの笑顔。


 それを見た瞬間、胸がほどける。


「……みつけた」


 声が、いつもより柔らかい。


「やったー!!」


 子どもたちが寄ってくる。


「次はわたしが鬼!」

「ずるい!」

「さっき早すぎた!」


 口々に文句が飛ぶ。遊びの文句だ。


 エルディオは、その輪の中で、少しだけ息を吐いた。


 勝たなくていい。

 全部見つけなくていい。


 それが、分かった。


 分かった上で――

 自分がまだ“本気で探してしまう人間”だという歪みも、はっきり見えた。


 ♢


 夕方になると、空気が変わる。


 光が低くなり、川の反射が眩しさを失う。風が冷たくなり始め、子どもたちの声も、少しずつ減っていく。


 エミリアは、動きが鈍くなっていた。


 走らない。

 跳ねない。


 ただ、エルディオのそばに来て、服の端を掴む。


「……つかれた」


 小さな声。


 エルディオは、すぐに抱き上げる。


 躊躇がない。

 体の使い方が自然だ。


 彼女の重さを、腕と腰で受け止める。首に回された腕。肩に当たる額。呼吸の温度。


 “父の動作”になっている。


 エミリアは、彼の肩に頬を預けて、目を細める。


「お父さん……」


「……ん」


 返事は短いが、そこにいる。


 帰り道、村へ向かう小道。


 空は橙色に染まり、影が長く伸びる。昼間はただの草むらだった場所が、暗がりに変わる。


 エルディオは、一度だけ足を止めた。


 音を聞く。

 気配を見る。


 暗くなり始めた場所。

 誰もいないこと。

 何も動いていないこと。


 確認は、ほんの一瞬。


 その間、エミリアは彼の肩で眠りかけている。無防備な重さ。


 確認を終え、彼はまた歩き出す。


 もう、急がない。


 家が見える。

 灯りがある。


 エルディオは、エミリアを抱いたまま、静かに息を吐いた。


 今日は、“守る”が主語じゃなかった。


 それでも、完全には捨てられなかった。


 その両立を抱えたまま――

 彼は父として、村へ帰っていった。


ここまで読んで下さり、ありがとうございます。

「守る」ではなく「遊ぶ」という主語で過ごした一日が、エルにとってどれほど難しく、同時にどれほど救いだったのか――その温度を残したくて書きました。

笑いながら周囲を測ってしまう癖はまだ抜けない。それでも、差し出された小さな手を握ることだけは、もう迷わない。そんな時間が積み重なっていけばいいと願っています。

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