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誰も救えない僕が、それでも魔王と生きる話  作者: 霜月ルイ
「  」編

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120/143

120.一年という時間-1

 

 春の朝は、音が足りなかった。


 足りない、というのは静かだという意味ではない。鳥は鳴いているし、遠くの家では戸の開く音もする。風もある。けれど、この家の中だけ、どこか一拍、間が抜けている。生活音が鳴る前に、誰かがそれを抑えているような、不自然な静けさだった。


 エルディオは、目を開けた瞬間にそれを感じ取った。


 身体が、先に起きる。


 息を吸う。

 吐く。

 耳を澄ます。


 危険の気配はない。分かっている。それでも、分からない“違和感”があるとき、彼の身体は勝手に確認を始める。これは戦場で身についた癖ではあるが、同時に、ここでの生活の中で消えなかった数少ないものでもあった。


 彼は、音を立てずに身を起こす。


 剣に触れない。

 位置だけを視界に入れる。


 いつも通りだ。変わりはない。


 その事実を確認してから、ようやく家の中を見る。


 台所の方から、かすかな音がする。鍋ではない。火を起こす音でもない。布が擦れる音だ。手早く何かを拭いているような、乾いた動き。


 メイリスだ、とすぐ分かる。


 分かるが、いつもと違う。


 彼女の動きは、普段から無駄がない。けれど今朝のそれは、「慣れている」ではなく「急いでいる」に近い。急いでいるが、慌ただしくはない。手順を飛ばしていないのに、どこか先を急いでいる。


 エルディオは、そこで初めて布団を出る。


 床板がわずかに鳴る。

 その音に、すぐ反応する声。


「起きた?」


 メイリスの声は明るい。

 明るすぎるほどでもないが、いつもより半音高い。


「ああ」


 短く答える。


 声に警戒はない。だが、思考は止まっていない。


 台所へ向かう途中、もうひとつの違和感に気づく。


 エミリアが、起きている。


 それ自体はおかしくない。だが、今朝の彼女は、椅子に座っていない。床に座ってもいない。台所と戸口の間を、意味もなく行ったり来たりしている。


 歩いては止まり、止まっては振り返る。

 手を握ったり、開いたり。

 視線が定まらない。


 そわそわしている。


 エルディオは、その様子を一瞬だけ見て、すぐに視線を外す。


 気づいたが、口にしない。


 違和感を言葉にするのは、彼の役割ではない。言葉にすれば、場の空気が変わる。変える必要がある違和感と、ない違和感がある。今朝のこれは、後者だと判断する。


 それでも、身体は勝手に外を見る。


 戸の隙間から差し込む光。

 影の位置。

 外の音。


 何かが起きる前の静けさ。


 そう感じてしまう自分を、内心で一度否定する。


 ――違う。

 ――今日は、ただの春の朝だ。


 それでも、否定したあとで、もう一度だけ外を見る。


 癖は、否定しても消えない。


 ♢


 朝食は、いつもより早く整った。


 パンが焼かれ、果実が切られ、湯気が立つ。特別な食材ではない。だが、盛り付けが丁寧だ。器が、いつもより一段いいものに変わっている。欠けのない方。縁が少しだけ綺麗な方。


 エルディオは、それに気づく。


 気づくが、聞かない。


 聞けば、何かが始まる。

 始まる前に、彼は構えてしまう。


 メイリスは、何も言わずに椅子を引いた。


「座って」


 指示ではない。

 当たり前の声だ。


 エルディオが腰を下ろすと、エミリアもすぐに椅子によじ登る。いつもなら、彼の隣に来て、膝に乗ろうとするところだ。だが今朝は、乗らない。ただ、ちらちらと彼の顔を見る。


 視線が合うと、すぐ逸らす。


 明らかに、何かを隠している。


 エルディオは、スープに手を伸ばしながら、内心で状況を組み立てる。


 メイリスの手際。

 エミリアの落ち着かなさ。

 器の選び方。


 ――行事か?

 ――村の何かか?

 ――今日でなければならない理由があるか?


 思考が、自然と“外”へ向かう。


 襲撃の可能性。

 魔族の動き。

 人の集まり。


 だが、すぐに否定する。


 ――違う。

 ――この違和感は、危険の匂いじゃない。


 それでも、完全には切り離せない。


 エルディオは、食事の途中でふと手を止めた。


 その瞬間、エミリアがびくっと肩を揺らす。


 反応が早すぎる。


 エルディオは、何も言わずにスプーンを置き、立ち上がった。


「……先に、行く」


 畑の時間だ。

 いつも通りだ。


 メイリスは、一瞬だけ彼を見る。


 引き止めない。

 理由も聞かない。


「ええ」


 ただ、それだけ答える。


 エミリアは、慌てて言った。


「お父さん!」


「……?」


「……いってらっしゃい!」


 声が裏返りかけている。


 エルディオは、その声を一瞬だけ受け止めて、頷いた。


「ああ」


 それ以上、何も言わずに外へ出る。


 ♢


 村に出ると、春の匂いが濃かった。


 土が温み、草が伸び始め、空気が軽い。冬の名残はもう薄い。人の動きも早い。畑へ向かう足取りに、迷いがない。


 だが――


 視線が、合う。


 やけに合う。


 エルディオが道を歩くたび、村人と目が合う。合って、逸らされる。あるいは、逸らす前に、口元が緩む。


 ニヤニヤしている。


 理由は分からない。

 分からないが、好意であることは分かる。


 それが、いちばん厄介だ。


 敵意なら、対処できる。

 善意は、判断を鈍らせる。


 畑に着くと、さらに露骨だった。


「おう、エル」


 男が声をかけてくる。


「今日は早く帰れよ」


 唐突だ。

 理由がない。


 エルディオは、足を止める。


「……何かあるのか」


 問いは低く、短い。

 責めてはいないが、逃がしもしない。


 男は、にやっと笑った。


「さあな」


 わざとだ。


 分かってやっている。


 別の女が、籠を抱えながら口を挟む。


「用事があるって顔じゃないから、大丈夫よ」


 それは、否定の形をした肯定だった。


 エルディオの思考が、瞬時に広がる。


 ――用事がない?

 ――では、何がある?

 ――人が集まる?

 ――なぜ、今日?


 彼は、畑の端を見る。


 林の影。

 柵の位置。

 見通しの悪さ。


 外縁に異変はない。

 風も、いつも通りだ。


 ――襲撃の可能性は低い。


 低いが、ゼロではない。


 エルディオは、鍬を手に取りながら言った。


「……分かった」


 それだけ。


 納得したわけではない。

 だが、これ以上聞いても、答えは返ってこないと判断した。


 村人たちは、その返事に満足そうだ。


「よし」


「ちゃんと帰れよ」


 誰も、理由を言わない。

 誰も、隠そうともしない。


 それが、彼を“外の人”として扱っていない証拠だと、エルディオは理解してしまう。


 ここにいることが、前提になっている。


 前提だから、説明しない。

 前提だから、祝う準備を隠す。


 その事実が、胸の奥で静かに重くなる。


 エルディオは、畑に向き直り、鍬を振る。


 土を割りながら、視線は何度も外縁へ滑る。


 理由の分からない違和感。

 理由を知らされない好意。


 それらを“危険ではない”と判断しながらも、身体は完全には信じない。


 祝われることに、まだ慣れていない。


 祝われるということが、

 ここに“居続ける存在”として扱われることだと、

 彼はもう分かっているからだ。


 だから今日も、鍬を振りながら、

 念のために、外を確認する。


 何も起きないことを、確かめ続けながら。


 ♢


 夕方の家は、昼とは違う匂いをしていた。


 火を起こす音が、いつもより早い。薪が爆ぜる音に混じって、甘い匂いが立ち上る。果実を煮詰める匂いだ。砂糖は多くない。贅沢な香りではないが、確実に「特別」を主張する匂いだった。


 エルディオは、戸口で一瞬だけ足を止めた。


 分かる。

 分かってしまう。


 これは――祝いだ。


 だが、彼の身体は、その認識より先に外を見る。村の方向。影の長さ。人の気配。普段と違うのは匂いだけで、空気に緊張はない。問題はない。危険もない。


 それを確認してから、家に入る。


 ♢


 卓は、いつもより少しだけ賑やかだった。


 焼いたパンが並んでいる。形はいびつだが、焼き色はいい。表面に小さな割れが入っていて、香ばしさがそのまま見える。果実の煮詰めは小鉢に盛られ、照りが出るまで丁寧に煮られている。卓の中央には、野の花が小さく束ねて置かれていた。花瓶ではない。空き瓶だ。だが、水はちゃんと替えられている。


 粗末だ。

 だが、間違いなく“祝い”だ。


 エルディオは、その卓を前にして、言葉を探す。


 見慣れない光景ではない。

 だが、自分に向けられたものだと理解した瞬間、思考が遅れる。


 メイリスは、彼の様子を見て、何も言わない。


 言わないが、忙しそうにしているふりもしない。すでに準備は整っている。あとは、彼がここに座るだけだ。


「……座って」


 いつも通りの声。


 エルディオは、言われるまま腰を下ろす。


 ♢


 その瞬間――


「おとうさああああん!!」


 エミリアが、溜めに溜めた力を一気に吐き出すように叫んだ。


 椅子の上で立ち上がり、両腕を大きく広げる。


「おたんじょうび!! おめでとおおお!!」


 全力だった。


 声量も、間も、感情も、すべてが全力だ。言い切ったあと、少しだけ息が足りなくなって、胸が上下する。それでも、誇らしげに彼を見る。


 エルディオの胸が、確かに緩んだ。


 鎧が外れるような感覚。

 息が、ほんの一拍遅れて吐き出される。


 だが――


 次の瞬間、視線が外へ跳ねる。


 戸。

 窓。

 影。


 問題はない。

 分かっている。


 それでも、身体が先に確認してしまう。


 エミリアは、それに気づかない。


 気づかないまま、椅子から降りて、彼の前に立つ。


「ねえ、おとうさん」


 声が、少しだけ落ちる。


 今度は、叫びではない。

 大事なことを言うときの声だ。


「おとうさんがね、うまれてきてくれて……」


 一瞬、言葉に迷う。

 だが、すぐに続ける。


「よかった」


 短い。

 でも、揺らがない。


「わたし、うれしい」


 その言葉は、祝福だった。

 感謝だった。

 そして、何より――


 “父の存在そのもの”への肯定だった。


 エルディオの胸が、ぎゅっと締まる。


 締まって、痛くて、同時に温かい。


 言葉が、出てこない。


 英雄として祝われたことはある。

 功績を称えられたこともある。

 だが、「生まれてきてよかった」と言われたことはない。


 役割ではなく、

 結果でもなく、

 存在そのものを祝われることに――

 彼は、まだ慣れていなかった。


 ようやく、声を絞り出す。


「……ありがとう」


 それが精一杯だった。


 ♢


 メイリスは、その一連を黙って見ていた。


 エルディオが一瞬、外を見たことにも気づいている。

 エミリアの言葉に胸が揺れたことにも、気づいている。


 だが、何も言わない。


 代わりに、静かに杯を置いた。


 音は小さい。

 だが、確かな合図だった。


 ――受け止めた、という合図。


 エルディオは、その音を聞いて、ようやく肩の力を少し抜く。


 ♢


 ほどなくして、戸を叩く音がする。


「おーい、いるか?」


 村人だ。


 差し入れだった。

 卵が数個。

 少しだけいい干し肉。

 誰かが作った、歪な菓子。


「大したもんじゃねぇけどな」


「今日だろ?」


 言い方が、軽い。

 だが、確信に満ちている。


 祝われることが、前提になっている。


「……わざわざ、ありがとう」


 エルディオはそう言うが、言葉はやはり短い。


「硬ぇなぁ」


 男が笑う。


「ほら見ろ、顔赤いぞ」


「……照れてる?」


 メイリスが、からかうように言う。


 エルディオは、少しだけ眉を寄せる。


「……うるさい」


 それが返事だ。


 笑いが起きる。


 エミリアが、得意げに言う。


「おとうさん、あかい!」


「赤くない」


「赤い!」


 完全に遊ばれている。


 ♢


 酒は少しだけ回される。


 杯が触れ合い、軽い音が鳴る。重い祝杯ではない。今日を区切るための音だ。


「エルさぁ」


 村人が言う。


「お前、それ顔出すと普通に“父親”だな」


 エルディオは、即座に返す。


「……普通で悪いか」


「いや、いい意味だって言ってんだろ」


「ほんとほんと」


 別の男が頷く。


「奥さんに怒られんなよ?」


 エルディオは、間を置かずに言う。


「怒られない」


 即答だった。


 一瞬の沈黙。

 それから、爆笑。


「言い切った!」


「強ぇな!」


 メイリスは、顔を伏せて、少しだけ笑った。


「もう……」


 否定はしない。


 ♢


 食卓は、賑やかだった。


 粗末だが、温かい。

 特別ではないが、確かに祝われている。


 エルディオは、その中心にいて、何度も息を整える。


 笑う。

 応える。

 礼を言う。


 その合間に、何度か外を見る。


 癖は消えない。

 歪みも、残っている。


 それでも――


 エミリアが隣に座り、

 メイリスが向かいにいて、

 村人が自然に笑っている。


 その光景が、確かに“一年”の重みだった。


 生き延びた時間ではない。

 生きてしまった時間。


 祝われる理由になってしまった時間。


 エルディオは、杯を置き、もう一度だけ言った。


「……ありがとう」


 今度は、少しだけ自然に。


 それが、この小さな誕生日の、

 何よりの締めだった。


ここまで読んでくださり、ありがとうございました。

この章では、守られている平穏ではなく、平穏を“続かせてしまう”癖と、その中で積み重なる幸福の厚みを描きました。

祝われることは優しさで、同時に「ここにいることが前提になる」重さでもある――エルがそれを受け取る一歩を、そっと見届けていただけたなら嬉しいです。

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