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誰も救えない僕が、それでも魔王と生きる話  作者: 霜月ルイ
「  」編

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119/142

119.『人として、ここにいる』

 

 夜は、静かにほどけていく時間だった。


 収穫の余韻がまだ家の中に残っている。土と草の匂い、鍋に残った温かさ、外から入り込んだ夕風の名残。賑わいはもう遠く、音は生活の速度に戻っている。


 卓の上には、使い終えた器が並んでいた。


 エルディオは、ひとつひとつを手に取り、水を張った桶へ運ぶ。音を立てないように、ではない。立てても構わないが、自然にそうなっている。器が触れ合って、かすかな音を立てる。その音が、この家の夜の合図みたいに続く。


 メイリスは布を手に、卓を拭いていた。


 拭き残しがないかを探す動きではない。もう「完璧」に戻る必要はないことを、彼女自身が知っている。布は円を描くように動き、途中で止まって、また進む。生活の速度だ。


 二人の間に、会話はない。


 ないけれど、気まずさもない。


 音があるからだ。水が揺れる音、布が擦れる音、遠くで誰かが戸を閉める音。村全体が同じ時間に向かって片付いていく音が、薄い壁越しに伝わってくる。


 エルディオが器を戻すとき、ほんの一瞬、指が止まった。


 考え事をしているわけではない。ただ、流れが一拍だけ遅れた。その遅れに、メイリスが気づく。


「……疲れた?」


 問いは軽い。


 心配でも、確認でもない。ただ、今の夜に合った声だ。


「……少し」


 エルディオの答えも、飾りがない。


 疲れた理由を並べない。今日は長かった、とも言わない。必要なのは、その一言だけだった。


 メイリスは頷き、拭く手を止めない。


「みんな、はしゃいでたものね」


「……ああ」


 返事は短い。


 けれど、彼の声に棘はない。


 メイリスは、布を畳んで棚に置いた。少し背伸びをして、上段にしまう。そのとき、肩がエルディオの肩に、かすかに触れた。


 意図した接触ではない。


 避けようともしていない。


 触れた瞬間、二人とも動きを止める。


 止めるが、離れない。


 それは、確認だった。拒まれていないか。嫌がられていないか。言葉にしない確認。


 メイリスは、先に息を吐いた。


 小さく、音を立てない呼吸。


「……あなた、最近よく笑う」


 唐突に聞こえる言葉だった。


 だが、夜の中では自然に落ちる。


 エルディオは、一拍置いた。


「……そうか」


 否定しない。


 肯定もしない。


 ただ、受け取る。


「前より、人みたい」


 その言い方に、責めはない。


 皮肉でもない。


 むしろ、安堵に近い。


 エルディオは、わずかに口元を緩める。


 笑い、と呼ぶほど大きくはない。だが、確かに柔らかい。


「……前は、人じゃなかったみたいに聞こえるな」


 冗談めいた返し。


 冗談を選べるようになったこと自体が、彼女の言葉の裏付けだった。


 メイリスは、肩をすくめる。


「そうは言ってないわ」


 そして、少しだけ声を落とす。


「でも……前より、ここにいる」


 “ここ”。


 村でもなく、家でもなく。


 今、この夜の中にいる、という意味だ。


 エルディオは、何も言わない。


 言葉を足せば、評価になってしまう。評価になれば、また判断に戻ってしまう。


 今は、判断じゃない。


 感想だ。


 二人は、並んで立ったまま、しばらく黙る。


 肩は触れたまま。


 離れないが、寄せない。


 この距離が、ちょうどいい。


 心地いい無言は、選ばなければ生まれない。半年という時間が、その選び方を二人に教えていた。


 外で風が鳴る。


 それに反応して、エルディオの視線が、一瞬だけ扉の方へ動く。


 癖だ。


 変わらない。


 メイリスは、その動きを見ている。


 見ているが、何も言わない。


 代わりに、もう一歩だけ、彼に近づく。


 肩の接触が、少しだけ深くなる。


 意図はない。


 けれど、逃げてもいない。


「今日は……楽しかった?」


 今度は、感想を求める問い。


 エルディオは、すぐ答えない。


 楽しい、という言葉は、まだ少しだけ重い。軽く使うと、後で自分が困る。


 それでも――


「……悪くなかった」


 そう答える。


 悪くなかった、は彼なりの肯定だ。


 メイリスは、それで満足したように微笑む。


「そう」


 それだけ言って、桶の水を捨てに行く。


 その背中を、エルディオは見送る。


 見送ってから、無意識に、部屋の端を見る。


 剣の位置。


 いつも通り、手の届くところにある。


 位置は、変わらない。


 彼の中で、そこだけはまだ動かせない。


 メイリスが戻ってくる。


 布を干し、灯りを落とす準備をする。動きは静かで、急がない。


「エミリア、もう寝てる」


「……ああ」


 返事をしながら、エルディオはもう一度、剣を見る。


 位置を確認する。


 微調整はしない。


 今夜は、そのままでいい。


 メイリスは、その視線に気づいて、ほんの一瞬だけ立ち止まる。


 だが、言葉にしない。


 彼女は、彼の隣に戻り、同じ方向を見る。


 剣ではなく、部屋の静けさを。


「ね」


 小さな声。


「こういう夜、続くといいわね」


 願いではない。


 希望でもない。


 ただの感想だ。


 エルディオは、答えない。


 否定もしない。


 代わりに、ほんの少しだけ、肩の力を抜く。


 それが、今の彼にできる最大の肯定だった。


 剣の位置は変わらない。


 警戒も、消えない。


 それでも――


 肩が触れる夜は、確かに甘い。


 判断ではなく、感想で語られる時間が、ここにある。


 その事実だけを、エルディオは静かに受け取っていた。


 ♢


 夜が明けきらない時間、村の端にある小さな焚き火のそばで、男たちは腰を下ろしていた。


 特別な集まりではない。見回りの交代でも、相談でもない。ただ、仕事の合間に火を起こし、手を温めているだけだ。こういう「だけ」の時間が増えたこと自体が、半年という時間の成果だった。


 炎が小さく揺れ、薪がぱちりと弾ける。


 エルディオは、その輪の中にいた。


 立っていない。

 外に視線を張りつめているわけでもない。

 ただ、火のそばに腰を下ろし、同じ方向を見ている。


 その光景だけを切り取れば、彼は完全に“村の一人”だった。


「しかし……」


 年配の男が、ゆっくりと息を吐いた。


「いい半年だったな」


 誰かが、頷く。

 別の誰かが、短く笑う。


「ほんとだ」

「魔族も、魔獣も、大事にはならなかった」

「畑も当たりだ」

「子どもも、よく眠る」


 言葉は穏やかで、重なり合う。

 どれも事実だ。

 どれも嘘ではない。


 エルディオは、その言葉を聞きながら、ゆっくりと頷いた。


 否定しない。


「そうだな」と言う代わりに、

「違う」と言う代わりに、

 ただ、頷く。


 村人たちは、それを肯定として受け取る。


「エルが来てからだよな」

「落ち着いたのは」

「こうして話せる夜が増えた」


 感謝の言葉に、祈りの色はない。

 期待の重さもない。


 ただ、生活の感想だ。


 それが、いちばん重い。


 エルディオは、火を見ているふりをしながら、内側で言葉を組み立てる。


 ――半年。


 彼にとっての半年は、「積み上げた時間」ではなかった。


 猶予だ。


 崩れなかった、という事実が積み重なっただけの時間。

 壊れる可能性を先送りし続けた期間。


 猶予が長くなればなるほど、

「壊れなかった」という結果が、

「壊れないはずだ」という前提に変わっていく。


 それが、彼には見えてしまう。


 村人たちは、喜びを“増えた”と感じている。

 彼は、密度が“濃くなった”と感じている。


 人が増えた。

 笑いが増えた。

 触れる距離が縮まった。

 名前を呼ぶ声が増えた。


 喜びが広がったのではない。

 同じ範囲に、より多く詰め込まれただけだ。


 密度が増したものは、壊れたときの衝撃が大きい。


 それを、彼だけが計算している。


 炎が揺れ、影が揺れる。


 その影の揺れ方を、エルディオは無意識に追っている。

 誰も見ていない影の端。

 火の届かない場所。

 村の外縁。


 見る場所が、違う。


 同じ焚き火を囲んでいても、

 同じ言葉を聞いていても、

 彼の視線は、同じ方向を向いていない。


「なあ、エル」


 男が、穏やかに声をかける。


「これからも、こんな日が続くといいな」


 願いではない。

 決意でもない。


 ただの、生活の延長の言葉。


 エルディオは、少しだけ間を置いて、また頷く。


 言葉にしない。


 言葉にしてしまえば、

 “続く”ことを前提にしてしまうから。


 彼は、前提を置かない。


 置けない。


 人として生きている。

 それは、確かな実感だ。


 エミリアに呼ばれ、

 メイリスと並び、

 村人と笑い、

 夜に疲れを感じる。


 人の生活をしている。


 だからこそ――


 壊れたら、致命的だ。


 英雄なら、壊れても立ち上がれる。

 役割なら、壊れても代替が効く。


 だが、人として積み上げたものは、

 一度壊れれば、戻らない。


 守るべきものがあるから怖いのではない。

 守るべきものが“当たり前”になったから、怖い。


 エルディオは、焚き火から視線を外し、

 村の暗がりを見る。


 柵の向こう。

 林の影。

 音のない場所。


 そこに、まだ何もないことを確認する。


 確認してから、ゆっくりと息を吐いた。


「いい半年だったな」


 その言葉を、否定しないまま。


 ただ、

 彼だけが違う場所を見続けているという事実だけが、

 静かに、はっきりと浮かび上がっていた。


 ♢


 夜は、静かだった。


 風は弱く、戸を鳴らすほどでもない。村の中を満たしているのは、昼の名残ではなく、ちゃんと「夜」として整えられた静けさだ。誰かが無理に眠っている気配もない。誰かが起きて警戒している緊張もない。


 眠れる夜が、そこにある。


 家の中は、薄暗い。


 火は落とされ、芯だけが赤く残っている。完全な闇ではないが、活動のための光でもない。眠ることを邪魔しない程度の明かりが、部屋の輪郭をやわらかく保っている。


 エミリアは、すでに眠っていた。


 布団の中で丸くなり、片腕を伸ばしたまま、途中で力尽きたような姿勢だ。指先が布を掴んでいる。何かを確かめるように、あるいは、離さないように。


 寝顔に緊張はない。


 眉間は緩み、口は少しだけ開いている。深い呼吸が、一定の間隔で繰り返されている。夢を見ているのかどうかは分からない。ただ、世界を疑っていない顔だ。


 それが、胸に来る。


 エルディオは、少し離れた位置からその寝顔を見ていた。


 近づきすぎない。

 触れない。


 触れれば、起こしてしまうかもしれない。

 起こせば、夜が変わる。


 今夜は、変えない。


 村の外では、音が消えている。


 犬の足音もない。

 遠くの話し声もない。

 見回りの交代の気配もない。


 それらが「ない」という事実が、村の静けさを完成させている。


 この静けさを、村は「安心」と呼ぶ。


 エルディオは、そう呼ばない。


 彼は、部屋の隅に立てかけられた剣を見る。


 いつも通りの場所。

 いつも通りの角度。


 だが、彼はそこへ歩み寄り、ほんの数指分だけ位置を調整する。近すぎず、遠すぎず。手を伸ばせば届くが、足音を立てずに動ける距離。


 触れない。

 抜かない。


 ただ、位置を確かめる。


 それで、今夜が「無事だった」と判断できる。


 エルディオは、剣から視線を外し、もう一度エミリアを見る。


 変わらず、眠っている。


 その事実に、胸の奥がわずかに緩む。


 確かに、幸せはある。


 食事がある。

 寝顔がある。

 名前を呼ばれる声がある。

 帰る場所がある。


 人として生きている実感が、ここにはある。


 だが、安心は共有されていない。


 村は、今日が続くと思って眠る。

 彼は、今日が続いた理由を確認してから眠る。


 同じ夜を過ごしながら、見ているものが違う。


 エルディオは、最後に窓の外を見る。


 闇の濃さ。

 音の距離。

 異変がないこと。


 確認してから、静かに息を吐く。


 そして、心の中でだけ、事実を整理する。


 半年を、生き延びたのではない。


 半年を、生きてしまった。


 それが、何よりも確かなこととして、

 この静かな夜の中に、重く、静かに残っていた。



ここまで読んでくださり、ありがとうございました。

この章は、事件ではなく「何も起きなかった時間」を描くためのものでした。

守られた日常と、守り続けている意識。そのズレが、静かに積み重なっていく半年です。


穏やかであることは、休息ではなく結果である。

その感覚が、少しでも伝わっていれば幸いです。


次に訪れる変化は、この静けさの上に立っています。

引き続き、見届けていただけたら嬉しいです。

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