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誰も救えない僕が、それでも魔王と生きる話  作者: 霜月ルイ
「  」編

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117/142

117.人として、ここにいる-2


 収穫のあとは、音が変わる。


 畑に残っていたのは土を割る鈍い音じゃなくて、籠を置く音と、布を払う音と、息を吐く音だった。鍬の刃についた泥を落とすために石に擦りつける音がして、誰かが「よし」と短く言う。終わりの合図は号令じゃない。身体のどこかが、もう十分だと判断して勝手に緩む。


 エルディオは、最後の籠を荷車に積んでから、掌を見た。


 土が爪の間に入り、指の関節に細い擦り傷がある。剣の柄でできた硬い胼胝とは違う。荒れ方が、生活の荒れ方だった。


「ほら、手ぇ出しな」


 隣の男が、ひょいと小さな瓶を差し出した。


 ガラスではない。陶の小瓶。口が欠けていて、蓋の紐が雑に結ばれている。中身は透明で、匂いだけ先に鼻を刺す。酒だ。


「……今?」


 エルディオは、反射で時間を測った。日が傾いている。村へ戻るまでの道。暗くなるまでの残り。家に帰って火を起こす順番。エミリアの顔。メイリスの鍋。


 それらが一瞬で並んで、結論を出す。


 ――少量なら。


「今だよ。収穫終わったんだぞ」


 男は笑う。笑いが、もう遠慮していない。


 最初の頃、この村の男たちは、エルディオに笑いかけるのが下手だった。笑いかけていいのか分からない顔をして、笑ってしまったあとに慌てて口元を引っ込める。英雄に向ける顔と、同じ畑で汗をかいた相手に向ける顔の切り替えができなかったのだ。


 今は違う。


 切り替えではない。最初から“同じ畑の人間”として笑っている。


「おい、飲めよ。水だけじゃ、ここから先しんどいぞ」


「……酒は、あまり」


 エルディオの答えは短い。

 でも、逃げではない。


「知ってる知ってる。だから“少し”だ」


 男は、瓶を軽く振って見せる。


「ほら、エル。あんた、顔に出るからな。嫌なら嫌って言え」


 別の声が混ざった。女だ。籠を拭きながらこちらを見ている。


 “あんた”。


 その呼び方が、半年の重さだった。


 エルディオは、瓶を受け取る。


 受け取る手が、まだ少しだけ丁寧すぎる。壊れ物を扱うみたいに。指先が器の縁を確かめてしまう。


 口をつける前に、一拍。


 鼻先に匂いを当てる。雑な蒸留の匂い。甘さはない。喉を焼く系だ。屋敷で嗜んでいた酒とは違う。けれど、嫌いではない匂いでもある。


 エルディオは、ほんの少しだけ飲んだ。


 喉に熱が落ちる。

 胸の奥に、小さく火が灯る。


 その瞬間――


 視線が、無意識に外へ滑る。


 畑の端。林の影。風が抜ける方向。荷車の向こうの死角。人が集まったことで生まれた“見えない場所”。


 確認して、戻す。


 それを、誰も気にしない。


「どうだ?」


 男が聞く。


「……強い」


「だろ?」


 男は満足そうに笑う。


「お前さ、そういう顔するんだな」


 口元を指さすように言われて、エルディオは一瞬だけ眉を動かした。


「……どんな顔だ」


「ほら、今の。今の顔」


「分からない」


「分からねぇのかよ。面白ぇな」


 笑いが起きる。


 笑いは軽い。軽いのに、薄くない。遠慮のない笑いは、棘にならない。相手を刺すためじゃなく、同じ場にいる証として落ちる。


 エルディオは、瓶を返した。


「……ありがとう」


「おう。礼なんか要らねぇよ」


 男は肩をすくめ、瓶を回し始める。


 自然に回る。

 誰も順番を決めない。


 その輪の中に、エルディオもいる。



 収穫後の世間話は、内容が薄い。


 薄いから、いい。


「今年は豆がいい」


「雨がちょうど良かった」


「隣の畝は雑草がひどかったな」


 話題は畑。子ども。鍋。祭り。

 ――来年の話も混ざる。


 エルディオは、頷く。

 言葉は少ない。

 でも、消えてはいない。


 誰かが冗談を振る。


「なぁエル、お前ってさ。寝るときも剣の夢見てんのか?」


 笑いが起きる。


 以前なら、この冗談は言えなかった。言った瞬間、場が凍る気がしていた。英雄に向かって“夢”なんて言葉を投げるのは、失礼かもしれないと怯えていた。


 今は言える。


 言えるほど、エルディオが“英雄”から剥がれてきた証拠だ。


 エルディオは、すぐ答えない。


 冗談の返し方が、まだ分からない。

 戦場では、冗談は弱さに繋がるからだ。


 でも、半年の間に彼は学んでいる。


 ここで黙ると、相手は気まずさを拾う。

 拾った気まずさは、また距離になる。


 だから――


「……夢は見ない」


 言ってから、一拍置いて付け足す。


「……見る暇がない」


 それは、半分冗談で、半分本音だ。


 笑いが起きる。


「なんだそれ!」


「相変わらず硬ぇなぁ!」


 笑いが重なる。


 エルディオは、口元をほんの少しだけ緩めた。


 笑った、と言えるほど大きくはない。

 でも、笑いの形だ。


 その瞬間、男が言った。


「エルってさ、笑うと普通だな」


 言葉は、悪意のない直球だった。


 “普通”。


 それは、彼にとって褒め言葉にも、刃にもなり得る。


 エルディオは、一瞬だけ目を伏せる。


 そして、返す。


「……普通で悪いか」


 少しだけ刺のある返し。


 だが、怒ってはいない。

 怒りなら、声が低くなる。

 今は、低くない。


 男は笑った。


「いや、いい意味だ」

「良かったってこと。こうして一緒に酒飲んで、冗談言えてさ」


 別の女が頷く。


「最初は、声かけるだけで緊張したのにねぇ」


「ほんと。近づいたら斬られそうって顔してた」


「してねぇ」


 エルディオが短く言う。


 即答だ。


 即答できること自体が、もう“混ざっている”証だった。


 笑いがまた起きる。


 エルディオは、笑いながら――


 周囲を見る。


 畑の端。荷車の陰。林の影。

 誰かが帰り道を歩き出す気配。子どもが走る音。犬の足音。


 “笑いながら周囲を見る”という癖は、抜けない。


 抜けないまま、笑っている。


 それが、この半年の歪みであり、変化でもあった。



 話の輪の外側で、エミリアが跳ねていた。


 収穫の場に子どもがいるのは、珍しくない。手伝いになるほどではないが、いるだけで場が柔らかくなる。転びそうになっても誰も怒らない。転びそうになることが“平穏の証明”みたいになっている。


「お父さーん!」


 エミリアの声が飛ぶ。


 エルディオの背中が、ほんの一瞬だけ緊張して――すぐに緩む。


 呼ばれ方が、もう自然だ。


 エミリアは小さな手で何かを掲げて走ってくる。草花か、豆の莢か、土だらけの何か。意味のないもの。意味がないから、彼女は嬉しそうだ。


「みて! これ、でっかい!」


 差し出されたのは、妙に太い豆の莢だった。中の豆が膨らんで、形が歪んでいる。たぶん、偶然だ。たぶん、少し成長しすぎた。


 でも、エミリアにとっては宝物だ。


 エルディオは、その莢を受け取って、少しだけ眺める。


 “収穫の喜び”を言葉にするのは、まだ下手だ。


 代わりに、事実を言う。


「……確かに、でかい」


「でしょ!」


 エミリアが満足そうに笑う。


 その笑いに引っ張られるように、エルディオの口元がもう一度緩む。


 そして――


 笑いながら、周囲を見る。


 子どもが増えた分、視線が散る。

 散る分、死角が増える。


 畑の端の林の影が、少しだけ濃い。

 風が一瞬止まる。

 誰かの笑い声が大きくなる。


 危険があるわけじゃない。

 分かっている。


 それでも、身体がやる。


「お父さん、これ、もってかえる!」


「……ああ」


 返事は短い。


 だが、拒まない。


 村人の男が、エミリアを見て笑った。


「おい、エル。娘に負けてんぞ。もっといいの探せよ」


「探さない」


 即答。


 今度の即答は、少しだけ“照れ”が混じっている。


「なんだそれ!」


 笑い。


 女が言う。


「ねぇエル、飲みすぎるとメイリスに怒られるよ」


 その冗談が成立することが、距離の変化だった。


 エルディオは、反射でメイリスの姿を探す。


 畑の端、籠をまとめている。

 こちらを見ていないようで、見ている。

 目が合うと、ほんの僅かに目を細める。


 笑ってはいない。

 でも、許している顔だ。


 エルディオは、その視線を受け取って――


 また周囲を見る。


 癖。

 歪み。

 それでも、今はここにいる。



 夕方、解散の空気が流れ始める。


 荷車が動き出し、籠が減り、人の輪がほどける。誰かが「また明日な」と言う。明日、という言葉が自然に飛ぶ。怖がりながらではなく、当然として。


「エル、明日も来いよ。鍬の持ち方、もうちょい見せろ」


「……見るだけだ」


「見るだけで上手くなるかよ!」


 また笑い。


 エルディオは、その笑いの中で、短く息を吐いた。


 息が、少しだけ軽い。


 軽くなったことに気づくと、すぐに胸の奥が硬くなる。

 軽さは油断に繋がるからだ。


 だから、彼は最後にもう一度、畑の外縁を見る。


 林の影。

 風の抜け。

 見通しの悪さ。


 その“確認”を終えてから、初めて荷車の方へ歩き出した。


 エミリアが、隣にぴたりとつく。


「お父さん、きょうたのしかった?」


 未来の匂いのする問い。


 エルディオは、一拍置いて答える。


「……今日は、悪くなかった」


「えへへ」


 エミリアが笑う。


 エルディオも、ほんの少しだけ笑う。


 笑いながら――

 周囲を見ている。


 村人たちは、それを見ていないふりをする。

 あるいは、もうそれが“エルという人間”の一部だと知っている。


 英雄ではなく、人として。


 その扱われ方が、彼の胸を少しだけ救い、

 同時に、少しだけ怖くさせた。



 依頼は、朝の井戸端で落ちた。


 誰かが深刻そうに声を落として、誰かが「またか」と短く言い、誰かが肩をすくめる。大げさな騒ぎにはならない。村にとってそれは、恐怖より先に“面倒”に分類される出来事だった。面倒が増えた、という顔だ。恐ろしいからではない。恐ろしさだけで暮らしていけないことを、この村の人間は知っている。


「……畑の外れだ。柵の向こうの斜面」


 年配の男が言った。目の下に睡眠の影はない。前なら、同じ話をするとき、声が揺れていたはずだ。今は揺れない。


「羊が一頭、持ってかれた。足跡がでかい」


 その言葉の“でかい”が、どこか乾いているのが逆に怖い。慣れが、空気になっている。


「昨夜は吠え声もなかった。犬が震えててな」


 犬が震える。夜の音が変わる。それだけで十分、異物の種類が分かる。


 エルディオは桶を持ったまま、頷いた。


「……いつ」


「今朝、見つけた」


「……行く」


 それだけで、会話は成立した。


 “お願いします”という改まった言葉はない。

 “頼む”の重さも薄い。


 代わりにあるのは、生活の手順みたいな依頼だ。


 ――畑の外れに魔獣が出た。だから、狩りに行く。


 それを、特別なこととして扱わない空気が、半年の重さだった。



 同行するのは、三人。


 村人の男が二人と、若い猟師が一人。武装といっても、木槍と鉈、弓。剣のように洗練された武器ではない。生活の延長の道具だ。守るためというより、食うための道具。


 エルディオは、剣を腰に下げた。


 鎧はない。外套も薄い。

 だが、剣だけは変わらない。


 家を出る前、エミリアが戸口から顔を出した。


「お父さん、どこいくの?」


 言い方が、もう当たり前の質問だ。怖がっていない。引き止める感じもない。生活の中の“外出”として聞いている。


 エルディオは、返し方を選ぶ。


 “危ないから”と言えば、彼女の今日を汚す。

 “すぐ戻る”と言えば、約束になる。


「……仕事だ」


 それだけ。


 エミリアは、少しだけ目を丸くする。


「しごと?」


「ああ」


「じゃあ、いってらっしゃい」


 言葉が軽い。

 軽いのに、ちゃんと届く。


 メイリスが背後から出てくる。


「昼までには戻れる?」


 責めるでも、引き止めるでもない。

 台所の計算の声だ。


 エルディオは一拍置き、風と距離を頭で測ってから答える。


「……戻る」


 “戻れる”ではなく、“戻る”。


 言葉が断定になったのは、彼の中で“帰る場所”の輪郭が少しだけはっきりしてきた証拠だった。


 メイリスは頷く。


「分かった。じゃあ、スープは少し濃いめにしておく」


 それが、送り出しの言葉だった。


 エルディオは、何も言わずに外へ出る。

 その背中に、エミリアの声が追いかける。


「お父さん!」


 振り返ると、彼女は小さな手を振った。


「……きをつけてね」


 やっと言えたみたいな声。


 エルディオの胸が、ほんの一瞬だけ揺れる。

 揺れた直後、視線が外へ滑る。


 村の外縁。

 道の見通し。

 斜面の影。


 揺れを持ったまま、歩き出した。



 畑を抜け、斜面に向かう。


 道は土が柔らかく、草が伸びている。足音は消そうとしなくても消える。村人たちの歩き方は、静かだ。彼らもまた、この土地の危険を知っている。知らないふりができるほど愚かではない。だが、“怯え”で動いていない。生活の足取りだ。


「……足跡、こっちだ」


 猟師が言う。


 エルディオは、言葉で返さない。視線で追う。

 足跡は大きい。蹄ではない。爪でもない。湿った地面に、幅のある痕が残っている。体重のある獣。魔獣、というほど派手な異形ではないかもしれない。だが、“普通の獣”ではない匂いが混じる。


 獣の匂いに、血の匂いが薄く乗っている。

 羊の血だ。


 男の一人が喉を鳴らした。


「羊ぁ……あれ、一番太ってたやつだぞ」


 悔しさが先に来る。

 恐怖ではない。


 エルディオは、短く言う。


「……声、落とせ」


 指示は最低限。

 怒鳴らない。

 命令の形を最小にする。


「お、おう」


 男はすぐ頷く。


 この瞬間、エルディオは“英雄”ではない。

 隊を率いる団長でもない。


 ただ、仕事の段取りを組む人間だ。


 斜面の手前で、彼は足を止めた。


 風が変わる。


 森の匂いが濃くなる。湿り気。腐葉土。獣の体温。――そして、異物の臭い。


 いる。


 距離は近い。

 だが見えない。


 見えないことが、この仕事の危険だ。

 戦場と違って、相手が“意思”で動くわけではない。狙いも、手順も、こちらの読みを外してくる。獣は理屈に従わない。


 エルディオは、同行の三人を見る。


 守る位置取りを考える。


 彼らを“守る”と言葉にしない。だが、体は勝手に守る形を取る。背後に置き、斜面の横を切り、逃げ道を確保して、最初に自分が噛まれる位置に立つ。


 それが染みついている。


「……ここから先」


 声を落として言う。


「二人は、少し下がれ」

「弓は、右。見えたら撃て」

「僕が合図したら、動く」


 短い指示。

 余計な説明はしない。

 説明は安心を生む。安心は油断を生む。


 猟師が頷く。


「分かった」


 男たちも頷く。


「……頼む」


 その頼むは、祈りではない。

 仕事の確認だ。



 魔獣は、斜面の上にいた。


 姿を見た瞬間、理解する。


 大きい。狼に似た体つきだが、肩が盛り上がっている。毛は硬く、泥と血を含んで黒く光る。目が、獣の目ではない。獣よりも少し“人”の知恵が混じった目。こちらを試すように見ている。


 村の誰かが言った“でかい”は正しかった。


 エルディオは、剣を抜いた。


 派手な抜刀音はない。

 感情も上がらない。


 魔獣は唸り、地面を掻く。

 突進の前兆。


 エルディオは、半歩だけ動く。


 彼自身が前に出るのではない。

 “村人から離す位置”に自分を置き直す。


 魔獣が飛んだ。


 速い。だが、直線。

 獣は読める。読めるからこそ、怖い。


 剣が動く。


 技名はない。

 型も語らない。


 必要なだけ、刃を通す。


 魔獣の爪が空を切り、土が飛ぶ。風が裂ける。獣の体温が近くなる。生臭い息。毛の硬さ。重量の圧。


 エルディオは一歩も引かない――のではなく、引くべき分だけ引く。


 後ろにいる三人の距離を、絶対に崩さないために。


「今!」


 短い合図。


 弓が鳴る。矢が飛ぶ。

 魔獣の肩に刺さる。致命ではないが、動きが鈍る。


 エルディオは、その瞬間に距離を詰める。


 剣がもう一度動く。


 魔獣は倒れない。だが、動きが乱れる。

 乱れた瞬間、獣は本能で“弱い方”を狙う。


 視線が、村人の方へ向いた。


 ――来る。


 エルディオの身体が先に動いた。


 横から割り込む。

 斜面の角度を使って押し返す。


 魔獣の牙が、空を噛む。

 その空が、もし村人の腕だったら、と想像してしまうのが嫌で、エルディオは想像を切り落とす。


「動くな」


 声が低い。


 村人たちは固まる。固まるしかない。逃げれば死角が増える。死角は事故を生む。事故は一瞬で死を呼ぶ。


 魔獣の息が荒くなる。


 エルディオは、最後の一撃を選ぶ。


 派手に倒さない。

 見せ場にしない。


 ただ終わらせる。


 剣が喉を裂く。

 動きが止まり、重量が崩れる。


 土が沈む音がして、魔獣は斜面に倒れた。


 終わりだ。


 風が戻る。

 森の音が戻る。


 誰かの呼吸が、今になって大きく聞こえる。


 村人の男が、震えた声で言った。


「……助かった」


 それは、感謝だ。

 恐怖の後の、本音の言葉だ。


 エルディオは、魔獣の死体を見ないまま答えた。


「仕事だ」


 “守った”とは言わない。

 “守れた”とも言わない。


 仕事なら、終わりがある。

 役割なら、終わりがない。


 彼は、終わりがほしかった。



 戦闘が終わっても、彼の動きは終わらない。


 誰よりも早く周囲を見る。


 斜面の上。左右の林。風下。

 同じ個体がもう一体いる可能性。群れの兆候。餌場の痕跡。足跡の数。血の匂いが増える方向。


 異変はない。


 ――ないことを確認するまで、終われない。


 猟師が、息を吐きながら言った。


「……一匹だったな」


「……ああ」


 エルディオは短く返す。


 男が恐る恐る近づき、魔獣の体を見下ろす。


「……でけぇ……」


 声がかすれる。


 エルディオは、その男の前に立たない。

 立てば、遮ってしまう。

 “見なければならない現実”を、彼が奪うことになる。


 代わりに、少しだけ距離を取り、周囲を見続ける。


 それが、彼の歪みだ。


 村人たちは、すぐに気づく。


 助かった、と言ったのに、彼は安堵しない。

 勝ったのに、彼は緩まない。


 仕事だ、と言って終わらせたはずなのに、

 身体は終わらせていない。


 男が、少しだけ笑って言った。


「……相変わらずだな。終わっても、終わってねぇ顔」


 笑いは薄い。

 だが、悪意はない。


 距離が縮まった証だ。


 エルディオは、答えない。


 答えられない。


 終わったのに終われない理由を、言葉にしてしまったら、

 また自分が“穏やかでいない役”を確定させてしまうから。



 帰り道、荷車の軋む音が耳に残る。


 村人たちは、道すがら少しずつ口数が増える。緊張が解けてくる。冗談も混ざる。


「なぁエル、今日の飯は肉だな」


「おい、あれ食う気かよ」


「食えるとこあるだろ、たぶん!」


 笑いが起きる。


 エルディオは、笑わない。

 だが、否定もしない。


 ただ、道の左右を見る。

 風向きを測る。

 村が見えてきたとき、煙の匂いを先に探す。


 家がある匂い。

 鍋がある匂い。

 エミリアの声がある方向。


 村の入口で、エミリアが走ってきた。


「お父さーん!」


 その声を聞いた瞬間、エルディオの胸がほんの少しだけ緩む。


 緩んで――

 直後に、周囲を見る。


 入口の影。

 柵の隙間。

 見通しの悪さ。


 確認してから、ようやくエミリアを見る。


「……ただいま」


 言葉が、生活の言葉になっている。


 エミリアは、彼の腕に抱きつく。


「おかえり!」


 メイリスが、戸口で待っていた。


 目が合う。

 彼女は、何も聞かない。


 聞かなくても分かる。

 終わったことも、終わっていない部分も。


 エルディオは、短く言う。


「……終わった」


 メイリスは頷く。


「うん。手、洗って。スープ、できてる」


 それが、戦いの後に用意された“戻り方”だった。


 英雄の帰還ではない。

 仕事の終わりの帰宅だ。


 村人の誰かが、背後で小さく言った。


「助かったよな」


「ほんとだ」


 その声が、もう祈りじゃないことに、エルディオは気づいてしまう。

 生活の会話になっている。


 だから、彼はその夜――


 見回りの時間を、少しだけ増やす。


 誰にも言わずに。

 誰にも見せずに。


 “守った”という言葉を使わないまま、

 守る位置取りだけを、身体で続けながら。


ここまでお読みいただき、ありがとうございました。

半年という時間が、エルに「人としての輪」を少しずつ与える一方で、笑いの中にいても警戒だけは抜けない――そのズレが静かに形になっていく章でした。

穏やかさは確かにあるのに、安心はまだ共有されていない。

その小さな違和感が、次の“何か”の予兆になっていきます。

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