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誰も救えない僕が、それでも魔王と生きる話  作者: 霜月ルイ
「  」編

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116/143

116.人として、ここにいる-1

 

 半年は、待つには長く、戻るには短すぎた。


 それを最初に知るのは、暦でも、誰かの言葉でもない。身体だった。朝、戸を開けた瞬間の空気の重さが違う。袖を通した布の温度が違う。鍋に入れる野菜の匂いが違う。そういう小さな違いが、何度も積み重なって、ある日ふと「ここで時間が流れている」と認めざるを得なくなる。


 長く住んでいる、という言い方は、どこか他人事だ。どこかで帰れる響きが残る。けれど、半年は違った。戻る場所が消えたわけではない。消えるはずもない。ただ――戻るという動作が、現実的ではなくなる。戻るための手順を、身体がもう知らない。


 最初に変わったのは、空だった。


 冬の終わり、空は薄く硬かった。雲は低く、光は弱いのに眩しくて、息を吸うだけで喉の奥が少し痛む。戸を開ければ冷えがまず先に入ってきて、火を起こす前から「今日」を押し込まれる。畑の土は重く、足が沈む。井戸の縄は冷たく、指がかじかんで、結び目を作るだけで時間がかかった。


 その硬さが、いつの間にか抜けた。


 ある朝、息が白くならない。代わりに土の匂いが濃い。夜露が残る草が柔らかい。空は高く、雲の影がゆっくり移動している。風が通る。通った風が冷たいのではなく、少し湿り気を含んでいる。季節が一歩進んだと、言葉にする前に皮膚が理解した。


 服が変わるのは、その次だ。


 エルディオは、朝、外套に手を伸ばしてから止まった。止まった瞬間が、自分でも少しだけ怖い。迷うというより、癖で手が伸びただけだと分かっている。分かっているのに、戻す動作が「決断」みたいに重い。外套を棚に戻し、薄手の上着を取る。袖を通したとき、軽すぎる布に、身体が一瞬だけ落ち着かない。


 軽いというのは、守るものが増えると不安になる。重さは、鎧のためではない。心のためだ。


 メイリスは、何も言わずに衣替えをしていた。厚手の布を畳み、箱に入れ、紐で結ぶ。迷いがない。過去を閉じる動作が、生活の手順として組み込まれている。


「もう、はいらないわね」


 その一言が、何の抵抗もなく落ちる。もう。いらない。過去が、静かに仕舞われていく。


 エミリアは、その横で自分の服を引っ張り出して、あっけらかんと言った。


「お母さん、これちょっときついよ」


 袖が短い。去年の布だ。気づかないうちに、身体は変わる。大きくなったのだと、誰かに宣言されなくても、布が教えてくる。


「ほんとだね」


 メイリスが頷く。


「じゃあ、しまっちゃおうか」


「うん!」


 惜しまない。戻れないことに、未練がない。子どもはいつだって、今にしか住めない。


 エルディオは、そのやり取りを横目に見て、指先だけを微かに動かした。何かを言うべきか分からない。喜ぶべきなのか、怖がるべきなのか、どちらも正しい気がして、どちらも口にしたくない。


 食べ物が変わると、村全体が変わる。


 鍋の中から根菜が減り、代わりに葉物が増える。煮込みの匂いが軽くなり、焼き物の香ばしさが増える。保存食の硬い塩気が、今採れた草の青い匂いに置き換わる。市場に並ぶ籠が明るくなる。声がよく通るようになる。


「今年の豆は良いぞ」


「ほら、こっちの畝はもう芽が揃ってる」


 そんな声が、当たり前に飛び交う。


 当たり前、というのが重要だった。


 以前は「当たり前」ではなかった。畑の話は、いつだって「もし無事なら」の後ろにくっついていた。夜を越えてから、翌日の畑を考える。その順番だった。今は違う。畑の話の中に、夜が出てこない。夜が、生活の途中で切り落とされている。切り落とせるほど、眠れている。


 エルディオは、その輪の中にいる。


 いるが、同じ方向を見ていない。


 村人が畝の話をしているとき、彼は畝の向こうの森の影を見ている。種の話をしているとき、彼は風向きを測っている。笑い声が増えれば増えるほど、死角が増える場所を数えてしまう。


 それでも、彼は黙って立ち去らない。


 半年という時間は、彼を村の外に置かせなかった。


 最初の頃、村人は彼を扱いかねていた。近づけば失礼になる気がして、遠ざかれば疑っているみたいで、どちらも怖い。だから距離が不自然だった。挨拶はするが会話は続かない。手伝いを頼むときは、必要以上に丁寧になる。


 それが、少しずつ崩れる。


 崩れるというより、溶ける。


 溶けるのは、意識だ。遠慮だ。線引きだ。


 朝、井戸のそばで縄を引いていると、背後から自然に声が飛ぶ。


「エル、桶貸して」


 呼び方が短い。敬語もつかない。頼み方が命令に近いわけでもない。ただ、同じ村の人間に向ける声の温度だ。


 エルディオは、振り返りもせずに桶を渡す。動作が、もうぎこちなくない。その自然さが、自分の中で少し痛い。痛いが、拒まない。


「ありがとよ」


 返ってくる礼も、軽い。


 軽いというのは、信頼だ。


 昼、畑から戻る道で、荷車を押す男が手を振る。


「おーい、エル! 後で板、見てくれよ。柵のとこ」


 柵。補修。いつの間にか、村の仕事が彼の仕事にも混ざっている。頼まれるというより、流れの中に置かれる。誰も「頼んでいいですか」と改まらない。改まる必要がない相手になっている。


「……分かった」


 短い返事で十分になる。


 夕方、市場の端で、子どもが走り回り、足元にぶつかりかけて止まる。


「わっ、ごめん!」


 謝り方が、怖がっていない。怒られる前提ではない。大人にぶつかったから謝っただけだ。英雄にぶつかったから萎縮したのではない。


 その子の母親が笑って言う。


「こら、走りすぎ!」


 エルディオに向けて、何の言い訳もしない。謝罪も過剰にしない。生活の中の小さな事故として処理する。


 それが、半年の重さだった。


 彼が「ここにいる」ことが、説明を必要としなくなった。彼が村に溶け込んだ、というより、村の側が彼を日常の一部として受け入れる癖を身につけてしまった。


 名前で呼ばれる頻度が増える。


 それは、距離が近いという意味だけではない。役割が剥がれていくという意味だ。


「団長」でも、「貴族」でもない。

「英雄」でもない。


 エル。


 その音が、家の外でも内でも、当たり前に落ちるようになった。


 家の中では、なおさらだ。


 エミリアは、もう迷わなくなっている。迷わないことが、時々、エルディオを不意打ちする。


 朝、靴を履いて外へ飛び出す前、彼女は当然の顔で言う。


「お父さん、いってくる!」


 言って、すぐに外へ行く。返事を待たない。返事を要求しない。生活の合図として落としていく。


 エルディオは、一瞬だけ返事が遅れる。


「……気をつけろ」


 それだけ言う。


「はーい!」


 返事は軽い。軽いのに、嘘がない。彼女の中で「お父さん」は英雄でも、守護者でも、責任でもない。ただ、呼べる相手の名称だ。呼べるという事実が、彼の胸にずしりと沈む。


 沈むのに、温かい。


 温かいまま、怖い。


 メイリスは、そのやり取りを台所から聞きながら、鍋をかき混ぜる手を止めない。


 最初の頃は、彼女はよく「確認」をしていた。水はあるか。薪はあるか。食べ物は足りるか。戸は閉まっているか。危険はないか。生活を守るために必要な指示を、彼女は言葉にしていた。言わなければ回らないからだ。


 今は、指示が減った。


 減ったというより、言わなくても回るようになった。


 エルディオが自分で動く。

 自分で水を汲む。

 自分で薪を割る。

 自分で柵の歪みを直す。

 誰かが困っていれば、黙って手を貸す。


 それが「守る」ではなく、「生活の手順」になっている。


 そして、それがいちばん怖い。


 生活は、英雄のように派手に壊れない。静かに、当たり前に、根を張る。根を張ったものは、引き剥がすときに痛い。痛いと分かっているから、彼は喜びを言葉にしない。幸せという言葉を使わない。


 ある夕方、畑から戻る村人が笑いながら言った。


「いやぁ、半年って早いな。もう春も終わるぞ」


 別の女が頷く。


「最初の頃はさ、夜が来るたび息が止まってたのに」


「今は、眠れるのが当たり前だもんな」


 眠れる。当たり前。


 その当たり前の中心に、彼の存在が置かれていることを、エルディオは理解してしまう。理解してしまった瞬間、肩の奥が少し硬くなる。


「エル、今年の畑どうする?」

「来年はさ、麦を増やそうと思ってる」


 未来の言葉が飛び交う。


 エルディオは、頷くが、参加しない。


 明日の雨なら話せる。

 明日の風なら話せる。

 明日の見回りなら、いくらでも考えられる。


 来年の話は、まだ喉に乗らない。


 乗せてしまえば、「続く」ことを前提にしてしまうからだ。

 続くことを前提にした瞬間、それが崩れたときの痛みが、今の何倍にもなる。


 だから彼は、今日の延長だけを見る。


 家に戻ると、エミリアが走ってくる。


「お父さん!」


 腕を広げる。

 抱きつく。


 半年の間に、彼女は距離の取り方を学んだのではない。距離を取らなくていい相手だと、身体で覚えただけだ。覚えてしまったから、ためらいがない。


 エルディオは、抱き返さない。


 抱き返さないまま、手を置く。


 背中に、軽く。

 押さえない。

 逃がさない。


 そこにいる、という合図だけを返す。


「どうした」


「みて!」


 手のひらいっぱいの草花。

 意味のない贈り物。

 意味のないことが、生活の中ではいちばん尊い。


「……きれいだな」


 それだけ言うと、エミリアは満足そうに笑った。


 笑った顔が、彼の中の何かを溶かす。

 溶けた直後、彼の視線がすっと村の外縁へ滑る。


 森の影。

 家と家の隙間。

 声が届く距離。

 逃げ道。

 死角。


 半年が、彼に与えたものは二つあった。


 ひとつは、確かな日常。

 もうひとつは、その日常が壊れたときの具体的な想像。


 夜、火が落ちる。


 エミリアの寝息が深くなる。

 メイリスが布を畳む。

 村は眠りへ落ちていく。


 エルディオは、剣の位置を確かめる。


 毎晩、ほんの少しだけ角度を変える。

 半歩、近づける。

 数指分、ずらす。


 誰にも分からない微調整。

 だが、彼の中では「今日が無事だった」という証明を終わらせる儀式だった。


 穏やかさは、状態ではない。

 結果だ。


 結果は、積み重なる。

 積み重なれば積み重なるほど、崩れたときの音が大きくなる。


 だから、彼はまだ完全には眠れない。


 それでも、家の中には確かに温度がある。


 寝顔がある。

 鍋の匂いがある。

 名前で呼ばれる声がある。


 半年は、待つには長く、戻るには短すぎた。


 そして、その短すぎる半年の間に――

 エルディオは、戻れないほどのものを、静かに拾い集めてしまっていた。


 ♢


 朝の畑は、すでに動いていた。


 日が完全に上がる前から、人の気配がある。鍬が土に入る鈍い音、籠を置く音、低く交わされる声。誰かが誰かに指示を出しているわけではない。けれど、動きは自然に噛み合っている。長く続いた生活の中で、身体が覚えた順番だ。


 エルディオは、その中にいた。


 最初から混ざっていたわけではない。最初は端だった。邪魔にならない位置。頼まれれば動く位置。だが今は違う。誰かが声をかける前に、彼は畝の間に入り、鍬を手に取っている。


 鍬を振る。


 重さは分かる。力の入れどころも分かる。土の硬さに応じて、角度を変えることもできる。できるのに、最初はうまくできなかった。


 ――立ち方が違った。


 それを、彼自身が一番よく覚えている。


 最初の頃、鍬を振ると、土は割れるが、身体が無駄に動いた。踏み込みが深すぎる。重心が前に寄りすぎる。打ち下ろしたあと、必ず一瞬、静止してしまう。戦う身体の癖だ。相手の反応を待つための間。畑では、必要ない。


 今は、その間が消えている。


 振り下ろし、返し、次へ。


 呼吸と動作が噛み合っている。無駄な力が抜けて、長く続けられるリズムになっている。


「……もう慣れたな」


 隣で鍬を振っていた男が、何気なく言った。


 年の近い農夫だ。最初の頃は、彼に話しかけるたび、どこか遠慮があった。今は、ない。


「……まあ」


 エルディオは、短く返す。


 言葉が少ないのは変わらない。だが、それが壁にはならなくなった。


「最初はさ、立ち方が違った」


 男は、鍬を土に立てかけ、腰を伸ばしながら言う。


「こう……地面と喧嘩してる感じだった」


 笑いが混じる。


 エルディオは、否定しない。


「……そうだった」


「今は、いいよ。ちゃんと畑の立ち方だ」


 それは褒め言葉だった。評価でもある。だが、重くはない。仕事仲間としての確認だ。


 エルディオは、鍬を振りながら、わずかに頷いた。


 畑の立ち方。


 その言葉が、胸の奥で静かに沈む。


 畑は、敵ではない。打ち負かす相手ではない。応えを引き出す場所だ。力を入れすぎれば、土は固くなる。焦れば、根を傷つける。急げば、芽は育たない。


 分かっている。


 分かっているのに――


 鍬を振る合間、エルディオの視線は、無意識に畑の外へ滑る。


 林の影。

 木々の間の暗さ。

 風が抜ける方向。

 見通しの悪い起伏。


 作物の列よりも先に、境界を見る。


 自覚はある。

 止められない。


 休憩の合図がかかる。


 誰かが「そろそろだな」と言い、動きが一斉に緩む。鍬が立てかけられ、腰が下ろされる。汗を拭う音。深く息を吐く音。


 水が回ってくる。


 誰かが、黙って器を差し出す。


 エルディオは、それを受け取る。


「……ありがとう」


 礼を言うのは、今でも少し遅れる。癖だ。だが、言う。


「おう」


 返事は簡単だ。礼を言われるほどのことでもない、という温度。


 水を飲む。


 喉を通る冷たさが、身体に広がる。汗と一緒に、余計な力が抜けていく。


「最初の頃はさ」


 別の男が言う。


「休憩でも、ずっと立ってたよな」


「ああ、いたな」


「いつ声かけていいか、分からなかった」


 笑いが起きる。


 エルディオは、水を飲みながら、何も言わない。


 事実だからだ。


 最初は、休憩が分からなかった。休んでいい時間、というものが身体に入っていなかった。動いていない時間は、警戒する時間だった。だから立っていた。立って、見ていた。


 今は、腰を下ろしている。


 土に座る。

 背中を伸ばす。

 器を持つ。


 それだけで、「人に混ざっている」と感じる。


 だが、その混ざり方には、まだ歪みがある。


 笑い声が上がる中で、彼だけが、風向きを測っている。

 誰かが冗談を言う間に、彼だけが、林の影の動きを追っている。


 誰も、それを指摘しない。


 指摘されないほど、自然にやっている。


 それが、いちばんの変化だった。


 畑仕事が再開する。


 今度は、荷を運ぶ役が自然に回ってくる。重い籠を持ち、畝から畝へ移動する。誰かが指示したわけではない。彼が立ち上がり、手を伸ばしたからだ。


「悪いな」


「……いい」


 短いやり取り。


 役割は、与えられるものではなく、流れで生まれる。


 エルディオは、籠を運びながら、地面の感触を確かめる。柔らかいところ、硬いところ。水が溜まりやすい場所。足を取られやすい段差。


 同時に、畑の外を見る。


 柵の位置。

 草の伸び具合。

 人が立ったら、どこが死角になるか。


 それは、畑仕事に必要な視点ではない。


 だが、彼の身体は、それを切り離せない。


 昼が進むにつれ、陽射しが強くなる。


 汗が流れ、土の匂いが濃くなる。誰かが「今日はいい日だ」と言う。誰かが「今年は上出来だな」と言う。


 エルディオは、頷く。


 上出来だ、という言葉を否定しない。


 ただ、その言葉の裏で、頭のどこかが計算を続けている。


 この見通しの悪さ。

 この林との距離。

 この畑の広さ。


 何かが来たら、誰が最初に気づくか。

 どこで止めるか。

 誰を逃がすか。


 考えていることは、畑とは無関係だ。


 それでも、鍬を振る手は止まらない。


 人に混ざる身体は、確かにここにある。


 混ざりきれない意識だけが、静かに、別の場所を見続けていた。


ここまで読んでくださり、ありがとうございます。

半年という時間が「癒えた」ではなく「積み重なった」ことを、空気や布や匂いの変化で描きました。村に馴染むほど、エルの中の警戒は静かに濃くなる――そのズレを、次の章へ繋げる土台にしています。


次も、どうぞ見届けてください。

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