表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
誰も救えない僕が、それでも魔王と生きる話  作者: 霜月ルイ
「  」編

この作品ページにはなろうチアーズプログラム参加に伴う広告が設置されています。詳細はこちら

115/144

115.『お父さん』

 

 村の朝は、いつも通りに始まった。


 鍋の蓋が鳴り、井戸の縄がきしみ、遠くで鶏が鳴く。誰かが戸を開け、誰かがそれに応える。音は重なり合い、生活として流れていく。そこに緊張はない。

 急ぐ足も、確かめる視線もない。


 それが、この村の日常になっていた。


 ♢


 昼前、市場の端。


 エルディオは、頼まれていた修理を終え、道具を布で包んでいた。折れた荷車の軸を直し、緩んだ金具を締めただけの仕事だ。特別な技術はいらない。村の男でもできる作業だ。


「助かったよ、エル」


 声をかけてきたのは、年配の男だった。以前なら、彼の前に立つだけで緊張していた男だ。今は、気負いがない。


「これで、また遠くまで行ける」


「……無理はするな」


 エルディオの返事は短い。

 忠告ではあるが、指示ではない。


 男は笑った。


「はは、分かってる。最近は、無理する必要もないからな」


 その言葉に、近くにいた女たちが頷く。


「ほんとよ。夜も静かだし」


「子どもも、ぐっすり寝るようになったわ」


 会話は、自然に続く。

 生活の延長として。


 誰かが言った。


「エルがいるから、大丈夫だ」


 声は大きくなかった。

 宣言でも、祈りでもない。


 事実を口にしただけ、という調子だった。


 その言葉が、空気に落ちる。


 一瞬、周囲が静かになる。

 だが、重くはならない。


 むしろ、納得の間だ。


 何人かが頷き、誰かが「そうだな」と笑う。

 誰も反論しない。

 疑う者もいない。


 それが、いちばんの変化だった。


 エルディオは、その言葉を聞いても、表情を変えなかった。


 否定しない。

 訂正もしない。


「……そう思うなら、よかった」


 それだけ言う。


 “違う”とは言わない。

 “自分のおかげではない”とも言わない。


 否定すれば、安心を壊す。

 壊す必要はない。


 村人たちは、その返事に満足する。


「謙虚だな」


「相変わらず、言葉が少ない」


 笑いが起きる。

 話題は、すぐ別のことへ移る。


 畑の話。

 今年の作物。

 来年の計画。


 “来年”。


 未来の言葉が、何の抵抗もなく使われる。


 エルディオは、その輪の中に立ちながら、半歩だけ距離を取っていた。

 輪から外れているわけではない。

 だが、中心にもいない。


 彼は、村と同じ方向を見ていない。


 村は、前を見ている。

 明日、来月、来年。


 彼は、横を見ている。

 境界、影、余白。


 それが、決定的なズレだった。


 ♢


 その日の夕方。


 エルディオは、いつもより早く外に出た。


 日が落ちる前、村の外周を歩く。

 柵の状態。

 地面の踏み跡。

 風の流れ。


 特別な異変はない。

 分かっている。


 それでも、歩く。


 彼の中で、昼の言葉がまだ沈んでいなかった。


 ――エルがいるから、大丈夫だ。


 それは信頼だ。

 疑いようのない、好意だ。


 だからこそ、重い。


 “自分がいるから”。


 その前提が、村の中で自然になり始めている。


 自然になるほど、危険だ。


 エルディオは、足を止め、森の縁を見る。


 影は深い。

 だが、動きはない。


 問題はない。

 それでも、彼は剣に手をかける。


 抜かない。

 ただ、触れる。


 触れることで、判断を終わらせる。


 今日は、もう一周する。


 そう決める。


 ♢


 夜。


 食事を終え、灯りを落とす準備をする頃。


 エミリアは、布に包まりながら、目だけを開けていた。


「お父さん」


「なに」


「きょうね、みんながね」


 そこで、言葉を選ぶ。


「……だいじょうぶ、って」


 エルディオは、返事を急がない。


「……そうか」


 それ以上、聞かない。

 エミリアが何を言おうとしているかは、分かっている。


「エルがいるから、だいじょうぶだって」


 言葉が、そのまま出る。


 エルディオの胸が、わずかに締まる。


 子どもが、その言葉を覚えてしまった。

 それは、村の認識が、完全に定着しつつある証拠だ。


「……そう言われたか」


「うん」


 エミリアは、嬉しそうでも、不安そうでもない。

 事実を伝えているだけだ。


 エルディオは、言葉を探す。


 否定はできない。

 肯定もしない。


「……今日は、早く寝ろ」


 話題を変える。


「はーい」


 エミリアは、素直に目を閉じる。

 それで十分だ。


 ♢


 そのやり取りを、少し離れたところで見ていたメイリスは、何も言わなかった。


 彼女は、彼の背中を見る。


 村の中にいる背中。

 役割を持たない背中。


 それでも――

 どこか、浮いている。


 村人たちは、エルディオを“支え”として見ている。

 安心の理由として。


 だが、エルディオ自身は、支えになるつもりがない。


 彼は、支えの「下」を見ている。


 もし折れたら。

 もし崩れたら。


 その前提で、世界を測っている。


 だから、同じ場所に立っていても、見ている方向が違う。


 ♢


 夜が深まる。


 村の灯りが、ひとつ、またひとつ消えていく。


 見張りの数は減った。

 以前なら、必ず誰かが立っていた場所も、今は暗い。


 それを見て、エルディオは外套を取った。


「……少し、回ってくる」


 メイリスは、振り返る。


「いつもより、長く?」


 責めない問い。


「……ああ」


 短い答え。


 理由は言わない。

 言わなくても、彼女には分かる。


 エルディオは、夜の外へ出る。


 足音を殺す必要はない。

 だが、自然とそうなる。


 村を一周する。

 それから、もう一周。


 異変はない。

 分かっている。


 それでも、回る。


 “エルがいるから大丈夫”。


 その言葉が、頭の奥で何度も反響する。


 彼は、それを否定しなかった。

 否定しなかったからこそ、その分を行動で埋めようとしている。


 安心が、言葉になった瞬間。

 彼の警戒は、時間に変わる。


 見回りの時間が、増える。

 確認の回数が、増える。


 誰にも見せない増え方で。


 ♢


 少し離れた場所で、メイリスは戸口に立っていた。


 彼が見えなくなるまで、外を見る。


 心配しているわけではない。

 不安でもない。


 ただ、分かっている。


 彼は、村に溶け込んでいる。

 生活をしている。

 笑いの中にいる。


 それでも、村と同じ方向を見ていない。


 村が「大丈夫」と言うほど、

 彼は「大丈夫ではない可能性」を拾い上げる。


 それが、彼の歪みだ。


 そして、その歪みこそが――

 この村の平穏を、今も支えている。


 メイリスは、静かに息を吐く。


 言葉にはしない。


 言葉にした瞬間、彼はもっと遠くへ行ってしまう気がしたからだ。


 夜は、静かに続いている。


 誰もが眠り、

 一人だけが、少し長く起きている。


 ズレは、もう隠れていない。


 言葉になり、

 行動になり、

 時間になっている。


 それでも――

 今夜も、村は無事だ。


 その事実だけが、静かに積み重なっていった。


 ♢


 夜は、何事もなく始まった。


 風は弱く、雲は高い。戸を閉める音が、村のあちこちで静かに重なり、それで終わる。犬は吠えず、誰かが遅くまで外にいる気配もない。火の匂いは薄く、湿った土の匂いだけが残っている。


 何も起きない夜だった。


 家の中は、柔らかな暗さに包まれている。


 火はすでに落とされ、芯だけが赤く残っている。完全に消してしまわないのは、夜の冷えを避けるためだ。炎は高くないが、消える気配もない。一定の温度が、部屋の中に留まっている。


 エミリアは、布の中で眠っていた。


 寝顔は静かで、眉間に力は入っていない。夢を見ている様子もない。口は少しだけ開き、呼吸は深く、規則正しい。小さな胸が、一定のリズムで上下している。


 その寝顔を、エルディオは少し離れた場所から見ていた。


 近づきすぎない。

 触れない。


 触れてしまえば、起こしてしまうかもしれない。

 起こせば、夜が変わる。


 今夜は、変えない。


 メイリスは、布を整え終えてから、そっと立ち上がった。


 足音を立てない。

 だが、気配は消さない。


 それは、彼女なりの「ここにいる」という合図だった。


「……よく寝てるわ」


 小さな声で言う。


 エルディオは、頷くだけだ。


「今日は、いっぱい遊んだものね」


「……ああ」


 短い返事。

 それ以上を足さない。


 遊んだ、という言葉に、彼の中で何かが引っかかる。

 だが、それを掘り下げない。


 掘り下げれば、また考えてしまうからだ。


 メイリスは、卓の上を片付けながら、ぽつりと言った。


「今日はね」


 エルディオは、視線を動かさない。


「エミリアが、靴を一人で履いたの」

「途中で手伝おうとしたら、嫌がられたわ」


 少しだけ、笑いが混じる。


「“できるから”って」


 エルディオは、その言葉を聞いて、ほんの一瞬だけ目を伏せた。


 成長の話題は、どうしても胸の奥を揺らす。


「……そうか」


「水もね」

「自分から持ってきたの」


 メイリスは、エルディオを見る。


「あなたに」


 彼の指先が、わずかに動く。


「……助かった」


 そのとき言った言葉を、彼自身が思い出している。


 メイリスは、静かに頷く。


「嬉しそうだった」


 それ以上、言わない。


 彼女は、分かっている。

 その一言が、どれほど彼の中に残るかを。


 少しの沈黙。


 その沈黙は、重くない。

 だが、軽くもない。


 夜は、進んでいる。


 エルディオは、立ち上がった。


 立ち上がる理由は、ひとつだけではない。

 水を飲むためでもない。

 外に出るためでもない。


 彼は、剣の位置を確かめに行く。


 壁際に立てかけられた剣。

 昨日より、ほんの少しだけ内側。

 一昨日より、半歩だけ近い。


 触れない。

 抜かない。


 ただ、距離を測る。


 手を伸ばせば届く。

 足を動かせば、すぐに。


 それでいい。


 それでしか、落ち着かない。


 メイリスは、その動きを止めない。


 止めれば、彼の警戒は別の形で表に出る。

 言葉か、沈黙か、あるいは距離か。


 彼女は、それを望まない。


 ただ、隣に立つ。


 触れない距離で。


 エルディオは、剣から視線を外し、もう一度エミリアを見る。


 眠っている。

 変わらず。


 何も起きていない証拠。


 それを、確認する。


 エミリアが、微かに身じろぎする。


 寝返り。

 布が擦れる音。


 エルディオの身体が、ほんの一瞬だけ緊張する。

 だが、すぐに緩む。


 夢でも見たのだろう。

 それだけだ。


 しばらくして、エミリアの目が、うっすらと開いた。


 完全には起きていない。

 けれど、意識は浮上している。


「……お父さん」


 小さな声。


 エルディオは、すぐに応えない。

 声をかけて、目を覚まさせたくない。


 それでも、無視はできない。


「……なに」


 低く、短く。


 エミリアは、布の中で少しだけ動き、顔を半分だけ出す。


 眠そうな目で、エルディオを見る。


「きょうね」


 そこで、言葉が途切れる。


 夢と現実の境目で、何を言うつもりだったのか、自分でも分からなくなったのだろう。


「……うん」


 エルディオは、急かさない。


 エミリアは、少し考えてから、言った。


「お父さん、いつも……ありがとう」


 はっきりした言葉ではない。

 だが、はっきりとした気持ちだ。


 ありがとう、の意味は、きっと本人にも説明できない。

 守ってくれて、でもなく。

 一緒にいてくれて、でもなく。


 ただ、生活の中にいることへの感謝。


 エルディオの胸が、確かに揺れた。


 だが、揺れたまま、留める。


 抱きしめない。

 大げさに返さない。


「……どういたしまして」


 それだけ言う。


 それだけで、十分だと分かっている。


 エミリアは、その返事に満足したのか、目を閉じる。


 すぐに、深い呼吸に戻る。


 メイリスは、そのやり取りを見ていた。


 何も言わない。

 だが、目の奥が少しだけ揺れる。


 彼女にとって、その一言は――

 願いでも、約束でもなく。


 結果だった。


 日々を積み重ねた結果。


 ♢


 夜は、何も起きないまま、深まっていく。


 外は静かだ。

 異変はない。

 音も、影も、動かない。


 それでも。


 エルディオは、もう一度、剣を見る。


 位置を、ほんの数指分だけ変える。

 微調整。


 誰にも分からない変化。

 だが、彼には必要な変化。


 メイリスが、静かに言う。


「何も起きない夜ね」


 感想でも、確認でもない。

 ただの事実。


「……ああ」


 エルディオは答える。


 彼女は、続けない。


 “安心ね”とは言わない。

 “大丈夫ね”とも言わない。


 その言葉が、彼の中で何を生むかを、知っているからだ。


 夜が、完成に近づく。


 村は、完全に眠っている。

 誰もが、明日を疑っていない。


 エルディオだけが、違う。


 彼だけが、この平穏を「続いているもの」とは思っていない。


 続かせているものだと、理解している。


 彼は、最後にもう一度、外を見る。


 闇の濃さ。

 音の距離。

 異変がないこと。


 それを確認して、ようやく息を吐く。


 穏やかさは、彼にとって休息ではなかった。

 それは、警戒が成功しているという証明にすぎなかった。


「大丈夫」という言葉は、救いにもなるし、鎖にもなる。

村が安心を手に入れるほど、エルはその安心の“理由”にされていく。

否定しない優しさの代わりに、彼は夜を長く起きて埋める。


何も起きない夜は、平穏ではなく——

ただ、警戒がまだ間に合っているという証明だ。


次の波が来るまで、彼はそれを崩さない。

評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

↑ページトップへ