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誰も救えない僕が、それでも魔王と生きる話  作者: 霜月ルイ
「  」編

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114/143

114.「お父さん」-3

 

 昼の森は、騒がしい。


 風が葉を擦る音、枝に止まる鳥の羽音、遠くで虫が鳴く声。夜とは違い、音は重なり合い、途切れない。危険は、音の切れ目に潜む――それが戦場の理屈だった。だが、この森の昼は、その理屈をあっさり裏切る。音は続き、続くからこそ、異物は溶け込みやすい。


 エルディオは、森の縁に立っていた。


 村からは、かなり距離がある。畑を抜け、小さな川を越え、踏み固められた獣道が細くなるあたり。村人なら、昼でも用事がなければ近づかない場所だ。薪や薬草の採取でも、もっと手前で済む。


 本来なら――無視できる距離。


 彼自身、その判断を頭の中で何度もなぞった。距離、風向き、足跡の向き、地面の荒れ。どれも「差し迫っていない」と告げている。ここから村へ直進するには、時間がかかる。単体ならなおさらだ。群れの兆候もない。


 それでも、エルディオは足を止めない。


 視線の先、木々の間に――“それ”はいた。


 魔族。単体。体格は大きくない。斥候にしては、動きが遅すぎる。獣に似た肢体だが、獣ほど無造作ではない。風下を選び、足音を消し、視線を低く保っている。異様なほど慎重だった。


 慎重すぎる、という違和感。


 普通、単体の魔族がこの距離で取る態度ではない。偵察なら、もっと高所を使う。狩りなら、もっと大胆に動く。だが、そいつは違った。まるで――見られること自体を恐れているように。


 エルディオは、剣に手をかけない。


 抜くには早い。判断には早い。だが、歩みは止めない。足音を消し、枝を踏まない角度を選び、呼吸を一定に保つ。鎧がない分、身体は軽い。軽いことが、かえって落ち着かない。


 距離が、縮まる。


 魔族は、こちらに気づいていない。気づいていない、というより――気づかないようにしている。背を向け、低木の陰に身を寄せ、時折、空を仰ぐ。鳥の動き、雲の影。森の“上”ばかりを警戒している。


 地上を、見ていない。


 それが決定的だった。


 エルディオは、胸の奥で静かに理解する。


 来ないかもしれない。


 この魔族は、村へ向かうつもりがない可能性が高い。慎重なのは、別の理由――縄張りの端で、何かを待っているだけかもしれない。あるいは、ここが安全かどうかを測るだけで、危険と判断すれば引き返すだろう。


 来ないかもしれない。


 その可能性が、はっきりと形を持った瞬間――彼の足は、止まらなかった。


 剣を抜く。


 音は、ほとんどしない。刃が鞘を離れる感触だけが、掌に伝わる。心拍は変わらない。昂りもない。ここに至るまで、感情は一度も前に出ていない。


 彼は、自分の内側を一歩引いて見る。


 ――守るためじゃない。


 この距離で、守る必要はない。村は遠い。畑も、家も、子どもも、今はここにいない。正義でも、義務でもない。


 ――来ないと、証明できないから。


 来ない“かもしれない”では足りない。来ない“可能性が高い”でも足りない。来ないと、確かに言える状態にしなければ、彼の中の計算は終わらない。


 それは、英雄の判断ではない。


 警戒だ。


 しかも、自覚的な警戒。


 エルディオは、距離を詰める。魔族が気配に反応する前、風が一度だけ葉を揺らす。その揺れに紛れて、彼は踏み込んだ。


 剣が動く。


 技名はない。狙いは一点。叫ばせない角度。逃げ道を断つ位置。必要な力だけを、必要な時間だけ。


 魔族は、声を上げる暇もなかった。


 抵抗は短い。慎重さが仇になった。身を固めすぎて、反応が遅れた。倒れた身体が土を掴み、指が空を引っかく。何かを残そうとする動き。だが、残るのは痕跡だけだ。


 終わりは、あっけない。


 昼の森は、すぐに音を取り戻す。鳥が飛び立ち、虫が鳴き、風が葉を擦る。何もなかったかのように。


 エルディオは、剣を下ろした。


 呼吸は一定。手も震えていない。だが、胸の奥に、ひとつだけ硬い塊が残る。


 ――今のは、警戒だ。


 彼は、はっきりと自覚する。


 守るためでも、救うためでもない。ましてや、村人に知られるためでもない。来ないと証明できないから、倒した。それだけだ。


 それが、正しいかどうかは分からない。


 分からないが、彼はそれを選んだ。


 剣についた血を拭う。昼の光の下で、布はすぐに赤く染まる。拭う動作は、丁寧だ。必要以上に。刃の表だけでなく、峰、鍔、柄の付け根。何度も、何度も。


 血を落としているのに、別のものを落とそうとしているみたいだった。


 拭い終え、剣を鞘に戻す。


 森を見渡す。異変はない。追加の気配もない。来ない――少なくとも、今は。


 それで、十分なはずだ。


 だが、胸の塊は消えない。


 エルディオは、村の方向へ身体を向ける。


 歩き出しながら、彼は自分に言い聞かせる。


 これは、警戒だ。

 英雄の仕事じゃない。

 父の仕事でもない。


 それでも、止めない。


 止めた瞬間、次は「証明できない不安」が残ると、彼は知っているからだ。


 昼の森は、何事もなかった顔で続いている。


 その平然さの中で――

 エルディオだけが、自分の選択の歪みを、静かに抱えて歩いていた。


 ♢


 空気が、先に変わった。


 ある朝、戸を開けたときに、冷えの質が違うことに気づく。刺すような冷たさではなく、肌にまとわりつく湿り気が減っている。息を吐いても白くならない。代わりに、草と土の匂いが濃くなる。


 季節が、一歩進んだ。


 誰かが言葉にしたわけではない。

 暦をめくったわけでもない。


 ただ、身体が先に知る。


 ♢


 服が変わる。


 エルディオは、朝、外套を手に取ってから一拍だけ迷い、棚に戻した。代わりに、薄手の上着を羽織る。袖を通した瞬間、軽さに少しだけ違和感を覚える。だが、それは不快ではない。


 メイリスは、それを見て何も言わない。


 言わないが、同じように衣替えをしている。厚手の布を畳み、軽い布を出す。動きに迷いはない。季節の変化を「決断」ではなく「対応」として扱う動きだ。


「もう、これはいらないわね」


 彼女はそう言って、冬用の外套を箱に入れる。


 “もう”。


 その言葉は、過去を閉じる言葉だ。

 だが、彼女の声に躊躇はない。


 エルディオは、その箱を一瞬だけ見る。

 戻る場所が、またひとつ減った気がして――すぐに視線を逸らす。


 エミリアは、二人の動きを見ながら、自分の服を引っ張り出していた。


「これ、きつい」


 遠慮のない声。


 袖を通すと、確かに短い。去年の服だ。気づかないうちに、身体は変わっている。


「ほんとだね」


 メイリスが言う。


「じゃあ、これはしまおうか」


「うん」


 エミリアは、ためらわずに頷く。

 戻れないことを、惜しまない。


 エルディオの指が、無意識に動く。

 成長を見送ることに、慣れていない。


 ♢


 食べ物が変わる。


 鍋の中身から、根菜が減り、代わりに柔らかい葉物が増える。塩だけの味付けに、少しだけ酸味が加わる。保存食より、今採れたものが中心になる。


 村の匂いが、変わる。


 煮込みの重さが減り、焼き物の香ばしさが増す。

 昼の市場で、声がよく通るようになる。


「今年は、豆がよく育ちそうだ」


「この調子なら、来年は畑を広げられるな」


 そんな声が、自然に聞こえてくる。


 “来年”。


 村人たちの口から、未来の言葉が出るようになる。


 エルディオは、その輪の中にいて、頷きはするが、言葉は足さない。


「明日は、雨が降るらしい」


 彼が口にするのは、せいぜいそれくらいだ。


 明日。

 今日の延長。


 それ以上先を、言葉にしない。


 ♢


 柵の補修が、止まった。


 村の外周に巡らされた簡素な柵。魔族の侵入を防ぐほどのものではないが、境界を示すには十分だった。以前は、少し傷むたびに誰かが直していた。釘を打ち、板を替え、隙間を埋める。


 それが、いつの間にか行われなくなる。


「まあ、しばらく大丈夫だろ」


「最近、何も来ないしな」


 理由は、はっきりしている。

 “何も起きていない”からだ。


 エルディオは、夕方、その柵の前に立つ。


 板が一枚、歪んでいる。

 隙間が、指一本分だけ空いている。


 放っておいても、問題はない。

 本来、無視できる程度の傷みだ。


 彼は、無言で工具を取る。


 一人で直す。


 釘を抜き、板を合わせ、打ち直す。

 動きは早いが、乱れはない。


 その背中を、エミリアが見ていた。


「なにしてるの?」


「……直してる」


「こわれてたの?」


「少し」


 少し、という言葉を選ぶ。


 大きな問題ではない、と伝えたい。

 怖がらせたくない。


 エミリアは、少し考えてから言う。


「じゃあ、なおったら、あそんでいい?」


 未来の話だ。

 遠くない未来。

 今日の続き。


 エルディオは、一拍置いて答える。


「……暗くなる前なら」


 条件付き。

 でも、否定ではない。


 メイリスが、少し離れたところから声をかける。


「また一人でやってるのね」


 責めるでも、止めるでもない。


「みんなでやらなくていいの?」


 その問いは、穏やかだ。

 彼を試していない。


 エルディオは、釘を打つ手を止めずに言う。


「……今日は、僕が気づいた」


 “僕が”。


 役割ではない。

 生活の主語だ。


 メイリスは、それ以上言わない。


 ただ、少しだけ視線を落とす。

 彼の選び方を、尊重するという合図。


 ♢


 夕暮れ。


 エミリアは、柵のそばで石を並べていた。

 並べて、崩して、また並べる。


「お父さん」


 自然な呼び方。


「これ、むこうまでいったら、だめ?」


 柵の向こうを指さす。


 エルディオは、一瞬だけ、森の影を見る。

 距離。

 風。

 音。


 それから、言う。


「……今日は、ここまで」


「はーい」


 不満はない。

 理由を求めない。


 境界があることを、当たり前として受け取る。


 村の中から、声が飛ぶ。


「来年の祭り、どうする?」


「今年は少し大きくやってもいいかもな」


 また、未来の話。


 エルディオは、柵に最後の釘を打ち終え、工具を片付ける。


 来年のことは、考えない。

 考えないまま、今日を終わらせる。


 メイリスが、隣に立つ。


「平穏が、続いてるわね」


 彼女は、そう言う。


 “続いている”。


 固定されつつある、という意味。


 エルディオは、短く答える。


「……ああ」


 それ以上、言葉を足さない。


 空気が変わり、

 服が変わり、

 食べ物が変わる。


 村は、平穏を「今の前提」として扱い始めている。


 その中で――

 エルだけが、明日の話しかしない。


 柵を直し終えた手が、無意識に剣の位置を確かめる。


 平穏は、固定されつつある。

 だからこそ、彼の警戒は、静かに深く、地面に根を下ろしていった。


 ♢


 夜は、静かだった。


 風が弱く、雲も薄い。戸を閉める音が遠くでひとつ、ふたつ聞こえて、それで終わる。犬の吠え声もない。虫の声が少しだけ混じるが、それも騒がしいほどではない。


 村は、眠る準備が整っていた。


 整いすぎている、とエルディオは思う。


 ♢


 火を落としたあと、家の中には最低限の明かりだけが残る。


 エミリアは布に包まれて、もう半分眠っている。目は閉じきっていないが、焦点が合っていない。今日一日、よく動いた。よく笑った。転んで、立って、また走った。


「……お父さん」


 小さな声。


 呼ばれるたびに、胸の奥がほんの一瞬だけ緩む。

 その直後、必ず別の場所が引き締まる。


「なに」


 声を低く、短く返す。

 優しくしすぎない。

 遠ざけもしない。


「きょうね……たのしかった」


 言い切り。

 疑いのない言葉。


 エルディオは、すぐに返事をしない。

 “よかったな”と言えば、今日を肯定することになる。

 肯定は、次を呼ぶ。


 それでも、黙りすぎるのも違う。


「……そうか」


 それだけ。


 エミリアは満足そうに息を吐く。

 返事の内容より、返事が返ってきたこと自体が大事なのだ。


「また、あしたも?」


 未来の話。

 小さな未来。


 エルディオは、少しだけ間を置く。


 明日は、分からない。

 分からないから、約束はできない。


「……あしたになったら、考える」


 逃げでも、拒否でもない言い方。


「うん」


 エミリアは、それでいいという顔をして、目を閉じた。


 すぐに、寝息が深くなる。


 深く、規則正しい呼吸。

 悪夢に引き戻される気配はない。


 それを確認してから、エルディオは立ち上がった。


 ♢


 剣は、壁際に立てかけてある。


 昨日より、ほんの少しだけ角度を変えて。

 一昨日より、半歩だけ近い位置に。


 置き場所は、毎晩変わる。


 変わるが、遠ざからない。

 必ず、手を伸ばせば届く場所だ。


 彼は、剣の前で一瞬だけ立ち止まる。


 触れない。

 抜かない。


 ただ、位置を確かめる。


 それだけで、身体が落ち着く。

 落ち着いてしまうことに、どこかで安堵し、どこかで嫌悪する。


 ――穏やかすぎる。


 それが、今夜の感覚だった。


 ♢


 メイリスが、奥から出てくる。


 布を畳み、灯りを調整し、音を立てずに歩く。

 だが、気配を消すほどではない。


「もう寝た?」


「……ああ」


「今日は、よく遊んだものね」


 彼女は、笑わない。

 でも、声が柔らかい。


「村の子と、ずっと一緒だったわ」


 エルディオは、頷くだけだ。


「……夜も、外にいた」


「ええ」


 メイリスは、火の残りを見ながら言う。


「前なら、考えられなかった」


 前、という言葉が過去を指す。

 戻らない時間。


「……止めるべきだったか」


 エルディオの言葉は、独り言に近い。


 メイリスは、すぐに否定しない。


 否定しない代わりに、問いを置く。


「止めたら、何が残る?」


 その問いは、責めではない。

 思考を引き出すためのものだ。


 エルディオは、しばらく考える。


「……夜」


「ええ」


「……怖い夜」


 メイリスは、小さく息を吐く。


「それは、もう十分だったわ」


 感情ではなく、判断としての言葉。


 エルディオは、視線を剣に戻す。


「……それでも」


 続ける言葉が、すぐには出ない。


 穏やかさが、喉に引っかかる。


「穏やかであるためには」


 そこで、一拍。


「……誰かが、穏やかでいない必要がある」


 言葉にした瞬間、部屋の空気がわずかに変わる。


 メイリスは、黙って聞いている。


 エルディオは、続ける。


「平穏は、状態じゃない」

「……結果だ」


 火の芯が、かすかに鳴る。


「何も起きていない、という結果」

「起こさなかった、という結果」

「……見えないところで、止め続けた結果」


 それを「守る」と呼びたくない。

 呼べば、役割になる。


「結果は、いつでも崩れる」


 だから、彼は剣を置く。

 だから、位置を変える。

 だから、夜になるたび確認する。


 メイリスは、そこでようやく口を開く。


「それでも、あなたはここにいる」


 断定だ。

 希望ではない。


「英雄としてじゃない」

「役割としてでもない」


 彼女は、エルディオを見る。


「生活として、ここにいる」


 エルディオは、否定しない。


 否定できない。


 ♢


 しばらく、二人とも黙る。


 その沈黙は、重くない。

 だが、楽でもない。


 夜が深まり、外の音がさらに減る。

 静けさが、完成に近づく。


 完成に近づくほど、彼の警戒は鋭くなる。


「……エル」


 メイリスが、名前を呼ぶ。


「なに」


「それ、続けるつもり?」


 視線が、剣に向く。


 エルディオは、すぐに答えない。


 続ける、という言葉の重さを量る。


「……分からない」


 正直な答え。


「手放せる日が来るかも、しれない」

「来ないかも、しれない」


 メイリスは、頷く。


「それでいいわ」


 条件を付けない。


「手放せないから、ここにいられない、とは思わない」


 彼女は、一歩だけ近づく。


 触れない距離。

 だが、遠くない。


「エミリアはね」


 声を落とす。


「あなたが剣を持ってるかどうかなんて、見てない」


 エルディオの胸が、少しだけ締まる。


「ただ、“いる”かどうかだけを見てる」


 彼は、何も言えない。


 その事実が、救いであり、同時に最大の重荷だからだ。


 ♢


 夜が、完全に落ちる。


 剣は、手の届く場所にある。

 置き場所は、今夜も微調整された。


 エミリアは、深く眠っている。

 メイリスは、灯りを落とす。


 エルディオは、最後にもう一度、外を見る。


 闇の濃さ。

 音の距離。

 異変がないこと。


 確認して、ようやく息を吐く。


 穏やかさは、結果だ。

 結果は、維持されなければならない。


 穏やかであるためには、

 誰かが、穏やかでいない必要がある。


 それを選んでいる自覚が、彼にはある。


 だから今夜も、彼だけが少しだけ起きている。


 生活の中で、

 英雄でもなく、

 父でもなく――


 ただ、警戒という名前の穏やかさを抱えたまま。


この章で描いたのは、「平穏を得る物語」ではなく、

平穏が続いてしまうことに耐える人間の時間でした。


安心は祝福ではなく、結果として静かに積み重なっていくもの。

そしてその裏側には、誰にも見えない警戒が残り続ける――

エルは、その役割を名乗らないまま引き受けています。


剣を手放さないことも、父として完全にならないことも、

すべては「奪わないため」の選択です。


穏やかさの中に残る微かな緊張が、

この先どんな形で揺れるのか。

それを見届けてもらえたら嬉しいです。


ここまで読んでくださり、ありがとうございました。

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