表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
誰も救えない僕が、それでも魔王と生きる話  作者: 霜月ルイ
「  」編

この作品ページにはなろうチアーズプログラム参加に伴う広告が設置されています。詳細はこちら

113/143

113.「お父さん」-2

 

 安心は、ある日突然、村に降ってきたわけではなかった。


 最初は、ほんの小さな変化から始まる。


 夜の戸が閉まる音が、少しだけ遅くなる。

 火を落とす手が、焦らなくなる。

 寝具に潜り込む前に、もう一度だけ外を確かめていた男が――確かめる回数を減らす。


 誰も「変わった」とは言わない。

 言えば、壊れる気がするからだ。


 それでも、空気が変わる。


 冬の終わりに、霜が薄くなるように。

 気づけば、朝の顔色が少し良くなっている。


 村の外れにある家々から、夜明け前に聞こえていた咳が減った。

 眠りが深くなると、人は咳をしない。

 呼吸が整うと、身体が回復する。


 そして回復した身体は、次の日の動きを少しだけ軽くする。


 市場に向かう足が速くなる。

 畑に出る背中がまっすぐになる。

 井戸の縄を引く腕に、余計な力が入らなくなる。


 その積み重ねが、「安心」を形にしていく。


 誰もそれを「奇跡」とは呼ばない。

 呼ぶ必要がないほど、日々の中に溶け始める。


 ――ただ一人を除いて。


 ♢


 夕方、空が色を落とし始める頃。


 エルディオは薪を割っていた。

 斧を振り下ろす動きは、もう「作業」ではない。呼吸の一部みたいに自然で、間がない。


 木が割れる音が、村の音に溶ける。


 そのすぐ近くで、エミリアが石ころを並べていた。

 並べるだけでは飽きて、今度はそれを跨いで跳ぶ。

 転びそうになっても転ばない。転びそうになること自体が楽しい年齢だ。


「エミリア、そこ危ないわよ」


 メイリスが言う。

 声は叱るでも甘えるでもなく、生活の声だ。


「だいじょうぶだもん!」


 エミリアは胸を張る。

 それから、エルディオをちらりと見る。


 ――確認するように。

 見ているのに、近づきすぎない。けれど「見られている」ことに嬉しさが混ざるようになっている。


 エルディオは、斧を止めないまま言った。


「……足元、見ろ」


 短い。

 やさしい言葉ではない。

 でも、責める響きもない。


「見てる!」


 エミリアが即答する。

 すぐにわざとらしく足元を凝視し、転びかけて笑う。


 笑い声が、夕暮れの空気に軽く散る。


 その笑いを、近所の家から顔を出した女が聞きつけた。


「お、元気だねぇ、エミリアちゃん」


「うん! みて! とべる!」


「おお、すごいじゃないか。夜に外で遊べるなんて、ここんとこ珍しいよ」


 女は笑い、もう一人、畑帰りの男も加わる。


「最近は、夜も静かだしなぁ」


 その言葉の「静か」は、戦場の静かではない。

 何も来ない静か。起きない静か。眠れる静か。


 メイリスが小さく頷いた。


「……眠れるって、こんなに体が楽なんだね」


 言いながら、自分でも驚いたような顔をする。

 眠れることに驚く、というのが、この村の過去を語っていた。


 男がエルディオの方を見る。


 以前なら、近づくのに躊躇した目。

 今は、躊躇が薄い。


「なぁ、エル……いや、エルディオさん」


 呼び方はまだ揺れている。

「団長」と言いたい者もいるし、「貴族」と呼びたい者もいる。

 けれど、この村ではそれが少しずつ剥がれていく。


「最近、魔族見ませんね」


 さらり、と言う。

 昔なら「見ませんね」ではなく「来ませんね」だったはずだ。来る前提で、言葉を選んでいたから。


「ここは安全だ」


 男がそう言った瞬間、周りの何人かが笑って頷く。


「ほんとだよ。夜番だって、前ほど置かなくなったしさ」


「子どもが外で遊んでんの、久しぶりだな」


「犬も無駄吠えしねぇ。空気が違うよ」


 “安全”。


 その言葉が、村人の口の中で当たり前みたいに転がる。


 エルディオは、薪を割る手を止めなかった。


 止めないことで、会話に参加していないみたいに見える。

 でも、聞いている。


 安全だ、という言葉が空気になっていく過程を。


 木が割れる音がひとつ。


 男がもう一度言う。


「なぁ、そう思うだろ? ここは――」


「……油断するな」


 エルディオの声が、低く落ちた。


 “安全”とは言わない。

 否定もしない。

 ただ、別の言葉で空気を締める。


 男は一瞬、きょとんとした顔になる。

 その顔が、いちばん「平穏」を証明していた。


「油断って……まぁ、そりゃそうだけどさ」


 笑って、肩をすくめる。

 怖がっていない。

 その笑い方は、エルディオにとって危うい。


 メイリスが、会話の温度を柔らかく変える。


「でも、みんなの顔色は良くなってるよ」


 村の女が頷く。


「そうそう。うちの子、夜に泣かなくなったんだ。前は、戸を閉める音がするだけで飛び起きてたのに」


 男も頷く。


「夜番が減ったのが大きい。寝不足で畑が回らねぇと、腹も回らねぇからな」


「ねぇお父さん、きょうもやったの?」


 突然、エミリアが割り込んだ。


 何を、とは言わない。

 でも、子どもは気づいている。夜明け前に彼がいない日があること。戻ってきたとき、剣を拭う時間が長いこと。


 メイリスの眉がほんの僅かに動く。

 止めない。

 止めないが、空気が少しだけ硬くなる。


 村人たちが、エミリアの方を見る。


「やったって、何をだい?」


 女が笑いながら聞く。


 エミリアは言葉を探す。

 探して、答えを選びきれずにエルディオを見る。


 エルディオは、薪を割る手を止めた。


 斧を地面に置き、短く言う。


「……木だ」


「木!」


 エミリアが嬉しそうに頷く。

 それで納得してしまう。

 納得してしまえるのも、この村の「安心」だった。


 女が笑う。


「木をやったのかい。そりゃ偉いねぇ」


「えへへ」


 エミリアが照れて笑う。


 メイリスは、その笑いを見ながら、ほんの少しだけ息を吐いた。

 火傷しそうな話題が、火傷せずに通り過ぎた。


 村人たちはまた「安全」の話へ戻る。


「いやぁ、ほんと……最近は安心だよ」


「夜に眠れるって、贅沢だったんだな」


「うちの婆さんがさ、“昔の村に戻ったみたい”って言うんだ」


 言葉が、穏やかに重なる。

 それらは祈りではない。日常の実感だ。


 エルディオは頷かない。

 笑わない。

 否定もしない。


 ただ、斧を拾い直して、もう一度薪を割り始めた。


 割る音が、「会話の終わり」を自然に作る。


 村人たちは、ほどよく散っていく。

 それぞれの家へ戻り、それぞれの鍋へ戻る。

 帰る背中に緊張がない。


 その背中が、エルディオには、やけに軽く見えた。


 ♢


 夜。


 戸を閉める音が、あちこちで聞こえる。

 けれど、以前のように早くはない。慌ててもいない。


 子どもの声が、まだ外で弾んでいた。


「もう入んなさいよー!」


「あとちょっとだけ!」


「エミリアも、はやく!」


 呼ばれたエミリアが、家の前で立ち止まる。

 返事をしようとして――横を見る。


 エルディオがそこにいる。

 暗い中でも、彼の輪郭は見える。火の明かりではなく、彼自身の「そこに立っている気配」で。


「……行っておいで」


 エルディオが言う。


 行け、ではない。

 命令ではない。

 許可に近いが、許可とも違う。


 ただ、選ばせる言い方。


「うん!」


 エミリアは走り出す。

 走り出して、途中で振り返る。


「お父さんも、くる?」


 少し前まで、彼女はその呼び方を口にするたびに躊躇した。

 今は、躊躇が薄い。

 薄いからこそ、刺さる。


 エルディオは、すぐ答えない。


 子どもと一緒に夜の外へ出る。

 その行動が「普通」になったら、戻れない。

 戻らなくていいのに、戻れなくなるのが怖い。


 それでも、彼は言った。


「……すぐ戻れ」


「はーい!」


 エミリアは笑って走る。


 メイリスが戸口に立って見送っていた。


「ねぇ、エル」


 彼女は、もう“あなた様”と言わない。

 村の女の声で言う。


「止めなくていいの?」


 責めない。

 試さない。

 ただ、確かめるように。


 エルディオは、夜の闇を見た。


 家と家の距離。

 光の届く範囲。

 声が届く距離。

 もし何かが来たら、どこから来るか。


 無意識の計測。

 身体が勝手にやる。


 それから、彼は短く答えた。


「……止めたくない」


 それは「危険じゃない」ではない。

「安全だ」でもない。


 ただ、子どもから夜を奪いたくないという言葉だ。


 メイリスは、少しだけ目を細めた。


「そう」


 それ以上、踏み込まない。


 しばらくして、外から笑い声が聞こえる。

 エミリアの声も混じる。

 転ぶ音。土を払う音。誰かが笑う音。


 村は、夜を取り戻している。


 取り戻しているのに――


 エルディオの指先だけが、落ち着かなかった。

 膝の上で、見えない剣の柄を探すみたいに、微かに動く。


 メイリスはそれに気づく。

 気づくが、言わない。


「大丈夫」も言わない。

「もう安全」も言わない。


 その言葉を言うのは、村人だけでいい。

 それを口にした瞬間、彼の中の何かが折れるかもしれないと、彼女は分かっている。


 折れるのは鎧ではない。

 警戒が折れる。


 折れた警戒は、二度と戻らない。

 戻らないまま襲われたら、今度こそ生活は壊れる。


 だから、メイリスはただ、火を足す。


 生活の音を増やす。

 鍋の蓋が鳴る。木がはぜる。湯気が上がる。


 そして言う。


「エミリア、遅くなると怒るよ」


 怒るのではなく、怒るよ、と言う。

 生活の冗談の形で、夜を閉じる準備をする。


 エルディオは頷く。


「……ああ」


 その返事も、団長の返事ではない。

 父の返事とも違う。


 生活の返事だ。


 ♢


 しばらくして、エミリアが帰ってくる。


 頬が赤い。髪に土が少し付いている。

 息が上がっているのに、目がきらきらしている。


「お母さん! みて! かてた!」


「何に勝ったの」


「おにごっこ!」


「そりゃすごい」


 メイリスは笑う。

 笑いながら、土を払ってやる。


 エミリアは途中で、エルディオを見る。


「お父さん、ちゃんと見てた?」


 見ていた。

 見ていたが、見方が違う。


 彼は「遊び」を見ていない。

 距離と闇と声の届き方を見ていた。


 それでも、嘘はつけない。


「……見てた」


「えへへ」


 エミリアが満足そうに笑う。


 その笑いは、本物だ。

 守られている笑いではなく、取り戻した笑い。


 村人たちが言う。


「いい夜だな」


「ほんとだ。ここは安全だ」


 また、あの言葉が飛ぶ。

 軽く、柔らかく、当たり前みたいに。


 エルディオは、その言葉に頷かない。


 頷いたら、同じ空気を吸ってしまう。

 同じ空気を吸った瞬間、油断が始まる。


 だから彼は、エミリアの頭を――


 ほんの一瞬だけ撫でた。


 返事の代わりに。

 肯定の代わりに。

「ここにいる」の代わりに。


 メイリスはその手を見て、何も言わない。

 ただ、戸を閉める。


 閉める音は小さい。

 以前のように急がない。


 夜が、終わる。


 村の中で、“安全”という言葉が、空気になっていく。


 その空気の中で――

 エルだけが、口にしない。


 安全を信じないからではない。

 信じてしまったとき、守れなくなる気がするからだ。


 火は静かに燃える。

 寝息が始まる。

 明日も朝は来る。


 安心が空気になるほど、

 彼の警戒だけが、はっきりと形を持っていった。


 ♢


 最初に変わったのは、靴だった。


 朝、戸口に腰を下ろして、エミリアが自分の靴を前に置く。左右を揃え、向きを確かめ、片方ずつ足を入れる。指先がうまく入らず、つま先が引っかかって、少しだけ眉をひそめる。


 それでも、呼ばない。


「お母さん」とも、「お父さん」とも言わない。


 メイリスは、台所からその様子を見ている。手は止めない。鍋の中を混ぜながら、視線だけを外へ流す。すぐ手を貸せば、早い。けれど早さは、成長ではない。


 エルディオは、少し離れた場所で薪を束ねていた。


 視線は、無意識にエミリアへ向く。

 助ける距離。声をかける距離。

 どこまでなら、彼女の世界を壊さないか。


 エミリアは、片方の靴を履き終え、もう片方に取りかかる。

 今度は、さっきより早い。

 同じ失敗を、繰り返さない。


「……できた」


 誰に言うでもなく、ぽつりと呟く。


 その声が、家の中に落ちる。


 メイリスが、鍋をかき混ぜる手を止めずに言った。


「できたのね」


 褒めすぎない。

 確認するだけ。


 エミリアは、少しだけ胸を張る。

 それから、エルディオを見る。


 視線が合う。

 合って、すぐ逸れる。


 まだ、見られることに慣れきってはいない。

 けれど、避けてもいない。


 エルディオは、短く頷いた。


「……よく締まってる」


 それだけ。


 靴を履けたことではなく、靴がちゃんと役目を果たしていることを言う。

 生活の言葉だ。


 エミリアは、嬉しそうに笑った。


 ♢


 次に変わったのは、水だった。


 昼過ぎ、畑仕事から戻ったエルディオが、戸口に腰を下ろす。

 外套を脱ぎ、額の汗を拭く。


 井戸水を汲んだ器が、机の上に置かれている。

 それに気づいた瞬間、エミリアが動いた。


 小さな両手で器を持ち上げ、慎重に歩く。

 水面が揺れないように、足をそろえる。


 途中で一度だけ、立ち止まる。

 こぼしそうになったのだろう。

 だが、戻らない。


 ゆっくり、続ける。


 エルディオは、立ち上がらない。


 受け取りに行けば、楽だ。

 だが、それは「渡す」という行為を奪ってしまう。


 エミリアは、エルディオの前まで来て、器を差し出した。


「……どうぞ」


 言葉が、少しだけ照れている。


 エルディオは、両手で受け取る。


 その動作が、丁寧すぎて、メイリスは少しだけ息を吐いた。

 彼はまだ、「壊れやすいもの」を扱うときの手つきのままだ。


「ありがとう」


 エルディオが言う。


 その一言に、エミリアの目が丸くなる。


 礼を言われること。

 役に立ったと、言葉で示されること。


 エミリアは、何か言おうとして、やめる。

 言わなくても、十分だと分かった顔をする。


 器の水を飲むエルディオを、彼女はじっと見ていた。


 飲み終えたあと、エルディオは一拍置いてから言った。


「……助かった」


 その言葉が、彼女の胸に落ちる。


「助かった」は、「必要だった」という意味を含んでいる。

 子どもにとって、それは何よりの勲章だ。


 エミリアは、照れたように笑って、台所へ戻っていった。


 メイリスは、その背中を見送りながら、声をかける。


「次は、自分の分も持っていってね」


「うん!」


 返事が、即答になる。


 できることが増えると、返事も迷わなくなる。


 ♢


 呼び方が変わり始めたのは、いつからだったか。


 最初は、「ねえ」だった。

 それから、「エル」。

 そして、ときどき、「お父さん」。


 その順番に、意味はなかった。

 選んでいるのではなく、出てきてしまう。


 畑から戻るとき。


「エル、これ」


 エミリアが、摘んできた草花を差し出す。

 何に使うわけでもない。ただ、持ってきたかっただけ。


 夕暮れ、火を起こす音がしているとき。


「ねえ、お父さん」


 呼びかけてから、何を言うか忘れる。

 忘れて、笑う。


 エルディオは、そのたびに一瞬だけ反応が遅れる。


 呼ばれ慣れていない名前。

 役割としてではなく、生活の中で落ちてくる呼び方。


 返事をする前に、必ず一度、周囲を見る。


 誰かが聞いていないか。

 何かが近づいていないか。

 この呼び方が、危険を連れてこないか。


 確認は、一瞬だ。

 エミリアには、ほとんど分からない。


 分からないから、呼び続ける。


 呼び続けることで、呼び方が定着していく。


 ♢


 ある日の夕方。


 エミリアは、外で遊んでいて、転んだ。

 膝を擦りむき、土がつく。


 泣かなかった。

 泣かなかったが、動かなくなった。


 メイリスが気づくより先に、エルディオが立ち上がる。


 歩み寄る速度は、早すぎない。

 走らない。


 エミリアは、彼を見る。


 そして、自然に言った。


「お父さん」


 ためらいがない。

 試す響きもない。


 ただ、呼ぶ。


 その一音で、エルディオの胸が一瞬だけ緩む。


 緩んで――

 次の瞬間、視線が跳ねる。


 周囲。

 村の端。

 森の影。


 何もいない。


 それを確認してから、膝をつく。


「……見せて」


 傷を見る。

 深くない。血も少ない。


 布で拭う。

 エミリアは、じっと我慢している。


「痛いか」


「ちょっと」


 その「ちょっと」が言えること自体、成長だ。


 エルディオは、立ち上がらず、目線を合わせたまま言う。


「歩けるか」


「うん」


 エミリアは立ち上がり、少しだけ足を引きずる。

 それでも、自分で歩く。


 メイリスが、少し離れたところで見ていた。


 駆け寄らない。

 呼び止めない。


 二人の距離を、邪魔しない。


 家に戻る途中、エミリアが言う。


「さっきね、いたかった」


「……そうか」


「でもね、呼んだら、きた」


 それは、責めでも期待でもない。

 事実の報告だ。


 エルディオは、言葉を探す。


「当たり前だ」と言えば、約束になる。

「次も来る」と言えば、縛りになる。


 だから、こう言った。


「……今は、ここにいる」


 エミリアは、その言葉をそのまま受け取る。


 未来を求めない。

 今で十分だから。


 ♢


 夜。


 寝る前、エミリアは自分で布を整える。

 枕を直し、布を引き上げる。


 できないところだけ、メイリスが手を出す。


 エルディオは、戸口に立って、その様子を見ている。


「お父さん」


 布の中から声がする。


「なに」


「……おやすみ」


 それだけ。


 願いも、確認もない。


 エルディオは、一拍置いてから答える。


「……おやすみ」


 声が、少しだけ低い。


 言い慣れていない言葉を、丁寧に置く声だ。


 戸を閉める前、エルディオはもう一度、外を見る。


 闇の濃さ。

 音の距離。

 異変がないこと。


 それを確かめてから、戸を閉める。


 メイリスが、隣で小さく言った。


「自然になってきたわね」


 何が、とは言わない。


 エルディオは、短く答える。


「……ああ」


 自然になるほど、怖くなる。


 奪われたときの痛みが、はっきり想像できるからだ。


 それでも。


 布の向こうから聞こえる、エミリアの寝息は、確かに深い。


 できることが増え、呼び方が変わり、

 彼女は、英雄も父も意識していない。


 ただ、そこにいる人を、呼んでいる。


 その無自覚さが、

 エルディオにとって、いちばん強い救いであり、

 いちばん鋭い警戒でもあった。


 だから彼は、今夜も一瞬だけ心を緩め、

 その直後、必ず周囲を見た。


 穏やかさの中で、

 彼だけが、まだ立っている。


ここまで読んでくださり、ありがとうございます。


村に「安心」が根づいていくほど、エルだけがそれを言葉にできない――そんな歪みを、日々の小さな音と呼び方の変化で積み重ねました。

穏やかさは確かにそこにあるのに、彼の身体だけがまだ戦場のままです。


次は、この“静かな警戒”がどこへ向かうのか。引き続き見届けていただけたら嬉しいです。

評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

↑ページトップへ