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誰も救えない僕が、それでも魔王と生きる話  作者: 霜月ルイ
「  」編

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112/142

112. 「お父さん」-1

 

 朝は、ちゃんと来た。


 戦場の朝みたいに、号令で引き裂かれるように来るのではない。誰かの声が遠くから飛んできて、眠りを叩き起こすのでもない。村の朝は、夜の名残を少しだけ残したまま、薄い光から始まる。


 戸の隙間をすり抜けてくる冷えた空気が、最初の合図だった。鼻の奥に、湿った土と、消えかけた灰の匂いが触れる。外では鶏が短く鳴き、すぐに黙る。犬が一度吠え、今度は長くは続かない。人の気配はまだ薄い。それでも、家々の間には「起きていく音」が静かに積もっていく。


 エルディオは、目を開けた。


 起き上がる速度は、いつもより遅い。遅いのに、無駄な動きがない。手が自然に布を払い、靴を寄せ、呼吸を整える。整えなくていいのに、整える。癖が残っている。


 隣の寝具から、小さな寝息が聞こえる。


 エミリアはまだ寝ていた。頬が枕に押しつけられて、髪が少し跳ねている。寝返りを打つたびに、布が擦れて、ちいさな音がする。その音が、妙に胸の奥を刺す。守るべきものの音だ、と身体が勝手に決めつけようとする。エルディオはそれを、言葉にしない。


 ただ、起こさないように立ち上がった。


 家の中は薄暗い。火は消えている。昨夜の灰が冷えて、白くなっている。冬ほどではないが、夜の冷えはまだ残る。息を吐くと、ほんのわずかに白い。


 奥のほうで、布が擦れる。


 メイリスが起きたのだろう。起きて、すぐに動ける音だ。屋敷の侍女の動きとは違う。ここでは「整える」より先に「回す」方が優先される。水、火、食べ物、子ども。生活は、それらを順番に回すことでしか続かない。


 エルディオは桶を手に取った。


 水汲みは、ここへ来て二日目までは「やること」だった。三日目からは「やった方がいいこと」になり、一週間で「やらないと落ち着かないこと」になった。いまはもう、理由を考えずに手が動く。目を覚ましたら、桶を取っている。


 それが、少し怖い。


 慣れるというのは、身につくということだ。身につくというのは、戻れなくなるということに似ている。戻らなくていいのに、戻らないと決めたはずなのに、それでも「戻れなくなる」ことに、身体のどこかが怯えている。


 外へ出ると、空気がきっぱり冷たかった。


 空は薄い青で、雲が低い。日の光は柔らかいのに、地面はまだ硬い。草の先に夜露が残り、踏むと小さく光る。村の道は狭く、家と家の距離も近い。屋敷の庭のような余白はない。その代わり、どこにいても人の生活の匂いがする。炊き出しの煙。干した布の湿り。家畜の体温の匂い。


 井戸へ向かう途中、戸が開く音がした。


 隣家の女が顔を出し、エルディオを見て軽く会釈をする。言葉は交わさない。深く関わる必要はない。ただ、毎朝そこにいる人間同士として、同じ朝を受け取るだけ。


 エルディオも、同じように頷いた。


 団長としての挨拶ではない。貴族としての挨拶でもない。村の朝の挨拶だった。


 井戸の石の縁は冷たく、掌にひやりとした痺れが走る。


 滑車の縄を引く。縄が掌に食い込み、腕に重みが乗る。桶が水面を割る音がして、すぐに底へ沈む。重さが増えた縄を引き上げる。水の匂いが上がってくる。金属でも血でもない匂い。飲める匂い。


 桶の縁から滴が落ち、石に当たって小さく跳ねる。跳ねた滴は土へ吸い込まれる。誰も見ていない。誰もそれを数えない。損害にもならない。


 戻る道を歩きながら、エルディオは自分の歩幅を意識しないようにした。


 直轄にいた頃は、歩幅を意識しないといけなかった。隊列。距離。背後。死角。いまはそんなものはない。ないのに、足が勝手に「詰まりやすい場所」を避ける。石の配置。道のくぼみ。子どもが転びそうな段差。


 直した方がいい、と頭が言う。


 だが、今日は直さない。


 直したら、次の直すべきものが見える。見えたら、直さなければならなくなる。直し続ければ、また「止まれなくなる」。だから、直さない。


 ただ、足だけで避ける。


 その小さな選択が、誰にも気づかれないまま積み上がっていく。村の生活はそういうものだ。大きい決断の前に、誰にも見えない小さい決断が溜まる。


 家に戻ると、戸の内側から小さな足音がした。


 開けた瞬間、エミリアが顔を覗かせる。寝癖のまま、目をこすりながら、少しだけ眉を寄せている。起きてしまったのか。起こしたわけではない。だが、朝の空気は子どもを起こす。子どもは音を拾う。


「おはよ……」


 言いながら、エミリアは一歩だけ外へ出ようとして、躊躇する。


 エルディオの姿を見るとき、彼女はいつも一瞬だけ間がある。抱きつくほど近づかない。けれど、完全に距離を取るほど遠くもない。あの日、抱きしめられた温度を覚えているからこそ、次の距離の取り方が分からない。


 エルディオは桶を床に置き、膝を軽く曲げて目線を落とした。


「おはよう」


 それだけ言う。


 “早く中へ”とも言わない。“寒い”とも言わない。子どもに対しての言葉の選び方が、まだ分からない。守り方は分かる。危険から遠ざける角度は分かる。だが、朝に必要なのはそれではない。


 エミリアは、口をもごもご動かした。


 言いたいことがあるのに、言葉が出ないときの口だ。歯の間で空気を転がすようにして、何度か息を吸って、吐く。


 メイリスが奥から出てきた。


 髪をまとめ、簡単な上着を羽織っている。屋敷の侍女の格好ではない。村の女の格好だ。だが動きは、変わらない。火を起こす前に、まず水があるか確認する目。濡れた布を用意する手。エミリアの顔を一瞬だけ見て、熱がないと判断する癖。


「起きちゃったのね」


 メイリスが言う。


 責めない声。叱らない声。朝に合わせた声だ。


 エミリアはうなずき、そして――エルディオの方をちらりと見た。


 見て、すぐに視線を落とす。


 落とした視線は、エルディオの手元――桶の取っ手、握りの強さ、手袋の形、そのあたりに止まる。子どもが視線を落とすときは、恥ずかしいか、怖いか、どちらかだ。けれどエミリアのそれは、怖さではなく「言い方の選び方」を探している目だった。


 メイリスが、少しだけ表情を柔らかくした。


 押し付けない。促しすぎない。けれど、逃げ道も残す。彼女はその加減が上手い。母としての加減だ。


「ほら、手。冷たいでしょ」


 メイリスがエミリアの手を取って、指先を包む。エミリアは素直に指を広げ、メイリスの掌の温度に乗る。その動きがあまりに自然で、エルディオの胸の奥が一瞬だけ痛む。


 自然な温度のやり取りを、彼は知らない。


 知らないまま、ここに座っている。


 メイリスがエミリアの前髪を整える。


「顔、洗おう」


 エミリアが小さく頷き、そして――またエルディオを見る。


 今度は、さっきより長く。


 その目は、決意というほど強くはない。だが、試すほど弱くもない。子どもが子どもなりに、何かを越えようとしている目だった。


 エミリアは、口を開いた。


「……おと、」


 音が途中で止まる。


 止まった途端、喉の奥がきゅっと狭くなるような気配がして、彼女は一度唇を閉じる。言葉は簡単なのに、出すには勇気がいる。勇気がいる言葉は、生活の中でいちばん残酷だ。


 メイリスは何も言わない。


 助け舟を出さない。代わりに言ってあげない。言えば楽になる。けれど楽にしたら、エミリアの言葉が「母の許可」になってしまう。それを彼女は避ける。


 エルディオも、動かない。


 促さない。

「無理に言わなくていい」も言わない。


 言えば、その言葉が逆に「言ってはいけない」に変わってしまうことを、彼は本能で知っていた。


 エミリアはもう一度、息を吸った。


 小さな胸が膨らむ。

 その膨らみが、家の中でいちばん勇敢に見えた。


「……お父、さん」


 言えた。


 言えた瞬間、エミリアの目が少しだけ潤む。泣きそうで泣かない。自分が言った言葉の重さに、自分自身が驚いたような顔だ。言った瞬間に何かが決まることを、子どもでも分かる。分かるから怖い。怖いから、言えたことが嬉しい。


 エルディオの喉が、わずかに動く。


 返事の言葉が出る準備ではない。

 ただ、身体がその音を受け止めきれずに、どこかで詰まった。


 父。


 その役割の言葉。

 その言葉が、生活の中で投げられた。


 戦場の命令より、重い。


 エルディオは、返せない。


「うん」も「はい」も違う。

「そうだ」も言えない。


 肯定した瞬間、責任になる。

 責任にしたくない。

 でも否定もできない。


 だから、彼は――


 目線を、少しだけ落とした。


 エミリアの頭のてっぺん。寝癖の跳ねた髪。小さな耳。そこに触れればいいのに、触れ方が分からない。剣の握り方は分かる。敵を制圧する角度も分かる。でも、子どもの髪に触れる角度が分からない。


 それでも、手が動いた。


 手袋を外さないまま、指先だけをそっと伸ばす。

 頭の上に触れる直前で止まり、ほんの少しだけ、空気を撫でるような距離で揺れる。


 そして、最後に――


 軽く、撫でた。


 触れたのは一瞬。

 押さえない。

 握らない。

 ただ、「そこにいる」ことを確認するように。


 エミリアの肩がふわりと緩む。


 その緩みが、泣けるほど小さい。


 エルディオは、ようやく声を出した。


「……寒いか」


 父らしい言葉ではない。

 優しい言葉でもない。

 ただ、現実の言葉だ。


 けれど、それでいい。


 エミリアは小さく首を振る。


「ううん……だいじょうぶ」


 その返事が、まだ少しぎこちない。

 でも、ぎこちなさの中に「続く」が入っている。


 メイリスが、わずかに息を吐く。


 泣かない。

 笑わない。

 けれど、目の端が少しだけ柔らかくなる。


 エルディオは、その変化を見てしまい――見てしまったことを、すぐに心の中で押し込める。温度に慣れると、戻れなくなるから。戻れないのに、戻れなくなるのが怖い。矛盾が、生活の中では普通に存在してしまう。


 メイリスが布を濡らして、エミリアの顔を拭く。


「ほら、こっち」


 エミリアは拭かれながら、もう一度だけエルディオを見る。


 今度は、さっきより少しだけ近い目だ。


 お父さん、と言った。

 返事はなかった。

 でも頭は撫でられた。


 子どもは、言葉より温度を信じる。


 だから、信じかけている。


 エルディオは、それを受け取ってしまいそうになる。

 受け取った瞬間、胸が熱くなる。

 熱くなったら泣くかもしれない。

 泣いたら、また「守る側」に戻ってしまう。


 彼は、熱を、言葉にしない。


 代わりに、桶の水を器に移した。

 水が器に当たって鳴る。

 その音が、朝の家の音になる。


 メイリスが火を起こす。

 薪を組む手はもう迷わない。火打石を打つ音が二つ。炎が小さく生まれる。


 薪割りは、朝のあとに続く。


 それも、もう「やること」ではなくなりつつある。

 薪を割らなければならない、という意識より先に、手が斧を探す。斧を取って、外へ出て、木を置いて、角度を決めて振り下ろす。木が割れる音が村の朝に混ざる。誰も驚かない。誰も褒めない。


 それが、続くということだ。


 日が昇るにつれて、村も動き出す。

 畑へ向かう足音。荷車の軋む音。井戸の縄の音。子どもの笑い声。鍋の匂い。


 エルディオは、その中にいる。


 英雄としてではない。

 貴族としてでもない。


 だからといって、まだ“幸福”とは言えない。


 幸福と言えば、手に入れたものみたいになる。

 手に入れたものは、奪われる。


 だから彼は、ただ――やるべきことをやる。


 水を汲む。

 薪を割る。

 戸を閉める。

 火を起こす。

 子どもの寝癖を、少しだけ撫でる。


 それだけのことが、少しずつ「流れ」になっていく。


 慣れていく身体が、怖い。

 慣れていく身体が、どこかで嬉しい。


 嬉しいと呼ばない。


 呼ばないまま、朝はまた来る。


 昨日と同じように。

 そして、少しだけ違うように。


 エミリアが、台所の方から小さく言った。


「ねえ……お父さん」


 呼び方が、もう一度落ちる。


 今度は、さっきより自然で――だからこそ、胸の奥がほんの少しだけ痛む。


 エルディオは振り返る。


 返事の言葉はまだ見つからない。


 けれど、足は止めない。

 逃げない。


 ただ、そこにいるまま、目線だけで答えた。


 それで、今日の朝は進んでいった。


 ♢


 夜明け前は、音が少ない。


 少ないが、無音ではない。村の外れに立つと、それがよく分かる。風が草を押し分ける音、遠くで眠っている家畜の呼吸、土の中で水が動く気配。人の生活が一度眠りに落ち、代わりに土地そのものが息をしている時間だ。


 エルディオは、その時間に目を覚ました。


 目覚ましも、物音もなかった。ただ、身体が起きろと言った。それだけだ。理由を考える前に、呼吸が整い、足が床を探す。剣の位置を確かめる必要はない。確かめなくても、分かっている。


 外套を羽織り、戸に手を掛ける直前で、ほんの一瞬だけ止まる。


 奥の部屋を見る。


 エミリアは眠っている。布を抱きしめるように丸まり、寝息は深い。悪夢に引き戻される気配はない。昨夜、少しだけ話した内容が頭をよぎるが、それを追わない。今は朝ではない。父としての言葉を考える時間でもない。


 メイリスは、起きていない。


 少なくとも、気配は静かだ。起こす理由はない。知らせる理由もない。


 エルディオは、音を立てずに外へ出た。


 ♢


 村の外れに近づくにつれ、違和感ははっきりした。


 空気が、少しだけ硬い。


 臭いが違う。湿った土と草の匂いの奥に、別の匂いが混じっている。血ではない。腐臭でもない。生き物の匂いだが、人間のそれとは違う。火を嫌う、湿り気を帯びた匂い。


 斥候だ。


 数は多くない。二体、いや三体。群れではない。村を襲うつもりでもない。位置を測り、様子を見るための進行だ。ここが安全かどうか、守られているかどうかを確かめるための動き。


 エルディオは、足を止めない。


 呼吸は一定。

 心拍も変わらない。


 剣を抜く。


 抜く音は、ほとんどしない。刃が鞘を離れる感触が、掌に伝わる。それだけだ。剣を抜くという行為に、もう感情は付随しない。恐怖も、昂りもない。身体が「必要だ」と判断したから、そうした。


 最初の一体は、低い茂みの向こうにいた。


 魔族の斥候は、小さい。人型に近いが、動きは獣に近い。こちらに気づく前に、距離を詰める。足音を消す必要もない。向こうの意識が、まだ「村」に向いているからだ。


 一歩。


 剣が動く。


 技名はない。構えも、型も、説明できるほど残っていない。ただ、届く距離で、届く角度で、必要な力を乗せる。抵抗はあるが、重くはない。刃が抜ける感触が、確かに伝わる。


 二体目は、仲間が倒れる音に気づいた。


 振り返り、叫ぼうとする。その声は最後まで形にならない。喉に届く前に、剣が先に届く。ここでは速度が重要なのではない。声を上げさせないことが重要だ。


 三体目は、少し離れた場所で動きを止めた。


 逃げる判断をする。その判断ができる個体だった。だからこそ、斥候に選ばれている。逃げられれば、次は数が増える。


 エルディオは、追う。


 追うという意識はない。ただ、距離を詰める。足運びは軽い。鎧がない分、身体はよく動く。剣を振る角度を調整する余裕もある。


 最後の一体は、倒れるときに土を掴んだ。


 爪が土に食い込み、何かを残そうとする動き。だが、残るのは痕跡だけだ。情報は残らない。


 すべてが終わるまで、時間はかかっていない。


 夜明け前の空は、まだ色を変えないままだった。


 エルディオは、剣を下ろす。


 呼吸は乱れていない。

 手も震えていない。


 戦いが終わった、という感覚は薄い。危険を取り除いた、という感覚も薄い。ただ、「余計なものが来なかった」という事実が、そこにあるだけだ。


 彼は、倒れた魔族を見ない。


 数を確認し、位置を確認し、周囲に気配がないことを確かめる。それで十分だ。見続ければ、意味が生まれる。意味が生まれれば、物語になる。物語にしたくない。


 エルディオは、剣についた血を拭い始めた。


 布は、家から持ってきたものだ。戦用の布ではない。村で使っている、少し古い布。水気を含ませ、刃の根元から丁寧に拭う。


 その動作が、長い。


 異様に長い。


 刃はすでにきれいだ。それでも、彼は拭き続ける。刃の表だけでなく、峰、鍔の付け根、柄の隙間。拭う必要のない部分まで、何度も布を走らせる。


 拭うのは血だけではない。


 自分の中に戻りかけた何かを、落とすような動きだった。


 やがて、布を畳み、剣を鞘に戻す。


 そのときになって初めて、空が少し明るくなっていることに気づく。夜明けは近い。村が起きる時間だ。


 エルディオは、村へ戻った。


 ♢


 家の戸を開けると、火の匂いがした。


 もう起きている。


 メイリスだ。


 彼女は、何も言わない。


 言わないが、気づいている。


 エルディオが外套を脱ぎ、剣を立てかける。その動作を、彼女は横目で見ている。剣に血の匂いがないことも、布が一枚増えていることも、すぐに分かる。


 だが、何も聞かない。


 聞けば、彼は答えるだろう。

 答えれば、それは報告になる。

 報告になれば、役割が戻る。


 だから、聞かない。


 メイリスは、ただ火を整える。


 薪を少し足し、鍋をかける。朝の準備だ。生活の音を、あえて重ねるように。


 奥から、布の擦れる音。


 エミリアが目を覚ましたのだろう。


「……おはよ」


 寝起きの声。


 エルディオは、振り返る。


「おはよう」


 それだけ言う。


 エミリアは、彼の足元を見る。靴、外套、剣。その順で視線が動く。子どもは、変化に敏感だ。何かがあったことを、言葉より先に察する。


「……いってた?」


 どこへ、とは言わない。

 何を、とは聞かない。


 エルディオは、一瞬だけ間を置く。


「……水、汲みに」


 嘘ではない。

 全部でもない。


 エミリアは、それ以上聞かない。


 子どもは、大人が言葉を選んだことを、ちゃんと感じ取る。そして、無理に踏み込まない。それが、信頼の形になることもある。


 エミリアは、少しだけ近づいてきて、エルディオの外套の裾を掴む。


 ぎゅっとは掴まない。

 指先で、軽く。


 昨日より、自然な動きだった。


 エルディオは、その重さを感じる。


 感じながら、何も言わない。


 メイリスが、背を向けたまま言う。


「朝ごはん、すぐできるわ」


 普通の声。

 いつもの調子。


 だが、言葉の端に、ほんのわずかな確認が混じっている。

 ――戻ってきたわね。

 ――ここにいるわね。


 エルディオは、短く答える。


「うん」


 それで十分だ。


 誰にも知らせない。

 誰にも誇らない。

 誰にも数えさせない。


 魔族の斥候は、物語にならなかった。

 村は、何も起きなかった朝を迎える。


 エルディオだけが知っている。


 平穏は、何もしないことで続くのではない。

 誰にも見せない動きの積み重ねで、かろうじて保たれている。


 そして――


 それを「守っている」と呼ばないことが、今の彼にとって、いちばん大切な選択だった。


ここまで読んでくださり、ありがとうございました。

村の朝の音や、言葉にならない距離の変化を、できるだけ「説明」ではなく「手触り」で積み重ねた回でした。


“何も起きない”ことの裏側で、静かに続いていくものがあります。

その穏やかさが、いつか本物になるのか――次も見届けてもらえたら嬉しいです。

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