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誰も救えない僕が、それでも魔王と生きる話  作者: 霜月ルイ
「  」編

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111/143

111.【普通の夜】


 火は、もう高くは燃えていなかった。


 けれど消える気配もない。薪の芯が赤く残り、時折、息を吐くように小さくはぜる。炎が揺れるたび、壁の影がわずかに伸び縮みして、部屋の輪郭を確かめ直すみたいに動いた。


 外は暗い。


 窓の隙間から差し込むのは闇ではなく、夜の冷えだ。風は強くないが、湿り気を含んだ空気が布の隙間を探して入ってくる。遠くで犬が一度鳴き、すぐに黙る。村は眠りに向かっている。騒がしさが引いて、代わりに「家がある」という音が残る。戸が鳴る音、木がきしむ音、どこかで水が置かれる音。


 生活の夜だ。


 エルディオは、その夜の真ん中に座っていた。


 鎧はない。剣も腰にない。それなのに、背筋の癖だけが残っている。椅子の背に寄りかからず、重心が前にある。いつでも立てる位置。いつでも動ける位置。戦場の座り方を、まだ身体が手放せない。


 だが今夜、彼は動かない。


 動かないでいられることを、自分に許している。


 メイリスは、火の光が強く当たらない位置に座っていた。正面ではなく、少し斜め。視線がぶつからない距離。彼女が選ぶ距離は、いつもそれだ。近すぎれば、言葉が変わってしまう。遠すぎれば、生活が壊れる。


 さっき彼が言った。


――もう僕は、貴族じゃない。昔みたいに、普通に話してよ。


 その一言が、まだ部屋の空気に残っている。


 残っているのに、どこにも落ちていない。火の上に浮いたまま、触れたら熱いと分かっているものみたいに、二人の間を漂っている。


 メイリスは、膝の上で指を組んだ。


 ほどいて、また組む。繰り返し。癖。姿勢を保つための癖だ。崩れないための癖。


 彼女は泣かない。


 泣く理由はいくらでもある。泣いてもいい夜だ。けれど、泣くという動作は、彼女にとって「許される」と同義ではない。許されてしまえば、縋ってしまう。縋れば、彼を縛ってしまう。だから泣かない。泣かないことで、自分を保っている。


 火が小さく鳴った。


 その音だけが、時間を一歩ずつ進めていく。


 メイリスは、ゆっくりと息を吸う。


 吸って、吐く。


 吐いた息が、声になりかけて、まだ喉の奥で止まる。彼女の中で何かが、言葉に触れそうになっている。判断の言葉ではない。整えた報告でもない。あまりに裸で、あまりに生活に近い温度のもの。


 彼女は一度、視線を火へ落とす。


 火の中にある赤を見て、心の中の赤を落ち着かせようとしているようだった。落ち着かせる、というより、崩れない形に変える。


 エルディオは、何も言わない。


 急かさない。

 促さない。

 「普通に」と言った本人が、普通を押し付けない。


 彼はただ、そこにいる。


 そして、その「いる」が、彼にとってどれほど大きい選択かを、彼自身が分かっている。


 メイリスは、やっと口を開いた。


 声は低い。落ち着いているように聞こえる。だが、語尾の滑りがほんの少しだけ違う。いつもなら、きれいに落ちる音が、今はわずかに引っかかる。


「……普通に、ですか」


 問い返しの形なのに、責める響きはない。


 ただ、確かめる響きだ。

 彼が差し出した椅子に、本当に座っていいのかを。


 エルディオは、火から視線を外さないまま、短く答える。


「うん」


 それだけ。


 多く言わない。

 彼女の恐れを言葉で塗りつぶさない。


 メイリスの喉が、わずかに動く。


 唾を飲み込む音はしない。けれど、飲み込んだのが分かる。飲み込んだのは唾ではなく、言い慣れた敬語かもしれない。あなた様、という距離かもしれない。守ってきた線そのものかもしれない。


 彼女は、肩を落とさない。背筋を崩さない。膝の位置も変えない。


 崩れないまま、火の前で、ほんの少しだけ“人間の声”に寄せていく。


「……私が、あなた様に――」


 言いかけて止まる。


 あなた様。


 呼び方が、まだ抜けない。

 抜けないことを責めない。けれど、抜けないことが今夜の痛みになる。


 メイリスは一度、目を閉じた。


 閉じてしまえば楽だ。閉じれば、侍女のままでいられる。判断のままでいられる。言わなくて済む。言わなければ、崩れない。崩れなければ、縛らない。


 けれど、今夜は――


 彼が「普通に」と言った。


 普通に、という言葉が、彼女の中の最も怖い扉に触れてしまった。扉を開けるのは自分だ。誰も開けさせない。開けてしまった責任は、誰のものにもできない。


 メイリスは目を開く。


 火の光が、彼女の睫毛の影を頬に落とす。


 泣いてはいない。

 けれど、目の奥の水面が、揺れ始めている。


「……私は」


 一語目が、少しだけ震える。


 声の震えは嗚咽ではない。息が乱れているわけでもない。泣き崩れているわけでもない。震えているのは音だけで、身体の線は崩れない。背筋はまっすぐ。肩も落ちない。手も膝の上にきちんと置かれている。


 泣き方が、彼女らしい。


 崩れないことで、まだ自分を保っている。


「私は、あの夜を――」


 言いかけて、首を振らない。

 言い直さない。


 過去の話に戻ると、判断に戻れる。判断に戻れば、言える。言えるが、それは安全だ。安全な言葉は、今夜の真ん中には届かない。


 だから彼女は、過去へ逃げない。


 今に戻る。


 今夜の火の前へ戻る。


 エミリアの寝息が聞こえる、この家へ戻る。


 メイリスは、息を吸う。


 吸った息が、少しだけ喉に引っかかる。


 それでも、姿勢は崩れない。


 彼女の中で、泣くという動作が初めて許される瞬間が来る。許すのは誰でもない。彼女自身だ。泣いても縛らない。泣いても奪わない。泣いても、要求しない。


 その条件が揃ったときだけ、人は泣ける。


 彼女は、ゆっくりと言った。


「……愛しています」


 声は震える。


 だが、嗚咽ではない。

 泣き声ではない。


 言葉だ。

 言葉として、きちんと置かれる。


 その瞬間、涙が一つだけ落ちる。


 頬を伝う速度は遅い。急いで流れない。追いつけないほど溢れない。溢れないようにしているのではなく、身体がまだ「崩れ方」を選んでいる。


 崩れない泣き方。


 崩れないまま告白する泣き方。


 メイリスは続ける。


「……今も」


 ここが核だった。


 過去形にしない。

 未来形にしない。


 待たない。

 約束もしない。


 ただ、今この瞬間にあるものとして言う。


 今も。


 それは、時間に負けていないと言い張る言葉ではない。

 むしろ時間に負けた部分も抱えたまま、それでも残ったものを差し出す言葉だ。


 愛しています。今も。


 その二つの短い文が、この家の中の空気を静かに変える。


 変えるが、壊さない。


 メイリスは、続けて何も足さない。


 「だから」も言わない。

 「どうして」も言わない。

 「あなたは」も言わない。


 要求しない。

 確認しない。


 「あなたはどうですか」と聞かない。

 「返して」と言わない。


 言った瞬間に返事を求めることが、どれほど彼を追い詰めるかを、彼女は知っている。知っているから、言わない。


 ただ置く。


 置いて、そのまま自分で受け止める。


 彼女の涙は、もう一つ落ちる。


 音はしない。

 火の音が、それをかき消す。


 エルディオは――動かなかった。


 すぐ返さない。


 抱きしめない。


 その不器用さは、優しさの欠如ではない。今抱きしめれば、この言葉を「償い」に変えてしまう。抱きしめれば、この告白を「責任」に変えてしまう。彼はそれをしたくない。したくないのに、身体は抱きしめる動作を知っている。


 知っているからこそ、止める。


 彼の手が、膝の上で僅かに動く。


 手袋のままの指が開き、閉じる前で止まる。伸ばしかけて、止まる。火の光が、その指先の迷いを赤く照らす。


 触れたい。


 触れていいのか分からない。


 触れた瞬間に、役割が生まれるのが怖い。


 父として、恋人として、救う者として。

 そういうものが一気に生まれてしまうのが怖い。


 だから、止める。


 止めたまま、彼は息を吸う。


 深くはない。

 震えを隠すためでもない。


 ただ、言葉を出すための呼吸。


 彼はしばらく、言葉を探した。


 「ありがとう」は違う。

 「ごめん」はもっと違う。

 「愛している」は――今言えば、嘘になる。

 嘘になるから言えない。

 言えないから、言わない。


 けれど、沈黙で終わらせたくもない。


 沈黙は第六話の沈黙に戻ってしまう。

 言葉が足りない沈黙に戻ってしまう。


 今夜は、そうじゃない。


 彼が出した言葉は、短かった。


 短いのに、重い言葉だった。


「……それで、十分だ」


 声は低い。

 飾りがない。


 慰めでもない。

 結論でもない。


 受け取った、という宣言だ。


 返さない代わりに、否定しない。

 抱きしめない代わりに、落とさない。


 彼の「十分だ」は、満足の言葉ではない。


 それ以上を求めない、という誓いに近い。

 今夜の告白を、今夜のまま置くための言葉。


 メイリスの瞳が、ほんの僅かに揺れる。


 泣きが止まるわけではない。

 けれど、涙の落ちる速度が少しだけ変わる。


 彼女は、自分の告白が“返されない”ことを理解する。


 理解して、それでも崩れない。


 崩れないのは強がりではない。

 最初から、要求していないからだ。


 彼女の愛は、返事を得るために言ったものではない。

 自分の中に残っていたものを、嘘にしないために言ったものだ。


 エルディオは、伸ばしかけた手を、ゆっくり膝の上へ戻す。


 戻す動作が、苦しい。

 戻す動作が、正しい。


 正しいことが、いつも人を救うわけではない。

 それでも今は、正しい方を選ぶしかない。


 火が小さくはぜる。


 夜は深まる。


 奥から、エミリアの呼吸が少しだけ変わる。寝返りを打ったのだろう。布が擦れる音がして、また一定の寝息に戻る。


 生活が、続いている音だ。


 メイリスは涙を拭わない。


 拭わないのは、見せつけるためではない。

 ただ、拭う動作が今は不要だからだ。


 泣いている事実を、泣いているまま置く。


 それが今夜の「普通」なのかもしれないと、彼女は思う。


 エルディオは火を見たまま、言葉を足さない。


 足せば、形が変わってしまう。


 今夜は、形を変えない。


 愛しています。今も。


 それを受け取って、返さない。


 返さないことで、次の夜へ余白を残す。


 火は、静かに燃え続ける。


 祝福もしない。

 裁定もしない。


 ただ、二人の間に置かれた言葉と、置かれた沈黙と、置かれた温度を、同じ明かりで照らし続けていた。



 火は、変わらず低く燃えていた。


 「……それで、十分だ」


 その言葉が落ちてから、少しだけ時間が経った。数を数えられるほどの長さではない。けれど、確かに「間」があった。言葉が空気に馴染むための時間。置かれたものが、すぐには動かせないと分かるまでの時間。


 メイリスは、しばらく俯いたままだった。


 涙は、もう落ちていない。頬に残った温度だけが、さっき確かに泣いたという事実を伝えている。拭わないまま、呼吸を整える。深くはない。嗚咽に変わらないよう、あくまで「普通の呼吸」に戻すための調整だ。


 やがて、彼女は顔を上げた。


 視線は、エルディオ――いや、エルを見る。


 その呼び方を、口の中で一度だけ確かめるようにしてから、彼女は言った。


「……エル」


 昔と同じ音。

 敬語の衣を脱いだ、名前だけの呼び方。


 その一音だけで、空気が少し変わる。


 エルは、はっきりと反応しなかった。

 だが、肩の力がほんのわずかに落ちたのが分かる。

 無意識だ。


 メイリスは、続ける。


「……変な感じね」


 声は、もう震えていない。

 泣いたあとの、少しだけ乾いた声。


「こうして、同じ火の前に座って」

「名前を呼んで」

「……それだけなのに」


 彼女は、小さく息を吐く。


「すごく、遠回りした気がする」


 責める言い方ではない。

 自嘲でもない。


 人生を振り返った人間の、素直な実感だ。


 エルは、少しだけ視線を動かした。

 火から、彼女の方へ。

 だが、正面ではなく、やはり斜め。


「……そうかもしれない」


 短い答え。


 多くを足さない。

 肯定も、否定も、強くしない。


 メイリスは、火を見ながら言う。


「エミリアね」

 突然、話題を変える。


「今日は、よく食べてた」

「途中で眠くなったけど」


 その言い方が、もう母親だ。

 判断でも、報告でもない。

 生活の話し方。


 エルは、頷く。


「……昼、走り回ってた」


「そうね」


 メイリスの口元に、ほんの僅かに笑みが浮かぶ。

 笑おうとしている、ではない。

 勝手に出た、という種類の表情。


「あなたが薪を割ってるの、ずっと見てたわ」

「音が気に入ったみたい」


 エルは、少し驚いたように眉を動かす。


「……そうだったのか」


「ええ」

「割れる音がすると、安心するって」

「昼も、夜も、同じ音だから、って」


 エルは、その言葉をすぐに理解できない。


 戦場では、音は警戒の対象だった。

 割れる音、弾く音、鳴る音。

 すべてが、危険の兆候だった。


 だが、ここでは違う。


 同じ音が、昼と夜を繋ぐ。

 それは、危険ではなく、継続の証だ。


 彼は、少しだけ息を吐く。


「……そうか」


 それだけ。


 言葉にすれば、まだ形が合わない。


 メイリスは、エルの横顔を見る。

 見て、そして分かる。


 彼が、まだ「外」に半分いることを。


 彼女は、それを指摘しない。


 代わりに、少しだけ間を置く。


 火がはぜる。

 影が揺れる。


 沈黙が、また落ちる。


 だが、さっきとは質が違う。

 今度の沈黙は、会話の延長だ。

 言葉が途切れただけの沈黙。


 エルは、ふと――


 立ち上がらないまま、顔だけを僅かに動かした。


 視線が、窓の方へ向く。


 無意識だ。


 闇の濃さを測る。

 月明かりが届く範囲。

 家と家の距離。

 この家が、どれくらい孤立しているか。


 もし、何かが起きたら。

 音は、どこまで届くか。

 叫べば、誰が来るか。

 逃げるなら、どこか。


 身体が、勝手に計算を始めている。


 彼はもう、戦う場所にはいない。

 だが、身体はまだ、戦う前提で世界を見ている。


 メイリスは、それに気づく。


 気づいて、何も言わない。


 「大丈夫よ」とも言わない。

 「もう戦場じゃない」とも言わない。


 それを言えば、彼は「分かっている」と答えるだろう。

 答えて、また自分を責めるだろう。


 だから、言わない。


 ただ、少しだけ間を置く。


 その間が、

 彼の無意識が戻ってくる時間だと知っているから。


 エルは、数秒後、視線を戻す。


 自分が何をしていたかに、気づいていない。

 ただ、火の前に戻る。


 メイリスは、その戻り方を見て、心の中で小さく息を吐く。


 ――まだ、完全じゃない。


 幸福は、確かにある。

 同じ家にいて、同じ火を見て、同じ夜を過ごしている。


 だが、完全ではない。


 英雄の檻は、内側からは外れた。

 彼は、自分で鎧を脱いだ。


 それでも――

 外側から来るものは、まだある。


 噂。

 期待。

 過去。

 そして、彼自身の身体に染みついた警戒。


 メイリスは、それを「問題」とは思わない。


 問題だと思えば、直そうとしてしまう。

 直そうとすれば、また彼を縛る。


 だから、今夜は――


 ただ、同じ火の前にいる。


 直さない。

 急がない。


 エルが、もう一度、無意識に外を見なくなる夜が来るまで。


 その夜が来るかどうかは、まだ分からない。

 分からないままでも、今はいい。


 火は、静かに燃えている。


 彼はもう、戦う場所にはいない。

 だが、戦う準備だけが、身体から抜けなかった。


ここまで読んで下さり、ありがとうございます。


英雄を辞めた夜は、救いでも解放でもなく、ただ「生活」が始まる夜でした。

愛は答えにならず、言葉は約束にならず、それでも同じ火の前に座れる――その静かな確かさだけを残して、111話は幕を下ろします。


次の夜も、同じように来ます。

けれど、外の世界はまだ、彼を英雄のままにしておきたがるでしょう。

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