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誰も救えない僕が、それでも魔王と生きる話  作者: 霜月ルイ
リィナ編

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11/25

11.春が終わるまで-4

 診察室の窓から、春の光が差し込んでいた。

 やわらかく、穏やかで、

 この季節に似合わないほど残酷な光だと、

 私はもう何年も前から知っている。


「今日は、どうだい」


 問いかけると、リィナはいつものように椅子に腰かけ、

 少しだけ姿勢を正した。


「いつもと、変わらないよ。せんせ」


 嘘だと分かる言い方だった。

 声の張りは保っているが、

 呼吸の間隔がわずかに乱れている。

 背中に余計な力が入っている。


 私は記録用の紙に視線を落としたまま、

 それ以上は何も言わなかった。


 この子は、

「大丈夫ですか?」と聞かれると、

 必ず「大丈夫です」と答える。


 だから私は、

 聞かない。


「最近、畑には行っているんだろう」

「うん、春だしね」


 春、という言葉を口にした瞬間、

 彼女の表情がほんのわずか緩んだ。


 その変化を、私は見逃さない。


「……少し、無理をしすぎてはいないか」

「してないってば」


 即答だった。

 でも、その指先は膝の上で絡まっている。


「君は、もう分かっているはずだ」


 私は静かに言った。


「この病は、治らない」

「進行は止められない」

「魔法でも、どうにもならない」


 一つ一つ、確認するように。


「分かってるって、大丈夫だよ。せんせ」


 視線を逸らさず、彼女は言った。


「だから、数えてるの」


 私は、ペンを止めた。


「……何を?」


「残っている、ちゃんと動ける時間を

 畑に行ける日を

 誰かと笑って話せる日を」


 淡々とした口調だった。

 だがその言葉は、

 すでに終わりを受け入れた者のそれだった。


「……君は」


 私は言葉を選ぶ。


「恐ろしくはないのか」


「怖いよ……たまらなく怖い」


 即答だった。


「でも、それ以上に……」


 リィナは小さく息を吸い、


「春は、私に優しいから」


 そう言った。


 私は、それ以上何も聞かなかった。

 聞いてはいけないと、

 長年の経験が告げていたからだ。


 ♢


 診察室を出ると、

 外は思ったより暖かかった。


 風はまだ冷たいけれど、

 陽射しが、それを許してくれる。


 春は、優しい。


 冬みたいに、

 身体を責め立てることはしない。

 寒さで関節が固まることもない。

 息をするだけで痛みが走ることも、少ない。


 春になると、

 身体はほんの少しだけ、私を許してくれる。


 だから私は、春が好きだった。


 でも――

 優しいものほど、長くは続かない。


 それも、私は知っている。


 今年の春は、少し長いと思っていた。

 それは希望じゃない。

 錯覚でもない。


 ただ、「数えているから」そう感じるだけだ。


 今日は何日。

 今日はどれくらい歩けた。

 今日は息切れが何回あった。


 今日、エルの畑で

 どれくらい笑えた。


 ――今日、触れられなかった距離は、どれくらい。


 私は、彼の顔を思い出す。


 あの人は、優しい。

 優しすぎる。


 だから、踏み込んでしまう。

 だから、救おうとしてしまう。


 私が欲しかったのは、

 救いじゃない。


 一緒に笑える時間。

 それだけだった。


 それなのに、

 彼は「救う」と言った。


 それは、私を“未来”に連れていく言葉だ。

 でも、私はもう、未来を賭けてはいない。


「エルがいなくても、私は私として生きる」


 あの言葉は、彼を突き放すためじゃない。

 彼を、私の終わりに巻き込まないための言葉だ。


 私が消えていくとき、

 彼の世界まで壊れてしまうのは、嫌だから。

 私は、誰かの理由になりたくない。

 誰かが生きるために、私が存在するなんて、

 そんな重たい役割を、彼に背負わせたくない。


 それは、愛じゃない。


 それは、依存だ。


 畑へ向かう道すがら、

 花びらが一枚、足元に落ちた。

 踏めば、簡単に潰れてしまいそうな薄さ。

 それでも、咲いていた時間は、確かにあった。


 私は、それでいい。


 春は、私に優しい。

 でも優しいものほど、長くは続かない。


 だから私は、終わりを知ったまま、この季節を選ぶ。


 ――春が終わるまで。


 それが、私の覚悟だった。


 ♢


 畑へ向かう途中、私は何度か立ち止まった。

 足が痛いわけじゃない。

 息が切れたわけでもない。


 ただ、少しだけ、景色を覚えておきたかった。


 春の光は、どこか無責任だ。

 誰の事情も知らない顔で、

 すべてを同じ明るさで照らす。


 それが、嫌いじゃない。


 畑に着くと、土の匂いが、すぐに分かった。

 湿った土、若い草、まだ小さい薬草の葉。

 ここに来ると、身体の調子より先に、心が落ち着く。


「……今日は、静かだね」


 誰に言うでもなく、そう呟いた。

 エルは、まだ来ていないらしい。

 少しだけ、ほっとする。


 彼の視線は、優しすぎる。

 気づいてしまう人の目だ。

 だから、今日は少しだけ、一人でいようと思った。


 ベンチに腰を下ろすと、思ったより深く、身体が沈んだ。

 昔は、こんなふうに感じなかった。

 でも今は、座るという動作一つで、

 自分の重さを意識する。


 ――数えている。


 あと何回、

 このベンチに座れるだろう。


 あと何回、

 エルと並んで、同じ方向を見られるだろう。


 数えることは、怖さを和らげてくれる。

 終わりが分からない恐怖より、

 終わりが見えている静けさの方が、

 私には耐えやすい。


「……来ちゃうよね、あの人」


 苦笑して、空を見上げる。


 エルはきっと、今日も“いつも通り”を装う。

 それでも、きっとまた、踏み込もうとする。

 それが彼の弱さで、同時に、彼の優しさだから。


 でも私は、その優しさを、受け取れない。

 受け取ってしまったら、彼はきっと、

 私の終わりを、自分の責任にしてしまう。

 そんなこと、させられない。


 私は、最後まで私でいたい。


 誰かに救われる存在じゃなく、

 誰かを縛る理由にもならず、

 ただ――

 春を好きだと言って、

 畑で笑っていた、ひとりの人間として。


 風が吹いた。

 薬草の葉が、かすかに揺れる。


 その音を聞きながら、

 私は静かに息を整えた。


 春は、まだ続いている。


 でも、終わりが近いことを、

 私はもう、数えられる。


 それでいい。


 ――春が終わるまで。


 私は、この時間を、

 ちゃんと生きる。


 ♢


 あの子は、リィナは――

 すべてを、理解した上で諦めていた。


 治らないことも。

 進行が止まらないことも。

 どれほど手を尽くしても、元には戻らないという事実も。


 それでも彼女は、自分の人生を全うすると言った。

 逃げるでもなく、嘆くでもなく、

 ただ淡々と、受け入れた顔で。


 診察室で彼女が見せる表情は、

 もう「希望を探している患者」のそれではなかった。

 結果を聞くためでも、救いを求めるためでもない。

 ただ、今日の自分の状態を確認しに来ているだけだった。


 彼女が持ってくる薬草で、

 私は延命のための薬を調合した。

 治すためではない。

 良くするためでもない。


 少しだけ、進行を遅らせるためのものだ。


 それが何を意味するのか、

 彼女は最初から理解していた。


 初めてその薬草を見せられた時、

 私は言葉を失った。

 効能も、危険性も、

 その使い道も、すぐに分かってしまったからだ。


「……それが、どういうものか分かっているのかい」


 問いかける声が、思った以上に重く響いたのを覚えている。

 彼女は一瞬だけ視線を伏せ、

 それから小さく頷いた。


「分かってる」


 それだけだった。


 その返事に、説得の余地はなかった。

 恐怖も、迷いも、そこには残っていなかった。


 私は医師として、

 彼女の両親に診察結果を伝えた。


 あの子が望む通りの言葉を、選んで。


 ――すぐにどうこうなる状態ではありません。

 ――しばらくは、安定しています。

 ――無理をしなければ、日常生活は続けられます。


 どれも嘘ではない。

 だが、真実のすべてでもない。


 あの子は、自分の状態を正確に把握している。

 誰よりも。

 だからこそ、

 両親には、必要以上の現実を背負わせないことを選んだ。


 私にできることは、

 その選択を尊重することだけだった。


 治療という域は、もうとっくに越えている。

 何かを「良くする」段階は、終わっている。


 残されているのは、

 どう生きるか、という問いだけだ。


 医師としての私が、

 彼女にしてあげられることは、もうない。


 処方箋を書くことも、

 検査結果を説明することも、

 すべて形だけになってしまった。


 最後に残った言葉は、

 あまりにもありふれていて、

 あまりにも無力だった。


「……無理を、しないように」


 それだけだった。


 それ以上、言えなかった。

 言ってはいけないと、分かっていた。


 あの子は、

 誰かに縋るために生きているわけではない。

 救われるために、ここに来ているわけでもない。


 自分の足で、

 自分の時間を、最後まで歩くと決めている。


 その覚悟を、

 医師の立場から崩してしまう資格は、

 私にはなかった。


 だから私は、

 今日も診察室で、

 彼女の背中を見送る。


 それが、この仕事を続けてきて、

 初めて感じた――

 明確な「限界」だった。


 ♢


 少し前に、時間を戻す。


「リィナ、遅かったわね。今日も畑に行っていたの?」


 母は台所から顔を出して、いつもの調子で声をかけてきた。

 夕方の光が窓から差し込み、床に長い影を落としている。


「うん」


 短く答えると、母はくすりと笑う。


「あなた、エルディオ様に無礼なことをしていないでしょうね」

「ううん」


 冗談交じりの言葉だった。

 責める意図なんて、これっぽっちもない。

 むしろ、からかうような、少しだけ心配するような声。


「エルは……優しいから」


 そう答えると、母は一瞬だけ言葉を止めた。

 それから、ゆっくりと頷く。


「そう」


 それだけで、話題は終わるはずだった。


 でも、その日の私は、

 胸の奥に溜まったものを、どうしても外に出したかった。


「……エルがね」


 声を出した瞬間、喉が少し詰まる。


「私に、好きだって言ってくれたんだ」


 母は目を瞬かせてから、

「あらあら」と、少しだけ声を柔らかくした。


「それは……よかったじゃない」


 父は新聞を畳む手を止め、

 こちらをちらりと見たが、何も言わなかった。

 それが、父なりの距離の取り方だと、私は知っている。


「それでね……」


 言葉を続けようとした瞬間、

 胸の奥に押し込めていた感情が、

 一気に浮き上がってきた。


「“僕が、リィナを救うんだ”って……」


 そこで、声が震えた。


「そう……言って……くれた……の」


 視界が滲む。

 ぽたり、と床に落ちる音がして、

 自分が泣いていることに、そこで気づいた。


「おかしいな……」


 笑おうとしたのに、口角がうまく上がらない。


「嬉しい、はずなのに……

 なんで、こんなに……」


 言葉が、続かなかった。


 母がそっと近づき、

 何も言わずに、背中に手を置いた。


 父は相変わらず何も言わない。

 ただ、少しだけ視線を伏せている。


 私は、その沈黙の中で、

 エルの言葉を何度も思い返していた。


 ――僕が、救う。


 その言葉は、優しかった。

 真っ直ぐで、迷いがなくて、

 私を想ってくれているのが、はっきり分かった。


 だから、嫌じゃなかった。

 怒りも、拒絶も、なかった。


 でも――

 受け取れなかった。


 それは、彼の言葉が重すぎたからじゃない。

 むしろ、その逆だった。


 彼が「救う側」になると、

 彼は自分を削り始める。


 きっと、私の顔色を気にして、

 体調を気にして、

 未来を、私基準で考えるようになる。


 それは、一緒にいることじゃない。

 それは、縛ることだ。


 私は、自分の人生には責任を持てる。

 でも、

 エルの未来に、責任を持つことはできない。


 私がいなくなった後の彼を、

 私は見られない。


 彼が、

「救えなかった」と自分を責める姿を、

 想像してしまった。


 それが、何よりも怖かった。


 エルは優しい。

 優しすぎる。


 だからこそ、

 私が彼の“生きる理由”になってしまったら、

 彼は、私がいなくなった瞬間に、

 自分の足場を失ってしまう。


 それは、愛じゃない。

 依存でもない。

 もっと、残酷なものだ。


 だから私は、

 彼の言葉を否定しない。


 想いも、気持ちも、

 すべて、ありがたいと思っている。


 でも――

 役割だけは、受け取れない。


「私を救う」なんて、

 そんな責任を、彼に背負わせたくない。


「一緒にいたい」と思ってくれるなら、嬉しい。

 隣にいられる時間を、大切にしてくれるなら、それでいい。


 それ以上の理由には、

 私は、なれない。


 母の手の温もりを感じながら、

 私は小さく息を吐いた。


「……ねえ、お母さん」


 涙を拭いながら、そう言う。


「私ね、誰かの人生の理由にはなれないの」


 母は何も言わなかった。

 ただ、背中に置いた手に、

 少しだけ力を込めた。


 それで十分だった。


 だから私は、

 あの言葉を言う準備をした。


 エルの前では、きっと笑うだろう。

 いつも通り、少し困ったように。

 彼の優しさを、拒まない顔で。


 でも――

 受け取らない。


 私が彼の生きる理由になってしまったら、

 それは一緒にいることじゃない。

 彼の未来を、私の終わりに縛ることになる。


 それだけは、できなかった。


 春は、まだ続いている。

 だからこそ、今、言わなければならない。


 優しいまま、

 壊さないために。


 ――私を、エルの生きる理由にしないで。


 その言葉を、

 彼に向けて差し出す覚悟だけを、

 胸の奥で、静かに固めていた。


もしここまでの物語で、

何か一つでも心に残るものがあれば、

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