表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
誰も救えない僕が、それでも魔王と生きる話  作者: 霜月ルイ
「  」編

この作品ページにはなろうチアーズプログラム参加に伴う広告が設置されています。詳細はこちら

108/143

108.『残された者の選択』


「――だめです」


 声は低く、揺れなかった。拒絶の言葉なのに、角がない。叩きつけるための否定ではなく、先に壁を立ててしまうための否定だった。


 幕屋の布が、外の風にわずかに鳴る。配給所の方角から、器の当たる乾いた音が一瞬だけ届き、すぐに別の声に塗り潰される。世界は相変わらず動いている。ここだけが、息を整える場所を失ったまま静かに固まっていた。


 エルディオは、すぐに言い返さなかった。


 言い返せないのではない。

 反対されることを、想定していたからだ。


 メイリスの反対は、彼を拒むためのものではない。

 自分を守るためでもない。


 ――彼を、縛らないためのものだ。


 だからこそ、彼女の「だめです」は、鋭い。


 それは“線”だった。越えた瞬間に、誰かが戻れなくなる線を、先に引く声だった。


 メイリスは、エルディオを正面から見ない。


 視線は、彼の胸元の革留め具あたりに落ちている。鎧の硬い部分。人間の温度が届きにくい場所に目を置く。目を合わせれば、言葉が変わってしまうからだ。


 彼女は、息を吸って、続ける。


「……それは、私の望みではございません」


 “望み”という言葉が、妙に整って落ちる。

 恋人の拒絶ではない。

 元侍女の、報告の言葉だ。


 望みではない。つまり、あなたが選ぶべき未来ではない。

 そう言っている。


 エルディオの手袋の指先が、ほんの僅かに動く。

 握るでもなく、開くでもない。

 ただ、居場所を探すように微かに動いた。


 メイリスは、その動きを見ていないふりをした。

 見れば、自分の言葉が鈍る。

 鈍った言葉は、優しさに寄りかかってしまう。


 彼女は優しさを選びたくないのではない。

 優しさで、彼の足を止めたくないのだ。


「第一に」


 彼女は、順番を作る。

 順番を作るのは癖だ。屋敷で身についた癖でもあり、生き延びるための癖でもある。

 感情を言葉にするのではなく、理由を並べる形に落とす。そうすれば、泣かずに済む。


「あなた様に、責任を感じていただきたくありません」


 “責任”。


 その言葉が、幕屋の空気をさらに硬くする。

 責任は、エルディオの人生を支えてきた柱だ。支えてきたからこそ、同じ柱に押し潰されかけてもいる。


 エルディオは、否定しない。

 否定できない。

 彼が直轄を辞めるという言葉を口にした瞬間から、彼の中で“責任”が浮上してしまうのは分かっていた。


 メイリスは、続ける。


「あなた様は、今も――“立って”いらっしゃる」


 “立つ”という言葉が、彼女の口から出る。

 それは褒め言葉の形をしていない。

 むしろ、彼を縛る言葉だと彼女は知っている。


「直轄を辞めるのは、逃げではございません」

「けれど、“私たちのため”という形で辞めれば」

「あなた様は、また別の檻を背負うことになります」


 檻、とは言わない。

 だが、言っていることはそれだ。


 英雄の檻から出るために辞めるのに。

 出た先で、また自分が檻を作ってしまう。


 彼女は、それを許せない。


 自分の存在が、彼の人生にとって重りになることを。

 それが“救い”の顔をしてしまうことを。


 エルディオが、ようやく口を開く。


「……責任だから、とは言っていない」


 低い声だった。

 強くない。

 言い切っているのに、押し付けではない。


 メイリスは、首を振らない。

 頷かない。

 ただ、声を落とす。


「ええ。存じております」


 存じている、という言葉が刺さる。

 彼女はずっと見てきたのだ。彼が、責任という形でしか自分を保てなかった時間を。


「だからこそ、申し上げます」

「あなた様は、責任を“選ばない”ことを覚えなければならない」


 それは反対の形をした、願いだ。

 けれど願いとして言えば、彼を縛る。

 だから彼女は、反対として言う。


 息を整える間が一拍落ちる。


 メイリスは、第二の理由へ移る。

 ここが、彼女にとって最も現実的で、最も残酷な部分だ。


「第二に――身分が違いすぎます」


 はっきりと言う。

 濁さない。

 濁せば、彼は「大丈夫だ」と言ってしまう。

 彼の「大丈夫」は、戦場の言葉だ。家庭に持ち込めば人を殺す。


「噂が立ちます」

「政治が動きます」

「村の目が、先に私たちを裁きます」


 村の目。

 それは剣より先に人を追い詰める。


「あなた様は“元直轄団長”として見られる」

「私は“侍女崩れ”として見られる」

「この子は、“誰の子か”で見られる」


 エミリアが、ぴくりと動く。

 言葉の意味が全部は分からない。

 でも、空気が固くなったのは分かる。


 メイリスは、エミリアに目を向けない。

 目を向ければ、声が優しくなる。

 優しくなれば、言うべきことが言えなくなる。


「私は、耐えられます」

「慣れておりますから」


 その一言が、彼女自身を切る。

 耐えられるのは強さではない。諦めだ。


「ですが、あなた様は違う」

「あなた様は、まだ“見られる側”にいる」


 英雄として見られる。

 貴族として見られる。

 そして、崩れた英雄として噂される。


 それがどれほど残酷かを、彼女は知っている。

 彼が人として生き直そうとした瞬間に、世界は“英雄の物語”へ引き戻す。


 エルディオは、黙って聞く。

 その黙り方は、拒絶ではない。

 受け止める黙り方だ。

 だが、受け止めただけでは選べないことも、彼は知っている。


 メイリスは、最後の論点へ行く。

 ここが、彼女の本音に一番近い。


「第三に」


 声が、ほんの僅かに低くなる。

 低くなるのに、固くはならない。

 固くしきれない場所だ。


「私は……あなた様の人生を奪いたくない」


 奪う、という言葉が重い。

 彼女は“奪う”つもりがない。

 だからこそ、奪ってしまうことが怖い。


「あなた様が“生きる”ために辞めるなら」

「ここに縛ってはいけない」


 彼女の視線が、ふと机の端へ落ちる。

 そこに置かれた湯飲み。香草の匂い。生活の要素。

 戦場の幕屋に置かれた生活は、まだ馴染んでいない。


「あなた様は、ようやく檻の外へ行こうとしている」

「そこへ私が、別の檻を作ってしまったら」

「……私は、一生、この子に顔向けができません」


 ここでエミリアに触れる。

 “この子”と言う。

 名前では呼ばない。

 彼女にとって、エミリアは“名前”以上に、生活そのものだからだ。


 エルディオが、息を吸う。


「……檻だとは、思っていない」


 その声は、弱い。

 弱いのに、嘘ではない。


「ここに残るのは」

「償いでもない」

「責任でもない」


 言い切るほど強くない。

 だが、言葉は一つずつ、確かに置かれていく。


「……生きるためだ」


 メイリスは、そこで初めて視線を上げかける。

 上げかけて、止める。


 見れば、揺れる。

 揺れたら、彼の言葉に流される。

 流されたら、彼はまた誰かのために立ってしまう。


 だから、上げない。


「それでも、だめです」


 繰り返す。

 今度は、少しだけ強い。


 その強さは、拒絶の強さではない。

 防壁の強さだ。


 守りたいのは自分ではない。

 守りたいのは――彼の“選ぶ権利”だ。


 ここで、ほんの一箇所だけ、彼女の人間の声が漏れる。


「……怖いのです」


 声が、僅かに掠れる。

 掠れたことに、彼女自身が気づいてしまい、すぐに整えようとする。

 整えきれない。


「あなた様が、私たちを選んだ瞬間に」

「あなた様の周りの世界が、またあなたを引き裂こうとするのが」

「……私は、見たくありません」


 怖いのは、彼がここに残ることではない。

 残ることで、彼がまた壊れることだ。

 残ることで、彼が“英雄”としての責任を背負い直すことだ。

 その先で、彼が自分を嫌い直すことだ。


 メイリスは、息を吸い直し、いつもの声へ戻す。


「ですから――私は、選ばれません」


 その言い方が、あまりに痛い。

 選ばれません、は、選ばないではない。

 自分を“選択肢”から外す言い方だ。


 代替可能だと思っている人間の言葉。

 いなくなっても世界は回る、と知ってしまった人間の言葉。


 エルディオの喉が、微かに動く。

 何か言おうとして、言葉が見つからない。


 その沈黙に、エミリアが耐えきれなくなる。


 彼女は空気を読んでいる。

 読めないなりに、分かっている。

 大人たちが今、怖い話をしていること。

 自分の名前がさっきから直接呼ばれないこと。

 そして、母の声が少しだけ変だったこと。


 エミリアは、メイリスの袖を引く。

 強くは引かない。

 呼び戻す程度の、小さな力。


「……お母さん」


 メイリスが、反射でそちらを見る。

 その一瞬だけ、母の顔が出る。


 エミリアは、言葉を選ばない。

 選べない。

 子どもだから、選ばない。


「お母さん、行っちゃうの?」


 質問は柔らかいのに、残酷だった。


 行く、という言葉は、まだ決まっていない未来を、勝手に確定させる。

 でも子どもは、確定させるために言ったわけではない。

 ただ、怖かったのだ。

 母の声が“壁”になった瞬間に、母が遠くなる気がした。


 メイリスの喉が、一瞬だけ詰まる。


 謝らない。

 泣かない。

 けれど、返事の速度が遅れる。


 その遅れが、答えだった。


 エルディオが、静かに言う。


「……行かせない、とは言わない」


 メイリスの目が僅かに揺れる。


 エルディオは続ける。


「でも、置いていかない」

「それだけは――選ぶ」


 “父だから”と言わない。

 “責任だから”とも言わない。


 ただ、去らないという選択だけを置く。


 メイリスは、その言葉を受け取れない。

 受け取れば、彼の人生に自分が入り込む。

 入り込んだ瞬間、彼の“生き直し”が自分のせいになる。


 だから、彼女は拒む。


 拒むことで、彼を自由にしようとする。


 優しさが、防壁の形を取ってしまう。


 幕屋の中の沈黙が、重く落ちる。


 それは、言えない沈黙ではない。

 言わなければならない沈黙だ。


 そして、メイリスはその沈黙の中で、もう一度だけ、きっぱりと言った。


「……私は、あなた様を縛りません」


 縛らない、ではない。

 縛りません、だ。


 彼女自身を、言葉で縛る言い方。

 逃げ道を塞いでしまう言い方。


 それが、彼女の覚悟だった。


 ――この覚悟が、いちばん残酷なのは。

 縛られたくないのはエルディオなのに、

 縛ってしまっているのは、メイリス自身だということだった。


 ♢


 メイリスの「縛りません」が落ちたあと、幕屋の中に、ひとつ余計な静けさが増えた。


 静けさは音の欠如ではない。

 外では相変わらず報告の声が飛び、布が擦れ、誰かが駆けていく足音がする。湯気の匂いも残っている。地図の紙がわずかに反っているのも見える。


 それなのに、ここだけは、言葉の行き先を失っている。


 メイリスは、先ほどよりも背筋を伸ばしていた。

 彼女の「縛りません」は、相手に向けた宣言ではなく、自分に向けた誓いに近かったからだ。誓った瞬間、人は姿勢を整える。崩れないために。


 エミリアは、母の袖から手を離していない。

 離してはいけないわけではない。

 ただ、離す理由がない。


 大人たちの声の硬さを、彼女は肌で感じ取っていた。

 だから、動かない。

 動けば空気が変わってしまうと、分かっているふうに。


 エルディオは、手袋をしたままの手を膝の上で揃えた。

 指先の位置を微かに合わせ直す。

 癖だ。整える癖。

 整えたところで、整うものは少ない。


 彼は息を吸う。


 深呼吸ではない。

 強い決意を作るためでもない。


 ただ、言葉を出すための息。


 息を吸っただけで喉が乾いた。

 乾いた喉は、戦場では何度も経験してきた。

 だが今の乾きは、敵前の乾きとは違う。


 この乾きは、言葉が人を傷つけるかもしれないと知っている乾きだ。

 言えば形が決まる。決まれば戻れない。


 それでも、言わなければならない。


 エルディオは、メイリスを見る。


 今度は、目を逸らさない。

 彼女の視線が鎧の硬い部分に落ちていることも分かっている。

 目を合わせないことで、彼女が自分を守っていることも分かっている。


 守っているのは彼女自身ではない。

 自分の“選ぶ権利”だ。


 それが分かるからこそ、

 彼は、言い負かす形を取りたくなかった。


 彼女の理屈は正しい。

 正しいまま、傷になっている。


 だから、まずはそれを受け取る。


「……メイリス」


 名前は出る。

 再開したときと同じように、名だけが先に落ちる。

 けれど、今日はそれが“止めるスイッチ”にならない。


 彼は止めない。

 止まらずに、次へ進める。


 それだけで、少しだけ違う。


「君が正しいのは、分かる」


 声は低い。

 静かだ。

 誇らしさも、怒りも、含ませない。


 正しい、と言うのは負けを認めることではない。

 相手の世界を理解するための入口だ。


 メイリスの肩が、ほんの僅かに揺れた。

 揺れたのは動揺ではない。

 “正しい”と言われた瞬間、反論の足場が一瞬だけ消えるからだ。


 彼女はすぐに言葉を探そうとする。

「そうであるなら、なおさら」と続けようとする。

 その気配が、目線の動きに出る。


 だが、エルディオは遮らない。

 遮らないまま、先へ置く。


「責任を感じてほしくない、というのも」

「身分の差が、現実になるというのも」

「……僕が、別の檻を背負うことになるかもしれない、というのも」


 一つずつ、短く。


 説明しない。

 感情を重ねない。


 受け取っている、という事実だけを並べる。


「全部、分かる」


 分かる、という言葉は簡単だ。

 簡単だから嘘にもなる。


 だが、今の彼の「分かる」は、嘘ではない。


 彼は六年間、分からないまま立ってきた。

 分からないまま立ち続けることで、何かを守ってきた。

 そしてその結果――自分の中の“人としての部分”を、削り落としてきた。


 だから、分かると言えること自体が、彼にとっては痛い。


 メイリスは、唇をわずかに結ぶ。

 言いたいことがある。

 言うべきことがある。


 だが、エルディオの声が続く。


「……でも」


 その一語が、幕屋の空気を変える。


 正しさの先に、別の道があると示す言葉。

 反論ではない。

 選択の提示だ。


「僕は……戻れない」


 声は、少しだけ掠れた。

 彼が意図して掠らせたのではない。

 喉が乾いて、音が擦れただけだ。


 それが、余計に本音に聞こえる。


 メイリスの目が、ほんの僅かに上がる。

 上がりかけて、また落ちる。

 彼女は、受け止めてしまいそうになる自分を抑える。


 エルディオは、続ける。


「英雄に戻るのは、もう無理だ」


 “無理だ”は弱い言葉だ。

 剣を振る者が口にするには、あまりに頼りない。


 けれど、だから強い。


 無理だと言えるのは、

 無理を重ねて壊れかけた者だけだからだ。


 アインとミレイユは黙っている。

 二人はここで助け舟を出さない。

 これは、息子の言葉で終わらせるべき場面だと知っている。


 メイリスの指先が、僅かに動く。

 胸の前で重ねた手の指が、内側へ寄る。

 崩れないための仕草だ。


「……それでも」


 エルディオは言う。


 この“それでも”は、責任の言葉ではない。

 償いの言葉でもない。


 生存の言葉だ。


「生きる場所がいる」


 場所。

 人、ではなく。


 君が必要だ、と言わない。

 愛している、とも言わない。


 彼はまだ、それを言える段階にいない。

 言えば嘘になる。

 嘘にしたくない。


 だから、場所と言う。


 場所は、生活だ。

 生活は、続くものだ。


 続くことを恐れていた第六話の彼が、

 今ここで“続ける場所”を求めている。


 それは、夢を否定しないまま、夢から一歩だけ歩く言い方だった。


「だから」


 声が、ほんの少しだけ落ちる。

 強くするためではない。

 壊さないための落とし方。


「ここにいる」


 言い切る。


 残る、ではなく、いる。

 未来の宣言ではなく、現在の選択。


 メイリスが息を吸う。

 反論が来る。

「なら、別の場所がある」「あなたは戻れる」「あなたには国が――」

 そういう言葉が、彼女の中で立ち上がる。


 その立ち上がりを感じ取った瞬間。


 エルディオの視線が、ゆっくりと落ちた。


 エミリアへ。


 それは、演出ではない。

 説得の技術でもない。


 ただ、彼の目が勝手にそこへ落ちた。


 視線が落ちた瞬間、エミリアの身体が小さく固まる。

 固まるのは怖さではない。

「見られた」という認識だ。


 エミリアは、まだこの男を“何”と呼べばいいのか分からない。

 でも、あの日抱きしめられた温度は覚えている。

 覚えているのに、今日は距離がある。


 その距離のまま見られると、胸の奥がそわそわする。


 エルディオは、エミリアを見ながら言う。


 ここが、彼の決着だった。


「……置いていけない」


 “父”とは言わない。

 “娘”とも言わない。


 言えないから言わない。

 言った瞬間に役割になる。

 役割にしたくない。


 けれど、それ以上に重い言葉が、静かに落ちる。


 置いていけない。


 それは責任ではない。

 償いでもない。


 ただの、選択だ。


 去らない、という選択。

 逃げない、という選択。


 メイリスの表情が、ほんの僅かに揺れる。


 揺れるのは怒りではない。

 諦めでもない。


 彼女は、自分が今まで守ってきた線が、

 別の方向からそっと押されていることに気づく。


 彼の言葉は、彼女の正しさを否定していない。

 正しいまま、別の道を選ぶと言っている。


 正しさの上に立って、なお、去らないと言っている。


 それは、メイリスが最も恐れていた形だ。


 彼が自分の人生を選ぶ。

 そしてその選択の中に、自分たちが含まれてしまう。


 含まれてしまうのに、

 それが“責任”の形ではない。


 だからこそ、止めにくい。


 エルディオは視線を戻す。

 メイリスの目を、今度はきちんと見た。


「君が怖いのも、分かる」


 言葉が、少しだけ柔らかくなる。

 柔らかいのに、甘くない。


「僕も、怖い」


 怖い、という言葉を、彼が出す。

 それ自体が、変化だ。


 けれど、ここで詳しく語らない。

 語れば、また英雄の語りになる。


 だから、短く置く。


「続け方が分からない」


 続け方。

 父になる方法ではない。

 愛し方でもない。


 生活の続け方。


 彼は、続けていい夢かもしれないと思っていた。

 その夢を否定しないまま、

 続け方が分からないと言う。


 分からないと認めた上で、なお、ここにいると言う。


 それは、彼なりの“人として生きる”の形だった。


 メイリスが、反射で言い返しかける。


「……あなた様は――」


 しかし、その言葉は途中で止まる。


 止めたのはエルディオではない。

 メイリス自身だ。


 彼女は気づいてしまった。


 今、彼の言葉を論破することはできる。

 身分の差も、政治も、噂も、危険も、いくらでも並べられる。

 正しさで押し返すこともできる。


 だが、それをした瞬間、

 彼はまた“立つ”方へ戻ってしまう。


 正しさに従って立つ英雄へ。


 彼女が最も避けたい結末へ。


 エミリアが、小さく息を吸う。


 何か言いたいのではない。

 ただ、空気が苦しい。


 子どもは苦しい空気に長く耐えられない。

 それは弱さではなく、生き物としての正しさだ。


 メイリスは、エミリアの息を感じ取り、

 ほんの僅かに肩を落とした。


 壁の硬さが、少しだけ緩む。


 エルディオは、その緩みを逃さない。

 だからといって、押し込まない。


 彼はただ、最後に同じ言葉をもう一度だけ置く。


「……だから、ここにいる」


 同じ言葉。

 同じ温度。


 説得ではない。

 勝利でもない。


 ただの、差し出しだ。


 “自分の選択”を、相手の足元へそっと置く。

 拾うか拾わないかは、相手に委ねる。


 それが、彼にできる最大の誠実だった。


 幕屋の外で、角笛が鳴った。


 短い合図。

 現場が進む音。


 その音が、幕屋の中に落ちる。


 世界は止まらない。


 止まらない世界の中で、

 エルディオだけが、ほんの少しだけ前に進んだ。


 夢を否定せずに。

 それでも、目の前の温度を落とさないために。


 ♢


 幕屋の中の空気が、静かに落ち着いていく。


 誰かが勝ったわけではない。

 誰かが折れたわけでもない。


 ただ、選択が置かれたあとに残る、重さだけがそこにあった。


 アインは、しばらく黙っていた。

 地図を見るでもなく、書付を取るでもなく、ただ立っている。


 その姿勢は、指揮官のものだ。

 だが、今この沈黙を支えているのは、団長としての習慣ではない。


 父としての、覚悟だった。


 やがて、アインは短く息を吐く。

 溜息ではない。

 区切りをつけるための呼吸だ。


「……よし」


 その一言で、場の性質が変わる。


 裁定でも、許可でもない。

 “決断を受け取った”という合図。


「手続きを進める」


 感情を挟まない声。

 だが、それが一番、重い。


 書類。

 引き継ぎ。

 名の扱い。

 移住の認可。


 どれも、時間がかかる。

 どれも、戻れない痕跡を残す。


 それを「進める」と言うのは、

 迷いがないということではない。


 迷った末に、止まらないと決めた、という意味だ。


 エルディオは、何も言わない。

 感謝も、驚きも、言葉にしない。


 ここで何かを言えば、

 この決断を“親切”にしてしまう。


 アインは、それを望んでいない。


 ミレイユが、静かに一歩前に出る。


 声は低く、柔らかい。

 だが、涙は混ざらない。


「あなたが戻りたいと思った時」


 一拍置く。

 “戻る”という言葉を、慎重に選んでいる。


「戻れるように、“道”だけは残すわ」


 幸せを願う、とは言わない。

 無理をするな、とも言わない。


 道を残す。

 それは、選択肢を奪わないということだ。


 帰ってこい、ではない。

 帰らなくていい、とも言わない。


 選べるようにする。

 それが、母の愛だった。


 エルディオの喉が、わずかに動く。

 だが、声は出さない。


 出せば、感情が先に崩れる。


 アインが、続ける。


「名は……預かる」


 捨てる、とは言わない。

 守る、とも言わない。


 預かる。


 それは、今は使わないが、

 無かったことにもしない、という扱いだ。


「戻らないなら、それもいい」


 あまりにも、淡々とした言葉。


 だが、その淡々さの裏にあるのは、

 “息子の人生を、息子のものとして認める”という決断だ。


 縛らない。

 引き止めない。

 正しさを押し付けない。


 代わりに、

 現実の後始末を、全部引き受ける。


 それが、この家のやり方だった。


 ミレイユは、エルディオを見る。


 視線は、長くない。

 抱きしめるでも、微笑むでもない。


 ただ、確かめるように。


「準備は、こちらで整えるわ」


 衣食住。

 住民への説明。

 余計な噂の遮断。


 生活を始めるために必要な、

 面倒で、誰も感謝しない作業。


「あなたは……立ち直る必要はない」


 一瞬だけ、声が柔らかくなる。


「立ち続けなくていい」


 それ以上は言わない。


 “幸せになれ”と言えば、

 それは願いになってしまう。


 この場に必要なのは、願いではなく、許容だ。


 エルディオは、深く息を吸う。


 胸の奥で、何かがほどける音がする。

 完全ではない。

 だが、確かに一部が外れた。


 英雄の鎧ではない。

 息子としての、最後の緊張だ。


 アインは、視線をメイリスとエミリアへ向ける。


 その目は、評価の目ではない。

 選別の目でもない。


 “同じ現実に立つ者”を見る目だ。


「……守りは切る」


 短く、はっきり。


 それは冷たい言葉に聞こえる。

 だが、違う。


 過剰な庇護をしない、という宣言だ。


「だが、見捨てはしない」


 矛盾した二文。

 けれど、両立する。


 自立を認めることと、

 無関心になることは、違う。


 エミリアは、その会話の意味を完全には理解していない。

 だが、大人たちの声が、

 怒っていないことだけは分かる。


 だから、少しだけ安心している。


 ミレイユが、最後に言う。


「家は、あなたを手放すわ」


 手放す、という言葉を選ぶ。

 送り出す、ではない。

 追い出す、でもない。


「でも、無くすわけじゃない」


 それが、母の精一杯だった。


 幕屋の外で、また報告の声が上がる。

 布が揺れ、人が通る。


 世界は、変わらず進んでいる。


 だが、この瞬間だけは。


 アルヴェイン家が、

 英雄を失い、

 息子を手放し、

 それでも家であり続けることを選んだ、


 静かな別れの時間だった。


 エルディオは、何も言わない。


 言葉にすれば、軽くなる。


 だから、ただ立ち上がり、

 一度だけ、深く頭を下げた。


 団長としてではない。

 英雄としてでもない。


 息子として。


 それで、十分だった。


 ♢


 村に割り当てられた家は、外れにあった。


 焼け落ちた家々から少し距離を置いた場所。壁は残っているが、屋根の一部が欠け、戸は歪んでいる。誰かが長く暮らすための場所ではない。ただ、雨と風を避けるためだけの箱だ。


 扉を開けると、埃の匂いが立ち上がった。


 エルディオは、反射的に中を確認する。隅、梁、床。危険はない。敵も、罠もない。それが分かったあとで、ようやく一歩、踏み入れる。


 床に散らばる灰を、メイリスが無言で掃く。

 井戸水を汲み、布を濡らし、拭く。


 生活の動きだ。

 だが、慣れているのは彼女だけだった。


 エルディオは、薪を運ぶ。

 重さは問題ない。

 だが、どこに置けばいいのか、一瞬だけ迷う。


 置き場は、戦場にはなかった。

 整頓も、最適解も、ここでは意味を持たない。


 少し歪んだ壁に、剣を立てかける。


 それは、無意識だった。


 腰から外し、壁に預ける。

 いつもやってきた動作。

 終わったあとで、気づく。


 ――手が、離れていない。


 柄を握ったまま、ほんの一拍。

 力は入っていないのに、指がほどけない。


 離せばいい。

 ここで使う場面はない。


 分かっているのに、身体が追いつかない。


 その様子を、エミリアが見ていた。


 埃だらけの床にしゃがみ込み、剣を見上げる。

 興味と警戒が半分ずつ混じった顔。


「……これ、なに?」


 短い問い。

 無邪気だが、軽くはない。


 エルディオは、答えられない。


 剣だ、と言えば終わる。

 武器だ、と言えばもっと簡単だ。


 だが、それは彼自身の説明になる。

 今の自分に、まだその言葉を使う準備がない。


 沈黙の中で、彼は剣を壁から少しだけ離した。


 倒れない位置。

 だが、すぐ手が届く距離ではない。


 ほんの数歩分。

 それだけ遠ざける。


 エミリアは、それを見て何も言わなかった。

 ただ、少しだけ安心したように、床に戻る。


 粗末な寝具が並べられる。

 藁の匂い。

 硬い感触。


 贅沢はない。

 だが、夜は越えられる。


 メイリスが火を起こす。

 小さな炎が、壁に影を落とす。


 エルディオは、その影を見る。


 剣の影。

 人の影。

 揺れて、重なって、離れる。


 ここから始まる生活は、まだ形を持たない。

 安心とも、不安とも言い切れない。


 ただ、続いてしまう現実だけがある。


 英雄を辞めた。

 だが、剣はまだ近くにある。


 温度は、確かに続く。

 ――続け方だけが、まだない。


ここまで読んで下さり、ありがとうございます。


英雄であることを降り、人として生きることを選ぶ――

それは決して綺麗な再出発ではなく、迷いと歪みを抱えたままの一歩です。

この章では、その「一歩」を、救いと同時に残酷さを含んだ形で描きました。


まだ安らぎはなく、答えも揃っていません。

ただ、確かに続いてしまう生活と、離せない過去があるだけです。


次話では、英雄の檻が外から再び迫る中で、

彼らがどのように「続け方」を探していくのかを描いていきます。

引き続き、見守っていただけたら嬉しいです。

評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

↑ページトップへ