表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
誰も救えない僕が、それでも魔王と生きる話  作者: 霜月ルイ
「  」編

この作品ページにはなろうチアーズプログラム参加に伴う広告が設置されています。詳細はこちら

107/142

107.残された者の選択-1


 朝の空気は、まだ冷えていた。


 仮設区域の端で、炊き出しの鍋から湯気が上がる。薄く白い蒸気が、朝の光に溶ける前に、すぐ別の匂いに押し流される。濡れた灰の匂い、乾ききらない布の匂い、煮込まれた麦の匂い。どれも生活の匂いなのに、どれひとつとして、ここに根づいていない。


 配給の列は、今日も同じ位置で詰まりかける。器を受け取る場所の少し手前。地面がわずかに窪んでいて、足を取られやすい。昨日も一昨日も、そこで一度、列が止まった。


 エルディオは、その様子を少し離れた場所から見ていた。


 鎧を着ている。完全武装ではないが、胸当てと肩の革はそのままだ。剣は腰に下げているが、手は触れない。抜く必要がないと分かっている。ここにいる人間は敵ではないし、守るために刃を立てる状況でもない。


 それでも、鎧だけが残っている。


 列の動きが視界に入るたび、彼の中で勝手に補正が走る。次に詰まる場所、転びやすい足元、泣いている子どもがぶつかりやすい角度。桶の置き方、器の受け渡しの間隔。ほんの一声出せば、流れは良くなる。


 だが、声は出さない。


 喉が詰まっているわけではない。言葉が見つからないわけでもない。ただ、出さないと決めている。


 指示を出さない。直さない。整えない。


 その小さな選択が、彼の中では意外なほど重かった。何もしないで立っていることが、こんなにも意識を使うとは思っていなかった。


 配給の器がぶつかる音が鳴る。係員の声が一定の高さで繰り返される。診療所の方から、布を裂く音と、短い指示が聞こえる。世界は、ちゃんと動いている。


 エルディオだけが、介入しない。


 列の端で、小さな影が動いた。


 エミリアだった。


 外套ではなく、少し大きめの上着を着せられている。袖が余っていて、手首が隠れそうになるのを、時々気にして引き上げる。その仕草が、まだ慣れていない生活をそのまま表していた。


 エミリアは、エルディオの方を見る。


 すぐに駆け寄っては来ない。昨日までの距離より、ほんの少しだけ遠い。近づきたいのに、どう近づけばいいのか分からないときの立ち方だ。


 彼女は一歩だけ前に出て、また止まる。


 エルディオは動かない。


 手を伸ばすこともしない。声をかけることもしない。ただ、視線を外さずに、そこにいる。


 エミリアは、その視線を確かめるように見返してから、足元の石を一つ蹴った。石は短く跳ねて、すぐ止まる。その音に、エミリア自身が少し驚いて、口を閉じる。


 その後ろで、メイリスが様子を見ていた。


 呼ばない。促さない。行きなさいとも、離れなさいとも言わない。ただ、エミリアが選ぶ距離を、そのまま許している。


 エミリアはもう一度だけエルディオを見ると、今度は配給の鍋の方へ視線を移した。湯気に興味を引かれたらしい。小さな手で上着の裾を握り、メイリスの方へ戻る。


 エルディオは、それを見送る。


 胸の奥で、何かが動く気配はある。だが、それに名前をつけない。つければ、また別の役割が生まれる。


 彼は、鎧の重さをそのまま受け止めながら、仮設区域に立ち続ける。


 逃げない。だが、踏み込まない。


 生活の音の中で、異物のまま。



 指揮幕屋の前は、いつも人の出入りが途切れない。


 布を押さえて中に入る兵、報告を終えてすぐに出ていく騎士、書付を抱えた伝令。足音は重なり、声は低く、短い。ここでは感情は余分だ。必要なのは情報と判断、それだけでいい。


 エルディオは、その入口の前で一度だけ立ち止まった。


 呼び出されたのは自分だ。理由も、だいたい分かっている。分かっているからこそ、足が止まる。


 鎧の留め具が、わずかに鳴った。


 それが、やけに大きく聞こえる。


 布の向こうから、聞き慣れた声が飛ぶ。


「……入れ」


 アイン・アルヴェインの声だった。


 命令口調。

 疑問でも、促しでもない。


 それを聞いた瞬間、エルディオの背筋が、反射で伸びる。


 身体が、先に「団長」として応じようとする。呼吸が整い、視線が前を向く。返事をする準備まで整ってから――それが、今ここでは不要だと気づく。


 エルディオは、返事をしないまま、布を押した。


 幕屋の中は、整理されている。


 地図が机に広げられ、石と木片で配置が示されている。書付は束ねられ、端には赤い印。使いかけのインクと、乾ききらない羽根ペン。現場の空気だ。


 そこに、香草の匂いが混じっている。


 ほんの微かに。

 湯気に乗って、甘さと苦みが入り交じった匂い。


 ミレイユの湯だった。


 戦場の幕屋には似つかわしくない匂いが、確かにそこにある。だが、完全に場を変えるほど強くはない。主張しないように、置かれている。


 混ざれないまま、同じ空間にある。


 それが、この幕屋だった。


 アインは机の向こうに立っている。鎧は外しているが、姿勢はそのままだ。背筋が伸び、視線は鋭い。地図から顔を上げると、エルディオを見た。


 見た、というより、確認した。


 無事か。

 立っているか。

 崩れていないか。


 そういう種類の視線だ。


 ミレイユは、机の横に椅子を置いて座っていた。手には湯飲み。もう一つ、向かいの椅子の前にも湯が置かれている。


 エルディオは、その椅子を見る。


 座る位置だ。


 団長としてなら、立ったまま報告する。

 父の前でも、現場ならそれが正しい。


 だが、これは呼び出しだ。

 指揮ではない。

 裁定でもない。


 ――話し合い、だ。


 その事実が、喉の奥を締めつける。


 座るという行為が、怖い。


 座れば、視線の高さが揃う。

 揃ってしまえば、もう「上官と部下」ではいられない。


 エルディオは、椅子の前で一瞬だけ立ち尽くす。


 その迷いを見て、アインが口を開いた。


「……座れ」


 短い。

 いつもの命令と同じ調子。


 だが、その声には、急かす鋭さがなかった。待てる声だ。息子が選ぶまで、少しだけ待つ声。


 それでも、命令口調なのが、痛い。


 父に戻りきれていない。

 団長をやめきれていない。


 アイン自身も、その境目に立っている。


 エルディオは、鎧の重さを感じながら、椅子に腰を下ろした。


 座った瞬間、視界が変わる。

 机が近くなる。

 湯の匂いが、はっきりする。


 生活の距離だ。


 ミレイユが、静かに口を開く。


「無理に言葉を探さなくていいわ」


 声は柔らかい。

 だが、甘やかす調子ではない。


「今日は、答え合わせをする日じゃないもの」


 “今日は”という言葉が、すべてを含んでいた。


 これが初めての違和感ではないこと。

 昨日今日の出来事ではないこと。

 そして――いずれ来ると、分かっていた日だということ。


 エルディオは、湯飲みに手を伸ばす。

 だが、持ち上げる前に止める。


 震えてはいない。

 ただ、飲むという行為に、理由が見つからない。


 アインが、机の端に手を置く。


「……数日前から、兵の配置を少しずつ替えている」


 説明ではない。

 報告でもない。


 事実の提示だ。


「お前がいなくても回るように、な」


 エルディオの胸の奥で、何かが静かに落ちる。


 驚きではない。

 裏切りでもない。


 ――やはり、だ。


 ミレイユは、湯飲みをそっと置いた。


「覚悟していなかった、なんて言わないわ」


 視線は、エルディオから外さない。


「あなたが、この幕屋に“息子として”座る日が来ることを」


 その言葉に、エルディオの指が、わずかに強張る。


 団長としてではなく。

 英雄としてでもなく。


 息子として。


 その席が、こんなにも重いとは、思っていなかった。


 幕屋の外では、また報告の声が上がる。

 布が揺れ、人が通る。


 現場は、動き続けている。


 その中で、ここだけが、ほんの一拍、違う時間を流していた。


 アインとミレイユは、急がない。


 問いを投げない。

 結論を迫らない。


 すでに分かっている者たちの沈黙が、そこにあった。


 エルディオは、まだ何も言っていない。


 だが、この席に座ってしまった時点で、

 彼の人生は、もう少しだけ、別の方向へ傾き始めていた。



 湯気が、まだ消えていなかった。


 香草の匂いが、指揮幕屋の空気に薄く残っている。外の冷えが布越しに入り込み、湯の温度との差が、皮膚にじわりと分かる。


 エルディオは、湯飲みには触れなかった。


 手袋は外さない。

 膝の上に置いた両手は、きちんと揃っている。


 姿勢は崩れていない。

 だが、視線だけが上がらない。


 机の上の地図。

 石で示された配置。

 赤い印。


 どれも、見慣れたものだ。

 それらを見ている限り、自分はまだ“団長”でいられる。


 顔を上げれば、

 父と母の目がある。


 その目を受け取る準備が、

 まだできていなかった。


 沈黙が続く。


 短くはない。

 だが、長すぎもしない。


 誰も急がない。


 エルディオの喉が、わずかに鳴る。


 乾いている。

 唾を飲み込もうとして、飲み込めない。


 それでも、言葉は出す。


 選んだ言葉は、短い。


「……直轄を」


 一度、切れる。


 声が震えたわけではない。

 言葉が詰まったのでもない。


 ただ、次に続く音が、少しだけ重い。


「……辞めたい」


 懇願ではない。

 問いでもない。


 報告だった。


 そこに、感情は乗せない。

 乗せれば、理由を語らなければならなくなる。


 理由を語れば、

 きっと、言葉が多くなる。


 多くなった言葉は、

 どれかが嘘になる。


 それを、彼は避けた。


 アインは、すぐには反応しない。


 眉も動かさない。

 声も出さない。


 ただ、机の端に置いていた指が、ほんのわずかに動いた。


 それだけで、

 彼が聞き取ったことが分かる。


 ミレイユは、一瞬だけ息を吸った。


 音にならない吸気。

 胸が僅かに持ち上がる。


 驚きではない。

 落胆でもない。


 “来た”という、静かな確認。


 アインが口を開く。


「理由は?」


 短い。

 感情が削ぎ落とされた声。


 詰問ではない。

 却下でもない。


 事務的な確認だ。


 エルディオは、答えを用意していない。


 用意しなかった。


 理由を並べれば、

 正当性を証明しなければならなくなる。


 正当性は、戦場では必要だ。

 だが、人生では――それが、逃げになることがある。


 彼は、視線を地図から外さない。


「……ここに、残る」


 それだけ言った。


 どこに、とは言わない。

 誰と、も言わない。


 説明を削った言葉は、

 かえって、逃げ場を消す。


 ミレイユは、頷いた。


 即座に。

 迷いなく。


「そう」


 それだけ。


 同意でも、賛成でもない。

 理解の音だ。


 アインは、目を伏せた。


 一瞬だけ。

 ほんの一瞬。


 父としての顔が、そこに出る。


 だが、すぐに戻す。


「……直轄を外れるというのは」


 言いかけて、止める。


 説明を始めれば、

 この場が“説得”になる。


 説得は、必要ない。


 アインは、視線をエルディオに戻した。


「……承知した」


 その言葉は、早かった。


 躊躇がない。

 条件も付かない。


 拒絶を想定していたエルディオの中で、

 わずかなズレが生じる。


 それを口に出す前に、

 アインが続ける。


「直轄は、代替が利く」


 淡々と。


「お前がいなくても、回るようにしてきた」


 それは慰めではない。

 突き放しでもない。


 事実だ。


 英雄でなくても、

 組織は動く。


 それを、父は最初から分かっていた。


 ミレイユが、静かに言う。


「……あなたが、戻れなくなる前に言えてよかったわ」


 “戻れなくなる”という言葉が、

 胸に、静かに沈む。


 エルディオは、ようやく湯飲みに触れた。


 持ち上げない。

 触れただけだ。


 まだ、温かい。


 その温度が、

 自分が今、どこに座っているのかを、

 はっきりと教えてくる。


 団長の席ではない。

 英雄の席でもない。


 息子の席だ。


 そして――

 それを、逃げずに選んだことだけは、

 もう、取り消せなかった。



 アインは、すぐには言葉を続けなかった。


 地図の端に置かれた文鎮を、親指で僅かに動かす。

 音はしない。

 だが、その動きが、場を整える。


 団長としての癖だ。

 場を落ち着かせ、次に進めるための、小さな合図。


 それが、今は――父のために使われている。


「……分かった」


 低く、短い。


 即答だった。


 エルディオは、顔を上げられない。


 あまりにも、早い。

 拒まれる準備はしていた。

 条件を突きつけられる覚悟もしていた。


 だが、

 止められないのではなく、

 止めないと決めていた声だった。


 その違いが、

 胸の奥で、重く響く。


 沈黙が落ちる。


 今度は、エルディオが言葉を失っている。


 アインは、その沈黙を責めない。

 沈黙を“否定”と受け取らない。


 むしろ、待つ。


 待つ、という選択を、

 この父は、もう覚えていた。


「……直轄の団長を失うことを、惜しまないわけじゃない」


 そう前置きして、

 アインは視線を上げる。


 だが、その視線は、

 英雄を見る目ではなかった。


 息子を見る目だ。


「だがな、エルディオ」


 一拍。


「俺は、“団長が立ち続ける姿”より」

「……“息子が生きている姿”を選ぶ」


 それは、戦場で使う言葉ではない。

 統率の言葉でもない。


 ただの、本音だ。


 ミレイユの手が、湯飲みに触れる。


 湯を注ごうとして、

 ほんの一瞬だけ、止まる。


 音がないほどの停止。

 だが、確かに止まった。


 湯気が、その場に溜まる。


 彼女は、顔を上げない。

 笑わない。

 泣かない。


 それでも、

 その手の止まり方だけで、

 どれだけの感情が押し留められているかが分かる。


「……失うものが、多すぎたのよ」


 ミレイユの声は、静かだった。

 責める調子ではない。

 嘆く声でもない。


 事実を、並べる声だ。


「リィナを失って」

「……シャルロットを失って」

「……そして、メイリスを、送り出した」


 名前を出すたびに、

 空気が一段、重くなる。


 けれど彼女は、

 言葉を止めない。


 止めれば、

 それらが“なかったこと”になるからだ。


「それでもあなたは、立ち続けた」

「立たなければならない場所で」

「誰よりも、立っていた」


 湯飲みに、ようやく湯が注がれる。

 音は小さい。


「……もう十分よ」


 その一言が、

 胸に深く沈む。


「これ以上、“立つ理由”を増やさなくていい」

「これ以上、“役割”であなたを縛らなくていい」


 ミレイユは、ようやくエルディオを見る。


 母の目だ。


 だが、縋る目ではない。


「次は、“生きる”方へ行きなさい」


 命令ではない。

 願いでもない。


 許しだ。


 エルディオの喉が、震える。


 だが、声は出ない。


 出せば、

 何かが崩れる。


 アインは、その様子を黙って見てから、続ける。


「止めない」


 もう一度、はっきりと。


「お前が戻る場所を作るのが、俺たちの役目だ」


 それは、

 帰還命令ではない。


 逃げ道でもない。


 “戻らなくていい場所”を、

 あらかじめ用意するという覚悟だった。


 エルディオは、ようやく小さく息を吸う。


 それだけで、

 胸が詰まる。


 アインは、少しだけ声を落とした。


「……ただし」


 その一語で、

 空気が変わる。


 責めではない。

 条件でもない。


 確認だ。


 父が、父としてではなく、

 “境界を見据える者”として口にする言葉。


「直轄を辞めるというのはな」

「肩書きを外すだけじゃない」


 エルディオは、反射で背筋を伸ばす。


 それが、まだ残っている癖だと、

 自分で分かる。


「民は、お前を“英雄”として見ている」

「助けてくれる者」

「立ち続ける者」

「壊れない者」


 一つずつ、

 静かに並べる。


「それを、手放す覚悟はあるのか」


 問いは、柔らかい。

 だが、重い。


「逃げる、と言われるかもしれない」

「期待を裏切った、と言われるかもしれない」

「……それでもか」


 エルディオの喉が、動く。


 だが、すぐには答えられない。


 言葉がない。

 否定も、肯定も、形にならない。


 “英雄”であることは、

 檻だった。


 だが同時に、

 彼を支えていた柱でもあった。


 それを失えば、

 何が残るのか。


 まだ、分からない。


 ミレイユは、助け舟を出さない。


 ここは、息子が選ぶ場所だと、

 分かっているからだ。


 エルディオは、

 一度だけ、目を閉じる。


 シャルロットの声が、

 脳裏を掠める。


――人として、生きて。


 それだけを残して、

 消えた声。


 目を開ける。


 そして、ゆっくりと――

 頷く。


 即答ではない。

 力強くもない。


 遅い頷きだ。


 だが、

 逃げていない頷きだった。


 アインは、それを見て、

 小さく息を吐く。


「……よし」


 それだけ。


 叱責も、称賛もない。


 だが、その一言は、

 団長への許可ではなかった。


 息子への、

 通行証だった。


 ここから先は、

 誰の英雄でもない。


 残された者として、

 自分の人生を選ぶ――


 その覚悟を、

 確かに受け取ったという合図だった。


 アインは、言葉を区切るように、地図から視線を外した。


 今度は、団長でも父でもない。

 “家の主”としての顔だった。


「条件がある」


 声は低く、淡々としている。

 だが、それは拒絶の前置きではない。

 現実を、現実として置くための言い方だった。


「直轄を辞めるだけでは済まない」


 エルディオは、黙って聞く。

 手袋は外さない。

 膝の上に置いたまま、指先も動かさない。


「お前が捨てるのは、役職だけじゃない」

「“アルヴェイン”という名の扱いも含まれる」


 名。


 それは、剣よりも重いものだ。

 守ってくれる代わりに、縛るもの。

 命を救う代わりに、人生を削るもの。


「選択肢は三つある」


 アインは指を折らない。

 数えない。

 ただ、言葉として並べる。


「完全に放棄する」

「名だけを残し、隠居として扱う」

「あるいは、籍を残したまま、表舞台から退く」


 どれも、軽い選択ではない。


 完全放棄なら、守られない。

 隠居なら、干渉される。

 籍を残せば、いつでも引き戻される。


 アインは、エルディオを見る。


「名を捨てるなら、守られない」

「誰も、お前を英雄として扱わない」

「助ける義務も、守る義理もない」


 それは脅しではない。

 確認だ。


 エルディオは、一拍置いて答える。


「……それでいい」


 即答だった。

 迷いのない声ではない。

 だが、逃げてもいない。


「守られないなら」

「……自分で、守る」


 それ以上、言葉を足さない。

 理由も、決意も、説明しない。


 それで十分だった。


 ミレイユの喉が、わずかに鳴る。


 湯飲みを持つ手が、また一瞬だけ止まる。

 さっきより、ほんの少しだけ長い停止。


「……怖いわ」


 ぽつり、と落ちる。


「名がなければ、理不尽も向けられる」

「助けを求める声は、届きにくくなる」

「あなた一人なら、まだしも……」


 そこで、言葉が途切れる。


 “二人”の存在を、言わない。

 言わなくても、分かっている。


 ミレイユは、ゆっくりと湯を注ぎ切る。

 溢れさせない。

 溢れそうなのは、湯ではないのに。


「……それでも」


 一度、目を伏せてから、顔を上げる。


「あなたが“守る側”になるなら」

「名よりも、肩書きよりも」

「その覚悟を、私は信じたい」


 涙は落ちない。

 声も震えない。


 だが、目の奥に溜まったものが、

 決して軽くないことは、はっきり分かる。


 アインは、小さく頷く。


「辺境への移住は、公的に認めさせる」

「逃亡にはしない」

「退いたのだと、記録に残す」


 それは、庇護ではない。

 だが、最低限の盾だ。


「直轄の引き継ぎは、俺が責任を持つ」

「空白は作らない」

「お前が抜けたあとも、現場は回る」


 それが、

 “息子を行かせる”ために、

 父が背負う役割だった。


 エルディオは、深く息を吸う。


 胸の奥で、何かが確かに動いた。


 夢ではない。

 逃避でもない。


 名を捨て、

 役職を降り、

 守られない場所へ行く。


 それを、

 両親がここまで受け入れる。


 それが、どれほど重いかを、

 彼は、ようやく理解し始めていた。


 選択は、もう後戻りできない。


 だからこそ――

 ここからが、本当の始まりだった。



 同じ幕屋に、人が揃う。


 それだけのことなのに、空気の質が変わった。


 地図と書付がそのままの机。

 片付けられていない椅子。

 湯の香りが、まだわずかに残っている。


 そこへ、メイリスが入ってくる。


 外套は外している。

 だが、姿勢は変わらない。

 一歩分の距離を意識し、誰の邪魔にもならない位置で立つ。


 そのすぐ隣に、エミリアがいる。


 手を引かれているわけではない。

 抱かれているわけでもない。


 自分の足で立っている。


 それが、この場においては重かった。


 子どもが“同席している”という事実が、

 この話し合いを、ただの大人の決定から引きずり下ろす。


 エルディオは、無意識に視線を動かしてしまう。


 エミリアを見る。


 名前は知っている。

 だが、呼び方がない。


 「お前」とは言えない。

 「この子」でも、もう足りない。

 けれど、「娘」と呼ぶ場所に、自分はまだ立っていない。


 視線が迷った、その一瞬。


 メイリスの肩が、ほんの僅かに硬くなる。


 見逃すほどの変化ではない。

 だが、彼女自身は分かっている。


 ――来る。


 エルディオが、子どもを見る目をしている。

 名前を探している。

 居場所を、勝手に結びつけようとしている。


 それを、許さない。


 許してしまえば、

 この人は“責任”という名の鎖を、自分に巻く。


 それだけは、させない。


 沈黙が落ちる。


 第六話の沈黙とは違う。


 あのときは、言えない沈黙だった。

 今は、言わなければならない沈黙だ。


 アインが、低く言う。


「……話は通してある」


 主語を省いた言い方。

 誰が誰に、何を、とは言わない。


 だが、その省略が意味する重さを、

 メイリスはすぐに理解する。


 視線が、一瞬だけエルディオへ向く。


 確認ではない。

 予感だ。


 エミリアは、何も分からないまま、幕屋の中を見回している。


 大人の顔。

 声の高さ。

 空気の張り。


 それらを「怖い」とは感じていない。

 だが、「いつもと違う」ことは、ちゃんと分かっている。


 だから、黙っている。


 それができる子だ。



 エルディオは、深く息を吸った。


 言葉を整えるためではない。

 逃げないための呼吸だ。


「……ここに、残る」


 声は静かだった。

 震えも、力みもない。


 報告ではない。

 懇願でもない。


 “選択”として置かれる言葉。


「直轄を辞める」

「貴族を降りる」


 一つずつ、区切る。


「……そして」

「二人と、暮らしたい」


 その瞬間。


 メイリスの中で、何かがはっきりと起動した。


 否定ではない。

 怒りでもない。


 防衛だ。


「――だめです」


 即答だった。


 間を挟まない。

 考える余地を与えない。


「それは、できません」


 声は低く、落ち着いている。

 だが、譲る余白がない。


 エルディオは、目を伏せたまま聞く。


 反論しない。

 遮らない。


 彼女が言う理由を、すでに知っているからだ。


「あなた様は」

「これ以上、責任を増やすべきではありません」


 “父だから”とは言わない。

 彼女は、その言葉を使わない。


「身分が違います」

「生きてきた場所も、背負っているものも違いすぎる」


 正論だ。

 誰が聞いても、否定しづらい。


「あなた様の人生を」

「私と、この子のために、奪いたくありません」


 そこで、初めてエミリアの頭に手を置く。


 抱き寄せない。

 引き寄せない。


 “線を引く”ための接触。


 エミリアは、母の手の意味を察している。

 だから、動かない。


 エルディオは、ゆっくりと顔を上げる。


 メイリスを見る。


 初めて、まっすぐに見る。


「……奪われる、とは思っていない」


 言い返さない。

 説得しない。


 ただ、自分の立っている場所を示す。


「逃げるつもりもない」

「責任を、取りたいわけでもない」


 ここで、一拍。


 言葉を選ぶ。


「……生きたい」


 短い。

 だが、重い。


「英雄として、じゃない」

「団長としてでもない」


 視線が、もう一度エミリアへ向く。

 今度は、逃げない。


「人として」


 それだけで、十分だった。


 メイリスの表情が、僅かに揺れる。


 揺れるが、崩れない。


「……それは、あなた様の選択ではありません」


 静かな反論。


「あなた様は」

「多くの人に、望まれて生きてきた」


 民。

 兵。

 国。


 言葉にしなくても、分かる。


「その期待から降りることは」

「誰かを、失望させることでもあります」


 エルディオは、否定しない。


 否定できないからだ。


 だが、そこで初めて、

 視線を落とし、息を吸って、言う。


「……『人として生きて』って」


 それだけ。


 誰が言ったかも、

 いつ言われたかも、

 なぜかも、説明しない。


 その一言で、十分だった。


 シャルロットの遺言は、

 免罪符ではない。


 選択の“根”だ。


 メイリスは、言葉を失う。


 失うが、泣かない。


 エミリアが、二人を交互に見る。


 何が決まろうとしているのかは分からない。

 けれど、自分が“置いていかれる話ではない”ことだけは、

 なぜか、直感で分かっている。


 エルディオは、最後にこう言った。


「……置いていかない」

「どちらも」


 “父だから”とは言わない。

 言えないし、言えば嘘になる。


 ただ、

 去らない。

 逃げない。


 それだけを、選ぶ。


 幕屋の中に、重い沈黙が落ちる。


 だがそれは、

 もはや、逃げの沈黙ではなかった。


 誰かが選ばなければならない沈黙だ。


 ――残された者の選択が、

 ここから始まる。



ここまで読んでくださって、ありがとうございました。


数日前の出来事は、誰かの心を救ったのではなく、ただ「生活」という形でそこに残り続けます。音も匂いも、距離も、呼び方も――消えないまま、薄い布一枚の向こうで世界だけが進んでいく。

エルが選んだのは、立ち続ける強さではなく、立たなくてもいい場所へ向かう弱さでした。けれどその弱さは、逃げではなく、残された者が生き直すための決断です。


次話は、この沈黙の続きです。

言葉にしてしまえば壊れるもの、言葉にしなければ守れないもの。その間で、彼らが何を選ぶのかを描いていきます。

評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

↑ページトップへ