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誰も救えない僕が、それでも魔王と生きる話  作者: 霜月ルイ
喪失編

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105/142

105.帰るべきではなかった土地

 

 アルヴェイン辺境伯領、南部。

 その文字は、口に出すためのものではなかった。命令書の上に印刷され、押印欄と日付欄に収まり、伝令の手からエルディオ・アルヴェインの手へ渡り、次の手順を開始させるためのものだ。


 机は硬い。木肌に残った浅い傷が、紙を置くたびに指先へ引っかかりを返す。蝋燭は短く、火は風に揺れて、影が一度だけ大きく伸びる。影が伸びても、部屋の空気は変わらない。会議室の空気は、常に処理のために整えられている。


 伝令が膝をつく。頭を下げる角度は適切で、視線は机の縁に固定されている。感情を見せないためではない。規則だからだ。規則はここでは人間の余計を削る。


「アルヴェイン辺境伯領、南部で魔族の進行。特務として派遣要請が――」


 声は事務的だった。

「アルヴェイン」を強調しない。辺境伯領が誰の領地であるかを、語り手が意識しないことが正しい。ここにあるのは軍務で、家ではない。家を持ち込めば命令が濁る。濁りは遅れになる。


 紙の端が揃えられ、差し出される。

 命令書。押印。地図。付属の被害報告。補給の見積もり。同行者名簿。

 束は薄い。薄いのは状況がまだ“確定”していないからだ。確定していないものは紙に載らない。載らないものは現場が埋める。


 エルディオは受け取る。

 指先が紙の縁に触れる。乾いた感触。油の匂い。インクの匂い。血の匂いとは違うが、同じように乾いている。乾いている匂いは判断を鈍らせない。


 視線を落とす。読む。

 地図に赤い線。黒い印。進行方向。被害推定。避難経路。

 村落名はまだ列挙されていない。列挙されていないのは把握できていないのではなく、把握がまだ“提出”されていないからだ。


 上官は椅子から立たない。机越しに紙を見ない。

 その距離が、彼の仕事を示している。決める者は近づかない。近づかないことで迷いを持ち込まない。


「損害を止めろ。村落を守れ。以上」


 短い。余計な形容がない。

 励ましも、罵倒も、祈りもない。必要な指示だけが残されている。


 エルディオの胃の奥が、わずかに沈む。


 胸ではない。

 胸が痛むのは感情だ。感情と呼べるものを、彼はこの場に持ち込まない。

 沈んだのは内臓の重さのようなものだった。落ちるというより位置がずれる。ほんの一拍だけ、身体の中心がずれる。


 だが、そのずれを“何か”と名づけない。

 名づければ、そこから先が生まれる。生まれたものは処理を遅らせる。


 エルディオは紙を机に置き、押印欄を見る。

 印の並び。発令部門。作戦部。補給部。最後に現地指揮の承認。

 自分の印が落ちる位置は、いつも同じだ。


 印章を取る。

 木の柄。金属の面。握りやすい削り。使い慣れた形。

 押す。


 赤が空白を埋める。

 滲みは誰の感情も映さない。次の工程へ進めるという記号だけが残る。


「……承知」


 声は低く、短い。

 返事は意思表示ではなく、処理の完了通知だ。受領した。理解した。遂行する。

 それ以上を言う工程はない。


 上官が頷く。頷きは小さい。

 命令が流れたことを確認するだけの動き。


「同行は――」


 伝令が名簿を差し出す。

 エルディオはそこに目を走らせる。人数。役割。医療係。記録係。斥候。

 必要な要素だけを拾う。拾った瞬間、頭の中で隊列が組み上がる。組み上がるのは癖ではなく、習慣になった手順だ。


「補給は、現地で調整か」


 上官が言う。質問ではない。条件の確認だ。


「……現地で。矢と油、包帯は前倒しで」


 要求は具体で、余計がない。

 “心構え”などという曖昧なものは挟まれない。挟めば現場が困る。


 伝令が頷き、書類の束を抱える。

 その束は、すぐ別の机へ回される。押印の順番に沿って流れ、補給が動き、馬が出る。人が動く。村へ届く。魔族へ届く。

 すべてが紙の上の線から始まる。


 エルディオは立ち上がる。

 椅子は音を立てない。立てないようにしたのではない。音が立つ必要がないだけだ。

 腰の位置を正し、手袋の縁を整える。鎧を着けていないのに、整える動作は同じ場所を通る。整える場所が決まっていることが、三年の証明だった。


 扉へ向かう。

 取手に触れる。冷たい金属。温度を判断しない。触れた。開ける。それだけだ。


 背後で上官が次の書類に視線を落とす気配がする。

 この命令も他の命令と同じように処理され、次へ流れていく。特別ではない。特別扱いをする工程がない。


 廊下の空気は少し冷えている。

 外は明るいか暗いかの境目だった。誰かの靴音が遠い。金属が擦れる音が一つ。どれも彼にとっては開始の合図だ。


 胃の奥の沈みは、名づけられないまま静かに収まっている。

 収まったのは癒えたからではない。処理が優先されたからだ。優先されたものは残らない。残らないように手順ができている。


 エルディオ・アルヴェインは歩く。

「アルヴェイン辺境伯領」という文字を、任務地点として扱い、紙の上の線として扱い、そこへ向かうための工程に落とし込む。


 帰省ではない。派遣だ。

 その区別だけが、彼を動かす。


 ♢


 乾いた風が、列の前を横切った。


 湿り気はない。砂と土の匂いが混じり、鼻の奥に薄く残る。草は低く、色は鈍い緑だ。踏みしめれば音が出る。柔らかさはなく、靴底に返ってくる感触は一定で、無駄に沈まない。


 進軍には向いている。

 それだけの条件が、最初に頭へ入る。


 エルディオ・アルヴェインは視線を遠くへ投げる。

 山影が見える。低く連なっている。稜線は滑らかで、切り立ってはいない。風が抜ける形だ。煙が上がれば、あの方向へ流れる。流れるなら潜伏地点はその逆側になる。


 評価はしない。

 美しいとも、懐かしいとも呼ばない。


 ただ、条件として処理する。


 蹄鉄の音が乾いた道に響く。

 一定の間隔。馬の歩幅が揃っている。車輪の軋みが、その後ろに続く。荷は軽すぎず重すぎない。補給の量は適切だ。進軍速度を落とす要因はない。


 道が緩やかに曲がる。


 その曲がり角を、エルディオは知っていた。


 知っている、という言葉を使う前に身体が反応する。

 視線が先に動き、足の運びが自然に内側へ寄る。列の位置が無意識に調整される。誰かに指示を出したわけではない。出す必要がなかった。


 この先は道幅が少しだけ狭くなる。

 馬が並走できなくなる箇所がある。だから速度を落とす。落とさなければ後ろが詰まる。

 そういう判断が、思考として立ち上がる前に終わっている。


 同行の騎士が周囲を見回しながら口を開いた。


「……ここが、辺境伯領ですか」


 声には感慨が混じりかけている。

 だが混じりきる前に、エルディオの返答が落ちる。


「地図通りだ」


 それ以上でも、それ以下でもない。


 地図通り。

 線の通り。起伏の通り。距離の通り。


 風がもう一度吹く。

 乾いている。だが、どこかで焦げた匂いが混じる。強くはない。注意しなければ流してしまう程度だ。だが無視するには足りない。


 エルディオは風向きを確認する。

 煙が上がっているとすれば、まだ遠い。村はまだ見えない。


 土の色がわずかに変わる。

 踏み固められた跡が増える。車輪の溝が深い。往来があった証拠だ。最近まで人が行き来していた。

 最近、という判断も感情ではない。土の乾きと崩れ方の比率から出た結論だ。


「……進軍速度、維持」


 短い指示が落ちる。

 誰も異を唱えない。ここでは、その判断が正しいと全員が理解している。


 道の脇に石積みが見える。

 低い壁。崩れかけているが修復の跡が新しい。誰かがここを守ろうとした痕跡だ。守ろうとした、という評価はしない。修復された時期を推測するだけだ。


 数ヶ月以内。

 それ以上前なら、ここまで形は残らない。


 同行者の誰かが何か言いかけて、やめる。

 村の名が喉まで上がった気配がある。だが言葉にならない。

 言葉にしなかったのは慎重さではない。空気が、それを許さなかった。


 前方に別の隊列が見える。

 旗印。配置。速度。


 辺境伯領主直属の部隊だ。


 合流地点は自然に分かる。

 道が広がり、視界が開ける。合流に適した地形。昔から変わらない。

 ――変わっていない、という判断も口には出さない。


 隊が止まる。

 合流の手順が始まる。


 相手の隊列の先頭に騎士が立っている。

 鎧は実用本位。装飾は少ない。だが姿勢が崩れていない。

 剣の位置。歩き方。視線の置き方。


 アイン・アルヴェインだ。


 辺境伯領主であり、騎士として前線に立つ男。

 その事実を、エルディオは“情報”として受け取る。


 アインは、こちらを見る。

 視線が合う。


 だが、声は出ない。


 名前を呼ぶ距離だ。

 だが呼ばない。呼べないのではない。ここで呼ぶ工程が存在しない。


 少し遅れて、もう一人の姿が見える。


 ミレイユ・アルヴェイン。


 鎧は着ていない。だが魔道士としての装備は整っている。

 杖の位置。指輪の数。詠唱補助具の配置。

 元宮廷筆頭魔道士としての“癖”が、そのまま残っている。


 彼女も、エルディオを見る。

 視線は確かに息子を捉えている。だがその視線は母のものではない。


 戦場の視線だ。

 現地責任者として、特務部隊の指揮官を見る目だ。


 アインが一歩前に出る。

 止まる。距離を詰めすぎない。詰めれば、言葉が必要になる。


 ミレイユも隣に立つ。

 何か言おうとして、やめる。その判断が一瞬で下される。


 三人の間に沈黙が落ちる。


 重くはない。

 だが、軽くもない。


 違和感だけが積み上がる。


 ここは戻る場所ではない。

 そうだと断言する言葉は、誰の口からも出ない。


 だが、誰もが理解している。


 帰るべきではなかった土地に、任務として立っている。


 それだけの事実が、乾いた風と、覚えている曲がり角と、声を交わせない距離の中で静かに確定していった。


 ♢


 風が、途切れた。


 乾いた空気の中にわずかな歪みが走る。

 匂いが先に変わった。土と草の匂いに、鉄と腐臭が混じる。濃くはない。だが明確だ。


 エルディオ・アルヴェインの視線が自然に前へ動く。

 遠目には何もない。ただの低木と起伏。だが影の位置が不自然だ。風向きと合わない揺れがある。


 敵影。


 認識は言葉になる前に終わる。


「右翼、二歩」


 声は低く短い。

 問いでも警告でもない。工程の開始だ。


 隊列が即座に動く。

 二歩。過不足なし。盾役が前に出る。動きに迷いはない。


「盾、前。弓、二射」


「了解!」


 返答は鋭いが昂りはない。

 弦が鳴る。二度。

 矢は空を切り、影の中へ吸い込まれる。


 鈍い音。

 肉に入る感触が、遅れて伝わる。


 魔族が姿を現す。

 数は多くない。前哨だ。偵察と攪乱を兼ねた小隊。判断は即座に下される。


 エルディオは前に出る。


 前に出る位置は変わらない。

 安全と危険の境目。常に同じ距離。


 剣を振る。


 角度は一定だ。

 首。関節。胴の継ぎ目。

 斬る、というより、終わらせる。


 血が飛ぶ。

 刃にかかる。だが次の動作を妨げるほどではない。


 手首を返す。

 血を切る。

 布で拭く。二度。――三度目は、必要がない。


 魔族が倒れる。

 倒れ方も想定の範囲内だ。


 背後で別の魔族が動く。

 エルディオは振り返らない。


「左、詰めろ」


 声が飛ぶ。

 即座に対応が入る。

 刃が交差し、魔法が霧散する。


 数分もかからない。


 最後の一体が崩れ落ちる。

 地面に叩きつけられ、動かなくなる。


 静寂が戻る。


 歓声はない。

 上げる工程が存在しない。


「被害確認」


 報告係が走る。

 息は上がっているが、声は整えている。


「損害、軽微。負傷者一。戦死者、零」


 零。

 確認事項が淡々と落ちる。


 エルディオは頷く。


 終わった。

 それだけの判断だ。


 ♢


 少し離れた位置で、その一部始終を見ていた二人がいる。


 アイン・アルヴェインは剣に手をかけたまま、結局一歩も踏み出さなかった。

 踏み出す余地がなかった。


 速すぎる。

 正確すぎる。


 指揮も、剣も、判断も。

 すべてが最短距離で完了していく。


「……あれが、特務……」


 思わず零れた声は震えていた。

 誇らしさではない。驚きでもない。理解が追いつかない音だった。


 隣に立つミレイユは杖を握りしめている。

 魔力は展開されていない。詠唱の準備もしていない。する必要がなかった。


「……魔法を、使わせてもらえなかったわね」


 声はかすれている。

 冗談めかした言い方をしようとして、失敗している。


 アインは答えない。

 答えられない。


 自分たちが到達できなかった高み。

 剣術も、魔法も、戦場の読みも。

 すべてを、息子が一人で完結させてしまった。――完璧に。


「……強く、なったな」


 ようやく絞り出した言葉は空中で止まる。

 誇らしくあるべき言葉のはずだった。


 だが胸に浮かんだのは、別の感情だった。


 壊れてしまったのではないか。


 ミレイユの視線がエルディオに向く。

 剣を拭き、布を畳み、次の工程に入ろうとする姿。

 そこに迷いがない。感情が、ない。


 息子の背中を見て、ミレイユの目が潤む。


「……あの子、」


 声が詰まる。

 続きを言えば崩れてしまう。


 シャルロットを失ったあの日から、何かが決定的に壊れてしまったのではないか。


 涙が溢れそうになる。

 だが拭う。


 戦場で泣く工程は存在しない。


 ♢


 エルディオは周囲を見回す。


 魔族の死体。

 血。

 倒れた低木。


 その足元に鍋が転がっている。

 煤のついた素朴な鉄鍋だ。


 少し離れた場所には布。

 色褪せた子供用の外套。

 さらにその先に、小さな木製の玩具。


 エルディオはそれらを見る。


 悲惨、とは呼ばない。

 哀れ、とも呼ばない。


 情報だ。


「……襲撃は、ここで止まっていない」


 独り言のように短く落とす。


 村まで届いている。

 前哨ではない。既に生活圏に侵入している。


 アインとミレイユがその視線の先を見る。

 鍋。布。玩具。


 二人の表情が歪む。


 エルディオは振り返らない。


 次の工程が待っている。


「……進軍を再開する」


 声はいつも通りだ。


 その冷徹さが、両親の胸を静かに締めつけていた。


 誇れない成長。

 だが否定もできない圧倒的な現実。


 ――この息子は、もう、自分たちの手の届く場所にはいない。


 その事実だけが、魔族の死体よりも重く、戦場に残っていた。


 ♢


 風向きが変わった。


 乾いた匂いの中に、焼けた油と焦げた肉の臭気が混じる。

 薄い。だが確実だ。


 エルディオ・アルヴェインは前に出る。


 前哨線の奥。

 本来なら指揮官が立つべきではない位置だ。

 射線が交差し、魔法が通り、刃が届く場所。


 だが、そこに立つことにためらいはない。


「前へ」


 短い指示。

 声量も間も変わらない。


 魔族が動く。

 前哨より数が多い。だが質は変わらない。

 斥候を終え、撤退もできずに残った集団。


 視線が敵影を拾う。

 拾った瞬間に配置が決まる。


「盾、半歩。弓、温存」


 盾役が動く。

 弓兵は構えを解かない。今は不要だと全員が理解している。


 魔法が飛ぶ。


 空気が歪み、耳鳴りが走る。

 紫がかった光が、エルディオの横を掠める。


 鎧の縁に熱が走る。


 擦過。

 鎧の隙間をかすめただけだ。


 皮膚が切れる。

 血が内側を伝う。


 痛みがある。

 だが、それは意味ではない。


 ――報告事項。


 刃が振るわれる。

 角度は一定。

 一体、崩れる。


 二体目が迫る。

 距離は把握済み。


 踏み込む。間合いの内側。


 刃が鎧の隙間を再び擦る。

 今度は熱がはっきりと残る。


 視界の端がわずかに白む。


「……」


 呼吸は乱れない。

 乱す工程がない。


 剣を返す。

 血を切る。

 布で拭く。――二度。


 魔法が再び走る。今度は近い。


 避ける必要はある。

 致命ではない。


 鎧が受け、衝撃が抜ける。


 ――……まだか。


 思考はそこで止まる。

 願いではない。終わる工程が、まだ来ていないことの確認だ。


 敵影が減る。

 一体ずつ。確実に。


「左、詰めろ」


 声が落ちる。

 隊列が動く。


 刃が交差し、魔族が崩れる。

 最後の一体が膝を折る。


 戦場が静かになる。


 ♢


「……終わりました」


 報告係の声。

 少しだけ息が上がっている。


「損害」


「負傷者二。戦死者、零」


 零。

 確認が淡々と落ちる。


 エルディオは頷く。


 終わった。


 鎧の内側が濡れている。

 血だ。


「……団長」


 治療係が近づく。

 表情は硬いが慌ててはいない。


「擦過です。縫合は不要。消毒のみ」


「……任せる」


 返答は短い。


 鎧を外す。

 布をずらす。

 傷を確認する。


 治療は事務的だ。

 消毒。

 布を当てる。

 固定。


「……以上です」


「……次へ」


 それだけだ。


 少し離れた位置で、同行騎士が小さく息を吐く。


「……やっぱり、死なない……」


 呟きは誰に向けたものでもない。

 だが確かに届く。


 別の騎士が続ける。


「団長がいれば、大丈夫だ」


 断言だった。

 希望ではない。前提条件だ。


 その言葉が静かに空気に沈む。


 檻が、また一段、強くなる。


 ♢


 進軍を再開する。


 しばらくして景色が変わる。

 黒く焦げた地面。折れた梁。煙の残り香。


 村だ。


 焼け跡の匂いは重い。

 湿った灰が足裏にまとわりつく。


 エルディオは周囲を見る。


 評価しない。

 嘆かない。


 条件を拾う。


 焼けた梁。完全には崩れていない。火は急だった。

 井戸が残っている。水はまだ使える。

 家の入口に靴が揃えられている。逃げる時間がなかった。

 途中で止まった食卓。皿。割れていない。

 パン。乾ききっていない。

 冷えた鍋。


 ここに生活があった。


 事実として拾う。


「……村名は?」


 エルディオが問う。

 声は平坦だ。


 地元兵が一瞬だけ言葉を詰まらせる。


「……シリル村です。被害は――」


 シリル村。


 名は落ちる。

 石のように。


 エルディオは頷くだけだ。


「……そうか」


 それ以上、何もない。


 ♢


 アインとミレイユは言葉を失っていた。


 シリル村。

 かつて、妊娠した侍女――メイリスを、人目を避けるために送った場所。


 守るためだった。

 隠すためだった。

 選択として最善だと信じた。


 だが今、焼け跡として、そこにある。


「……ここが……」


 ミレイユの声が震える。


「……あの子を、送った……」


 言葉が続かない。


 アインは拳を握りしめる。


「……運命、なのか……」


 良いことなのか、悪いことなのか。

 息子がここに来ることが。

 再会が救いになるのか。

 それとも、さらなる破壊か。


 分からない。

 だが何も言えない。


 エルディオは村の名を聞いても、それ以上踏み込まなかった。


 知らない。

 知る必要がなかった。


 これまでの間、彼の世界に村の名が入り込む余地はなかった。


「……周辺を確認する」


 声が落ちる。


 また工程が始まる。


 焼け跡の中で、運命だけが静かに息を潜めていた。


 ♢


 避難民の列は静かだった。


 泣き声がないわけではない。

 叫びも、嗚咽も、確かにある。

 だがそれらは長く続かない。


 声は途中で途切れる。

 誰かが抱き上げ、背を叩き、

「大丈夫だ」と低い声で繰り返す。


 繰り返されるのは慰めではない。

 手順だ。


 列は伸びている。

 焼け跡の外側、風下を避けた位置。

 地面には板が敷かれ、水桶が並び、

 簡易の配給所が組まれている。


 パンの匂いがする。

 焼き立てではない。乾いた小麦の匂いだ。

 それでも空腹には効く。


 係員が声を出す。


「次。名前を。人数を」


 声量は一定。過不足がない。

 聞き返させない大きさ。


 避難民が一歩前に出る。


「……五人です」


 声は掠れている。だがはっきりしている。


「確認。五人。生存」


 “生存”。


 その語がここでは落ち方を変える。

 確認であり、継続の合図だ。


「こちらへ。水を」


 水桶の前に誘導される。

 木の柄杓が静かに水面を割る。

 老人が咳き込み、背を丸めたまま柄杓を受け取る。


 子どもが毛布にくるまれている。

 毛布は古い。

 洗われてはいるが、煙と汗の匂いがまだ残っている。


 それでも、包まれる。


 包まれるという行為が、ここでは生きるための工程になっている。


 名簿が読み上げられる。


「……次。シリル村、避難者」


 村名が淡々と落ちる。

 誰も声を荒げない。


 名を呼ばれた者が返事をする。


「……いる」

「……いる」

「……ここです」


 返答は揃っていない。

 だがそれでいい。


 軍の点呼とは違う。

 ここでは揃えなくていい。


 “いる”という言葉が、命令でも願いでもなく、ただの申告として使われている。


 エルディオ・アルヴェインは、その列の外側に立っていた。

 立ち位置は指揮官のものだ。全体が見え、動線を遮らない位置。


 本来なら、ここで拾うべき情報は明確だ。


 人数。

 負傷者。

 水の残量。

 次の移送手段。


 だが視線がひとつ、止まる。


 止まるはずのない場所で。


 避難民の群れの中。

 配給を待つ列の、少し後ろ。


 一人の女。


 顔は見えない。背中だけだ。


 髪の結び方が少し低い。

 高くまとめていない。首筋に余白がある。


 肩が細い。

 鎧を着ない身体の線だ。


 立ち姿の重心が、わずかに内側に寄っている。

 長く立つことに慣れていない者の癖。


 そして、裾を無意識に押さえる仕草。


 風が吹くたび、布が煽られないように、ほんの一瞬だけ指が動く。


 一致。


 だが言葉にならない。


「見覚えがある」

 そう断定するには何かが足りない。


 足りないまま、合ってはいけないものが重なっている。


 エルディオの視線が戻る。

 一度離れ、もう一度そこに戻る。


 それは異常だった。


 彼の視線は、必要な箇所を拾い、不要なものを切り捨てるためにある。

 だが今、拾う理由がないものを切り捨てきれない。


「団長」


 同行騎士の声が横から入る。


「配給、問題ありません。次は――」


 声は途中で遠くなる。


 酒場で音が遠くなるのとは違う。

 音が消えるのではない。意味だけが届かなくなる。


 一歩、踏み出す。


 本来なら次の指示へ移るための一歩。

 だがその一歩が、ほんのわずかに遅れる。


 ほんのわずか。誰も気づかない程度。

 それでもエルディオ自身には分かる。


 手順が、ずれた。


 追いかけない。

 声をかけない。

 確認しない。


 まだ工程を保っている。


 だが視線だけが、列の中の一点に静かに縫い止められていた。


 避難民の列は進む。

 パンが渡され、水が配られ、毛布が肩に掛けられる。


 生活が続いていく。


 その中で、合ってはいけない一致だけが、何の名も与えられないままそこに立っていた。


 エルディオ・アルヴェインは、まだ名を呼ばない。


 ただ、手順の次へ進むための一歩が、わずかに遅れたままそこにいた。


 ♢


 木札が縄で吊られていた。


 避難民の区分け用だ。

 粗い板に墨で村の名が書かれている。

 雨に当たったのか、文字の端が滲んでいる。

 滲みは修正されていない。修正する工程がない。

 あるのは、吊るす、見せる、並べ替える――それだけだ。


 風が吹くたび木札が小さく揺れる。

 軽い音がする。乾いた木と縄の擦れる音。


 ――シリル村。


 その文字をエルディオは視線の端で拾う。

 拾う。理解する。

 理解しても、何も起こらない。起こしてはいけない。


 列は進む。

 配給の器がぶつかる音がする。

 陶器の縁が欠けたような、鈍い乾いた音。


 その音が遠い。


 遠いというのは距離ではない。

 耳には届いている。

 だが届くまでに一拍、遅れる。


 遅れたのは音ではなく、彼の中の“処理”だった。


 係員が声を出す。


「次。――次、こちら。名前を。人数を」


 同じ語彙。

 点呼の語感と、同じ並び。


「いる/いない」

「生存」


 それらがここでは生活の継続として回っている。

 回っているはずなのに、エルディオの手順はひとつ噛む。


 列の後ろ。

 さっき視線が縫い止められた一点。


 女が、少しだけ動く。


 列が前へ詰まったのか、足場が悪かったのか、あるいは子どもがぶつかったのか――

 理由は分からない。理由を拾う工程が、今、動かない。


 女の肩がほんのわずかに揺れて、裾を押さえていた指が離れる。


 そして、振り返る。


 振り返る動作は自然だ。

 列の中ではよくある。

 呼ばれたかもしれない。誰かを探しているのかもしれない。

 ただそれだけのはずだ。


 だがこの振り返りだけは、“ただ”にならない。


 風が、一瞬止まったように感じる。


 実際は止まっていない。

 木札は揺れ続けている。

 煙も流れている。

 布も微かに動いている。


 なのに、止まったと“感じる”。


 感じた瞬間を感情とは呼ばない。

 条件の変化でもない。

 処理の誤差だ。


 配給の器がぶつかる音がもう一度鳴る。

 さっきより少し大きい。

 それでも遅れて届く。


 エルディオの呼吸が一拍ずれる。


 吸うタイミングが遅れる。

 吐くタイミングが遅れる。


 乱れない。

 乱れるほどの長さではない。

 ただ、ずれる。


 手袋の中で指が固くなる。


 握っていたわけではない。

 剣にも触れていない。

 何かを掴む工程は始まっていない。


 なのに、固くなる。


 固くなった指が、次の動作の起点になれない。


 女の顔が影から抜ける。


 灯りは弱い。

 配給所の火は低い。

 焦げた匂いが混じって空気が曇っている。


 それでも、目だけは見える。


 視線が合う。


 合う、という表現すら、ここでは手順の説明にならない。

 彼女の目が彼の方へ向き、彼の目がそこにあることを確認し、それが同時に起こる。


 同時に起きた瞬間、工程が落ちる。


 名を呼ぶ工程が、来ない。


「呼べない」ではない。

 喉が塞がったわけでも、声が出ないわけでもない。


 口が動かない。


 言葉が出ないのではなく、口を開くという動作が開始されない。


 開始されないのは恐れではない。躊躇でもない。

 ――その工程が、彼の中に存在しないからだ。


 女も名を呼ばない。


 驚きで目を見開くこともしない。

 笑うこともしない。

 泣くこともしない。


 表情が、“動かしきれない”。


 そこまで辿り着くための筋肉の動きが、途中で止まっている。


 止まっているのに、止まったままにはならない。

 彼女の視線は揺れる。

 揺れた視線が、彼の胸元でもなく、手袋でもなく、剣でもなく、顔でもなく、どこに落ちるべきか迷っているように見える。


 迷っている、と断定しない。

 断定するには情報が足りない。

 足りないまま、合ってはいけない一致だけが増えていく。


 木札がまた鳴る。

 縄が擦れる音。乾いた木の小さな衝突音。


 ――シリル村。


 文字として見て、音として理解して、理解した瞬間、身体が固まるはずだった。


 だが固まったのは村名ではない。


 “思い出してはいけない感覚”が来た、と、彼は認識する。


 懐かしい、ではない。

 嬉しい、でもない。

 痛い、とも言わない。


 ただ、来た。


 来てしまった、と判断する。


 判断して処理へ回す。

 回すはずなのに、回らない。

 回らないことが異常だ。


 周囲の工程が先に再開する。


「次! 次、こちら!」


 係員の声が現実を押し戻す。


 子どもの泣き声が上がる。

 すぐに途切れる。背中が叩かれる。

 泣き声が手順として処理される。


 遠くで角笛が鳴る。


 低く短い合図。

 出撃ではない。

 配置替えか、連絡か、警戒の更新だ。


 世界は止まっていない。


 止まっていないのに、彼だけが遅れている。


 遅れを取り戻す工程はある。

 いつもなら、すぐに入る。


 状況確認。

 指示。

 次へ。


 だが今、取り戻すための最初の動作が開始されない。


 女が視線を外す。


 外したのか、列に押されて向きが変わったのか――それも断定できない。


 ただ、視線が合っていた“事実”だけが残る。

 残るはずのないものが残る、という形で。


 エルディオは立ったまま、呼ばない。


 名を処理しない。


 処理できないのではない。

 処理の工程が、そこにない。


 そして世界の手順が何事もなかったように流れていく中で、彼だけが、わずかに遅れたままそこにいた。


 呼ぶ工程が、彼の中に存在しなかった。


ここまでお読みいただき、ありがとうございました。

戦場の「工程」として進む彼の視線の先に、ようやく“生”が入り込みます。

次は、その一致が何を壊し、何を残すのか――続きを見届けてください。

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