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誰も救えない僕が、それでも魔王と生きる話  作者: 霜月ルイ
喪失編

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103/143

103. 生き残ってしまう英雄

 シャルが亡くなってから、三年が経った。


 その事実は、誰かの胸の奥で静かに熟成して変質する類のものではなかった。癒えたり、薄まったり、形を変えて生活に馴染んだりはしない。年月はただ積み上がり、積み上がったぶんだけ、彼の中で「終わっていないもの」が増えるだけだった。


 春は三回巡り、夏も、秋も、冬も通り過ぎた。

 葬儀の日に吹いていた風と、同じ匂いの風が、何度も彼の頬を撫でた。

 だがそれは、何かを連れてきもしなければ、何かを連れて行きもしない。


 戦場はその間に、いくつも変わった。


 地形も、国境線も、敵の旗も、戦術も、武器も変わった。

 しかし、彼が立つ場所だけが変わらなかった。


 エルディオ・アルヴェインは、王国直轄騎士団長として、常に先頭にいた。

 そして、常に生きていた。


「……団長。こちらです」


 部下の声が、耳に届く。

 音として届き、意味として処理されるまでに、遅れはない。


 エルディオは頷き、指示された方向へ歩く。

 足音は土の上で重くなり、乾いた砂利で軽くなり、泥で鈍くなる。

 それらの違いを、彼は一つずつ認識する。認識しても、そこに感想は付かない。

 地面がこういう状態である、と判断するだけだ。


 歩きながら、手袋越しに剣の柄を確かめる。

 革の摩擦。汗の滲み。柄の巻き方。

 擦り減った箇所は、いつも同じ位置だ。

 その位置が、三年の「繰り返し」を示している。


 戦装束は整っている。

 留め具はきちんと閉まり、帯は緩まない。

 背の線が真っ直ぐになるように、肩当ての位置まで正確に合わせてある。


 エルディオの身体は、二十四のときより締まっていた。


 余分が削げて、必要なものだけが残ったような体つきだ。

 栄養のために食べているのではなく、動くために取り込んでいる。

 休息のために眠るのではなく、機能を維持するために眼を閉じている。

 そういう身体だった。


 顔は変わっていない、と言えば嘘になる。

 変わったのは、加齢によるものではない。


 傷が増えた。


 鎖骨の下、鎧の隙間を掠めた傷は、触れれば硬さとして分かる。

 指の関節には小さな歪みがある。骨折したことのない手ではない。

 そのすべてが「古傷」として整理されていて、新しい傷だけが今の痛みを担う。


 痛みはある。

 だが、痛みは彼の生活の中で、報告事項の一つに過ぎない。


 痛むから動けない、ではない。

 痛むから対処が必要、という判断になるだけだ。

 その判断が終われば、次へ進む。


 書類の束が、野営地の簡素な机の上に置かれている。


 紙は分厚い。

 水気に耐えるために、油が薄く塗られている。

 角は擦れて丸くなり、インクの匂いが淡く残る。


 記録係が、淡々と読み上げる。


「本日付、戦況報告。

 敵部隊、第三丘陵線を放棄。

 我が方損害、軽微。――負傷者七、重傷者一。戦死者、零」


 零、という数字は、場を騒がせない。

 歓声も上がらない。

 それが当たり前になっているからだ。


「……騎士団長、エルディオ・アルヴェイン。

 年齢、二十七。

 状態、戦闘継続可能」


 二十七。


 それは誇るべき若さでもなければ、嘆くべき老いでもない。

 ただ、数字だ。

 記録として必要で、確認として書かれているだけの数字。


 エルディオはその数字に、何も反応しない。

 自分が二十七であることを、祝われたことはない。

 二十四のあの日から、祝福は一度も彼に戻らなかった。


 記録係が筆を走らせる。

「27」の字が、表の欄に収まる。

 書かれた瞬間、年齢は事実になる。


 事実は、彼の上に積み上がる。

 何かを癒すのではなく、重しとして重なる。


「団長。次の戦線への移動命令が来ています」


 別の部下が言う。

 声は敬意を含むが、怯えはない。

 感情に触れないようにする慎重さは、三年で薄れている。

 彼が崩れないことを、皆が知ってしまったからだ。


 エルディオは受け取った地図を広げる。


 紙の上の線は、冷たい。

 赤い矢印。黒い印。補給路。高低差。

 人の命が動く線だが、線としてしか見えない。


 見るべき点を見て、必要な判断をする。

 彼の眼は、正確に仕事をする。


 仕事だけをする眼だった。


 ♢


 かつて、客間は明るかった。


 左右対称の家具と、春の光と、湯気の消えかけた茶。

 正しい言葉の整列。

「ありがとう」と「幸せだった」という断定。

「あなたを選んだのは、あの子よ」という完全な赦し。


 あの明るさは、逃げ場を奪うための明るさだった。


 今の戦場は、明るいか暗いかですら、彼にとって同じだ。

 夜でも、霧でも、雨でも、敵影の輪郭を拾える。

 光の有無は、状況の条件の一つに過ぎない。


 だが――

 客間と違って、戦場には「泣けない理由」を説明する必要がない。


 泣く者は、泣く。

 怒る者は、怒る。

 叫ぶ者は、叫ぶ。


 ここでは、感情が出ても正しい。


 それでも、彼は出さない。


 出せない、ではない。

 出す理由がない。

 理由がないまま三年が経って、出さないことが彼の形になった。


「団長、負傷の確認を」


 医療係が近づいてくる。

 手が慣れている。目が慣れている。

 英雄の身体に触れることに、もう躊躇がない。


 エルディオは腕を差し出す。


 袖口を少し上げる。

 そこに、今朝の浅い切り傷がある。

 血はすでに固まり始めている。


「縫うほどではありません。消毒だけ」


 医療係が言う。

 布で拭き、液を塗り、包帯を巻く。

 動作は迅速で、正確だ。

 それもまた、手順だ。


 手順は、人を救う。

 同時に、人を機械にする。


 エルディオは包帯の巻き終わりを確かめる。

 締め付けが強すぎないか。

 剣を握るときの可動域は足りるか。

 判断して、頷く。


「問題ない」


「……はい。団長はいつも、問題ないですね」


 医療係は軽く笑う。

 冗談の形だ。

 場を和らげる正しい言い方だ。


 エルディオは、笑わない。

 否定もしない。


「次へ」


 それだけだ。


 ♢


 三年が経った。


 記録には、勝利が並ぶ。

 報告書には、損害軽微の文字が並ぶ。

 戦死者零の数字が並ぶ。


 彼の名前は、どの報告にも載る。


 エルディオ・アルヴェイン。

 騎士団長。

 二十七。

 生存。


 生存、という文字は、紙の上では軽い。

 インクの染みでしかない。


 だが、その軽さのまま、彼は今日も生きている。


 生きていることを、理由にしないまま。

 ただ、手順が続くから続いている。


 次の戦場へ向かうための命令書を受け取り、

 必要な署名をし、

 部下に指示を出し、

 装備の点検をし、

 隊列を整える。


 彼が動けば、全員が動く。

 彼が止まれば、全員が止まる。


 英雄の位置は、そういうものだ。


 それが檻だと認識する必要すらなく、

 檻の形そのものとして、彼はそこに立っている。


 三年後の彼は、変わっていない。

 ただ、壊れたまま、固定されただけだった。


 ♢


 乾いた風が吹いていた。


 土の匂いと、鉄の匂いと、燃え残った木の匂いが混ざっている。煙はもう薄い。火は鎮まり、残った熱だけが地面のあちこちに点として散っている。空は広い。雲は高い。音は、必要なものだけが残っていた。


 遠くで、魔獣の鳴き声がした。


 低く、長い。喉の奥から搾り出すような声。

 人の声とは違う。言葉にならない。意味にならない。

 だからこそ、戦場では分かりやすい。


 敵がいる、という合図だ。


「右翼、二列目を一歩下げろ。前を空けるな」


 エルディオの声は、低い。

 張り上げない。怒鳴らない。

 通る声だ。喉で止まらない声。


 指示は短く、必要な情報だけで構成されている。


「弓、三射。合図は僕が出す」


 部下が返事をする。


「はい、団長!」


 返事の声には、恐れがない。

 緊張はある。だがそれは、死ぬかもしれない緊張ではない。

 手順を間違えないための緊張だ。


 矢が番えられる音がする。

 弦が張られる。

 金属の擦れる音。革の鳴る音。

 そのどれもが、彼にとっては“進行確認”の音だった。


 前方の草むらが揺れる。


 揺れ方が規則的ではない。

 風ではない。

 重いものが、内側から押し分けている。


「来る」


 エルディオが言う。

 誰かに知らせるためではない。

 自分の手順のために、次の工程を口に出す。


 魔獣が現れる。


 四つ脚。

 背中は盛り上がり、皮膚は硬い鱗に覆われている。

 目は赤い。瞳孔が縦に裂けている。

 口の端から唾液が垂れ、牙が白い。


 その白さが、春の光にやけにきれいに見える。

 きれいだから、残酷だ、という感情は生まれない。

 きれいに見える、と認識するだけだ。


「三射」


 声が落ちる。


 弓が一斉に鳴る。

 矢が飛ぶ。

 空気を裂く音。

 矢羽の震え。

 命中音。


 魔獣の肩に二本。首筋に一本。

 致命ではない。だが足が止まる。首が揺れる。重心が乱れる。


 その瞬間だけを、エルディオは待っていた。


 待つというより、予測通りのタイミングが来るのを確認する。


「前へ。二歩」


 前列が動く。

 二歩。揃う。

 彼の合図通りに、隊列が移動する。


 エルディオは前に出る。


 危険なほど前ではない。

 安全なほど後ろでもない。

 全員が彼の背中を見て動ける位置。

 矢が届く範囲。槍が刺さる範囲。

 剣が届く範囲。


 彼が剣を抜く音は、小さい。


 金属が鞘を離れる音は本来、戦の始まりを告げるはずだ。

 だが今は、作業開始の音にしか聞こえない。


 魔獣が突進する。


 地面が揺れる。

 土が跳ねる。

 息が荒い。

 牙が迫る。


 エルディオの呼吸は乱れない。


 胸は上下する。

 息は一定の幅で出入りする。

 身体は緊張している。だが、その緊張は彼の支配下にある。


 一歩、横へ。


 避ける。

 避け方が美しいわけではない。

 正しいだけだ。


 魔獣の牙が空を噛む。

 その顎が閉じる音が、間近で聞こえる。

 骨が砕ける音を想像する余地はない。

 顎が閉じた、と判断するだけ。


 剣が走る。


 首の付け根。

 鱗の薄い継ぎ目。

 矢が刺さって緩んだ位置。


 一撃で終わる。


 血が噴く。

 赤い。熱い。

 温度が手袋越しに一瞬だけ伝わる。


 それでも、エルディオの表情は変わらない。


 剣を引き抜き、血を切る。

 刃を振る角度まで、手順だ。

 部下の視界に血が飛ばない位置。

 次の敵に備える位置。


 魔獣の身体が倒れる。


 重い音。

 地面が沈む。

 土埃が上がる。


 部下が一歩も崩れない。


 誰も後退しない。

 誰も叫ばない。

 誰も転ばない。


「左、二体。槍、構え。弓は温存」


 声が続く。


 次が来る。

 次を終わらせる。

 終わらせたら、次。


 勝利は、ここでは結果ではなく工程だった。


 魔族が混じってくる。


 人の形に近い。

 二本脚。二本腕。

 だが皮膚の色が違う。角がある。目が暗い。

 言葉のようなものを吐く。魔法のような音。


「右から回る。盾列、三歩前」


 エルディオの指示は、魔族の言葉を必要としない。

 相手が何を言っているかは、戦術上の要素でしかない。

 恐れを煽る声ではない。

 煽られるものが、彼の中にはもう残っていない。


 剣が振るわれる。


 腕が落ちる。

 角が折れる。

 血が出る。

 魔族の声が途切れる。


「次」


 その言葉は命令でもなかった。

 確認だった。


 終わった。次へ。


 内心は短い。


 ――終われば帰れる。


 帰った先に何があるかは、考えない。

 考える必要がない。

 考えたところで、そこに何もないことを知っているからではない。

 知る、という行為を避けているだけだ。


 戦闘は終わる。


 敵は崩れる。

 散る。逃げる。

 残骸になる。


 報告係が走ってくる。


「敵影、消失! 周辺掃討、完了!」


 エルディオは頷く。


「損害は」


「軽微です。負傷者四。戦死者、零」


 零、という言葉がまた出る。


 誰も驚かない。

 誰も安堵の声を上げない。

 当然のように、その数字を受け取る。


 それがこの三年で作られた常識だ。


 エルディオは剣を拭う。


 布を当て、血をぬぐい、刃を確認する。

 欠けはない。歪みはない。

 汚れは落ちる。落ちたことを確認する。


 それだけだ。


 勝利は終わりではない。

 次の戦場へ移るための、区切りに過ぎない。


 ♢


 雨が降っていた。


 冷たい雨ではない。

 春の雨だ。

 土を黒くし、草の匂いを濃くし、霧を呼ぶ雨。


 視界が悪い。

 距離感が狂う。

 鎧が濡れ、重くなる。


 普通なら、ここで恐怖が生まれる。

 敵が見えないまま近づく。

 味方の気配が薄れる。

 音が雨に消される。


 だが、エルディオにとっては条件が変わっただけだった。


「二列。間隔を詰めるな。詰めると呪術が届く」


 雨の中で声は通りにくい。

 だから彼は、声量ではなく位置で支配する。


 歩きながら、部下の列の横を通る。

 肩を叩かない。

 視線を合わせない。

 ただ、そこにいる。


 そこにいるだけで、隊列が整う。


 部下は安心する。


 安心してしまう。


「団長がいるから大丈夫だ」


 その確信が、戦場の地獄で一番不気味だった。


 人は、本来、戦場で安心してはいけない。

 安心は隙になる。

 油断になる。

 死ぬ。


 だが彼らは死なない。


 エルディオが死なせないからだ。


 霧が濃くなる。


 敵が出る。

 魔族の影が、雨の中で黒く揺れる。


「止まるな。右へ二歩。左へ一歩」


 一歩単位の指示。

 正確すぎる指示。

 その通りに動けば、敵の魔法が空を切る。


 魔族の呪文は、雨で掻き消される。

 耳に残らない。

 恐怖を残さない。


 剣が走る。


 雨が刃に当たり、飛び散る。

 血と雨が混じり、赤が薄まる。

 薄まった赤は、地面に吸われる。


 その様子を見ても、何も思わない。

 薄まった、と判断するだけだ。


 戦闘は、また終わる。


 報告が来る。


「損害軽微! 戦死者、零!」


 声が雨に弾かれて、少しだけ大きく聞こえる。

 大きく聞こえるだけで、意味は変わらない。


「団長、さすがです」


 誰かが言う。


 さすが。

 その言葉も、いつの間にか手順になっていた。


 称賛の手順。

 安心の手順。

 英雄を固定する手順。


 エルディオは頷くだけだ。


 喜ばない。

 否定もしない。

 どちらも余計だからだ。


「次へ」


 雨の中でも、その声は一定だった。


 ♢


 夜だった。


 月は見えない。

 雲が厚い。

 焚き火は消され、光は最小限に抑えられている。


 暗闇は、敵の味方になる。

 だが、英雄の味方にもなる。


 エルディオは前に出る。


 前に出ることが危険だと、誰もが分かっている。

 だが誰も止めない。


 止められない。


 止める理由がないほど、彼は生き残ってきたからだ。


「団長、もう少し後ろへ――」


 誰かが言いかける。

 その声は途中で消える。


 消したのは命令ではない。

 空気だ。


 “また生きてる”という前提が、言葉を殺す。


 エルディオは暗闇の中で、敵の気配を拾う。


 音。

 土を踏む重さ。

 呼吸。

 金属の擦れる僅かな響き。


 視界がなくても、手順は組める。


「合図で一斉に。三、二、一」


 合図が落ちる。


 闇が裂ける。

 魔族が倒れる。

 魔獣が崩れる。


 エルディオは危険な位置に立ち続ける。


 槍が飛ぶ。

 刃が迫る。

 魔法が掠める。


 それでも死なない。


 死なない理由は、運ではない。

 技術でもない、と言い切れるほど単純ではない。


 ただ、死に損ねる。


 死が彼のところまで来ても、最後の一歩で外れる。

 刃が心臓を避ける。

 矢が肺を外す。

 魔法が致命に届かない。


 その積み重ねが、彼を英雄にする。


 英雄は、死ねない。


 戦場が終わる。


 部下が、息を吐く。


「また……勝ったな」


 誰かが笑う。

 笑えることが、異常だ。


 だが異常は、もう日常になっている。


「団長、無傷ですか」


 医療係が駆け寄る。


「軽傷だ」


 エルディオは淡々と言う。

 軽傷。いつものこと。古傷の仲間。


「……やっぱり、死なないですね」


 誰かが小さく呟く。

 称賛でも、羨望でもない。

 確認だ。


 “死なない英雄”という固定された像の確認。


 誰も驚かない。

 誰も恐れない。

 誰も祈らない。


 ただ、また生きている、と当然のように受け取る。


 エルディオは剣を収める。


 鞘に戻す音は小さい。

 終わりを告げる音のはずなのに、終わりにならない音。


 彼の内側に、短い思考だけが浮かぶ。


 ――終われば帰れる。


 帰還の手順へ移るための思考。

 それ以上はない。


 勝利は、価値ではなく前提になった。


 勝つから英雄なのではない。

 英雄だから勝つのでもない。


 勝って、死なずに、帰る。


 その繰り返しが、彼の存在を“確定”させる。


 そして確定された英雄は、

 今日もまた、生き残ってしまう。


 ♢


 陣地の端で、火が焚かれていた。


 戦のあとの火だ。

 暖を取るためでも、祝うためでもない。

 夜の冷えを防ぎ、傷の確認をするための、必要最低限の光。


 その周囲に、人が集まっている。


 鎧を脱ぎかけた兵士。

 血を拭う衛生兵。

 報告書をまとめる書記。


 そして、少し離れた位置で、エルディオの背中を見ている者たち。


 直接、声をかける者はいない。

 彼は忙しい、という理由ではない。

 声をかける必要がないからだ。


 見るべきものは、すでに見えている。


 結果。


 勝利。

 損害軽微。

 戦死者、零。


 それだけで、語るには十分だった。


「……強すぎるな」


 誰かが、ぽつりと言う。


 声は小さい。

 だが否定の余地はない。

 誰も、それを否定しない。


「だろ。あの人がいる戦場で、負けたことがあるか?」


 別の声が続く。


 負けたことがあるか。

 問いかけの形をしているが、答えは求めていない。

 答えは、もう共有されている。


「ないな」


 短い返事。


「……死なないしな」


 その言葉も、ためらいなく出る。


 死なない。

 それは、願望でも評価でもない。

 事実の確認だ。


「矢が刺さっても、立ってる」

「魔法を食らっても、動いてる」

「普通なら死んでる状況、何度見たか」


 数える者はいない。

 数える意味がないからだ。


 積み重ねられた“死ななかった”という事実が、

 すでに一つの像を作っている。


「負ける姿が、想像できない」


 誰かが言う。


 想像できない、という言葉が、どこか誇らしげだ。

 英雄を語るときに、よく使われる言い回し。


 だがそこに、個人の感情はない。


 想像できないのは、彼がどう感じているかではない。

 想像できないのは、彼が倒れる“結果”だ。


「英雄ってのは、そういうもんだろ」


 別の声が言う。


「生き残るものだ」


 英雄は、生き残るもの。


 それは教訓でも、理想でもない。

 ただの定義だ。


 英雄=生存者。


 生き残り続けた結果、英雄になるのではない。

 英雄だから、生き残るのだ。


 論理は逆転し、固定される。


 誰も、その輪から外れない。


 エルディオの名は出ない。

 彼の感情も、癖も、疲れも、語られない。


 語られているのは、

 “あの人”という像だけだ。


 強くて、死ななくて、勝つ英雄。


 その像が、火の明かりの中で、勝手に完成していく。


 本人は、少し離れた場所で、剣の手入れをしている。


 刃に布を当て、汚れを落とし、欠けを確認する。

 その作業に、誤差はない。

 手は、微かに血で汚れている。

 だが震えてはいない。


 彼は、背中越しに聞こえてくる声を、遮らない。


 聞いているわけでも、聞いていないわけでもない。

 音として、そこにあるだけだ。


 英雄像が、また一段、厚くなる。


 檻が、完成していく。


 ♢


 次の戦場で、エルディオは前に出る。


 いつも通りだ。

 危険な位置。

 最前線。


 刃が飛ぶ。

 魔法が走る。

 地面が割れる。


 致命に近い攻撃が、何度も彼を掠める。


 そのたびに、短い思考が浮かぶ。


 ――ここで終わっても、いい。


 それは願いではない。

 祈りでもない。

 ただの選択肢の確認だ。


 戦場には、無数の分岐がある。


 避ける。

 受ける。

 踏み込む。

 退く。


 その中に、

「終わる」という分岐が、常に含まれている。


 ――次は、避けなくてもいいかもしれない。


 思考は、淡々としている。


 胸の奥が痛むわけでもない。

 焦りも、絶望もない。


 ただ、可能性として、そこに置かれる。


 それでも、身体は動く。


 避ける。

 斬る。

 踏み込む。

 指示を出す。


 思考と行動が、乖離しているわけではない。

 むしろ、思考が行動に影響を与えないほど、

 行動が習慣化している。


 生きたいとは、思っていない。

 死にたいとも、思っていない。


 死ねば楽だ、という感覚だけが、

 呼吸のように、日常に溶け込んでいる。


 楽になる、という言葉にも、感情はない。


 戦が終われば、緊張は解ける。

 死ねば、すべてが終わる。


 同じ並びで、同じ重さ。


 どちらも、選ばれていない。


 ♢


 そのとき、刃が深く入る。


 脇腹。

 鎧の隙間。

 骨に当たる感触。


 一瞬、視界が白くなる。


 致命に近い。

 判断は、即座に下る。


 ――まだ、動ける。


 思考は短い。


「……まだか」


 それだけだ。


 痛みは、ある。

 だが、意味を持たない。


 意味を持たせる前に、次の判断が来る。


「後退、半歩。右、援護」


 声が出る。

 正確だ。

 掠れない。


 身体は、動く。


 血が流れる。

 鎧の内側が、熱を帯びる。

 視界の端が、少し暗くなる。


 それでも、剣は落ちない。

 足は止まらない。


 戦場が、終わる。


 勝利。

 いつも通り。


 医療係が駆け寄る。


「団長、傷を」


 エルディオは頷く。


「軽傷だ」


 事実として、そう分類される。

 致命ではない。

 戦線離脱の必要もない。


 布が当てられ、止血される。

 消毒。縫合。包帯。


 手順通り。


 医療係の手は早い。

 慣れている。

 英雄の身体を扱う手だ。


「助かりました」


 誰かが言う。


 助かった、という言葉にも、重みはない。


 助かるのが前提だからだ。


 エルディオは、空を見上げる。


 夜空だ。

 星が見える。

 戦場の上でも、空は変わらない。


 ――まだ、か。


 その思考だけが、静かに浮かぶ。


 生き残ってしまった、という実感はない。

 死に損ねた、という感覚もない。


 ただ、次の手順が来る。


 包帯が巻かれ、立ち上がる。


 部下が、安堵の顔で見る。


 誰も、心配しない。

 誰も、怯えない。


 英雄は、今日も死ななかった。


 その事実だけが、

 また一つ、彼を檻の内側に固定していく。


 生きる理由は、与えられない。

 死ぬ理由も、与えられない。


 残るのは、

 生き残ってしまう、という結果だけだった。


 ♢


 陣地への帰還は、静かだった。


 勝利の凱歌は上がらない。

 歓声も、叫びもない。

 代わりにあるのは、整然とした動線と、決められた手順だけだ。


 戦場から戻った兵たちは、順に武装を解き、報告を提出し、列を作る。

 血の匂いはまだ残っているが、それも時間が経てば消える。

 勝利とは、そういうものだ。


 陣営の中央に、簡素な台が設けられている。


 布が掛けられ、紋章が掲げられている。

 豪奢ではない。

 だが、軽くもない。


 表彰の場だ。


 エルディオ・アルヴェインは、呼ばれる。


 名前を呼ばれ、前に出る。

 歩幅は一定。

 背筋は伸びたまま。


 誰も彼の傷を見ない。

 包帯の下にある血も、誰も話題にしない。


 見ているのは、結果だけだ。


「今回の戦、騎士団長エルディオ・アルヴェインの指揮により――」


 形式的な言葉が続く。

 功績。

 的確な判断。

 損害軽微。


 いつもの並びだ。

 いつもの、正しい言葉の整列だ。


 勲章が差し出される。


 金属の光。

 重さのある円盤。

 紐の感触。


 エルは、両手で受け取る。


 受け取る動作に、迷いはない。

 拒否もしない。

 強く握りもしない。


 ただ、受け取る。


 掌に落ちた重みは、確かなはずなのに、重いとも軽いとも判断されない。

 判断されないまま、そこに残る。


「ありがとう」


 その言葉が、また落ちる。


 戦場のありがとうだ。


 救われた命への感謝。

 守られた陣地への感謝。

 生き残れたことへの感謝。


 あの家の客間と、同じ言葉。

 意味は違うはずなのに、喉に触れる感触は変わらない。


 ――同じだ。

 そう思う余裕があるわけではない。

 ただ、音が同じだから、同じとして処理される。


 否定できない。

 返す言葉も、決まっている。


 エルは、頷く。


 小さく。

 正確に。


「……務めを果たしただけです」


 自分の声が、どこか遠い。


 声が遠いのは、気持ちが遠いからではない。

 近い・遠いの尺度そのものが、彼の中で欠けている。

 距離を測る場所が、もうない。


 感謝の言葉は、続く。


「あなたがいてくれてよかった」

「あなたがいたから勝てた」

「あなたがいたから生きて帰れた」


 誰も悪者ではない。

 誰も間違っていない。


 それが、余計に逃げ場を奪う。


 最後に、表彰官が儀礼的に言う。


「英雄は、国の誇りである」


 誇り、という言葉も、ここでは手順だ。

 誇らしくなる必要はない。

 ただ受け取るべき言葉として落ちてくる。


 式は、滞りなく終わる。


 拍手はない。

 代わりに、安堵した空気が流れる。


 英雄は、また生き残った。


 それだけで、十分だという顔が、そこかしこにある。


 エルは、列を離れ、与えられた場所に戻る。


 勲章は、外さない。


 外す理由がないからだ――ではない。

 外す、という動作が「終わった」を意味することを、彼の身体が知っている。

 終わったと言ってしまえば、次の手順が途切れる。

 手順が途切れた瞬間、何が残るのかを、彼は確認したくない。


 だから、外さない。


 紐の位置を少し直す。

 鎧に当たって擦れない角度に整える。

 整えることが、彼の返事になる。


 ♢


 夜。


 陣営は静まり返っている。

 遠くで見張りの交代の声が聞こえる。

 焚き火は小さくなり、煙も薄い。


 エルは、独りで腰を下ろしている。


 前に置かれているのは、剣。

 布。

 油。


 武具の手入れ。


 血を拭い、刃を確かめ、油を差す。

 動作は、機械的だ。

 だが、雑ではない。


 この手順だけは、崩さない。


 剣は、何も語らない。

 責めない。

 感謝もしない。


 ただ、そこにある。


 刃に映る自分の顔を見る。


 変わっていない。

 老けてもいない。

 若返ってもいない。


 三年経ったことが、顔には残らない。


 残らない、という事実が、妙に苛立たしいはずなのに、苛立ちとして形にならない。

 苛立ちになる前に、次の工程が来る。

 布を畳む。油の蓋を閉める。剣を鞘に収める。


「……」


 言葉は出ない。


 出す必要がない。


 明日の予定を、頭の中で確認する。


 哨戒。

 訓練。

 次の出撃準備。


 すべて、決まっている。


 決まっているから、考えなくていい。

 考えなくていいから、楽だ。


 その“楽”は、幸福ではない。

 苦痛の反対でもない。

 ただ、負荷がかからないという意味だけの楽だ。


 生きる理由は、そこに含まれていない。

 死ぬ理由も、含まれていない。


 ただ、次がある。


 次がある限り、彼は動く。

 動けば、生きる。

 生きれば、次が来る。


 夜は、深くなる。


 静かな闇の中で、エルディオ・アルヴェインは座っている。


 誰にも責められず。

 誰にも必要とされ。

 誰にも終わらせてもらえないまま。


 胸の奥で、呼吸のように浮かぶ。


 ――ここで終わっても、いい。

 ――次は、避けなくてもいいかもしれない。


 けれど手は、明日のために剣の柄を確かめる。

 擦り減った箇所に、指が当たる。

 同じ位置。

 同じ摩耗。

 同じ繰り返し。


 そして、何も変えない。


 ――彼は、いつ死んでもいいまま、生き残っていた。

この話では、エルが「前に進んでいるように見えて、何も進んでいない」状態を描きました。

時間は三年分、確かに経っています。戦場も、敵も、立場も変わっています。

けれど彼自身の内側だけが、あの客間から一歩も出ていません。


勝利は積み重なり、称賛は増え、英雄像は完成していく。

それは本来、救いになるはずのものです。

けれどエルにとっては、生きる理由を与えられないまま、生き続けるための檻になってしまいました。


「死ねば楽だ」という感覚は、絶望ではなく、思考の癖として日常に溶け込んでいます。

それでも死ねない。

それでも生き残ってしまう。

この矛盾が、彼の生き方そのものを少しずつ壊していきます。


次の話では、この“壊れたまま続いている生”が、別の形で揺さぶられていきます。

英雄であり続けることが、本当に彼を守っているのか――

その歪みが、ようやく表に出てくるはずです。


ここまで読んでくださって、ありがとうございました。

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