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誰も救えない僕が、それでも魔王と生きる話  作者: 霜月ルイ
喪失編

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102/144

102. 正しい言葉

 

 ヴァルシュタイン家の客間は、明るかった。


 明るい、という言葉は本来、歓迎や安心のために使われるはずだ。けれど今のエルにとってそれは、ただの状態ではなく、こちらに向けられた圧だった。窓が大きい。ガラスが磨かれている。春の光が、遠慮なく床に落ちている。曇りがない。陰がない。隠れる場所がない。


 外では風が吹いているのだろう。窓枠の隙間から、僅かに湿った匂いが入り込む。若葉の匂いと、花の匂い。土がほどけた季節の匂い。葬儀場で嗅いだ香よりもずっと生活に近い匂いが、部屋の中に混じっている。


 客間は、客間として正しく整っていた。


 家具の配置は左右対称で、椅子と椅子の間隔が均等だ。壁際の棚に置かれた飾りも、過不足がない。多すぎれば趣味になる。少なすぎれば寂しさが出る。その境界を、金と手間で正確に踏み越えない程度に保った、貴族の部屋。


 絨毯が敷かれている。厚みがあり、足音が吸われる。靴底の硬さが布に沈み、音が出る前に消える。歩くたびに、自分の存在が薄くなるような感覚がする。けれど、その薄さが救いになるほど、エルは軽くない。


 座るための椅子が、正面に用意されていた。


 背もたれの高さがちょうどいい。腰掛けたとき、姿勢を崩しにくい角度。柔らかすぎない。沈み込みすぎない。疲れを逃がさないように作られた椅子だ。これに座れば、自然と背筋が伸びる。自然と、正しい顔になる。


 エルは、座る。


 誰かに促されたからではない。座るべき場面だと判断したからだ。判断と行動が切れていない。それだけで彼は、いまもまだ“騎士団長”としてここにいる。


 腰が椅子の座面に触れる。布の感触が服越しに伝わる。硬い。硬さは、痛みではない。ただの反応として身体に届く。痛いと感じる余裕があるなら、それは感情に近い。エルはそこまで届かない。届かないまま、背を立てる。背もたれには寄りかからない。寄りかかれば、休んでしまう。休んではいけない理由が、彼の中にまだ残っている。


 正面のテーブルが目に入る。


 木目が整っている。磨かれている。角が丸い。触れたときに指を傷つけないように、正しく削られている。表面には布が掛けられている。白ではない。淡い色だ。明るい。だが喪の色ではない。喪の色にすると、この部屋は“悲嘆の場”になってしまう。ここはそうではないのだと、部屋が言っている。


 そして花がある。


 花瓶に挿されている花は、葬儀の名残だろう。だが、葬儀の花としては明るすぎる。淡い桃色、白、薄い黄色。庭に咲いていた花かもしれない。春の花だ。部屋の明るさに負けないように、花だけが鮮やかに浮いている。


 花は、ここにあるだけで主張する。


 弔いのために飾られているのか、客を迎えるために飾られているのか、その区別が曖昧なままでも、花は正しく美しい。美しいという事実が、残酷だった。花は、誰の事情にも関係なく咲く。誰の許可も取らない。死を理由に枯れることもない。


 エルの視線は、花に留まらない。


 留まらないというより、留め方がわからない。


 どこを見ればいいのか。テーブルか、花か、窓か、壁の装飾か。人の顔ではない。顔はまだ来ていない。まだ揃っていない。今は、部屋だけが先に整って、彼を待っている。


 待っている、という言い方も違うかもしれない。


 この部屋は、誰を待つでもなく、最初からこうだった。こうあるべき姿で、ずっとここにあった。その「ずっと」が、今のエルには眩しすぎる。昨日が終わっていないのに、ずっとの時間だけがここにある。


 部屋の中には音が少ない。


 完全な無音ではない。窓の外から、鳥の声が遠くに聞こえる。風が枝を揺らす気配も、布越しに伝わる。けれどそれらは、客間の中で消されるように薄くなる。絨毯が音を吸い、壁が反響を抑える。ここで声を荒げることは想定されていない。ここで泣き叫ぶことは想定されていない。


 ここで泣く場所が、ない。


 その事実が、喉の奥に小さく引っかかる。だが、それを言葉にする回路は動かない。泣けないのではない。泣くための手順がない。泣くための段取りが、この部屋には用意されていない。椅子の角度も、光の入り方も、花の色も、すべてが「正しく話す」ためのものだ。


 話し合うための部屋。


 だから、ここに集まる。


 シャルの両親。アルベルトとエレオノーラ。エルの両親。アインとミレイユ。そしてエル。葬儀のあとに、整えられた部屋で、整えられた言葉を交わす。それが貴族の手順だ。悲嘆があるのに、悲嘆だけでは終わらせない。終わらせるために、言葉を並べる。


 エルは、自分の手を見ない。


 見れば、手袋があることを確認してしまう。確認すれば、昨日の感触が戻る気がする。外套の裾。指先。掴まれた気がする、あの曖昧な感覚。ここでそれを思い出すことが正しいのかどうか、その判断すら彼にはできない。


 だから、見ない。


 視線は宙に置かれる。置いたまま、動かし方が分からない。部屋のどこにも、彼の居場所はない。椅子は用意されているのに、居場所はない。座っているのに、居ないみたいだ。


 呼吸は一定だ。


 吸って、吐く。それを乱さない。乱せば何かが漏れる。漏れるのは涙ではないかもしれない。怒りかもしれない。叫びかもしれない。そういうものが漏れると、客間が崩れる。客間が崩れれば、次に何をすればいいか分からなくなる。


 分からなくなることが怖い。


 怖い、とも違う。


 ただ、手順が途切れるのが嫌だ。


 途切れてしまったら、自分が何者としてここに座っているのか、その支えが消える。支えが消えたとき、残るのはエルディオという男で、そしてその男は――いま、空っぽだ。


 エルは背筋を伸ばしたまま、待つ。


 誰かが来るまで、ではない。


 言葉が始まるまで、でもない。


 ただ、この部屋の明るさの中で、座っているという事実だけを維持する。


 窓の外では、春が続いている。


 花が揺れる。光が床を撫でる。鳥が鳴く。


 客間は、何もなかったかのように整っていて――だからこそ、何も逃がしてはくれなかった。


 ♢


 使用人が入ってくる。


 扉が開く音は、小さい。音を立てないようにしているのではない。最初から、この部屋ではその程度の音しか許されていない。扉が軋まないように手入れされ、蝶番は油を差され、動きは滑らかだ。開いたことに気づく前に、すでに人が中にいる。


 使用人は一人だ。


 黒に近い服。装飾のない前掛け。視線を上げない。視線を上げる必要がないと理解している動きだ。誰の顔を見るためでもなく、何かを言うためでもなく、ただ“用意された役割”を果たしに来た身体。


 銀の盆を両手で持っている。


 盆の上には、茶器が揃っている。数は、正確だ。欠けも余りもない。客の人数を数え、配置を考え、左右のバランスを崩さないように並べられている。白磁のカップ。小さな皿。砂糖壺。ミルクポット。すべてが、同じ角度で置かれている。


 音を立てずに、盆がテーブルに置かれる。


 音が、しない。


 しないというより、音が出る前に空気に吸われる。絨毯と布と、この部屋の静けさが、衝突音を許さない。置かれたという事実だけが、目で確認される。


 使用人は、一つずつ茶器を配る。


 誰に先、という序列も正しい。年長者から。家の主から。客から。騎士団長ではなく、家族としての位置が、暗黙のうちに判断されている。判断は早い。迷いがない。迷いがないから、こちらに選択の余地が生まれない。


 カップが、エルの前に置かれる。


 白い磁器。取っ手の位置が、右手で持ちやすい角度に揃えられている。意図された配置だ。偶然ではない。飲むための位置。


 湯気が、立つ。


 細く、まっすぐに立ち上る。揺れない。部屋の空気が動いていない証拠だ。湯気が、ここで留まることを許されている。熱が逃げない。香りも、散らばらない。


 茶の香りがする。


 穏やかな香りだ。少し甘く、少し苦い。喉を撫でる前から、落ち着きを約束する匂い。普段なら、深呼吸を促す種類の香りだ。ここで出されることに、何の不自然さもない。葬儀のあとであっても、話し合いの前には茶が出る。それが正しい。


 誰も、「どうぞ」と言わない。


 言わないというより、その言葉が想定されていない。出された時点で、飲むことが前提だ。勧める必要がない。拒否する選択肢も、用意されていない。


 使用人は、最後の一つを置き終えると、一礼する。


 深くもない。浅くもない。必要な角度で、必要な時間だけ頭を下げる。感情を含ませない。哀悼の色も、労りも、そこにはない。あるのは、完遂された手順だけだ。


 そして、静かに下がる。


 扉が閉まる音も、小さい。部屋は元の状態に戻る。戻る、という表現も違う。最初から変わっていない。人が一人出入りしただけで、何も揺らがない。


 茶だけが、そこに残る。


 湯気が立っている。香りが漂っている。温度がある。


 エルは、カップを見る。


 見る、というより、視界に入っている。意識的に視線を向けたわけではない。白い器と立ち上る湯気が、否応なく目に届く。手を伸ばすかどうか、一瞬だけ、判断が遅れる。


 飲むべきか。


 飲まない、という選択も理論上はある。喉が通らない、と言えばいい。体調が、と言えばいい。けれど、その言葉をここで使う理由が、見つからない。喉は詰まっていない。身体は倒れていない。医師を呼ぶ必要もない。


 飲まない理由が、ない。


 理由がないまま、エルは右手を動かす。


 手袋越しに、カップの取っ手を掴む。白磁の冷たさが、布を通して伝わる。取っ手は薄い。指の位置が自然に決まる。何度も使われてきた形だ。持ちやすさが、考え抜かれている。


 持ち上げる。


 湯気が、顔に近づく。香りが、少し強くなる。それでも、息は乱れない。吸い込もうともしない。避けようともしない。ただ、そこにある。


 唇が、カップの縁に触れる。


 熱い、と感じるまでに、一拍遅れる。


 遅れて、熱が来る。熱はある。確かに熱い。だが、それを「熱い」と判断するまでに、もう一拍かかる。その間に、液体は口の中に流れ込む。舌に触れる。喉を通る。


 味がする。


 苦味と、僅かな甘み。渋み。茶として正しい味だ。だが、エルはそれを評価しない。美味しいか、不味いか、濃いか、薄いか。そういった判断をする回路が、動いていない。


 ただ、飲む。


 飲み下す。


 喉が動く。動いたことは、わかる。けれど、その動きに意味は与えられない。水分が身体に入った、という事実だけが残る。喉が潤ったかどうかも、考えない。


 カップを、元の位置に戻す。


 音を立てない。立てないようにしたわけではない。最初から、立てる必要がない動きだ。置く位置も、最初と同じ。取っ手の角度も、ほとんど変わらない。


 湯気が、まだ立っている。


 香りが、まだある。


 それが、少しだけ怖い。


 飲んだのに、なくならない。減ったはずなのに、存在感が変わらない。茶は、そこにある。日常の象徴として、正しく、主張し続ける。


 エルは、背筋を伸ばしたまま、手を膝の上に戻す。


 次に何をすべきかは、わかっている。


 話す。


 正しい言葉を選ぶ。


 誰も責めない。


 誰も壊さない。


 そのための手順が、もう始まっている。


 茶は、その最初の合図だった。


 非日常を、日常の手触りで包み込み、殺すための、最初の一手。


 この部屋では、すべてが手順で進む。


 そしてエルもまた、その手順から、外れることを許されていなかった。


「……今日は、よく晴れているな」


 アルベルトの声は、低く、落ち着いていた。


 抑えているわけではない。震えてもいない。ただ、事実を述べるための高さと速度で、空気を切っただけの声だ。感想でも、感情でもない。窓の外を見れば誰でも分かることを、口に出しただけ。


 晴れている。


 その言葉は、客間の明るさと矛盾しない。むしろ、よく合っている。窓から入る光は白く、影を作らない。春の空だ。雲があっても薄く、風があっても穏やかで、何かを遮る要素がない。


 エルは、アルベルトの横顔を見る。


 見る、というより、視界に入っている。視線を向けた自覚はない。言葉が発せられた方向に、自然と意識が引き寄せられただけだ。アルベルトの背筋は、硬い。椅子に深く腰掛けているのに、背中が背もたれに預けられていない。軍人の姿勢だ。長年、崩さずにきた形。


「……あぁ、そうだな。アルベルト」


 アインが応じる。


 呼び捨てだ。旧知の間柄として、正しい距離の呼び方。敬称をつければ他人行儀になる。名だけを呼べば、近すぎる。その中間を、自然に選んだ声だった。


 エルは、二人の声のやり取りを、聞く。


 聞くという行為はしている。だが、その内容を咀嚼しようとはしていない。晴れている。そうだな。そこに意味を足す必要がない。意味を足さないまま、会話が続いていくことが、この場では正しい。


 沈黙が、来ない。


 沈黙が来ないことに、誰も触れない。


 アルベルトは、窓に視線を向けたまま、続ける。


「……道中も、特に問題はなかった」


 問題、という言葉が使われる。問題がなかった、という報告だ。何事もなく、滞りなく、予定通りに。道中で雨に降られたわけでもなく、馬車が故障したわけでもなく、人目を引くこともなかった。


 葬儀に向かう道として、理想的だ。


「そうか」


 アインが頷く。


 短い返答だ。それ以上、掘り下げない。掘り下げれば、問題がなかったことに意味を見出してしまう。意味を見出せば、そこから感情が生まれる。ここでは、それをしない。


 エルは、相槌を打つ。


「……はい」


 正しいタイミングだった。


 父の声が止まり、次の言葉が来るまでの間。短すぎず、長すぎない。ここで黙ってしまえば、会話が途切れる。途切れれば、沈黙が生まれる。沈黙は、この部屋では異物だ。


 声量も、正しい。


 小さすぎない。大きすぎない。騎士団長として、家の人間として、場を壊さない大きさ。声に、揺れはない。喉が詰まってもいない。掠れもしない。


 ミレイユが、軽く頷く。


 頷くだけだ。言葉は出さない。彼女の役割は、いまはそれでいい。会話に割って入る必要も、主導する必要もない。ただ、場が整っていることを確認する。


 エレオノーラは、膝の上でハンカチを持ったまま、視線を下げている。


 下げているが、俯いてはいない。俯けば、悲嘆になる。悲嘆になれば、誰かが声をかけなければならなくなる。そうならない位置で、視線を落としている。指先に力が入っているのが、エルの視界の端に映る。


「……葬儀も」


 アルベルトが、言葉を選ぶように、一拍置いてから続ける。


「……滞りなく、終わった」


 滞りなく。


 その言葉は、葬儀の評価として、正しい。誰も倒れなかった。叫ぶ者もいなかった。式次第は守られ、時間も予定通りだった。花は用意され、棺は運ばれ、祈りは行われた。


「……そうだな」


 アインが応じる。


「……立派な式だった」


 立派、という言葉もまた、正しい。立派であることは、失われたものの価値を否定しない。否定しないどころか、敬意を示す言葉だ。だからこそ、重い。


 エルは、また頷く。


「……皆様のおかげです」


 用意された言葉だ。


 誰かが決めた台詞ではない。けれど、同じ立場に立った人間が、何度も使ってきた言葉。感謝を示しつつ、責任を分散させる。誰か一人のせいにしないための、正しい文言。


 アルベルトは、ゆっくりと息を吐く。


 深くではない。溜息にもならない。呼吸を整えるための、自然な動きだ。


「……あの子も」


 そこで、一瞬だけ、間が生まれる。


 誰も、その間を突かない。


「あの子も、きっと……」


 言葉が続きそうになって、止まる。


 エルの中で、何かが動く。


 期待ではない。恐れでもない。ただ、次に来る言葉を予測する回路が、一瞬だけ動いた。


 ――喜んでいるだろう。

 ――安心しているだろう。

 ――幸せだった。


 どれも、この場で言われうる言葉だ。どれも、正しい。どれも、言われてしまえば、否定できない。


 アルベルトは、続きを言わない。


 言わないという選択を、取ったのかどうかは分からない。ただ、声が出なかった。出なかったことを、誰も責めない。


「……」


 沈黙が、来そうになる。


 だが、来ない。


「……今日は、少し暖かいな」


 今度は、アインが言う。


 同じ話題に戻る。天気。気温。誰の感情も傷つけない領域。正しさの中に、安全に留まるための話題。


「……春ですから」


 エルは、応じる。


 声の調子は、変わらない。返答の内容も、無難だ。誰もが知っている事実を、確認するだけの言葉。春だから暖かい。それ以上でも以下でもない。


 会話が、続いている。


 それ自体が、異常だ。


 誰かが泣き出すわけでもない。

 誰かが怒りをぶつけるわけでもない。

 誰かが責任を問うわけでもない。


 ただ、正しい言葉が、正しい順番で、正しい声量で、並べられていく。


 それが、この場の“会話”だ。


 エルは、その中心に座りながら、何も壊していない。


 壊していないから、守られている。

 守られているから、逃げ場がない。


 話題は、表面を滑り続ける。


 天気。

 道中。

 式の進行。


 どれも、本題ではない。

 けれど、どれも間違っていない。


 間違っていない言葉だけで、時間が過ぎていく。


 それが、この客間で許された唯一の進み方だった。


 ♢


「……エルディオ殿」


 アルベルトが、エルの名を呼ぶ。


 呼び方は、変わらない。葬儀の場でも、今この客間でも、同じ距離のままの敬称だ。近づきすぎず、突き放しもしない。長年かけて定着した呼び方を、崩さないという選択。


 エルは、視線を上げる。


 上げるまでに、ほんの一拍の遅れがある。意図したものではない。ただ、名前が意味を持つまでに、わずかな時間が必要だった。


 アルベルトは、背筋を伸ばしたまま、エルを見ている。


 目は、逸らされない。

 濁りもない。

 涙も、浮かんでいない。


 感情を抑えている、というより、感情を外に出す必要がない場所に、きちんと収めている顔だ。良い大人の顔。悲嘆を内側で処理することを、身につけてしまった人間の表情。


「……娘を」


 そこで、ほんのわずかに、言葉の速度が落ちる。


 詰まったわけではない。息を吸い直したわけでもない。ただ、次の言葉を、丁寧に置こうとした間だ。


「……大切にしてくれて、ありがとう」


 ありがとう。


 その言葉は、柔らかい。

 礼儀正しく、感謝を示すために使われる、正しい言葉だ。


 客間の空気を、乱さない。

 誰も傷つけない。

 誰の立場も、壊さない。


 だからこそ、逃げ場がない。


 大切にしてくれた。

 ありがとう。


 否定できない。


 エルが、シャルをぞんざいに扱ったことはない。

 守らなかったわけでもない。

 選ばなかったわけでもない。


 事実として、彼女を大切にしていた。

 少なくとも、そう見えるだけの行動を、積み重ねてきた。


 だから、この感謝は、成立してしまう。


 感謝される理由が、多すぎる。


 彼女と過ごした時間。

 守った日々。

 選び続けたこと。


 どれも、ここで否定すれば、過去そのものを否定することになる。

 肯定すれば、今を肯定することになる。


 どちらも、選べない。


 アルベルトの声は、静かだった。


 怒りはない。

 責めもない。

 後悔すら、言葉には乗っていない。


 ただ、感謝だけが、そこにある。


 エルは、すぐには頷かなかった。


 頷くこと自体は、正しい。

 だが、あまりにも早く頷けば、理解しているように見えてしまう。


 理解している、と見せるには、まだ早い。

 理解していない、と示すには、沈黙が長すぎる。


 その間で、ほんの一拍。


 呼吸一つ分の遅れを置いてから、エルは、首を縦に動かす。


「……はい」


 短い返答だった。


 余計な言葉は、足さない。

「こちらこそ」も言わない。

「当然です」も言わない。


 当然だと言えば、彼女の選択を軽くする。

 こちらこそと言えば、立場が逆転する。


 どれも、この場では正しくない。


 ただ、受け取る。


 感謝を、受け取る。


 それだけだ。


 ミレイユが、静かに息を吐く。


 声には出さない。

 ただ、胸の奥に溜まっていたものを、少しだけ外に逃がしたような動き。


 エルの肩が、わずかに緊張する。


 自分が何かをしたわけではない。

 何かを言われたわけでもない。


 それでも、この場で中心に据えられているという事実だけが、身体に圧をかける。


 そして、その圧が抜けきらないまま、次の言葉が来る。


「……あの子は」


 エレオノーラの声だった。


 柔らかいが、弱くはない。

 静かだが、曖昧ではない。


 エルは、そちらを見る。


 彼女は、エルを見返している。


 視線を逸らさない。

 下を向かない。

 ハンカチを握ったまま、だが、顔は上げている。


 母親の顔だ。

 悲嘆に沈む母ではなく、娘の言葉を預かる者の顔。


「……幸せだったと、言っていました」


 言い切りだった。


「思っていた」ではない。

「そう感じていたようだ」でもない。


 言っていた。

 言葉として、残っている。

 確認された事実として、提示される。


 それは、感想ではない。

 慰めでもない。

 希望的観測でもない。


 エルの感情が、介在する余地がない。


 シャルは、幸せだった。

 本人が、そう言った。


 その事実だけが、静かに、確定する。


 エルの喉が、わずかに動く。


 だが、唾が、落ちていかない。

 飲み込む動作が、途中で止まる。


 熱いわけではない。

 乾いているわけでもない。


 ただ、次の動作が、決まらない。


 幸せだった。


 その言葉は、救いになるはずだった。

 少なくとも、世間ではそう扱われる。


 誰かが死んだとき、その人は幸せだったと言われることは、慰めになる。

 残された者の罪悪感を、和らげるための言葉だ。


 だが、ここでは違う。


 これは、赦しだ。


 誰も、エルを責めていない。

 誰も、彼に失敗を突きつけていない。


 それどころか、彼女は幸せだったと言われている。


 ならば、何も言えない。


 後悔してはいけない。

 怒ってはいけない。

 苦しんではいけない。


 そうしなければ、彼女の言葉を否定することになる。


 エルは、口を開かない。


 開けない、ではない。

 開く必要がないと、判断している。


 何を言っても、過剰になる。

 何も言わなくても、場は整っている。


 整っていることが、正解だと、この部屋は示している。


 エレオノーラは、視線を逸らさないまま、続けない。


 それ以上、何も足さない。

 説明もしない。

 理由も、背景も、語らない。


 幸せだった。

 それで、完結している。


 エルの喉が、ようやく動く。


 小さく、音を立てずに、唾を飲み込む。


 それだけだ。


 声は、出ない。

 出す必要も、求められていない。


 誰も、続きを促さない。

 誰も、沈黙を不安がらない。


 正しい言葉が、正しい順番で置かれ、

 そのあとの空白もまた、正しいものとして扱われている。


 エルは、そこに座っている。


 背筋を伸ばしたまま。

 英雄として。


 怒ることも、

 否定することも、

 悲しむことすら、許されない場所で。


 ♢


 しばらく、誰も言葉を発さなかった。


 沈黙は、重くはない。

 気まずさもない。


 ただ、必要な間として、そこに置かれている。


 客間の中央に置かれた卓の上で、茶器が、わずかに音を立てる。

 使用人が下がるときについた、ごく小さな揺れが、今になって届いたのだろう。


 白磁の縁が、かすかに触れ合う。

 乾いた音。


 湯気は、もう薄い。

 最初に立ち上っていた、あたたかさを主張する白は、ほとんど消えかけている。


 香りも、強くはない。

 気を抜けば、そこに茶があることすら忘れてしまいそうだ。


 エレオノーラが、その湯気の消えかけた茶を、一度だけ見下ろした。


 飲もうとはしない。

 手を伸ばすこともない。


 そして、視線を上げる。


 エルを見る。


 距離は、変わらない。

 声の高さも、変わらない。


「……あなたを選んだのは」


 そこで、一拍。


 言葉を探しているのではない。

 順番を、確認しているだけだ。


「……あの子よ」


 断定だった。


 やわらかい声だったが、揺らぎはない。

 赦すための言葉でも、慰めのための言葉でもない。


 事実を、事実として置くための声。


 エルの胸の奥で、何かが、わずかに沈む。


 音はしない。

 痛みとも、違う。


 ただ、重心が、少しだけ下がったような感覚。


 エレオノーラは、続ける。


「誰に言われたわけでもないわ」


 言い訳の余地を、先に消す言葉。


「……自分で決めたことだった」


 その言葉は、優しい。

 同時に、徹底して公平だ。


 誰も、悪くない。

 誰も、間違っていない。


 選択は、彼女のものだった。


 だから――

 責任を押し付けられてはいない。


 だが、同時に。


 怒る場所が、完全に失われる。


 エルが何かを憎むとすれば、

 それは、彼女の選択を否定することになる。


 そんなことは、できない。


 彼女が、自分を選んだ。

 自分で決めた。

 幸せだったと、言っていた。


 その三つが揃ってしまった瞬間、

 エルの中から、あらゆる反発の可能性が消える。


 エレオノーラの目は、優しい。


 優しすぎる。


 逃げ場を作らない優しさだ。


 エルは、何も言わない。


 言葉を探しているわけではない。

 探す必要がないと、理解している。


 ここで言葉を足すことは、すべて余計になる。


 否定もできない。

 肯定もできない。

 感謝も、謝罪も、意味を持たない。


 だから――


 エルは、頷く。


 小さく。


 ほんのわずかに、首を縦に動かす。


 角度は、最小限。

 視線の高さも、変えない。


 声は、出さない。


 出せば、何かが壊れると、身体が知っている。


 手袋をしたままの手が、膝の上に置かれている。

 指は、揃っている。

 力は、入っていない。


 握らない。

 震えない。


 騎士団長として、完璧な姿勢。


 英雄として、正しい反応。


 この場で許されている、唯一の選択。


 ミレイユが、静かに息を吸う。


 それから、ゆっくりと吐く。


「……本当に、ありがとう」


 彼女の声も、乱れない。


 息子を失ったわけではない。

 だが、息子が失われつつあることを、どこかで理解している声。


「あなたがいてくれたことは……あの子にとって、大きかったはずよ」


 否定不能な言葉。


 エルは、また頷く。


 同じ角度。

 同じ速さ。


 感情を示さないことが、最も誠実な返答になってしまう。


 アルベルトが、最後に口を開く。


 場を締める声だ。


「……これからも、どうか身体を大切に」


 未来の話をすることで、会話を終わらせる。

 過去を引き延ばさない、良い終わらせ方。


「娘の分まで、生きてください」


 その言葉も、刃だ。


 だが、白い刃だ。

 血を流さない。


 否定できない。

 拒めない。

 怒れない。


 エルは、深く息を吸い、吐く。


 それだけで、返事の代わりになる。


「……はい」


 ようやく、声を出す。


 低く、整った声。

 いつもと同じ。


 誰も泣かない。

 誰も責めない。

 誰も声を荒げない。


 良い話し合いだった。

 そう言われても、否定できない。


 客間は、最後まで明るい。

 春の光は、傾き始めているが、やわらかい。


 すべてが、整っている。


 だからこそ、エルは立ち上がる。


 背筋を伸ばしたまま。


 怒ることも、壊れることも許されないまま。


 英雄として。


 ――赦されてしまった、その場所から。


 ♢


 エルは、静かに立ち上がった。


 椅子は、音を立てない。

 脚が絨毯に沈み、わずかな摩擦さえ吸い取られていく。


 立ち上がる動作に、迷いはない。

 速度も、姿勢も、正確だ。


 ここで躊躇すれば、何かを期待しているように見えてしまう。

 ここで急げば、逃げているように見えてしまう。


 だから、ちょうどいい速さで、立つ。


 背筋は伸びたまま。

 肩の高さも、視線の位置も、崩れない。


 騎士団長として、

 この家に迎え入れられた客として、

 そして――赦された者として。


 エルは、一礼する。


 深すぎない。

 浅すぎない。


 感謝でも、謝罪でもない角度。


「正しい」礼だ。


 誰も止めない。

 誰も引き留めない。


 そのこと自体が、この会話が円満に終わった証になる。


 アルベルトが、わずかに頷く。

 ミレイユが、目を伏せる。

 エレオノーラは、目を逸らさない。


 誰も、何も言わない。


 言う必要がないからだ。


 言葉は、すべて尽くされた。

 しかも、すべてが正しかった。


 エルは、踵を返す。


 足取りは、乱れない。

 床を踏む音も、ほとんど残さない。


 扉へ向かう背中は、迷いなく、まっすぐだ。


 客間を出る直前、

 ほんの一瞬だけ、視線が壁の花に向かう。


 色は、明るい。

 整えられている。

 生きている。


 だが、それ以上、何も起きない。


 エルは、そのまま扉を開ける。


 廊下に出ると、外からの光が、少し強くなる。

 時間は、確実に進んでいる。


 振り返らない。


 振り返る理由が、もうない。


 責められなかった。

 怒られなかった。

 恨まれなかった。


 代わりに、感謝され、肯定され、選ばれたと告げられた。


 そのすべてが、彼を正しい位置に固定する。


 誰かを恨むことも、

 自分を責めることも、

 どちらも選べない場所に。


 エルは、歩く。


 英雄として。


 ――赦されたまま、何も言えなかった。


誰も悪くない会話を書きました。

責める言葉も、怒りも、涙もない。

代わりにあるのは、正しさと感謝と赦しです。


それらは人を救うためのものですが、

同時に、逃げ場を塞ぐこともあります。


怒ることも、恨むことも、壊れることも許されない。

英雄であることが、そのまま檻になる瞬間を書きました。


世界はきれいで、言葉は正しくて、

だからこそ、エルは何も言えなかった。


次話では、その沈黙がどこへ向かうのか。

その歪みだけが、残っています。

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