101.棺と、花と、二十四年目の春
朝が来ていた。
来てしまった、という言葉さえ、正しいかどうかわからない。
光は確かに窓の外から差し込んでいるが、それが朝である理由を、エルは理解できなかった。理解したところで、何かが戻るわけでもない。戻る、という発想そのものが、今は遠い。
寝室は、静かだった。
静かだ、と認識するまでにも時間がかかる。
音がない、という判断が、頭の中で言葉にならない。
ただ、何も起きていない空間が、そこに広がっている。広がっている、というより――置かれている。昨日からそのまま、動かされずに。
ベッドの上に、白い布がある。
それが何を覆っているのか、考えようとすると、思考が途中で途切れる。
理由がわからない。
思考の入口が、ふさがれている。扉の前に立つことはできても、開ける鍵がない。鍵がないのに、開けようとしている自分の手だけが、どこか他人事みたいに見える。
「……団長」
誰かの声がした。
音としては聞こえた。
けれど、それが自分に向けられた呼びかけだという理解に、時間がかかる。音が空気を震わせ、耳に入る。そこから先――意味になるまでが、ひどく長い。
エルは返事をしなかった。
しなかった、というより、返事という行為が思いつかなかった。返すべきものがある、と認識するまでが遅い。遅いまま、時間だけが先に進む。
騎士が、もう一度口を開く。
「失礼いたします。……お身体は」
最後まで言われなかった。
続きを待つ、という発想が浮かばない。続きが必要だということも、いまは理解できない。言葉は途中で折れ、床に落ちたまま、誰も拾わない。
エルは、立っていた。
立っている、という感覚だけがある。
足の裏が床に触れている。
重心が偏っていない。
倒れてはいない。
それ以上の情報が、頭に入ってこない。
倒れていないのに、立っている理由もない。理由がないことを、理由として処理できない。
視線は、白い布から外れない。
外そうとしたのかどうかも、わからない。外せば何かが崩れる気がするのに、外さずとも崩れていることを、エルは知らないふりをしている。
騎士たちが、部屋に入ってくる。
数人。
足音がいくつか重なる。
音は聞こえる。
だが、それが「静かに動こうとしている」ことだと理解するまでに、また時間がかかる。静かに、丁寧に、ひとつずつ終わりへ近づいていく足取り。終わりへ近づいているのに、誰も「終わり」と言わない。
「……処置を」
誰かが言った。
処置。
その言葉の意味が、空中でほどける。ほどけた糸が、床に落ちる。踏めば絡まるのに、誰も踏まないように歩く。誰も踏みたくない。
騎士の一人が、布の端に手をかける。
その動きを見た瞬間、エルの喉が、ひくりと動いた。
理由はわからない。
止めたいのかどうかも、判断できない。
ただ、何かが動いたという事実だけが、遅れて胸に落ちてくる。落ちてくるのに、跳ね返す力がない。受け止めたくないのに、受け止めるしかない。
「……奥方を――」
その言葉は、途中で消えた。
奥方、という単語が、空気に触れた瞬間に、形を失った。
誰も続きを言えない。続きを言えば、そこに確定が生まれる。確定は、もう十分にあるはずなのに、人はそれを口でなぞることを避ける。
「……」
沈黙。
その沈黙が長いのか短いのか、エルには判断できない。
時間の感覚が、壊れている。壊れたものは直らない。直らないのに、直そうとする動作だけが残っている。そこが、いちばん残酷だ。
騎士が、ちらりとエルを見る。
視線に、迷いがある。
「……団長。お指示を」
指示。
その言葉が、頭の中で反響する。
だが、何を指示すればいいのかが、わからない。
何が起きているのか。
次に何をすべきか。
それらを繋ぐ回路が、切れている。
切れているのに、騎士たちは待つ。待ってしまう。団長が立っている限り、手順は彼を中心に回る。彼が中心であることが、いまは拷問になる。
エルの口が、ゆっくりと開く。
声が出るまで、時間がかかった。
「……運べ」
出てきた言葉は、それだけだった。
敬称もない。
理由もない。
感情も、ない。
ただ、手順を進めるための音。音だけが形になり、意味のないまま、現実を動かしていく。
騎士たちは、深く一礼し、その言葉に従う。
従う以外の選択肢を、誰も持っていない。持っていないのではない。持たないようにしている。崩れないために。
白い布が、持ち上げられる。
光を受けて、白さが際立つ。
あまりにも、きれいだった。
汚れがない。
血の痕もない。
傷も、隠されている。
まるで、最初から何もなかったかのように。
それが、ひどく、理解できない。理解できないのに、目はそれを理解しようとしてしまう。理解しようとするほど、白さが刺さる。白は清潔で、正しくて、だからこそ残酷だった。
「……軽いな」
誰かが、思わず漏らした。
すぐに、言葉を噛み殺す音がした。
軽い、という言葉の先には、比べてしまう現実がある。比べてしまえば、世界は戻らない。誰も戻したくない。
エルの指先が、わずかに動く。
だが、それが何を意味する動きなのか、本人にもわからない。
外套の裾に、視線が落ちる。
――掴まれた、気がした。
確信はない。
感触も、もう思い出せない。
ただ、掴まれたという感覚だけが、理由もなく残っている。残っているのに、掴まれた理由を思い出せない。思い出せないことが、さらに恐ろしい。恐ろしいのに、恐ろしいと感じる部分が麻痺している。
握ろうとして、やめる。
いや、握ろうとしたのかどうかも、定かではない。拳を作れば、そこに感情が入る。感情が入れば、次に壊れるのは自分だと、身体だけが知っている。
床に、金属音がしていた。
鎧の留め具が落ちている。
いつ外れたのか、覚えていない。
拾わなければ、という考えが浮かばない。
それが装備であることすら、遠い。遠いものほど、本来なら大事にするはずなのに。いまは遠いものの方が、安心する。近いものだけが痛い。
机の上に、封筒がある。
開かれた跡。
折れた角。
読んだ。
確かに、読んだ。
だが、内容を思い出そうとすると、頭の中が白くなる。
文字が、意味になる前に崩れる。崩れたまま、何度も同じところで転ぶ。転ぶのに、痛みの感覚がない。痛みがないことが、いちばん怖い。
戻した。
元の場所に。
しまう、という発想がなかった。
捨てる、という判断もできなかった。残しておけば、そこに彼女がいた証拠になる、と言語化できないまま、身体だけが理解している。
蝋燭の燃え残りが、壁際にある。
芯は短く、溶けた蝋が固まっている。
最後まで灯されていた光。
その事実だけが、なぜか、胸に引っかかる。
灯りは、何のためにあったのか。誰のためだったのか。考えようとして、やめる。考えれば、昨夜が輪郭を持ってしまう。
騎士の一人が、手を合わせかける。
祈りの形。
だが、その手は途中で止まり、下ろされた。
祈るには、遅すぎた。
いや、遅い早いではない。
祈る対象が、もう見えなかった。
見えないのに、祈りの形だけが残る。形だけ残るものほど、痛い。
棺が用意される。
音を立てないように、慎重に。
布に包まれた身体が、持ち上げられる。
エルは、動かない。
止めない。
許可した覚えもない。
ただ、部屋の中を、視線がさまよう。さまよう、と言っても、逃げ場を探しているだけだ。逃げ場がないから、視線は同じところを巡る。
整えられたベッド。
乱れのない床。
静まり返った空気。
すべてが、終わったあとの形だった。
「戻せなかった」
その言葉すら、まだ浮かばない。
浮かぶのは、もっと冷たい感覚だけだ。
――手順が、終わっていく。
それを、止められない。
止めようという思考が、存在しない。存在しないのに、止められないことだけは理解できる。理解できるから、息が詰まる。詰まるのに、呼吸は乱れない。それが英雄の体だ。
棺が運び出される。
部屋から、人が一つ、消える。
それでも、空気はすぐには変わらない。
変わらないから、彼女がまだいる気がする。いる気がするから、頭が追いつかない。
エルは、その場に立ったまま、動けなかった。
考えることもできず。
感じることもできず。
ただ、部屋に残された温度だけを、最後まで探していた。探して、見つからない。見つからないのに、探すことだけが続く。終わりは、探す行為にだけ残されていた。
♢
起きた。
目を開けた、ではない。
体を起こした。
それだけの動作に、理由はなかった。
目が覚めたからでも、朝だからでもない。
起きる時間だった、という感覚だけが、遅れて身体を動かした。遅れがあるのに、身体は律儀に従う。律儀さが、彼を英雄の形に縛りつける。
部屋に光が入っている。
白っぽい。
強くもなく、鋭くもなく、ただ輪郭をなぞるような光だ。
窓の外で、何かが揺れている。
花弁だと理解するまでに、少し間があった。
春だ。
その言葉が頭に浮かぶまでにも、時間がかかる。
浮かんだところで、意味は伴わない。意味が伴わないのに、春は春として存在している。存在するものは、こちらの事情を待たない。
風が、カーテンをわずかに動かす。
冷たすぎない。
かといって、温かいとも言えない。
触れれば、誰にでもやさしいと感じる種類の風だ。
だからこそ、やさしさが痛い。痛いのに、痛いと叫べない。
エルは、立ち上がる。
足の裏が床に触れる感触を、確認する。
体重が偏っていない。
ふらつきもない。
問題はない。
そう判断してから、次の動作に移る。
判断と行動が、切り離されていない。
それだけで、彼は“いつもの自分”を保っていた。保ってしまう。保ててしまう。それが、いちばん恐ろしい。
洗面台に向かう。
水を出す。
水音が、部屋の静けさを割る。
その音が、やけに鮮明だ。鮮明すぎて、現実がそこにあることを突きつけてくる。
顔を洗う。
冷たい水が、皮膚に触れる。
その冷たさを、冷たいと認識するまでに、また一拍遅れる。
だが、動作は止まらない。止まらないことで、何も考えなくて済む。考えれば、崩れる。
鏡を見る。
そこに映っている顔は、昨日と同じだった。
傷もない。
血の痕もない。
目の下に、極端な隈もない。
――変わっていない。
それが、理由もなく、腹立たしい。
世界が、同じ顔をこちらに返す。昨日も今日も同じだと言う。昨日が終わってしまったことだけが、違うのに。
だが、表情は動かない。
眉も、口元も、目の形も。
動かす理由が、見つからない。
理由が見つからないから、動かせない。動かせば、崩れたものが溢れてしまう気がする。
タオルで顔を拭く。
水気を拭き取る。
それだけのことなのに、動作がやけに正確だ。
拭き終えてから、タオルを掛ける位置を、一瞬だけ迷う。
どこに掛けていたか。
思い出せないわけではない。
だが、思い出す必要がある、という判断が遅れる。
結局、いつもと同じ位置に掛ける。
それで問題は解決した。解決した、という言葉の軽さが、今の自分に似合わない。だが、手順としては完了する。
衣服を選ぶ。
礼服。
喪服。
黒。
迷いはない。
今日が何の日であるかを、感情抜きで理解しているからだ。理解しているのに、理解している自分がどこか他人みたいだ。
だが、黒い布を手に取った瞬間、窓の外が視界に入る。
明るい。
薄い色が、重なっている。
花の色だ。
淡い。
主張がないのに、数が多い。
黒が、浮く。
浮く、という感覚が、言葉になる前に胸に落ちる。
それでも、別の選択肢はない。選び直す気力がない。選び直せば、迷いが生まれてしまう。迷いは、今いちばん危ない。
着替える。
留め具を一つずつ確認する。
ずれがないか。
皺が寄っていないか。
鏡に映る姿を、もう一度見る。
――問題はない。
その判断だけで、次へ進む。
次へ進む、ということができる。できてしまう。だから、周囲は安心してしまう。安心してしまうから、誰も彼の内側に触れない。
部屋を出る前に、足が止まる。
理由はわからない。
立ち止まったまま、数秒が過ぎる。
何かを、しようとしている。
……湯。
湯を、沸かそうとしている。
その事実に気づいた瞬間、動作が止まる。
手が、半端な位置で止まる。指が、取っ手に触れそうで触れない距離で止まる。
なぜ湯を沸かすのか。
何のために。
理由を探そうとして、やめる。
探したところで、答えが出ないことだけは、わかる。
答えが出ないから、湯も出ない。湯が出ないことが、生活の穴になる。穴は、言葉にならないまま空いている。
エルは、そのまま踵を返す。
湯は、沸かされない。
理由は、言葉にならない。
言葉にしようとも、しない。
言葉にすれば、誰かの役割が浮かび上がってしまう。役割を浮かび上がらせれば、いないことが確定する。
廊下に出る。
窓から、外の空気が流れ込んでくる。
湿った土の匂い。
若葉の匂い。
花粉。
どこか遠くで、焼き菓子の甘い匂いが混じっている。
朝の街の匂いだ。
日常の匂いだ。日常は、こちらを置いて歩いていく。
鳥の声がする。
一定の間隔。
騒がしくはない。
今日を始めるための、規則的な音。
その音を、耳が拾う。
意味を考える前に、身体が受け取る。受け取ってしまう。受け取れる自分が、どこか裏切りに思える。
階段を下りる。
一段ずつ。
足音が、規則正しく響く。
途中で、誰かとすれ違う。
騎士だ。
制服。
姿勢が正しい。
「……団長」
声を掛けられる。
エルは、足を止める。
顔を向ける。
「……おはようございます」
その言葉が、少し遅れて届く。
挨拶だと理解する。
「……ああ」
返事をする。
声は、低い。
乱れていない。
騎士の視線が、一瞬、揺れる。
何かを言おうとして、やめた顔だ。
エルは、それに気づかない。
気づいても、意味づけができない。意味づけができないから、救いもない。気づけないことが、彼を英雄として成立させる。
歩き出す。
外に出ると、光が一気に広がる。
白い。
薄い。
空が、高い。
風が、頬を撫でる。
柔らかい。
その感触が、あまりにも無差別で、少しだけ、胸の奥がざわつく。
理由は、わからない。
ただ一つだけ、事実が浮かぶ。
――今日、彼は二十四になった。
それだけだ。
祝福の言葉は、続かない。
意味づけも、評価もない。
数字が、そこにあるだけだ。
エルは、その事実を、掴まない。
否定もしない。
抱え込むこともしない。
ただ、通り過ぎる。通り過ぎることで、痛みも喜びも同じように、置いていく。
黒い礼服が、春の中で浮いている。
だが、誰もそれを指摘しない。
鳥は鳴き続ける。
花は揺れる。
風はやさしい。
世界は、何事もなかったかのように、今日を始めている。
エルは、その中を歩く。
英雄として。
何も考えられないまま。考えられないことが、むしろ彼を真っ直ぐにする。真っ直ぐであることが、周囲を黙らせる。
♢
街へ出る。
扉が閉まる音が背後で鳴っても、振り返らない。
振り返る理由が、もうない。振り返れば、そこに生活があったことを認めてしまう。生活を認めれば、失ったものが輪郭を持つ。
数歩遅れて、騎士たちが続く。
三人。
多くもなく、少なくもない。
護衛ではない。
守る必要があるほど、彼は弱っていない。
ただの“形”だ。
英雄が一人で歩かないための形。
悲嘆の中にあっても、役割を崩さないための形。
足音が揃わない。
揃えようとして、揃えきれない。
その半端さが、今の距離だった。整列しきれない程度に、人間であることが残っている。
街は、知っている。
葬儀があることを。
誰が死んだのかを。
そして、誰が残されたのかを。
通りに出ると、人々の動きが変わる。
止まらない。
集まらない。
ただ、視線だけが静かに集まる。
誰かが、帽子を取る。
誰かが、頭を下げる。
誰かが、胸に手を当てる。
それは敬意だ。
同情ではない。
憐れみでもない。
“英雄に対して向ける、正しい態度”。
誰も近づかない。
誰も声をかけない。
距離を保ったまま、通り過ぎる。
それが、彼を英雄のままにする。
英雄の周囲には、言葉より先に距離ができる。距離は優しさにも見える。だが、距離は同時に、救いの否定でもある。
エルは、歩く。
一定の速度で。
早くもなく、遅くもない。
感情が追いつかない速度。
考えが生まれる前に、次の一歩が出る速度。
花屋の前を通る。
色が、目に入る。
明るい。
薄い。
やわらかい。
黄色。
淡い桃色。
白に近い紫。
春の色だ。
葬儀に必要な花が、そこにある。
だが、そのどれもが――
祝いの色をしている。
喪に寄り添う暗さが、どこにもない。
沈む色が、存在しない。
エルは、花を見ない。
見ないというより、焦点が合わない。
色として認識される前に、視界から抜け落ちる。
抜け落ちたはずなのに、明るさだけが残る。明るさは、黒い礼服の周囲で反射して、余計に目立つ。
背後で、誰かの息が詰まる音がした。
若い方の騎士だ。
歩幅が、わずかに乱れる。
「……団長」
声が、出る。
出た瞬間に、その声の主が後悔しているのが分かる。
名前を呼ぶべきか。
呼んでいいのか。
呼んだあと、何を言うのか。
決めきれないまま、言葉だけが前に出てしまった。
エルは、足を止めない。
振り返らない。
「……」
返事はない。
返事を待たれていないことも、彼は理解していない。理解していないのに、彼の背中は答えとして成立してしまう。英雄の背中は、いつもそうだ。
若い騎士は、言葉を続けようとして、喉を鳴らす。
「……今日……」
今日。
その二文字が、空気に落ちる。
落ちた瞬間、重くなる。
誰も拾わないのに、確かにそこにある。
低い声が、被せる。
「口を閉じろ」
命令だった。
鋭くもなく、怒鳴りでもない。
だが、迷いがない。
若い騎士は、一瞬だけ唇を噛み、視線を落とす。
「……はい」
その返事が、やけに大きく響く。
響いてしまうのは、街が静かだからではない。言われなかった言葉が、周囲に満ちているからだ。
エルは、そのやり取りを聞いていない。
音としては、耳に届いている。
意味として、処理されていない。
ただ、歩く。
花屋の前を過ぎる。
春の色が、背後に流れる。
誰かが、別の場所で口を開く。
街の端で、知った顔が見えたのだろう。
「……団長……」
また、止まる。
また、続かない。
続けようとすれば、言葉は決まってしまう。
――お悔やみ、か。
――おめでとう, か。
どちらも、今は言えない。
言えないから、沈黙が残る。
沈黙は、言葉よりも長く残る。
そして、言葉よりも、うるさい。うるさいのに、誰も耳を塞げない。塞げば、そこに何かがあると認めてしまう。
エルは、前だけを見る。
黒い礼服が、春の光を吸う。
吸いきれずに、浮く。
浮いたまま、街を進む。
人々は、それを見送る。
英雄の背中として。
誰も、誕生日に触れない。
触れないという選択が、共有されている。
触れれば壊れる。
壊れるのは、彼ではない。
この“形”だ。
英雄であるという形。
悲しみを内側に押し込み、表に出さない形。
表に出さないことで保ってきたものを、今日だけは逆に、彼を縛る鎖にしてしまう。
若い騎士は、もう何も言わない。
低い方の騎士も、視線を前に固定している。
三人分の足音が、道に落ちる。
揃わないまま、しかし止まらずに。
葬儀場が、近づく。
花が必要だ。
言葉も、必要だ。
儀式も、必要だ。
必要なものは、すべて揃っている。
ただ一つだけ、欠けている。
――本音。
誰も言わない。
誰も言えない。
だから、エルは英雄のまま歩ける。
祝われるはずだった日を、
祝福の言葉が、言葉になる前に死んでいく道を。
彼は、何も考えないまま、進んでいく。
言葉にならなかった祝福だけが、
春の空気の中で、いつまでも置き去りになっていた。置き去りになったものは腐らない。腐らないまま、ずっとそこにいる。それが地獄になる。
♢
石造りの礼拝堂は、ひどく静かだった。
静か、というより――音を立ててはいけない場所だった。
誰かがそう決めたわけでもないのに、空気そのものが命令になっている。
声帯を動かすことさえ、罪になるような空気。足の裏まで、慎重になる。
扉は開け放たれている。
外の庭が見える。
花が咲いていた。
淡い色が重なり合い、風に揺れている。
花弁が一枚、ふわりと舞い、敷石の上に落ちる。
その軽さが、式場の空気を侮辱していた。
侮辱しているのに、花は悪くない。悪くないものが残酷な役を引き受けてしまう。それが、春だった。
棺は、中央に置かれている。
木目が整っている。
削り跡がなく、角はすべて滑らかだ。
白い布が掛けられている。
皺一つない。
折り目さえ、計算されたようにまっすぐだ。
白布の端は、寸分違わず揃えられている。揃えられていることが、ひどく正しい。正しさは、ときに暴力になる。
その周囲に、花が配置されている。
飾られているのではない。
整列している。
左右の間隔が揃えられ、色の配置も均等だ。
淡い黄色、白、薄桃色。
明るすぎる。
誕生日の花束に使われる色だ。
祝福のために選ばれる色だ。
祝福の色が、弔いの中央を占領している。占領されているのに、誰も抗えない。春は抗えない。
棺の中は、見えない。
誰も、覗こうとしない。
見えないことで、すべてが委ねられている。
想像だけが勝手に増える。増えた想像のどれもが、現実より優しくない。
参列者は、既に揃っていた。
シャルの家族が、前列にいる。
父――アルベルトは、背筋を伸ばして立っている。
その姿勢は、あまりにも硬い。
背骨が一本の棒になったようだ。
目は乾いている。
瞬きの回数が、異様に少ない。
泣かないのではない。
泣くという動作が、身体から切り離されている。
切り離していないと立っていられないほど、内側が崩れているのに、崩れが外に出ない。それが大人の地獄だ。
母――エレオノーラは、ハンカチを握っている。
白い布だ。
指先に力が入っている。
布が、少しだけ歪む。
だが、使われることはない。
目元は、乾いたままだ。
涙がないのではない。
出す場所が、ない。
泣けば娘が戻るわけではない。泣いても救われないことを、母は知っている。だから泣けない。
一歩後ろに、エルの両親がいる。
父――アインは、軍人の顔をしている。
戦場で部下を失ったときと、同じ顔だ。
感情を外に出さないための表情。
出せば、壊れることを知っている顔。
息子を見てしまえば崩れる。崩れたら息子が崩れる。だから、崩れない。
母――ミレイユは、何度も口を開き、閉じる。
言葉が、喉の奥まで来ている。
だが、出ない。
出せば、それは息子を祝う言葉になるかもしれない。
今日は、それを言ってはいけない日だと、彼女は知っている。
知っているから、言葉はすべて喉で死ぬ。死んだ言葉が喉を塞ぐ。だから息が浅くなる。浅くなるのに、彼女は泣かない。
騎士団が、後方に並ぶ。
戦場の隊列と、ほとんど同じ配置。
肩の位置、足の開き、視線の高さ。
鎧のきしむ音を、誰もが抑えている。
動けば音が出る。
音が出れば、何かが壊れる。
弔いなのに、整う。
整うことで、泣かないことを許す。泣けば隊列が崩れる。隊列が崩れれば、団長が崩れる。そう信じている。
司祭が、前に出る。
衣装は簡素だ。
飾りはない。
声も、低く、抑えられている。
「……本日は」
それだけで、空気が引き締まる。
言葉は短い。
感情を煽らない。
「……静かに、送りましょう」
宗教的な言葉は、ほとんど使われない。
魂の行き先を語らない。
救済も、約束しない。
ただ、終わったという事実だけを、手順として並べる。
手順にすれば、耐えられる。耐えられることが、逆に残酷だ。
香の匂いがする。
甘くはない。
乾いた、細い匂い。鼻の奥に張りつく。張りつく匂いは、記憶になる。記憶は、後から刺す。
布が擦れる音がする。
誰かが姿勢を直したのだろう。
ほんの小さな音なのに、誰もがそれを聞く。聞いてしまうほど、静かだ。
エルは、棺の前に立っている。
一歩も動かない。
立ち位置は、正確だ。
騎士団長として。
家族の近くで。
彼が動けば、全員が動く位置。
視線は、棺に固定されている。
花でも、司祭でもない。
呼吸は、乱れていない。
一定の間隔で、胸が上下する。
手は、開いたままだ。
握りしめない。
拳を作れば、そこに感情が入ってしまう。
彼は、それをしない。
しないことで、感情がないように見える。感情がないように見えるから、誰も触れない。触れないことで、彼は立てる。
顎の角度も、変わらない。
視線の高さも、一定だ。
ただ一つだけ、異常がある。
瞬きを、ほとんどしない。
目が乾いているはずなのに、閉じない。
閉じれば、何かが見える気がしている。
見えるものは、たぶん白布の下の現実ではない。昨夜の“もう少しで”の感触だ。だから閉じられない。
司祭が、黙祷を促す。
「……少しの間、目を閉じてください」
それは祈りではない。
手順だ。
全員が、目を閉じる。
エルも、閉じる。
暗闇が落ちる。
その瞬間、胸の奥で、何かが――痒くなる。
指先が、むず痒い。
外套の裾の感触が、一瞬だけ蘇る。
確かな記憶ではない。
形も、音も、ない。
ただ、成功しかけた感触だけが、遅れて浮かぶ。
浮かんだものは、掴めない。掴めないのに、痒みだけが残る。痒みは、消せない。
エルは、眉を動かさない。
息も、乱れない。
ただ、唾を飲み込めない。
喉が、動かない。
喉だけが現実に追いついている。追いついているから、飲み込めない。飲み込めないまま、彼は黙祷という手順を完了する。
司祭の声が、黙祷の終わりを告げる。
目が、開かれる。
何も、起きていない。
棺は、そこにある。
花も、そこにある。
弔辞が始まる。
誰も、美談を語らない。
「……彼女は、朝が早い人でした」
それだけだ。
「……部屋の窓を、必ず開けていました」
「……花の名前を、よく覚えていました」
生活の断片。
小さな事実。
それが、胸に刺さる。
よき妻、よき人――そういう大きな言葉より、こういう小さな事実の方が、戻らない現実を確定させる。戻らないのは、朝の窓だ。花の名前だ。湯の湯気だ。そういうものだ。
泣き声は、上がらない。
誰も、崩れない。
花を手向ける時間になる。
一人ずつ、前に出る。
花束が、棺の前に置かれる。
明るい色が、重なる。
あまりにも、祝福の形だ。
誰かの手が、震える。
だが、花は落とさない。
泣き崩れる者はいない。
声を上げる者もいない。
上げれば式が壊れる。式が壊れれば、団長が壊れる。その順番を、皆が知っている。
エルの番が来る。
彼は、花を取らない。
手向けない。
その必要がない、と判断しているわけではない。
ただ、触れたら終わると、身体が理解している。
その瞬間、誰も息をしなかった。
責めるでもなく、止めるでもなく、ただ空気だけが止まった。
止まった空気の中で、英雄は花を置かない。置けない。置けば、ここで終わる。
棺が、運ばれる。
重い。
だが、音を立てない。
静かに、静かに。
その静けさが、終わりを確定させる。
大きな音があれば、怒りにできたかもしれない。嘆きにできたかもしれない。静かすぎるから、すべてが内側に沈む。
誰も、手を伸ばさない。
エルも、伸ばさない。
触れなければ、まだ確定しない。
そう信じているわけではない。
ただ、確定させる行為を、選ばない。
選ばないという選択だけが、最後の抵抗になる。
棺が、外へ運ばれる。
庭の花が、視界に入る。
風が、花弁を揺らす。
春が、続いている。
誰も泣かない。
誰も祝わない。
誰も本音を言わない。
だから、この葬儀は、壊れない。
だから、エルは――
背筋を伸ばした英雄のまま、棺の前に立ち続けている。
世界が、式を侮辱していることに、
誰も、口を開けないまま。
♢
葬儀は、終わった。
終わった、という合図はなかった。
鐘も鳴らず、宣言もなく、誰かが声を上げることもない。
ただ、人が動き始めたことで、それが終わりだと理解される。
司祭が一歩下がる。
騎士団が、わずかに姿勢を緩める。
参列者たちが、互いの存在を確かめるように視線を動かす。
それだけだ。
誰も、深く息を吐かない。
誰も、肩を落とさない。
泣かなかったからではない。
泣く場所が、最後まで用意されなかった。
用意されなかったから、誰も泣けない。泣けないから、葬儀は整う。整うから、終わりだけが綺麗に残る。
棺は、もうない。
運び出されたあとに残ったのは、
白布の跡と、花の配置が崩れた床だけだ。
花弁が一枚、敷石の上に落ちている。
誰かが踏んだのか、少しだけ折れている。
それを、誰も拾わない。拾えば、拾った者の心が動いてしまう。動いた心は、涙になる。涙は、ここには置けない。
人が、散り始める。
静かに。
遠慮がちに。
互いに邪魔をしない距離を保ったまま。
「……団長」
誰かが、そう呼ぶ。
騎士だ。
エルは、振り向く。
反応が、遅れない。
「……お疲れさまでした」
その言葉は、正しい。
弔いのあとに使う、無難な言葉だ。
「……ああ」
返事をする。
声は、変わらない。
騎士は、それ以上、何も言わない。
言うべき言葉がないことを、理解している。
言葉を増やせば増やすほど、禁句に近づく。禁句の名は、誕生日だ。
別の者が近づく。
「……エルディオ」
名前で呼ばれる。
敬称をつけない呼び方。
家族だ。
エルの母、ミレイユが、目の前に立っている。
その横に、父のアインがいる。
ミレイユは、口を開く。
「……」
音にならない。
言葉が、喉まで来ているのがわかる。
それでも、出ない。
今日は、息子の誕生日だ。
それを、彼女は知っている。
祝いたい。
けれど、祝えば、何かを踏み越えてしまう。
彼女は、それをしない。
しないことが、母の選択になる。選択になるのに、救いにはならない。
ゆっくりと、口を閉じる。
「……気をつけなさい」
代わりに、そう言う。
それも、親としては正しい言葉だ。
正しい言葉しか出せないことが、こんなにも苦しい。
エルは、頷く。
「……わかっている」
それだけだ。
数字は、出ない。
二十四、という音は、どこにも現れない。
アインは、何も言わない。
ただ、息子の肩を見る。
触れない。
触れれば、何かが崩れることを知っている。
崩れるのは息子の心か、父としての自分か、わからない。わからないから触れない。触れないことが、距離になる。距離が、孤独になる。
人が、さらに散る。
シャルの家族が、最後に残る。
アルベルトは、深く一礼する。
軍人同士の、簡潔な礼だ。
礼にすれば、言葉は要らない。言葉にすれば、禁句が混じってしまう。
エレオノーラは、何か言おうとして、やめる。
代わりに、微かに笑おうとする。
うまくいかない。
それでも、言葉は選ばれない。
言葉が選ばれないことが、彼女の喪失だ。母親の喪失は、泣くことより先に、言葉を失う。
彼らは、去っていく。
背中が遠ざかる。
呼び止める理由は、どこにもない。
呼び止めれば、そこに関係が生まれる。関係が生まれれば、失ったものが繋がってしまう。繋がってしまうのが怖い。
礼拝堂の中が、空になる。
音が、戻ってくる。
風が、扉を揺らす。
鳥の声が、外から入り込む。
花弁が、また一枚、床に落ちる。
春は、待ってくれない。
待ってほしくても、待ってくれない。
待ってくれないから、世界は続く。
外に出ると、光が広がる。
白い。
やわらかい。
日差しが、誰にでも同じように降り注ぐ。
悲しみの有無を、区別しない。
区別しない光の下で、喪服だけが重く、浮く。
エルは、歩き出す。
騎士たちが、後ろにつく。
距離は、少しだけ開く。
護衛ではない。
形だ。
形としての距離。形としての整列。形としての沈黙。
誰も、誕生日に触れない。
触れない、という選択が、共有されている。
言えば、壊れると、全員が理解している。
だから言わない。言わないことで、今日が禁句になる。禁句は空気になる。空気は、次話にも残る。
エル自身も、数字を数えない。
今日は何日か。
何歳になったのか。
考えない。
考える必要がないと、判断している。判断しているのに、その判断がどこから来たのかはわからない。わからないまま、歩ける。それが英雄だ。
黒い礼服が、春の中で浮いている。
それでも、誰も指摘しない。
鳥は鳴く。
花は咲く。
風はやわらかい。
世界は、何事もなかったかのように、続いていく。
春は咲いて、風はやわらかくて――
それでも、彼女はいなかった。
ここまで読んでくださって、本当にありがとうございます。
この第1話は、「喪失」を泣き叫ぶ形ではなく、整っていく手順として描きたくて書きました。
泣けないのではなく、泣いてしまえば壊れてしまう。
だから誰も、壊さないために整える。
その結果として、葬儀は静かに終わっていきます。
そして季節は春でした。
花が咲いて、風がやわらかくて、鳥が今日を始める音を鳴らす。
世界が何事もなかったように続くことが、残された側にとってどれほど残酷か――
その違和感を、最後まで置き去りにしたかったんだと思います。
この回では、誰も本音を言いません。
言えないし、言わない。
その空白がこの先、少しずつ歪みになって、エルの中で“英雄の形”をズラしていきます。
次話からも、派手な救いは簡単には出ません。
でも、その代わりに、壊れたままでも生きていくための小さな手順を、ひとつずつ積み上げていきます。
よければ、もう少しだけ見守ってください。
ありがとうございました。




