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誰も救えない僕が、それでも魔王と生きる話  作者: 霜月ルイ
喪失編

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101/145

101.棺と、花と、二十四年目の春

 朝が来ていた。


 来てしまった、という言葉さえ、正しいかどうかわからない。

 光は確かに窓の外から差し込んでいるが、それが朝である理由を、エルは理解できなかった。理解したところで、何かが戻るわけでもない。戻る、という発想そのものが、今は遠い。


 寝室は、静かだった。


 静かだ、と認識するまでにも時間がかかる。

 音がない、という判断が、頭の中で言葉にならない。

 ただ、何も起きていない空間が、そこに広がっている。広がっている、というより――置かれている。昨日からそのまま、動かされずに。


 ベッドの上に、白い布がある。


 それが何を覆っているのか、考えようとすると、思考が途中で途切れる。

 理由がわからない。

 思考の入口が、ふさがれている。扉の前に立つことはできても、開ける鍵がない。鍵がないのに、開けようとしている自分の手だけが、どこか他人事みたいに見える。


「……団長」


 誰かの声がした。


 音としては聞こえた。

 けれど、それが自分に向けられた呼びかけだという理解に、時間がかかる。音が空気を震わせ、耳に入る。そこから先――意味になるまでが、ひどく長い。


 エルは返事をしなかった。

 しなかった、というより、返事という行為が思いつかなかった。返すべきものがある、と認識するまでが遅い。遅いまま、時間だけが先に進む。


 騎士が、もう一度口を開く。


「失礼いたします。……お身体は」


 最後まで言われなかった。

 続きを待つ、という発想が浮かばない。続きが必要だということも、いまは理解できない。言葉は途中で折れ、床に落ちたまま、誰も拾わない。


 エルは、立っていた。

 立っている、という感覚だけがある。


 足の裏が床に触れている。

 重心が偏っていない。

 倒れてはいない。


 それ以上の情報が、頭に入ってこない。

 倒れていないのに、立っている理由もない。理由がないことを、理由として処理できない。


 視線は、白い布から外れない。

 外そうとしたのかどうかも、わからない。外せば何かが崩れる気がするのに、外さずとも崩れていることを、エルは知らないふりをしている。


 騎士たちが、部屋に入ってくる。

 数人。

 足音がいくつか重なる。


 音は聞こえる。

 だが、それが「静かに動こうとしている」ことだと理解するまでに、また時間がかかる。静かに、丁寧に、ひとつずつ終わりへ近づいていく足取り。終わりへ近づいているのに、誰も「終わり」と言わない。


「……処置を」


 誰かが言った。


 処置。

 その言葉の意味が、空中でほどける。ほどけた糸が、床に落ちる。踏めば絡まるのに、誰も踏まないように歩く。誰も踏みたくない。


 騎士の一人が、布の端に手をかける。

 その動きを見た瞬間、エルの喉が、ひくりと動いた。


 理由はわからない。

 止めたいのかどうかも、判断できない。


 ただ、何かが動いたという事実だけが、遅れて胸に落ちてくる。落ちてくるのに、跳ね返す力がない。受け止めたくないのに、受け止めるしかない。


「……奥方を――」


 その言葉は、途中で消えた。


 奥方、という単語が、空気に触れた瞬間に、形を失った。

 誰も続きを言えない。続きを言えば、そこに確定が生まれる。確定は、もう十分にあるはずなのに、人はそれを口でなぞることを避ける。


「……」


 沈黙。


 その沈黙が長いのか短いのか、エルには判断できない。

 時間の感覚が、壊れている。壊れたものは直らない。直らないのに、直そうとする動作だけが残っている。そこが、いちばん残酷だ。


 騎士が、ちらりとエルを見る。

 視線に、迷いがある。


「……団長。お指示を」


 指示。


 その言葉が、頭の中で反響する。

 だが、何を指示すればいいのかが、わからない。


 何が起きているのか。

 次に何をすべきか。

 それらを繋ぐ回路が、切れている。


 切れているのに、騎士たちは待つ。待ってしまう。団長が立っている限り、手順は彼を中心に回る。彼が中心であることが、いまは拷問になる。


 エルの口が、ゆっくりと開く。


 声が出るまで、時間がかかった。


「……運べ」


 出てきた言葉は、それだけだった。


 敬称もない。

 理由もない。

 感情も、ない。


 ただ、手順を進めるための音。音だけが形になり、意味のないまま、現実を動かしていく。


 騎士たちは、深く一礼し、その言葉に従う。

 従う以外の選択肢を、誰も持っていない。持っていないのではない。持たないようにしている。崩れないために。


 白い布が、持ち上げられる。

 光を受けて、白さが際立つ。


 あまりにも、きれいだった。


 汚れがない。

 血の痕もない。

 傷も、隠されている。


 まるで、最初から何もなかったかのように。


 それが、ひどく、理解できない。理解できないのに、目はそれを理解しようとしてしまう。理解しようとするほど、白さが刺さる。白は清潔で、正しくて、だからこそ残酷だった。


「……軽いな」


 誰かが、思わず漏らした。


 すぐに、言葉を噛み殺す音がした。

 軽い、という言葉の先には、比べてしまう現実がある。比べてしまえば、世界は戻らない。誰も戻したくない。


 エルの指先が、わずかに動く。

 だが、それが何を意味する動きなのか、本人にもわからない。


 外套の裾に、視線が落ちる。


 ――掴まれた、気がした。


 確信はない。

 感触も、もう思い出せない。


 ただ、掴まれたという感覚だけが、理由もなく残っている。残っているのに、掴まれた理由を思い出せない。思い出せないことが、さらに恐ろしい。恐ろしいのに、恐ろしいと感じる部分が麻痺している。


 握ろうとして、やめる。

 いや、握ろうとしたのかどうかも、定かではない。拳を作れば、そこに感情が入る。感情が入れば、次に壊れるのは自分だと、身体だけが知っている。


 床に、金属音がしていた。


 鎧の留め具が落ちている。

 いつ外れたのか、覚えていない。


 拾わなければ、という考えが浮かばない。

 それが装備であることすら、遠い。遠いものほど、本来なら大事にするはずなのに。いまは遠いものの方が、安心する。近いものだけが痛い。


 机の上に、封筒がある。


 開かれた跡。

 折れた角。


 読んだ。

 確かに、読んだ。


 だが、内容を思い出そうとすると、頭の中が白くなる。

 文字が、意味になる前に崩れる。崩れたまま、何度も同じところで転ぶ。転ぶのに、痛みの感覚がない。痛みがないことが、いちばん怖い。


 戻した。

 元の場所に。


 しまう、という発想がなかった。

 捨てる、という判断もできなかった。残しておけば、そこに彼女がいた証拠になる、と言語化できないまま、身体だけが理解している。


 蝋燭の燃え残りが、壁際にある。


 芯は短く、溶けた蝋が固まっている。

 最後まで灯されていた光。


 その事実だけが、なぜか、胸に引っかかる。

 灯りは、何のためにあったのか。誰のためだったのか。考えようとして、やめる。考えれば、昨夜が輪郭を持ってしまう。


 騎士の一人が、手を合わせかける。


 祈りの形。


 だが、その手は途中で止まり、下ろされた。


 祈るには、遅すぎた。

 いや、遅い早いではない。


 祈る対象が、もう見えなかった。

 見えないのに、祈りの形だけが残る。形だけ残るものほど、痛い。


 棺が用意される。

 音を立てないように、慎重に。


 布に包まれた身体が、持ち上げられる。


 エルは、動かない。

 止めない。

 許可した覚えもない。


 ただ、部屋の中を、視線がさまよう。さまよう、と言っても、逃げ場を探しているだけだ。逃げ場がないから、視線は同じところを巡る。


 整えられたベッド。

 乱れのない床。

 静まり返った空気。


 すべてが、終わったあとの形だった。


「戻せなかった」


 その言葉すら、まだ浮かばない。


 浮かぶのは、もっと冷たい感覚だけだ。


 ――手順が、終わっていく。


 それを、止められない。

 止めようという思考が、存在しない。存在しないのに、止められないことだけは理解できる。理解できるから、息が詰まる。詰まるのに、呼吸は乱れない。それが英雄の体だ。


 棺が運び出される。

 部屋から、人が一つ、消える。


 それでも、空気はすぐには変わらない。

 変わらないから、彼女がまだいる気がする。いる気がするから、頭が追いつかない。


 エルは、その場に立ったまま、動けなかった。


 考えることもできず。

 感じることもできず。


 ただ、部屋に残された温度だけを、最後まで探していた。探して、見つからない。見つからないのに、探すことだけが続く。終わりは、探す行為にだけ残されていた。


 ♢


 起きた。


 目を開けた、ではない。

 体を起こした。


 それだけの動作に、理由はなかった。

 目が覚めたからでも、朝だからでもない。

 起きる時間だった、という感覚だけが、遅れて身体を動かした。遅れがあるのに、身体は律儀に従う。律儀さが、彼を英雄の形に縛りつける。


 部屋に光が入っている。


 白っぽい。

 強くもなく、鋭くもなく、ただ輪郭をなぞるような光だ。

 窓の外で、何かが揺れている。

 花弁だと理解するまでに、少し間があった。


 春だ。


 その言葉が頭に浮かぶまでにも、時間がかかる。

 浮かんだところで、意味は伴わない。意味が伴わないのに、春は春として存在している。存在するものは、こちらの事情を待たない。


 風が、カーテンをわずかに動かす。

 冷たすぎない。

 かといって、温かいとも言えない。


 触れれば、誰にでもやさしいと感じる種類の風だ。

 だからこそ、やさしさが痛い。痛いのに、痛いと叫べない。


 エルは、立ち上がる。


 足の裏が床に触れる感触を、確認する。

 体重が偏っていない。

 ふらつきもない。


 問題はない。


 そう判断してから、次の動作に移る。

 判断と行動が、切り離されていない。

 それだけで、彼は“いつもの自分”を保っていた。保ってしまう。保ててしまう。それが、いちばん恐ろしい。


 洗面台に向かう。

 水を出す。


 水音が、部屋の静けさを割る。

 その音が、やけに鮮明だ。鮮明すぎて、現実がそこにあることを突きつけてくる。


 顔を洗う。

 冷たい水が、皮膚に触れる。


 その冷たさを、冷たいと認識するまでに、また一拍遅れる。

 だが、動作は止まらない。止まらないことで、何も考えなくて済む。考えれば、崩れる。


 鏡を見る。


 そこに映っている顔は、昨日と同じだった。

 傷もない。

 血の痕もない。

 目の下に、極端な隈もない。


 ――変わっていない。


 それが、理由もなく、腹立たしい。

 世界が、同じ顔をこちらに返す。昨日も今日も同じだと言う。昨日が終わってしまったことだけが、違うのに。


 だが、表情は動かない。

 眉も、口元も、目の形も。


 動かす理由が、見つからない。

 理由が見つからないから、動かせない。動かせば、崩れたものが溢れてしまう気がする。


 タオルで顔を拭く。

 水気を拭き取る。

 それだけのことなのに、動作がやけに正確だ。


 拭き終えてから、タオルを掛ける位置を、一瞬だけ迷う。

 どこに掛けていたか。


 思い出せないわけではない。

 だが、思い出す必要がある、という判断が遅れる。


 結局、いつもと同じ位置に掛ける。

 それで問題は解決した。解決した、という言葉の軽さが、今の自分に似合わない。だが、手順としては完了する。


 衣服を選ぶ。


 礼服。

 喪服。


 黒。


 迷いはない。

 今日が何の日であるかを、感情抜きで理解しているからだ。理解しているのに、理解している自分がどこか他人みたいだ。


 だが、黒い布を手に取った瞬間、窓の外が視界に入る。


 明るい。

 薄い色が、重なっている。


 花の色だ。

 淡い。

 主張がないのに、数が多い。


 黒が、浮く。


 浮く、という感覚が、言葉になる前に胸に落ちる。

 それでも、別の選択肢はない。選び直す気力がない。選び直せば、迷いが生まれてしまう。迷いは、今いちばん危ない。


 着替える。

 留め具を一つずつ確認する。

 ずれがないか。

 皺が寄っていないか。


 鏡に映る姿を、もう一度見る。


 ――問題はない。


 その判断だけで、次へ進む。

 次へ進む、ということができる。できてしまう。だから、周囲は安心してしまう。安心してしまうから、誰も彼の内側に触れない。


 部屋を出る前に、足が止まる。


 理由はわからない。


 立ち止まったまま、数秒が過ぎる。

 何かを、しようとしている。


 ……湯。


 湯を、沸かそうとしている。


 その事実に気づいた瞬間、動作が止まる。

 手が、半端な位置で止まる。指が、取っ手に触れそうで触れない距離で止まる。


 なぜ湯を沸かすのか。

 何のために。


 理由を探そうとして、やめる。


 探したところで、答えが出ないことだけは、わかる。

 答えが出ないから、湯も出ない。湯が出ないことが、生活の穴になる。穴は、言葉にならないまま空いている。


 エルは、そのまま踵を返す。

 湯は、沸かされない。


 理由は、言葉にならない。

 言葉にしようとも、しない。

 言葉にすれば、誰かの役割が浮かび上がってしまう。役割を浮かび上がらせれば、いないことが確定する。


 廊下に出る。


 窓から、外の空気が流れ込んでくる。

 湿った土の匂い。

 若葉の匂い。

 花粉。


 どこか遠くで、焼き菓子の甘い匂いが混じっている。

 朝の街の匂いだ。

 日常の匂いだ。日常は、こちらを置いて歩いていく。


 鳥の声がする。


 一定の間隔。

 騒がしくはない。

 今日を始めるための、規則的な音。


 その音を、耳が拾う。

 意味を考える前に、身体が受け取る。受け取ってしまう。受け取れる自分が、どこか裏切りに思える。


 階段を下りる。

 一段ずつ。

 足音が、規則正しく響く。


 途中で、誰かとすれ違う。


 騎士だ。

 制服。

 姿勢が正しい。


「……団長」


 声を掛けられる。


 エルは、足を止める。

 顔を向ける。


「……おはようございます」


 その言葉が、少し遅れて届く。

 挨拶だと理解する。


「……ああ」


 返事をする。

 声は、低い。

 乱れていない。


 騎士の視線が、一瞬、揺れる。

 何かを言おうとして、やめた顔だ。


 エルは、それに気づかない。

 気づいても、意味づけができない。意味づけができないから、救いもない。気づけないことが、彼を英雄として成立させる。


 歩き出す。


 外に出ると、光が一気に広がる。


 白い。

 薄い。

 空が、高い。


 風が、頬を撫でる。

 柔らかい。


 その感触が、あまりにも無差別で、少しだけ、胸の奥がざわつく。


 理由は、わからない。


 ただ一つだけ、事実が浮かぶ。


 ――今日、彼は二十四になった。


 それだけだ。


 祝福の言葉は、続かない。

 意味づけも、評価もない。


 数字が、そこにあるだけだ。


 エルは、その事実を、掴まない。

 否定もしない。

 抱え込むこともしない。


 ただ、通り過ぎる。通り過ぎることで、痛みも喜びも同じように、置いていく。


 黒い礼服が、春の中で浮いている。

 だが、誰もそれを指摘しない。


 鳥は鳴き続ける。

 花は揺れる。

 風はやさしい。


 世界は、何事もなかったかのように、今日を始めている。


 エルは、その中を歩く。


 英雄として。

 何も考えられないまま。考えられないことが、むしろ彼を真っ直ぐにする。真っ直ぐであることが、周囲を黙らせる。


 ♢


 街へ出る。


 扉が閉まる音が背後で鳴っても、振り返らない。

 振り返る理由が、もうない。振り返れば、そこに生活があったことを認めてしまう。生活を認めれば、失ったものが輪郭を持つ。


 数歩遅れて、騎士たちが続く。

 三人。

 多くもなく、少なくもない。


 護衛ではない。

 守る必要があるほど、彼は弱っていない。

 ただの“形”だ。


 英雄が一人で歩かないための形。

 悲嘆の中にあっても、役割を崩さないための形。


 足音が揃わない。

 揃えようとして、揃えきれない。

 その半端さが、今の距離だった。整列しきれない程度に、人間であることが残っている。


 街は、知っている。


 葬儀があることを。

 誰が死んだのかを。

 そして、誰が残されたのかを。


 通りに出ると、人々の動きが変わる。

 止まらない。

 集まらない。

 ただ、視線だけが静かに集まる。


 誰かが、帽子を取る。

 誰かが、頭を下げる。

 誰かが、胸に手を当てる。


 それは敬意だ。

 同情ではない。

 憐れみでもない。


 “英雄に対して向ける、正しい態度”。


 誰も近づかない。

 誰も声をかけない。

 距離を保ったまま、通り過ぎる。


 それが、彼を英雄のままにする。

 英雄の周囲には、言葉より先に距離ができる。距離は優しさにも見える。だが、距離は同時に、救いの否定でもある。


 エルは、歩く。

 一定の速度で。

 早くもなく、遅くもない。


 感情が追いつかない速度。

 考えが生まれる前に、次の一歩が出る速度。


 花屋の前を通る。


 色が、目に入る。


 明るい。

 薄い。

 やわらかい。


 黄色。

 淡い桃色。

 白に近い紫。


 春の色だ。


 葬儀に必要な花が、そこにある。

 だが、そのどれもが――


 祝いの色をしている。


 喪に寄り添う暗さが、どこにもない。

 沈む色が、存在しない。


 エルは、花を見ない。

 見ないというより、焦点が合わない。


 色として認識される前に、視界から抜け落ちる。

 抜け落ちたはずなのに、明るさだけが残る。明るさは、黒い礼服の周囲で反射して、余計に目立つ。


 背後で、誰かの息が詰まる音がした。


 若い方の騎士だ。

 歩幅が、わずかに乱れる。


「……団長」


 声が、出る。

 出た瞬間に、その声の主が後悔しているのが分かる。


 名前を呼ぶべきか。

 呼んでいいのか。

 呼んだあと、何を言うのか。


 決めきれないまま、言葉だけが前に出てしまった。


 エルは、足を止めない。

 振り返らない。


「……」


 返事はない。

 返事を待たれていないことも、彼は理解していない。理解していないのに、彼の背中は答えとして成立してしまう。英雄の背中は、いつもそうだ。


 若い騎士は、言葉を続けようとして、喉を鳴らす。


「……今日……」


 今日。


 その二文字が、空気に落ちる。


 落ちた瞬間、重くなる。

 誰も拾わないのに、確かにそこにある。


 低い声が、被せる。


「口を閉じろ」


 命令だった。

 鋭くもなく、怒鳴りでもない。


 だが、迷いがない。


 若い騎士は、一瞬だけ唇を噛み、視線を落とす。


「……はい」


 その返事が、やけに大きく響く。

 響いてしまうのは、街が静かだからではない。言われなかった言葉が、周囲に満ちているからだ。


 エルは、そのやり取りを聞いていない。

 音としては、耳に届いている。

 意味として、処理されていない。


 ただ、歩く。


 花屋の前を過ぎる。

 春の色が、背後に流れる。


 誰かが、別の場所で口を開く。


 街の端で、知った顔が見えたのだろう。


「……団長……」


 また、止まる。

 また、続かない。


 続けようとすれば、言葉は決まってしまう。


 ――お悔やみ、か。

 ――おめでとう, か。


 どちらも、今は言えない。


 言えないから、沈黙が残る。


 沈黙は、言葉よりも長く残る。

 そして、言葉よりも、うるさい。うるさいのに、誰も耳を塞げない。塞げば、そこに何かがあると認めてしまう。


 エルは、前だけを見る。


 黒い礼服が、春の光を吸う。

 吸いきれずに、浮く。


 浮いたまま、街を進む。


 人々は、それを見送る。

 英雄の背中として。


 誰も、誕生日に触れない。

 触れないという選択が、共有されている。


 触れれば壊れる。

 壊れるのは、彼ではない。


 この“形”だ。


 英雄であるという形。

 悲しみを内側に押し込み、表に出さない形。

 表に出さないことで保ってきたものを、今日だけは逆に、彼を縛る鎖にしてしまう。


 若い騎士は、もう何も言わない。

 低い方の騎士も、視線を前に固定している。


 三人分の足音が、道に落ちる。

 揃わないまま、しかし止まらずに。


 葬儀場が、近づく。


 花が必要だ。

 言葉も、必要だ。

 儀式も、必要だ。


 必要なものは、すべて揃っている。


 ただ一つだけ、欠けている。


 ――本音。


 誰も言わない。

 誰も言えない。


 だから、エルは英雄のまま歩ける。


 祝われるはずだった日を、

 祝福の言葉が、言葉になる前に死んでいく道を。


 彼は、何も考えないまま、進んでいく。


 言葉にならなかった祝福だけが、

 春の空気の中で、いつまでも置き去りになっていた。置き去りになったものは腐らない。腐らないまま、ずっとそこにいる。それが地獄になる。


 ♢


 石造りの礼拝堂は、ひどく静かだった。


 静か、というより――音を立ててはいけない場所だった。

 誰かがそう決めたわけでもないのに、空気そのものが命令になっている。

 声帯を動かすことさえ、罪になるような空気。足の裏まで、慎重になる。


 扉は開け放たれている。

 外の庭が見える。


 花が咲いていた。


 淡い色が重なり合い、風に揺れている。

 花弁が一枚、ふわりと舞い、敷石の上に落ちる。


 その軽さが、式場の空気を侮辱していた。

 侮辱しているのに、花は悪くない。悪くないものが残酷な役を引き受けてしまう。それが、春だった。


 棺は、中央に置かれている。


 木目が整っている。

 削り跡がなく、角はすべて滑らかだ。


 白い布が掛けられている。

 皺一つない。

 折り目さえ、計算されたようにまっすぐだ。

 白布の端は、寸分違わず揃えられている。揃えられていることが、ひどく正しい。正しさは、ときに暴力になる。


 その周囲に、花が配置されている。


 飾られているのではない。

 整列している。


 左右の間隔が揃えられ、色の配置も均等だ。

 淡い黄色、白、薄桃色。


 明るすぎる。


 誕生日の花束に使われる色だ。

 祝福のために選ばれる色だ。

 祝福の色が、弔いの中央を占領している。占領されているのに、誰も抗えない。春は抗えない。


 棺の中は、見えない。

 誰も、覗こうとしない。


 見えないことで、すべてが委ねられている。

 想像だけが勝手に増える。増えた想像のどれもが、現実より優しくない。


 参列者は、既に揃っていた。


 シャルの家族が、前列にいる。


 父――アルベルトは、背筋を伸ばして立っている。

 その姿勢は、あまりにも硬い。

 背骨が一本の棒になったようだ。


 目は乾いている。

 瞬きの回数が、異様に少ない。


 泣かないのではない。

 泣くという動作が、身体から切り離されている。

 切り離していないと立っていられないほど、内側が崩れているのに、崩れが外に出ない。それが大人の地獄だ。


 母――エレオノーラは、ハンカチを握っている。

 白い布だ。


 指先に力が入っている。

 布が、少しだけ歪む。


 だが、使われることはない。

 目元は、乾いたままだ。


 涙がないのではない。

 出す場所が、ない。

 泣けば娘が戻るわけではない。泣いても救われないことを、母は知っている。だから泣けない。


 一歩後ろに、エルの両親がいる。


 父――アインは、軍人の顔をしている。

 戦場で部下を失ったときと、同じ顔だ。


 感情を外に出さないための表情。

 出せば、壊れることを知っている顔。

 息子を見てしまえば崩れる。崩れたら息子が崩れる。だから、崩れない。


 母――ミレイユは、何度も口を開き、閉じる。

 言葉が、喉の奥まで来ている。


 だが、出ない。


 出せば、それは息子を祝う言葉になるかもしれない。

 今日は、それを言ってはいけない日だと、彼女は知っている。

 知っているから、言葉はすべて喉で死ぬ。死んだ言葉が喉を塞ぐ。だから息が浅くなる。浅くなるのに、彼女は泣かない。


 騎士団が、後方に並ぶ。


 戦場の隊列と、ほとんど同じ配置。

 肩の位置、足の開き、視線の高さ。


 鎧のきしむ音を、誰もが抑えている。

 動けば音が出る。

 音が出れば、何かが壊れる。


 弔いなのに、整う。

 整うことで、泣かないことを許す。泣けば隊列が崩れる。隊列が崩れれば、団長が崩れる。そう信じている。


 司祭が、前に出る。


 衣装は簡素だ。

 飾りはない。

 声も、低く、抑えられている。


「……本日は」


 それだけで、空気が引き締まる。


 言葉は短い。

 感情を煽らない。


「……静かに、送りましょう」


 宗教的な言葉は、ほとんど使われない。

 魂の行き先を語らない。

 救済も、約束しない。


 ただ、終わったという事実だけを、手順として並べる。

 手順にすれば、耐えられる。耐えられることが、逆に残酷だ。


 香の匂いがする。

 甘くはない。

 乾いた、細い匂い。鼻の奥に張りつく。張りつく匂いは、記憶になる。記憶は、後から刺す。


 布が擦れる音がする。

 誰かが姿勢を直したのだろう。

 ほんの小さな音なのに、誰もがそれを聞く。聞いてしまうほど、静かだ。


 エルは、棺の前に立っている。


 一歩も動かない。

 立ち位置は、正確だ。


 騎士団長として。

 家族の近くで。

 彼が動けば、全員が動く位置。


 視線は、棺に固定されている。

 花でも、司祭でもない。


 呼吸は、乱れていない。

 一定の間隔で、胸が上下する。


 手は、開いたままだ。

 握りしめない。


 拳を作れば、そこに感情が入ってしまう。

 彼は、それをしない。

 しないことで、感情がないように見える。感情がないように見えるから、誰も触れない。触れないことで、彼は立てる。


 顎の角度も、変わらない。

 視線の高さも、一定だ。


 ただ一つだけ、異常がある。


 瞬きを、ほとんどしない。


 目が乾いているはずなのに、閉じない。

 閉じれば、何かが見える気がしている。

 見えるものは、たぶん白布の下の現実ではない。昨夜の“もう少しで”の感触だ。だから閉じられない。


 司祭が、黙祷を促す。


「……少しの間、目を閉じてください」


 それは祈りではない。

 手順だ。


 全員が、目を閉じる。


 エルも、閉じる。


 暗闇が落ちる。


 その瞬間、胸の奥で、何かが――痒くなる。


 指先が、むず痒い。

 外套の裾の感触が、一瞬だけ蘇る。


 確かな記憶ではない。

 形も、音も、ない。


 ただ、成功しかけた感触だけが、遅れて浮かぶ。

 浮かんだものは、掴めない。掴めないのに、痒みだけが残る。痒みは、消せない。


 エルは、眉を動かさない。

 息も、乱れない。


 ただ、唾を飲み込めない。


 喉が、動かない。

 喉だけが現実に追いついている。追いついているから、飲み込めない。飲み込めないまま、彼は黙祷という手順を完了する。


 司祭の声が、黙祷の終わりを告げる。


 目が、開かれる。


 何も、起きていない。

 棺は、そこにある。

 花も、そこにある。


 弔辞が始まる。


 誰も、美談を語らない。


「……彼女は、朝が早い人でした」


 それだけだ。


「……部屋の窓を、必ず開けていました」


「……花の名前を、よく覚えていました」


 生活の断片。

 小さな事実。


 それが、胸に刺さる。

 よき妻、よき人――そういう大きな言葉より、こういう小さな事実の方が、戻らない現実を確定させる。戻らないのは、朝の窓だ。花の名前だ。湯の湯気だ。そういうものだ。


 泣き声は、上がらない。

 誰も、崩れない。


 花を手向ける時間になる。


 一人ずつ、前に出る。


 花束が、棺の前に置かれる。

 明るい色が、重なる。


 あまりにも、祝福の形だ。


 誰かの手が、震える。

 だが、花は落とさない。


 泣き崩れる者はいない。

 声を上げる者もいない。

 上げれば式が壊れる。式が壊れれば、団長が壊れる。その順番を、皆が知っている。


 エルの番が来る。


 彼は、花を取らない。

 手向けない。


 その必要がない、と判断しているわけではない。

 ただ、触れたら終わると、身体が理解している。


 その瞬間、誰も息をしなかった。

 責めるでもなく、止めるでもなく、ただ空気だけが止まった。

 止まった空気の中で、英雄は花を置かない。置けない。置けば、ここで終わる。


 棺が、運ばれる。


 重い。

 だが、音を立てない。


 静かに、静かに。


 その静けさが、終わりを確定させる。

 大きな音があれば、怒りにできたかもしれない。嘆きにできたかもしれない。静かすぎるから、すべてが内側に沈む。


 誰も、手を伸ばさない。

 エルも、伸ばさない。


 触れなければ、まだ確定しない。

 そう信じているわけではない。


 ただ、確定させる行為を、選ばない。

 選ばないという選択だけが、最後の抵抗になる。


 棺が、外へ運ばれる。


 庭の花が、視界に入る。

 風が、花弁を揺らす。


 春が、続いている。


 誰も泣かない。

 誰も祝わない。

 誰も本音を言わない。


 だから、この葬儀は、壊れない。


 だから、エルは――

 背筋を伸ばした英雄のまま、棺の前に立ち続けている。


 世界が、式を侮辱していることに、

 誰も、口を開けないまま。


 ♢


 葬儀は、終わった。


 終わった、という合図はなかった。

 鐘も鳴らず、宣言もなく、誰かが声を上げることもない。

 ただ、人が動き始めたことで、それが終わりだと理解される。


 司祭が一歩下がる。

 騎士団が、わずかに姿勢を緩める。

 参列者たちが、互いの存在を確かめるように視線を動かす。


 それだけだ。


 誰も、深く息を吐かない。

 誰も、肩を落とさない。


 泣かなかったからではない。

 泣く場所が、最後まで用意されなかった。

 用意されなかったから、誰も泣けない。泣けないから、葬儀は整う。整うから、終わりだけが綺麗に残る。


 棺は、もうない。


 運び出されたあとに残ったのは、

 白布の跡と、花の配置が崩れた床だけだ。


 花弁が一枚、敷石の上に落ちている。

 誰かが踏んだのか、少しだけ折れている。


 それを、誰も拾わない。拾えば、拾った者の心が動いてしまう。動いた心は、涙になる。涙は、ここには置けない。


 人が、散り始める。


 静かに。

 遠慮がちに。

 互いに邪魔をしない距離を保ったまま。


「……団長」


 誰かが、そう呼ぶ。

 騎士だ。


 エルは、振り向く。

 反応が、遅れない。


「……お疲れさまでした」


 その言葉は、正しい。

 弔いのあとに使う、無難な言葉だ。


「……ああ」


 返事をする。

 声は、変わらない。


 騎士は、それ以上、何も言わない。

 言うべき言葉がないことを、理解している。

 言葉を増やせば増やすほど、禁句に近づく。禁句の名は、誕生日だ。


 別の者が近づく。


「……エルディオ」


 名前で呼ばれる。

 敬称をつけない呼び方。


 家族だ。


 エルの母、ミレイユが、目の前に立っている。

 その横に、父のアインがいる。


 ミレイユは、口を開く。


「……」


 音にならない。


 言葉が、喉まで来ているのがわかる。

 それでも、出ない。


 今日は、息子の誕生日だ。

 それを、彼女は知っている。


 祝いたい。

 けれど、祝えば、何かを踏み越えてしまう。


 彼女は、それをしない。

 しないことが、母の選択になる。選択になるのに、救いにはならない。


 ゆっくりと、口を閉じる。


「……気をつけなさい」


 代わりに、そう言う。

 それも、親としては正しい言葉だ。

 正しい言葉しか出せないことが、こんなにも苦しい。


 エルは、頷く。


「……わかっている」


 それだけだ。


 数字は、出ない。

 二十四、という音は、どこにも現れない。


 アインは、何も言わない。

 ただ、息子の肩を見る。


 触れない。

 触れれば、何かが崩れることを知っている。

 崩れるのは息子の心か、父としての自分か、わからない。わからないから触れない。触れないことが、距離になる。距離が、孤独になる。


 人が、さらに散る。


 シャルの家族が、最後に残る。


 アルベルトは、深く一礼する。

 軍人同士の、簡潔な礼だ。

 礼にすれば、言葉は要らない。言葉にすれば、禁句が混じってしまう。


 エレオノーラは、何か言おうとして、やめる。

 代わりに、微かに笑おうとする。


 うまくいかない。


 それでも、言葉は選ばれない。

 言葉が選ばれないことが、彼女の喪失だ。母親の喪失は、泣くことより先に、言葉を失う。


 彼らは、去っていく。


 背中が遠ざかる。

 呼び止める理由は、どこにもない。

 呼び止めれば、そこに関係が生まれる。関係が生まれれば、失ったものが繋がってしまう。繋がってしまうのが怖い。


 礼拝堂の中が、空になる。


 音が、戻ってくる。


 風が、扉を揺らす。

 鳥の声が、外から入り込む。


 花弁が、また一枚、床に落ちる。


 春は、待ってくれない。

 待ってほしくても、待ってくれない。

 待ってくれないから、世界は続く。


 外に出ると、光が広がる。


 白い。

 やわらかい。


 日差しが、誰にでも同じように降り注ぐ。

 悲しみの有無を、区別しない。

 区別しない光の下で、喪服だけが重く、浮く。


 エルは、歩き出す。


 騎士たちが、後ろにつく。

 距離は、少しだけ開く。


 護衛ではない。

 形だ。

 形としての距離。形としての整列。形としての沈黙。


 誰も、誕生日に触れない。


 触れない、という選択が、共有されている。

 言えば、壊れると、全員が理解している。

 だから言わない。言わないことで、今日が禁句になる。禁句は空気になる。空気は、次話にも残る。


 エル自身も、数字を数えない。


 今日は何日か。

 何歳になったのか。


 考えない。

 考える必要がないと、判断している。判断しているのに、その判断がどこから来たのかはわからない。わからないまま、歩ける。それが英雄だ。


 黒い礼服が、春の中で浮いている。

 それでも、誰も指摘しない。


 鳥は鳴く。

 花は咲く。

 風はやわらかい。


 世界は、何事もなかったかのように、続いていく。


 春は咲いて、風はやわらかくて――

 それでも、彼女はいなかった。

ここまで読んでくださって、本当にありがとうございます。


この第1話は、「喪失」を泣き叫ぶ形ではなく、整っていく手順として描きたくて書きました。

泣けないのではなく、泣いてしまえば壊れてしまう。

だから誰も、壊さないために整える。

その結果として、葬儀は静かに終わっていきます。


そして季節は春でした。

花が咲いて、風がやわらかくて、鳥が今日を始める音を鳴らす。

世界が何事もなかったように続くことが、残された側にとってどれほど残酷か――

その違和感を、最後まで置き去りにしたかったんだと思います。


この回では、誰も本音を言いません。

言えないし、言わない。

その空白がこの先、少しずつ歪みになって、エルの中で“英雄の形”をズラしていきます。


次話からも、派手な救いは簡単には出ません。

でも、その代わりに、壊れたままでも生きていくための小さな手順を、ひとつずつ積み上げていきます。

よければ、もう少しだけ見守ってください。


ありがとうございました。

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