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誰も救えない僕が、それでも魔王と生きる話  作者: 霜月ルイ
リィナ編

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10/24

10.春が終わるまで-3



 春は変わらず続いていた。

 日差しは暖かく、それでも風はまだ冷たい。

 花々は咲いているが、散り始めているものも多い。


 畑の端に咲いた小さな白い花びらが、土の上に落ちている。

 昨日までは枝にしがみついていたはずなのに、今日にはもう、軽いものから順に手放されていく。

 春は、そういう季節だ。

 始まったと思った途端に、終わる準備を同時に始めてしまう。


「こんにちは、エル」

「うん…こんにちは、リィナ」


 いつも通りの挨拶。

 いつも通りの作業。

 いつも通りの……はずだった。


 鍬を土に入れる音も、草を抜く手順も、彼女が薬草を仕分ける指の動きも、何ひとつ変わらないように見える。

 それなのに、僕の胸の中だけが、ずっと騒がしい。


 僕らは、もういつも通りではいられない。

 僕がリィナの中に踏み込んでしまったから。

 あの夕方、あの帰り道。

 引き返せる最後の場所で、僕は立ち止まらずに言葉を置いていった。

 彼女が守っていた境界線の上に、僕の足跡が残ってしまった。


 それでもリィナは、いつも通りであろうとしている。

 いつも通りに笑って、いつも通りに薬草に触れて、いつも通りに「またね」と言って帰る。

 その“いつも通り”が、どれだけ痛いものかも知らないふりをして。


 だけど、僕は――。

 僕だけは、もう戻れない。


 作業の途中、彼女が一度だけ小さく息を飲み込んだ。

 それを見てしまってから、僕の手元は何度も止まった。

 彼女は気づかれないように、ほんの少しだけ首筋を撫でて、何もなかったように土を払った。

 “何もなかった”という顔を、彼女は作るのが上手い。

 上手すぎて、胸が苦しくなる。


「リィナ」

「ん? なに? エル」


 呼びかけた瞬間、声が想像より乾いていた。

 喉が砂を噛んだみたいにざらついて、息がうまく通らない。

 言わなきゃいけない。

 言わないと、僕はまた“見ないふり”で自分を守る。

 それを続けた先にあるのが、取り返しのつかない後悔だって、知っている。


 僕の呼吸は少しずつ荒くなる。

 心臓が、胸の内側を叩く音がうるさい。

 春の風が頬を撫でても、落ち着かない。


 言わなきゃ、言うんだ。


「僕が、リィナを救う」


 口にした瞬間、世界が一度だけ静かになった気がした。

 風の音も、薬草の葉が擦れる音も、遠くの鳥の声も、いっぺんに薄くなる。

 その静けさの中で、リィナは驚かなかった。

 驚く代わりに、目の前の薬草を見つめたまま、少し困ったように笑った。


 その笑顔が、なぜだろう。

 褒められた時の笑顔でも、からかう時の笑顔でもない。

 “どう返したらいいか分からない”ときの笑顔だ。


「どうしたの? 急に」

「急じゃない、僕はリィナが…!」


 喉の奥から、言葉が溢れてくる。

 溜め込んでいた不安も、怖さも、願いも、全部いっしょくたになって。

 止められない。

 止めたら、僕が壊れる。


 その瞬間、僕の唇にリィナの指がそっと添えられた。


「……それ以上は、だめ」


 指先は冷たかった。

 土の冷たさと似ているのに、土よりもずっと柔らかい。

 “触れてはいけないもの”に触れてしまったみたいに、僕の身体がこわばる。


 僕は、その手を優しく握る。

 強く掴めば簡単に折れてしまいそうで、でも、離したら今度こそ永遠に届かなくなりそうで。

 握ることも、離すことも、怖い。


「僕はリィナを救いたい。

 これからも君の傍で、君と一緒に笑いあっていたい。

 これは僕のエゴだ。

 ただの自己満足だ。

 それを君が望んでいないことなんか分かってる…!」


 言いながら、分かってしまう。

 僕は“救いたい”と言いながら、結局は“自分が救われたい”んだ。

 彼女がいないと、僕はまた、色のない世界に戻ってしまう。

 誰にも必要とされない場所に放り出される気がする。

 それが怖くて、怖くて仕方がない。


 僕の語気がどんどん強くなっているのが分かった。

 声が震えている。

 怒っているようにも聞こえる。

 でも違う。

 これは怖さだ。

 自分の弱さが、叫びになって出ているだけだ。


「それでも、君を手放したくないと思った…!

 きみとの時間が、こんなにかけがえのないものになるなんて思ってなかった…!

 こんなにも、君のことを好きになってしまうなんて、思ってもみなかった…。

 リィナが僕のことをどう思ってるかなんてわからない、でも…僕は、君が好きだ、リィナ。

 君とずっと一緒に居たい、君と笑いあっていたい、もっと君と未来の話がしたい!

 なんで、諦めてるんだよ…!

 なんで、つらいって言ってくれないんだよ…!

 なんで……僕を頼ってくれないんだよ……。」


 最後の言葉は、ほとんど泣き声だった。

 頼ってほしい。

 すがってほしい。

 僕を必要としてほしい。

 そうしてくれたら、僕は――僕はここにいていいと、やっと思えるから。


 リィナは困ったように笑うだけだ。

 笑って、目を細めて、息を吐いて。

 その笑顔が、僕の言葉を否定しないことが、逆に怖い。

 拒絶されるより怖い。

 受け取られないまま、優しく置き去りにされるのが、一番怖い。


「ありがとう、エル。

 でも、私は大丈夫だから。」


 やさしい声だった。

 子どもをなだめるような、柔らかい声音。

 僕の熱を、冷ますための声。


「私はね、今もちゃんと生きてる

 つらいけど、苦しいけど、それも含めて、私だから」


 少しだけ笑って。


 その笑みは、さっきまでの困った笑みとは違った。

 ほんの少しだけ、決意の形をしていた。

 自分の足で立つ、と言っている人の笑みだ。

 立つのがどれだけ大変かを知っていて、それでも立つと決めた人の笑み。


「エルがいなくても、私は私として生きるよ

 ただ、一緒にいられたら嬉しいなって思ってただけ」


 ――それだけ。


 その“それだけ”が、胸の奥に深く落ちた。

 重い石が沈むみたいに、言葉が沈んで、息が詰まる。

 それだけ。

 それだけ、で済ませられるのか。

 僕は、こんなにも必死なのに。


 そう言って、彼女はゆっくり息を吐いた。


「そんなふうに想ってくれるのは、嬉しいよ。

 本当に、嬉しい」


 言葉はあたたかい。

 僕の手の中に残る温度も、声の柔らかさも、優しい。

 優しすぎる。

 だから残酷だ。


 でも、そこで一歩引く。


 距離じゃない。

 彼女の“世界”が、僕から一歩離れる。

 僕が踏み込もうとしている場所から、彼女が先に身を引く。

 それは逃げではなく、線引きだった。


「でもね、それを理由にしないで」


 僕の手を、そっと外しながら。


 触れられていた指先が離れると、そこだけが急に冷える。

 たったそれだけのことなのに、喪失みたいに感じてしまう。

 僕は息を吸う。

 吸ったのに、胸が満たされない。


「私を、エルの“生きる理由”にしないで」


 その言葉は、刃じゃなかった。

 斬りつけてくるものじゃない。

 むしろ、包帯みたいに静かに当てられる。


 でも、包帯が当たるってことは、そこに傷があるってことだ。

 彼女は、僕の中の傷を見抜いている。

 “僕が誰かを理由にしないと立てないこと”を、見抜いている。


 春の風が、畑を撫でる。

 薬草の葉が揺れる。

 太陽はまだあたたかいのに、背中に影が伸びていく。


 僕は、何か言わなきゃと思った。

「そんなつもりじゃない」とか。

「違う」とか。

「君が必要なんだ」とか。

 でも、どれも嘘になる気がした。


 本当は、彼女の言う通りだ。

 僕は、彼女を理由にしてしまいたい。

 “救う”という言葉に隠して、僕は彼女に寄りかかりたい。

 彼女が生きていてくれるなら、僕も生きていていいと思いたい。

 それがどれだけ身勝手かも分かっているのに。


「……リィナ」


 名前を呼ぶと、彼女は静かに頷いた。

 何も言わなくても分かっている、という頷きだった。

 それがさらに苦しい。

 分かっているのに、僕に同情しない。

 救ってくれない。

 役割をくれない。

 ただ、優しく線を引く。


「エルは、優しいよ」


 そう言って、彼女は少しだけ目を細めた。

 夕陽に照らされた白い睫毛が、淡く光る。

 その光が、消えそうに儚い。


「優しいから、誰かを救いたくなるんだと思う。

 でも……優しい人ってね」


 そこで、彼女は言葉を探すみたいに間を置いた。

 春の空気の中に、少しだけ冷たい匂いが混じる。


「優しい人ほど、自分の傷をごまかすのが上手い。

 救うって言って、自分を支えようとしちゃう」


 胸の奥が、きゅっと縮んだ。

 僕は、何も言えない。

 反論も、否定もできない。

 だって、図星だから。


「私は、エルのこと……好きだよ」


 その一言が、僕の中で暴れた。

 希望みたいに、でも同時に毒みたいに。

 好きだと言われたのに、救われない。

 救いが来ない。

 それが分かってしまう。


「一緒にいる時間も、好き」

「畑の匂いも、春の風も、エルの変なところも」


 くすっと笑って、彼女はそれから目を逸らした。


「だからこそ、お願い」


 声が、ほんの少しだけ震えた。

 初めて見た震えだった。

 いつも淡々としていた彼女が、“感情で揺れる”瞬間だった。


「私を理由にしないで

 私がいなくなったら、エルが壊れるような……そんな場所に、私を置かないで」


 その言葉が、心臓に刺さる。

 いなくなったら。

 彼女は、いなくなる前提で話している。

 僕がそれを直視しないようにしてきた未来を、彼女は当たり前のように置いた。


「……そんなこと、言うなよ」


 声が掠れた。

 否定したい。

 否定したいのに、否定できない。

 だって、彼女の身体は確かに悪くなっている。

 確かに、終わりへ向かっている。

 それを、僕だけが「まだ春だ」と言い聞かせている。


 リィナは首を振った。

 ゆっくり、ゆっくりと。

 その動作が、少しだけ遅い。


「エル」


 名前を呼ばれる。

 “エルディオ”じゃない、“エル”。

 僕がここでだけ許された名前。


「私はね、もう十分もらってる

 エルと笑えた日が、ちゃんとある

 それだけで、私の春は……長かった」


 長かった。

 その言い方が、まるで終わりを知っている人の言い方で。

 胸がひどく痛む。


 僕は、何も言えないまま立ち尽くす。

 畑の向こう、空が少しずつ色を変えていく。

 花びらが一枚、風に持ち上げられて、くるくると回って落ちた。

 その落ち方が、あまりに静かで、泣きたくなる。


 リィナは、最後にもう一度だけ笑った。

 いつも通りの、軽い笑み。

 でも、その奥にあるものを、僕は見てしまった。

 諦めじゃない。

 覚悟だ。

 自分の人生を、自分のまま終える覚悟。


「……それでも、エルが来てくれるなら

 私は、嬉しいよ」


 彼女はそう言って、僕の手を取らなかった。

 触れなかった。

 ただ、距離を保ったまま、優しく言った。


 ――それが、救いにならない優しさだった。

 だからこそ、胸が裂けそうに苦しい。


 春の光が、ゆっくり薄れていく。

 夜の匂いが混じり始める。

 僕はその境目の中で、立ち尽くしたまま、ただ思う。


 僕は、今ここで、

 “救う”という言葉を失った。


 それでも、彼女を失いたくないと思ってしまう。

 理由にしないと言われたのに。

 それでも、理由がほしいと願ってしまう。


 ――弱い人間だ。

 僕は、どこまでも。


 リィナは背を向けた。

 帰り道へと歩き出す。

 春の風が、彼女の白い髪を揺らす。

 その背中が、遠くなる。


「……またね、エル」


 振り返らずに言った声は、いつも通りだった。

 でも、僕は返せなかった。

 返したら、崩れてしまいそうだったから。


 喉の奥に溜まった言葉が、熱いまま落ちていく。

 胸の中で、何かがぐちゃぐちゃに絡まって、ほどけない。


 春は続いている。

 続いているのに、

 僕の中では何かが、もう終わり始めていた。



もしここまでの物語で、

何か一つでも心に残るものがあれば、

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そっと教えてもらえると嬉しいです。

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― 新着の感想 ―
どっちの気持ちも分かるけど「生きる理由にしないで」という言葉が心に来ました。物語全体の空気感が好きです。静かに余韻に浸らせるこの空気が好きです。
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