運命
成功者が成功について語ることはいつもどこか薄っぺらい。そして刺すような物悲しさを彼らの隅っこに発見するだろう。投影された欲望。オイディプス王。彼ら自身もそうであると自覚しているだろう。もし無自覚で語っているのなら自分自身を都合の良い論理で洗脳しているだけだ。普遍性なんてあったもんじゃない。物事をフラットに見るなんて不可能だ。何故なら彼らはなんで上手くいったか正直よく分かっていないからだ。原因を断定するには余りにも要素が多すぎる。成功者であったとしても。いや、逆に成功者であるからこそ難しいのかもしれない。一挙手一投足において彼らの影が滲み出る。努力したから。やり切ったから。最善を尽くしたから。環境が良かったから。運が良かったから。たまたま。同じ事を同じようにやったら上手くいくと言うのかもしれないが、それが反例でない可能性がどれだけあるというのだろう。ひとつの道にひとつの解。汎用性は如何ほどか?
残酷な事であるが、「成功者の成功」だけに焦点を当てる必然性は全くないという事に気づかれただろうか。文章について語る事も道行きについて語る事も可能だと言う事を。汎用性がないことが汎用性につながるという不可思議な状況。そしてそれを打開する術を持ち得ないことを嬉々として受け入れているということ。圧倒的な閉塞感。目を覆いたくなるようなどうしようもなさ。だから人々はこれを運命と呼ぶのだ。これこそが成功者が成功した所以であり、我々が我々たる所以なのだ。