第5章 英雄イヴニスと彼我の鎖 (前編)
リテュエッタとレルゼア、それにガヘラスの3人は、騎士国の地下に張り巡らされた巨大な暗渠の中を彷徨っていた。
仄暗い通路には、ぽつ、ぽつと一定間隔で松明や発光ガス、天井口などの明かりが整備されており、主要経路の脇には整備や点検などを目的とし、数人が横に並んでも問題ない程の石の歩道が敷かれている。
通気口も一応何処かには設けられている様だが、全体的にじめじめと湿気っていて、気温の割にはかなり不快度が高い。
騎士国イヴナードは比較的歴史が浅く、それ故最先端の灌漑や治水技術を取り入れる事に繋がった。
広大な土地を計画的に広げて行く事が出来たため、首都の殆どでこうした暗渠による取水と排水が可能となっており、余程開拓中の郊外でない限り井戸の利用は少ない。
稀に貧困者や後ろ暗い集団が根城としている事もあって、この迷路じみた暗渠網全体を灰市街と呼ぶ事すらある。
あの日、若き騎士ガヘラスへの接触の後、彼からは3日程で早々に打診があった。
イヴニス神殿の地下とはいっても、実際に英雄が封じられている場所まで繋がっておらず、どうやら水路網から更に地下深くへと潜る道が隠されているのだという。
更にその日の内に侵入を試みるという拙速具合だった。というのも丁度その日は国賓が訪れているようで、城砦庁舎に警備が集中し、他が手薄になっているらしい。
コツ、コツと3人の足音が不規則に響き続ける。
カンテラを掲げて先頭を進んでいたガヘラスは、不自然に折れ曲がった通路の脇に、丁度明かりと明かり差す間で少し暗がりになっている所に特殊な文字がひっそりと刻まれているのを見付け、後続の2人へと告げた。
「……やっと見付けました、恐らくここです」
それは6つの小さな古代文字のようだったが、彼は片手で器用に3つの文字を隠すと、石壁だったところの一部が、暗く、音もなく削げ落ちる。
芸事の神ヴァルネリットの隠匿術を応用した目隠しであろう。
「行きましょう」
隠し通路の先は土が剥き出しの羨道のような細い階段となっており、ガヘラスはその勇猛さを以て臆することなく手狭な隘路を先導して行った。
然程長くはなかったものの、水路脇のような明かりが無く、彼の持つカンテラ位しか光源が無かったため、歩みを進める度、深い谷底に向かって延々と沈み行くような感覚に陥る。
暗がりに覆われてしまうのは閉塞感こそあれ、呼吸は通常通り出来ており、頬を通り過ぎる僅かな空気の流れも感じられた。
暫くして最奥の層へと辿り着くと、古びて所々黴が生えたように見える青銅の厚い扉が彼等の行く手を遮った。閂が掛けられており、ガヘラスはそれに目を留めると僅かに顔を顰める。
「……流石にこの鍵までは調達出来ていません」
然し能く見るとそれは比較的新しい一般的な錠前の様で、然程頑丈そうでも無い。試しに短剣の柄頭で何度か思い切り打ち付けてみたところ、あっさりと破損してくれた。
若き騎士はそれを見て安堵する。特殊な防護術などは、幸い施されていなかった様だ。
──侵入の痕跡を残してしまった、とレルゼアは一考していたが、ガヘラスの方は些事とばかりに意に介していなかった様で、若き獅子は微かにその指先を震わせながら、ゆっくりと扉を開け放った。
「よお、今回は早かったな」
少し掠れた男の声が少し奥まった方から響き渡る。
扉を開けた先は全面石造りで、その"玄室"とも言える部屋は全体が薄ぼんやりと滅紫に発光しており、壁には嘗て見たような古い時代の紋様が大きく刻まれていた。
高さは大人2人分も無かったが、小さな広場くらいの部屋の中央には、人の姿と2つの光の筋が見え、その影は侵入者である3人の元へと薄く小さく道のように伸びて来ていた。
最大限に警戒しながら徐々に近付いて行くと、囚われの男が両腕を翼のように大きく広げ、膝を突いている。
その両腕が丸太程もある巨大な2本の白く輝く鎖によってまるで操り人形の様に天井から吊り下げられていた。またすぐ近くには更に別の煤色の鎖も2本、誰も縛り付けないままの手枷が虚を携え、だらんと垂れ下がっている。
恐らくこちらは贄のために後から設えられたものだろう。
「これが、かの英雄イヴニス…?」
最初にそう呟いたのは、若き騎士ガヘラスだった。ここまで見窄らしい姿だとは彼等3人の誰もが想像はしてはいなかった。目の前に囚われているのは、襤褸布を纏い、顔もこれと言った特徴が見受けられず、何処にでも居るようなただの痩躯の青年。
「…これ、とは随分大概な物言いだな」
青年は冷笑し、唇の端を大きく持ち上げる。見ると歳の程はガヘラスと同じか僅かに上くらいだろうか。俯いたその頬は痩せ痩け、垂れ下がった鈍色の前髪の奥から暗い双眸がじっとこちらを睨め付けてくる。
奇しくも地上に祀られている彼の偶像、白銀の鎧を纏い、雄々しく偉丈夫なその姿とは正反対で、まるで別人の様な印象を受けた。
「こないだのジジイ共じゃねぇな、たまには趣向を変えてみたか?」
リテュエッタはその得も言われぬ不快な声音に恐怖を感じて身動ぐと、イヴニスと思しき青年は俯きがちなまま視線だけで彼女を追う。
「…成る程、今回は貴様か」
全き英雄は、この竜髄症を患っている少女に何か感じ取ったのだろうか。リテュエッタは自身でも気付かない内にジリジリと戦く様に歩を少し下げていた。
レルゼアはそんな彼女の前に半身で割って入り、男の睥睨から怯える少女を庇う様にして、泰然とその前に立ち開かった。
「この娘は贄ではない。我々は話をしに伺っただけだ。貴方に授けられたという女神エファーシャの力と竜髄症の事を、どうか教えていただけないだろうか」
率直過ぎる探り出しで、フレア=グレイスの七柱、その栄華神に付けられた女神の名を聞くや否や、この青年の目にはギラギラと暗澹たる輝きが宿り行く。
「──エファーシャ…だと?」
この地で英雄と栄華神の関係を知る者など、疾うに居ない筈。男の中で突如全身の血を沸騰させる様な激昂が湧き上がると、直ぐに苛烈な悪意へと姿を変え、両腕を引き千切らんばかりに光る鎖を何度も手首で打ち引いた。
「クソがッ…!!あの女、この忌々しい力を俺に押し付けやがって!!!絶対に…絶対にぶち殺してやる!!巫山戯るな!!人を弄びやがって!!!」
ガヘラスは咄嗟に腰に提げていた大剣の柄に手を掛けて臨戦態勢を取るものの、レルゼアは今ここで敵意を見せるのは得策でないと手の合図だけで彼を制する。
英雄その人であろう青年は鬼人の様な形相で、今にも殴り掛からんばかりに何度も何度も枷に繋がれた拳を打ち引き続けた。
殆ど身動きが取れない状態であるにも関わらず、その束縛を腕から伸びた鞭の様に撓らせ、波打たせ続ける。彼を繋ぎ止める胴周り程もある巨大な鎖、光輝く魔人の鎖が真一文字に引かれる度、玄室が微かに揺れ動く様な錯覚に陥り、まるで大蛇の腹の中にでも居るような気分だった。
だが因果すら繋ぎ止めるその鎖が彼を解き放つ事は決してない。
喩えその両腕が引き千切れられたとしても、その事実すら無かったかの様に、彼を束縛し続けるだろう。
冥府神が手を貸し、大賢者が施した封印とは、そのような余りに頑強なものだった。
眼前の青年は暫くの間、呪詛のように只管罵詈讒謗を撒き散らしながら、業腹の矛先を探し続けた。
両手を吊られたその男、英雄イヴニスが疲弊し、息も絶え絶えになってきた頃レルゼアは努めて冷静に再び問い掛けた。
「──我々は貴方の力の元を辿れば、竜髄症をどうにか治せるのではないかと考えた。エファーシャの事も能く分かってはいない。私達に教えてはいただけないだろうか」
男の手首からは血がうっすらと滲み、前腕を細く薄く赤い血管が浮き出たかの様に伝っていた。
更に口の中も少し切ったのだろうか、血の混ざった痰を唾棄しながら呼吸を整えている。彼等3人は静かに英雄の答えを待った。
「は……そういう事かよ」
僅かな沈黙の後、イヴニスは軽く舌打ちし、ギリッという音がこちらまで聞こえてくる位に強く歯噛みしながら低く唸る。
「…つまりは何も知らねぇが、何時もの連中とは対極なだけってか」
青年は彼等を白眼視したまま黙考を続け、やがて短い嘆息を経て、漸く当初の落ち着きや泰然さを取り戻し始めた。
「──どのみち飽きる程永く暇を持て余している。気の向く間位はお前達の下らないお喋りに付き合ってやる」
そう詰まらなそうに言い捨てた彼は、ほんの少しだけ嘗ての気骨と明哲さを垣間見せた。
そうして英雄イヴニスの語った事は。
栄華の女神から賜ったその人ならざる異彩の力は、双頭竜ケーリュケイオンの片割れの"写し"だった。
伝承に生きる古代竜のそれは、運命神リヴァエラの子飼いとして、転生を司る者。双頭竜は創世樹の根元から各々の首で生と死それぞれの理を交互に汲み取り続けているのだと言う。
これに対し栄華の神エファーシャは、その竜の"生の首"に宿る力だけを器用に写し取り、彼に授けた。
「……彼奴のやった事は本当に神の御業そのものさ。端から見たら、ただの出鱈目な丕績。対になって然るべき道理の片方だけを、強引に創り出しやがった」
彼は漫然と彼等の向こう側にある景色を眺めながら述懐する。
上と下、右と左、西と東、北と南。これらの相克する番は、互いの存在があって初めてその意味を成す。
本来であればケーリュケイオンの持つ力もそうした類のものであった筈だが、その一柱の手によって新たに生み出され、象られたそれは、まるで"裏の存在しない"コインの様だった。片方がなければもう片方が絶対に存在し得ない概念なのに。
両側が同じ刻印、両方が表なだけのコインという事なら、まだ人の身でも容易に理解する事が出来たであろう。ただ栄華の神の創り出したそれは、本当にただ対となるものが存在しないだけ。
敢えて無理にでも表現しようとするなら、水面に浮かび上がったコインの表をただそのまま刳り抜いた様な、そんな人知を越える代物だった。
そしてその生だけの力の虚像は、不死者に対しては、暴虐極まりないものとなった。
本来不死者らに対しては、何かしらの浄化や祝祷を施してやらなければ、完全に滅する事など出来やしない。亡者共は本来何も力や意思すら持たず、ただ幽寂に消え去るの待つだけだが、稀に強い無念に捕らわれ、世界の理を荒らしてしまう者が居る。
裏を返せば、そうした強い無念をどうにか払拭してやらない限りは、何度でも何度でも現世に形を結び直してしまう。
そうであるにも関わらず、彼に授けられたその力は、ただ少し剣を振るうだけで、物理的に少し干渉するだけで、強制的に"生"の力を分け与え、存在の根幹を消滅へと至らせる事が出来た。
幾ら冥府神の扮した魔道士が味方にあったとは言え、当初その物量に押されがちだったが、エファーシャから賜ったその稀有な力が加わった事に因って、人々は莫大な不死者の群れを、尽瘁の動乱を制する事が出来た。
冥府神ラズラムも当然そうした人知を越えた力を行使出来たものの、かの一柱は飽くまで世界の道理を最優先にしており、こうした栄華神の奔放とも言える手段は避け、敢えて人の手の延長線上でしか手助けをして来なかった事も大きい。
一方竜髄症や浮蝕を顧みると、ケーリュケイオンの力が何かしら関係している事は間違いなさそうだが、イヴニスに授けられたそれとは性質を異にするものの様だった。
というのも、イヴニス自身が竜髄症や浮蝕についてエファーシャからは直接聞いておらず、ただ彼の中にある同じ力の源が共鳴し、何となくそう感じるというだけだった。恐らくは2つの首の持つ不可分な理の力を、何かの不自然な切っ掛けでその身に宿してしまったのではないかと彼は推測混じりに告げる。
そうして他律的な生と死が毒のように循環し、否応なく、死へと、転生の道へと導かれている風に感じるのだと言う。
「お前等のやろうとしている事は、恐らく混ぜ終えた2つのスープを分けて取り出そうってのとそう変わらない。まぁこれは俺自身にも言える事だがな」
イヴニスたる青年は自嘲しながら、眼前の術士が語った目標、竜髄症の治療についてそう敷衍した。
その説明は以前銀の手の巫女ロレアから聞いた感想、"どうやっても引き剥がせない"と言うのと大方同じような印象だった。
仮に液体に混ざった小さな固体であれば、濾過すれば良く、恐らく巫女の力は穢れという固体だけを吸い取る力を持つのだろう。ただ液体と液体ともなれば、それはもうどうしようも無い。
「まぁ仮にその力の源、双頭竜ケーリュケイオン自身なら、何か別の手立てがあるかもしれないがな」
もしそうだったとして、それは即ち雲を掴むのと同じ事だった。創世樹は浮遊大陸に根付いていると伝えられているが、果たしてそこに辿り着く道程とは。
永久浮蝕、その最奥に座する奈落という異形の世界にまで足を踏み入れ、更には封じられた英雄に邂逅する事まで出来たところで、ここから先はまた、遙か遠い御伽話の一節でしかなかった。
行き詰まってしまい、レルゼアがこれまで聞いた内容を整理すべく沈黙を続けていると、ガヘラスは合間を縫って彼自身の最も聞きたかった問いを投げ掛ける。
「それならばラピスを……何故貴方は贄を欲したのでしょうか」
退屈そうに中空を眺めていたイヴニスは、本人から名を聞いた訳ではなかったが、ガヘラスの表情から何となく誰なのか思い至った。
「──ラピス…ああ、あれか。この間の、ピーピーと女々しく泣き続けて煩かったあの女の事か」
若き獅子はそう聞いて頭の中がかっと熱くなり、反射的に苦言を呈しそうになるが、先のイヴニスの取り乱し様を振り返り、平静を装いながらその続きを待った。
「贄…なんてのは言葉の綾さ。そうなったのも偶発的な事故みたいなものだ。──そうだな…死に場所を選べない奴等には、どう足掻いても死ねない俺の話し相手を頼んでいただけだ」
イヴニスは少し場都が悪そうに瞼を伏せ、暫しの間口を噤んだ。
自身が封じられて恐らく200年程、今から数えても200年程前の事だったろうか。この玄室にあの年端も行かない幼子が訪れたのは。
当時から厳重に緘せられていた筈だが、どうやってかその子は此処へと辿り着いた。元は高級そうだが、既に襤褸襤褸になった衣服。見たところ10にも満たない年頃で、男だったか女だったかすらもう憶えてはいない。
イヴニスはその時初めてこの幼子、即ち痛み憑きの罹患者から何か自身の力と近しいものを感じ取った。
汚れながらも目立った外傷はほぼ見受けられなかったが、かなり衰弱しており、酷く怯えた様子だったのをよく憶えている。
視力が衰えているようで、暫くはこちらに気付いてすらいなかった。少し離れた所から声を掛けると、その子供は蹲りながら大きく驚いていた。
──どうして普通にお話が出来るの?
全く予想外の返答が返ってくる。近付いてきた子の症状は既に末期に達していたようで、声は嗄れ、白目は赤く染まり、熱に魘された時のように呼吸は荒い。
喉元には赤黒く巨大な血腫のような痣が顔を覗かせ、時折激しく嘔吐きながらも、嬉しそうな笑顔を浮かべて彼の顔を見上げていた。
──良かった、普通にお喋りが出来るんだ。
その子供が人と話したのは何か月ぶりだったろうか、肺もかなり弱っていたが、話し出すと滔々と止まらなくなった。
両親の事、家の事、お腹も空かないし喉も渇かない事、誰かと話すと酷く苦しくて痛い事、それにより追い立てられ暫くの間地下の暗渠網の中に逃げ込んでいた事、お前は呪われていると罵られた事、どうしてこうなったか全く分からない事。
そして眼前の男についても、何故鎖で繋がれているのか、何時からなのか、何故自身とは普通に話が出来るのか、当面その幼子の興味が尽きる事はなかった。
一生懸命に会話していると時折気を失う様に、まるで死んでしまったかの様にふと眠りに就いては目覚める。
彼自身これまで痛み憑きの罹患者を直接見た事は無かったが、これがそうなのかと直感的に悟っていた。
歴史に消えた英雄は、そんな幼子から数日間掛けて今の地上の様々な状況を教えて貰い、逆に英雄は彼の持つ知識や昔話を幼子に教えてやった。
──そういう病気だったんだ、お母さん達に移さなくて良かった。
ここまで妄りに虐げてきた者達に対し、擦り切れた幼子は笑顔を浮かべ、暢気にそんな感想を口にしていた。最近の辛く当たられた記憶は既に薄れ果て、夙に温かく接してくれた時の記憶しかもう思い出せない様子だった。
そうしてこの朝も夜も訪れない部屋で、1週間くらいは共に過ごしていただろうか。やがて、変化は訪れる。
この"特殊な独房"に異常が無いか不定期に見回りに来ていた兵士が、普段なら扉の外までのところ、この時ばかりは解錠されている事に気付き慌てて中へと押し入って来た。
焦りからなのか、この玄室の異様に魔術じみた様子に目も及ばず、罪人の傍らにあった幼子を見付け出す。
既に1日の大半を眠って過ごすようになっていたそれに対し、訪れた兵士は声を掛けただけで強い苦悶の表情を浮かべ、不思議そうにしていた。
もしこのまま連れて帰ってしまったら、皆が不幸にしかならないであろう。イヴニスは咄嗟に「捨て置け、我が力の源だ」と引き留めの言葉を発してしまった。
兵士はこの不気味な地下牢の罪人が英雄イヴニス本人だとは知らされていないため、無視してそのまま幼子を連れ去ってしまう。
それが"贄"の発端だった。
どうやら彼の言葉も併せて報告してしまったようで、加護の仔細を知る者らが手配し、その幼子は直ぐに別の兵士に連れられて戻って来た。
哀れな幼子は辛苦の末に命を落とすが、それからは不定期に痛み憑きが彼の元へと運ばれる様になってしまった。
(何れこの世界の何処からも居場所が無くなる様な連中だ。俺と関わっても平気なようだし、そうするとここが一番安寧なのかもしれない)
イヴニスは次第にそう考えるようになっていた。最初はせいぜい足枷と鉄球くらいだったが、更に月日が経つと、彼を繋ぎ止める魔人の鎖の贋作が設えられ、並べて両手を吊されるようになった。
あの病が進行して末期に至ると、耐え難い苦痛を何とか早く終わらせようと自ら首を絞めたり、辛さを紛らわすのに爪が剥がれ落ちるまで床を掻き毟る事があるのを彼は見てきた。
だからそんな凄惨な憂き目に遭わないよう、両手を封じるのも已む無しと、彼は誤解の結果でしかないこの状況を積極的に改善しようとは考えなかった。
而して彼の前での痛み憑き達の"生き死に"は、何時も何時も同じ顛末となった。最初は強い怒りや悲しみ、怯えなどを携えてこの玄室へとやって来る。
やがてそれは長い時間を掛け、絶望や諦観へと姿を変えて行く。
そうして末期の瞬間だけは必ず、苦痛の消えない命から解放され、健やかで穏やかな、何かに満たされる様な面持ちで静かに息を引き取っていく。
他の生命を全て拒絶するその遺骸には小さな蛆すら湧かず、丸1日ほど掛けて砂の山のようにザラザラと溶け落ち、朽ちて行く。そうして最期には骨すら残さず、完全な塵となって消え去って行った。
暫くして亡骸を回収しに来た者達が持ち帰る事ができたのは、精々衣類などの身に着けていた物くらい。
霧のように忽然と消えるその身罷り方もまた、英雄に贄としてその身を捧げたのだという憶測を増長させていた。
「──あの女は、此処に来た奴の中で恐らく一番長く生きた。何年くらいだったろうな。色々と鍛錬を積んでいた様だったが、その割には何時もめそめそと泣き続けて、本当に最期までただ女々しかった」
美化する事無く、誇張するでも無く、全て淡々とした明け透けな感想。
古びたこの英雄は、恐らくそれがこの未熟そうな眼前の青年に対して一番誠実で、彼が強く求めて来たものなのだろうと悟っていた。自身がその想い人に対して、そう望むように。
ガヘラスは改めて胸を抉られるような思いで反射的に顔を背けると、自然と拳を強く握り締めていた。
翻って"実兄"の方は、自身の良く知る彼女と懸け離れ過ぎていたため、その姿を想像すら出来ずに居る。だからそれは単なる絵空事として、何処か別人の出来事の様に感じられていた。
「余り死んだ輩の口から出た話をべらべらと喋りたくは無いが…そうだな、懇ろになった奴はきっと今頃、贄になった事を誇りに思ってくれている。何時も何時もそんな事を呟いていたな。喩え自身が死んでも、そいつなら過去に捕われず、強く前を向いて生きてくれるだろう。そう信じて決して疑わなかった。どんなに女々しくてもそこだけは真っ直ぐで、ブレる事がなかった」
英雄イヴニスはそんな彼女の真っ直ぐさと同じ様にガヘラスを凝視し、諭す。
「お前が知りたかったのはあの女の最後だろう?これで満足したか?──看取ったのが当事者のお前でなく、こんな何処ぞの馬の骨で悪かったがな」
それは社交辞令や自虐などではなく、横柄で口が悪いながらも、彼なりに真摯な謝罪の言葉だった。
若き騎士は改め肩を落としながら、今し方英雄から聞いたそれを罰の如く噛み締める。
そうして緊く目を閉じ、喪った彼女を偲び、彼女の望んだ自身の在り方へと我が身を駆り立てていた。
「礼を言います、イヴニス卿……そろそろ戻りましょう」
どのくらいの沈黙が頭を擡げていたであろう。
そう切り出したのは悲嘆さの抜け切らないガヘラスだった。
「さて、聞く事聞いて用済みになったらとっとと退くってか。神々のクソ共が、さんざっぱら人間共を卑賤に扱って来た理由が少しだけ分かって来たかもな」
囚われた古き英雄は無関心げに鼻白みながら、濁った硝子の様な両眼のままそう吐き捨てると、既に傍らには誰も居ないが如く再びだらんと弛緩し、両膝を突いて浅い眠りに就こうとする。
それを見て踵を返しかけていた若き騎士と、未だ身動ぎ一つしない鉱石術士。そして術士を祈る様に不安げな瞳で見詰め続ける黒髪の少女が居た。
「……私にはもう少しだけ話したい事がある。2人は先に部屋の外で待って居て欲しい」
レルゼアが努めて平静にそう告げると、リテュエッタは咄嗟に彼の外套を両手で掴み、懸命に首を横に振って非難の視線を送った。
「駄目です……私も居ますっ!それにガヘラスさんだって……一緒に聞き届ける権利があると思います!」
必死さが思いの外大きな訴えとなり、意表を突かれた若き騎士の歩みが止まる。
彼等は互いに声無き声で牽制の眼差しを交わしており、何事かと2人の元へと立ち戻ってその動向を窺った。
剣呑とした無音が通り過ぎて行く。
レルゼアの瞳に据えられた彼女は先程、自身がこれから行う暗愚な暴挙を止めようとはせず、ただ自身も傍らに残ると、聞き届けるだけだと、そう告げた。
少女の意図は真っ白なミルクに落とした水滴の様に判然としなかったが、掴まれていた男の方はやがて観念したように短く嘆息し、かの英雄イヴニスに向けて言い放った。
「ニベルから…冥府神から、御言葉を賜った」
窶れた青年は気怠げに右目だけを薄く見開き、その続きを促す。
「──死を願わば与えん。貴殿にそう託けよとの事だ」
レルゼアは後戻り出来ない恐怖を今更に感じ、四肢を強張らせていた。
一方ガヘラスは、その意味する所まで理解が及ばず、ほんの一瞬だけ思考を巻き取られる。
やがて戦士としての彼の本能は一足飛びにその言葉を悪だと断じ、更にこの男が故国の敵であると理解させ、レルゼアの胸倉へと掴み掛からせていた。
「──貴方は、今一体何と……!?正気かっ!!?」
この意思薄弱そうな男はやはり逆賊であったか。最愛の人の兄だと信頼し、油断し切っていた。
自身はまた同じ過ちを、真実を見誤ったのかと、彼の思考はただただ渦巻く怒りと悔恨で染まって行く。
若き騎士が鉱石術士の首元を掴んで片手で吊し上げていると、嘗ての英雄は俯いたまま、その口元は笑いを堪えきれず、次第にくつくつと声を漏らし始める。
やがてそれは高らかな哄笑へと変貌し、最後はまるで気が触れたかのように暫くの間大きく声を上げて笑い続けていた。
そうして一頻り笑い疲れた後、撓垂れた鈍色の髪の隙間からナイフで切った様な双眸がギロリとこちらを射抜き、不遜な来訪者らの事を見据え続ける。
「全く…面白い冗談だ。一体何十年、何百年ぶりだろうな、こんなに可笑しいのはよ。今更……今更俺に、死にたいか、だと……?」
再びニタリと口角を上げ、出会い頭に栄華神エファーシャの名を耳にした時とは打って変わり、湖面の如く閑かで果てのない感情がじりじりと場を支配して行く。
「……巫山戯るのも、大概にしろよ」
仄かに沈痛を孕んだその独白は御言葉の主、即ちラズラムに向けたものだったが、今正に間に立つ3人に対しても、その肌を薄く削り取るが如く通り抜けて行った。
「悪趣味な冗談はそれだけか?」
今すぐ去ねと言わんばかりに強く唾棄する。その返事を聞き届け、ガヘラスは漸くその手を解くと、締め上げられていた謀叛の術士は噎せて何度か咳き込んでいた。
鬱屈としたこの英雄の答えなど決まっている。
──俺をこんな目に遭わせたあのクソ忌々しい神々に一矢報いる、それまでは死ねない。
本人を含め、この場に居合わせた全員がそう悟っていた。
その筈だった。
怒り、郷愁、笑い、憎悪、そんな久しく感じていなかった人間らしい下世話な感情が英雄を再び人たらしめてしまったのだろうか。
心の箍が外れてしまった英雄は、彼等を去らせる前に、神々に対する報復以外の全てをその胸裡から消し去るべく、これまでどうしても踏み込む事が出来なかった問いを3人へと投げ掛けた。
「……メルクメリー。その名に聞き覚えはあるか?」
それは人である彼を此処に繋ぎ止めていた最後の縁であり、今までの贄達には終ぞ尋ねる事が出来なかった最愛の者の名。似通った境遇の騎士を前に、漸くその最期を受け容れ、死を待たぬ、人ならざる邪悪に身を窶そうと心に決める。彼はこれから悪鬼羅刹となり、今まで力に使われていた潜在意識を変容させ、自ら檻を食い破るつもりでいた。
ただ顎に縦拳を当てながらそれに応じたレルゼアの言葉は、彼の想像とは正反対のものだった。
「──王妃メルクメリーか?」
知らないだとかその死に様、誰其れに娶られただとか、自身から離れ行く方向ばかりで考えていたため、イヴニスは内心虚を突かれる。
「王、妃…だと…?」
「貴殿の妃であったと伝え聞いているのだが…」
記憶の外に追い出そうと、擂り潰して消そうとしたのに、まるでその言葉の方から彼に歩み寄ってくる様だった。
それは史実として英雄イヴニスの妻とされ、君主制を取らなかった騎士国に於いて最初で最後となる王妃。尊大に過ぎるその呼称を聞き、色褪せた英雄は一瞬にして毒気を抜かれてしまっていた。
(……王妃と来たもんだ。全く、ちっともそんな柄じゃねえのに)
何処までが本当で何処までが虚構なのか、彼は意図せず、その瞼の裏側に在りし日の彼女の姿を想い描いてしまっていた。
──イヴニス、今日も無事で良かった。
柔らかく透き通った心地良い声音と、儚く綻んだ笑顔。
何故今日はこんなにも昔の事を思い出してしまうのか。
その整った目鼻立ち、淡い色の唇、柔らかい菜の花色の美しい髪。手を取った時の仄かに冷えた指先。
先の幼子とは違い、あの時の心象が全て具に甦ってくる。
たった100年も生きられない人の子など、もう疾うに老いさらばえ、死すべき定めに従っているであろう。その可憐な姿を憶えている者など、もう此処にいる哀れな男くらいしか居ない筈だ。
それなのに自身の記憶には、それがまるで久遠の残影の様に色濃く焼き付いてしまっていた。
彼女は皇都グラドリエルにある小さな仕立屋の看板娘だった。日々閑古鳥が鳴き、貧困とまでは行かないが両親と慎ましく暮らしていた。
見た目は噂になる程の佳人で、ただ話すと不相応に稚く、彼の好みとは真逆だったため第一印象はお世辞にも良いとは言い難かった。
それでも傭兵稼業で生傷の絶えなかったこの男は、安価なこの店に足繁く通わざるを得なかった。
「あーあ…またこんなに滅茶苦茶にしちゃって。折角この間綺麗に直してあげたばかりなのに──」
「見た目なんてどうだって良いんだ。きちんと役に立ってくれた、それが大事なんだよ。毎度助かってる」
「ダメよ、貴方は私の為…じゃなくってね。私達のお店の為にも何時も格好良く居てくれなくちゃ」
冗談なのか本気なのか、常連に対するおべっかだとは薄々気付いていながらも、心底気立ての良い彼女に惚れ込んでしまうのは時間の問題だった。
一方の看板娘がイヴニスの何処に惹かれたのか、今となってはもう誰にも分からない。
ただ傭兵の方は、最初は然程好ましく思っていなかった彼女に対して、次第にその全てが愛しく思えるようになってしまっていた。
たった1年ほど、彼の今まで生きた400分の1にも満たない僅かな日々に幾度と無く逢瀬を繰り返し、湧き上がる愛情を積み重ね、やがて彼女はその身に新しい命を宿していた。
「ねえイヴニス…私、身籠もっちゃったみたいなの…」
伏し目がちで面映ゆげにそう告げると、告げられた方の男は内心頭を抱えてしまう。まだ正式に娶ってもいないというのに。
その日暮らしの男の心配を余所に、彼女の両親は彼等の事を心から言祝いでくれた。
儂も似たようなものだ、当事者同士で問題がなければそれで良い、と。
そんな温かな家庭を知らなかったイヴニスは、彼女を誰も居ない城壁外へと連れ出し、たった2人だけで、誓いの言葉しかない細やかな挙式を上げた。
「──実はね、もう名前を決めてあるのよ」
彼女は深い慈しみを湛えながら下腹部を撫で下ろすと、そんな風に呟いた。言葉と共に、一陣の薫風が吹き抜ける。
「イリージア。どう?可愛らしい名前でしょう?」
「まだ男か女かも分からないだろ、男だったらどうするんだよ」
「大丈夫よ、きっと女の子に違いないわ…何だかそんな気がするの。もし男の子だった時は…その時は一緒に考えましょう?あ、そうだ!イヴニス2世とかどうかな」
時に意外なほど剛胆で破天荒な彼女なら、本当にそう付けてしまい兼ねない。悪い冗談は止してくれとばかりに、彼等は額を寄せて小さく笑い合っていた。
そうしてその1か月も満たない後に、かの尽瘁の動乱が勃発する。
不死者の元凶となる奈落、それを内包した永久浮蝕に近い皇都グラドリエルは、地理的にどうしても戦禍の憂き目を大きく被る羽目になった。
幾らフローマ大聖堂の護りがあるとは言え、大半に対して累が及ばないよう、当時の教皇は民草に疎開の命を下さざるを得ず、而して2人は長期間に亘って離別せざるを得なくなった。
彼女は両親の祖を頼って共に国外に、バルシア諸侯領まで一旦身を退く事となり、イヴニスは無け無しの僅かな蓄えを全て彼女に託すと、必ず戻る、それだけを約束して動乱へと身を投じて行った。
先遣隊として賢者グリムクロアや謎の魔道士ニベルらと共に最前線を切り開き、退いては市街を死守し、栄華の神の助力を経てこれを収めるまで、その数年はあっという間の出来事だった。
風の噂で無事に子を生んでいる事を聞いていたが、性別までは敢えて伝え聞かずにおいた。
楽しみは自ら目の当たりにする方がずっと良い。
また逢えた時に、男だろうが女だろうが、彼女の前で驚いて抱き上げてやりたかった。
──然しそれは、叶わなかった。
恐らく騎士国イヴナードの表の歴史からは消し去られている。
そしてもう彼女の行く末を知る術など無いと覚悟していた彼は、彼女の存在を自身の中から何とか消し潰す事で、自らの悍ましさを全て受け容れ、人の世への未練を捨て、漸く心の底から神々に仇為す心算でいた。
それなのにレルゼアの答えを聞いてすっかり気勢を削がれてしまい、更に欲をかいて、あの日知らずにおいた事に対しても不用意に言及してしまう。
「……なら、俺とあいつの子はどうなった?」
鉱石術士は英雄からの不可思議な問いにどう答えたものかと逡巡した挙げ句、何の脚色もなく、今ある知識をそのままの形で問い返す。
「伝え聞くところによると、貴方と王妃の間で実子は儲けられなかったと聞いている。慈愛の王妃は"廻し子の喧伝"という名目で、自ら多数の孤児らを引き取ったと言うが、その子らの事か?」
実子は無い。その言葉を聞き、イヴニスは憤るより先に思考が真っ白に掻き消えていた。
「な……に…?」
俄に内蔵を全て抉り出されたかの様な感覚が逆流してきて、冷たく熱い業火の妄執が彼を包み込んでいく。英雄の血を過分に怖れた大賢者が、まさか5つにも満たないであろう子を手に掛け、歴史の闇に文字通り"葬った"とでも言うのか。
もしそうだとすれば、王妃の下りも、耳触りの良いただの巷談だったとでも言うのか。
此処に繋ぎ止められた時は、かのグリムクロア張本人を腐る程憎み、飽きる程に厭忌していた。
しかし永い時を経るに連れ、人と相容れないのは自身の方だと理解する様になっていた。
あのまま不老不死にも関わらず野放図にされていたなら、見えざる傲慢さに深く侵食され、人としての価値観は徐々に崩壊し、恐らくそれに気付く事さえ出来ずにいた事であろう。
恐らくメルクメリーとも、彼女の死を待たずして袂を分かつ事になっていたに違いない。
こうして異形の者として囚われ続けるのも、不自然なまでに怖れられるのも。亡霊のように永く生きた結果、あの時既に異形の一部に成り下がっていて、こうして封じる外に手が無かったのだと、心の何処かでそう悟ってしまっていた。
死を待つ者が為す当然の自衛であり、当然の嗜虐。
嘗ては人の側であった彼だからこそ、分かりたくなくてもそれと分かってしまう。
もう本当の己が謂われを知る者の無いこの世界で、真に忌むべきは、元凶を創り出した不条理な神々共──。




