第4章 背中合わせと穏やかな嘘 (後編)
長旅の末、漸くイヴナードの西端に到達するという前日、逸る心を抑え、入国手続きやその後の画策について彼女と確認を済ませておく。あちら側の手の内は知れており、入るだけなら簡単な詐称位で特に苦労はしないと思われた。問題はその後で、如何にして英雄の元まで辿り着くか。そこは大きな賭けになってしまうが、彼には1つ腹案があった。
(──それにしても、私は何をやっているんだろうな)
レルゼアは窓の向こう側、東の夜空を仰ぎ見ながら、ぼんやりと追懐する。あれこれと奸計を巡らせ、此処までにやってきた事は、密偵のそれと何ら変わり無い。更に言えば禁忌とされている竜髄症の罹患者まで引き連れようとしてしまっている。正に国賊そのものだ。見つかった時は下手をすれば斬首か磔刑、少なくとも再度の幽閉は免れないだろう。そんな自分に、清高で篤実なあのガヘラスは果たして応じてくれるのだろうか。
ガヘラスの家系、伝統あるグラム家の至言、即ち至上の命令は、"真実を見極め、正しい行いを為すこと"。せめてヴォルドー家のそれと逆だったら、幾度と無くそう思って来たが、今回ばかりはこの巡り合わせに感謝する必要が有った。更に竜髄症へのこの国の過剰に過ぎる対応も、英雄の秘密を知った今となってはどこか焦臭さを覚える。
(…まだ知り得ぬ何かがある筈だ)
仮に運良く彼の助力が得られたからと言って、そこから確実にイヴニスの元まで辿り着けるという保証など何も無い。薄氷を履むよりも随分と分の悪い賭けである事は間違いなかった。そこに彼女と飛竜を巻き込むのは心が痛んだが、改めてその意思確認する必要は無いし、もう後に退く事など出来なかった。
──どうして戻るんですか?
あの時の彼女の言葉は今になって漸く彼の心に重く伸し掛かってきた。
イヴナードの北東をL字に削り取る様に流れているスレイ川、そこに架かっているクリノクロー大橋の丁度真ん中程に、2人の男──レルゼアとガヘラスは居た。橋幅は凡そ馬車10台分と広く、橋長に至っては徒歩で半刻程も有る。ヴォルドー家は中心部から見て川向こうだったため、こんな夜間に通行する者など無い事を彼等は能く知っていた。
偃月と薄い星明かりに照らされる狐色の髪はまるで獅子の鬣のように雄々しく風に靡き、以前より更に整った顔立ちが垣間見える。動きやすい革鎧に銀の関節防具を纏い、腰に長剣を携えているところを見ると、やはり戦闘を想定していたのだろう。彼がこちらを見咎めると、何も気にしない風に軽く片手を上げ、無言の挨拶を寄越す。ヴォルドー家の封蝋印は用いず、単にラピスを騙ってリテュエッタに代筆を頼み、悪戯かギリギリ見極め辛い線で打診したのが功を奏したのか、何とか彼1人を単独で誘き出す事が出来た。出会い頭に腰に下げた得物まで抜かれなかったのも幸いだ。
「久しいな、ガヘラス」
「……御託は要りませんよ、本題を」
探りから入ろうと思っていた所を飄々と躱され、出鼻を挫かれる。彼はラピスの関係者で唯一捕縛されず、即ち竜髄症であった事を"知らない事"になっている。先ずそこの真相を掘り下げたかったのだが、口火の切り方から察するに、逆効果となるだろう。寒空の中、首筋を冷や汗が伝った気がした。
「イヴニスに、会いたい」
「……神殿に行けばいつでも会えるじゃないですか、まさか態々そんな危険を冒してまで不法入国を?」
一瞬、ほんの一瞬だが虚を突かれた間があったし、無為に続けた言葉には焦りからか微かな矛盾が含まれていた。自らもそれに気付いてしまった若き騎士は、少しだけ眉根に皺を寄せる。確かに他国には人とも神とも言えぬイヴニスを祀る神殿など無い。ただこうして堂々と侵入してきているのだから、この騎士に案内を希う必要が無いのは明らかだった。
「…やはり、生きているのか」
好機にはまだ付け入らず、ここで一旦引いて鎌を掛けた風を装っておく。勢いで問いに転じるより、今はあちらから語るに落ちるの待つべき、と。
「──どこまで知ってしまったんです?」
それはこちらの台詞だと内心少しだけ動揺し、一瞬だけ思考が錯綜する。ただ向こうも問いに対する問いで自身のペースを取り戻そうとしただけだった様で、暫くは無言のまま対峙が続く。そうして彼が腰に提げた剣の柄に手を掛けようと動いた時、
「さて、ね。英雄は今尚その神殿の地下深く、くらいだろうか」
レルゼアは首を竦め、やれやれと言った感じで現時点で持ち得る最大限の切り札を恐る恐る切ってみたが、それは予想以上に核心を突いていたようだった。
「っ…!それはどういう意味だ!?」
酷く狼狽えた様子でその右手は柄の傍から彼の額へと当てられる。レルゼアはしばらく精一杯の虚勢で冷たく凝視し、早く崩れてくれと念じ続けた。そして彼は根負けした様に、自問自答に近い形でボロボロとこちらの欲しい情報を零し続けて行った。
「イヴニス様は未だ世界の何処かで生きておられ、我々に加護を授け続けてくれている、そうじゃないのか──?それは一体……」
彼は忌々しげに呟きながら軽く蹌踉めく。言の葉の終わりには、あちらの双眸もこちらを捉え、鋭く刺すようにギラリと睨め付けてきた。今の所は押し勝っている、だが本当の勝負はここからで、レルゼアは緊張の余り自然と拳を強く握り締め、言葉で間合いを探る。
「どうやら知識に差があるようだ…先程の台詞をそっくりそのまま返そう。君は、どこまで知っている?」
眼前の獅子は鼻で嘲り笑いながらも、もう詰まらない駆け引きなど終わりだとばかりに言い捨ててきた。
「どこまでも何も!さっきのはただの家言ですよ、ただ門外不出なのに何故貴方が知っているのか、僕はてっきり…」
「…てっきり、何だ?」
続きを促すとガヘラスは仕舞ったと歯噛みしながら、最後には観念して吐露した。
「僕はてっきりラピスを……彼女の事をイヴニス様への贄として差し出してしまったのを罰しに来たとばかり…」
そう言って項垂れ、まるで懺悔の様にして呟かれたその言葉は彼を重い自責自戒の念から解き放ち、更にレルゼアを強く動揺させるに至った。
互いに敵愾心は無いと分かった以上、各々が手の内を明かし、状況を整理する事となった。レルゼアからは英雄と騎士国の真実を、そしてそれは、信じて貰えないかもしれないが、とある神から直接賜ったものであり間違いないと思われる事。加えて妹と異なる竜髄症罹患者がおり、どうしてもイヴニスの力について聞き出したい事を。ただ冥府神の言伝については流石に秘匿しておく事とした。ガヘラスからは、イヴニスが何処かで生きているというのは兼ねてから家言として伝え聞いていたが、実際何処までが真実で何処に居るのかまでは分かっていなかった事。またその事については我が国でのイヴニス信奉から、他言無用として引き継がれて来た事。そして最も重要だったのは、ラピスの竜髄症はそのイヴニスの力の源泉となるため、贄として捧げられる事になった事。それについてはミレス大将軍、即ち彼を含めた聖騎士隊の長であり、軍部全体の総帥でもある天命騎士の方から直々に宣告された事。そして自身のみが幽閉もされずのうのうと生き延びて来てしまったのを深く恥じており、レルゼアからの断罪は甘んじて受ける覚悟で、敢えて抵抗した振りをして討たれるつもりで此処へとやって来た事が告げられる。
「──成る程…そういう事だったんですか…」
実直に過ぎる若き騎士は、鉱石術士がラズラムから全てを聞かされた時と同じ様に憔悴しきった様子で、右手を再び緊く額に当てて頭の中で事態を整理している。
「君はきっと、中途半端にイヴニスの秘密を守り続けている家系だったから捕われなかっただけだろう。そう自分を責めるな」
あの時の自分は、こんなに哀れな表情をしていたのかと。レルゼアはまだ自身より一回り程歳を重ねていないこの男に少なからず同情する。ただ1つ不思議な事としては、そもそもイヴナードの加護、即ちイヴニスの力による結界は徐々にその力を削ぎ落とすためでもあった筈。だから"贄"のように力を供給しようとする事は、少なくとも今の状況を作り上げた張本人、大賢者の壮挙からすれば全く有り得ない話だった。人知を越えた神の力に対し、抑も贄といったものが本当に必要かどうかすら怪しい。一体何処で釦を掛け違ってしまったのか。何れ遠い未来、結界の力が失われる事を誰かが危惧したためだろうか。
「──ラピス…」
この若き騎士もその事へと思い至り、苦悶に呻きながら血が滲む程歯噛みし、両手で顔を覆う。追想の中の彼女はただ美しく、力強く、その気高さに彼自身も強く薫陶を受けており、それでいて年相応の乙女の様に可愛らしく戯ける事もあった。魅力溢れる異性と言うだけでなく、純粋な騎士仲間としても、共に過ごして本当に居心地が良く、お互い高め合う事が出来て辛い時にも支え合える、そう信じて止まないとても大切な存在だった。竜髄症を患って人を拒絶せざるを得なくなったとしても、贄に差し出すのを黙って見過ごさなければ、縦んば末期の時まで一緒に居てあげる事が出来ていたなら。どんな痛苦であろうと共に分け合う事に一切躊躇などなかったのに。彼女が独り切りで感じていた不安も、分かち合いたかったのに。
ふと見ると、この力強き筈の獅子の目尻にはうっすらと涙が光り始めていた。
これまではそれが大変栄誉な事であると信じ、上を向いて耐えてきた。彼女を捧げる事が無意味に過ぎる行為とは考えもしなかった。"真実を見極め、正しい行いを為すこと"。改めてその掟の重さと自身の無力さを深く痛感させられる。慢心し切って、そう出来ていると信じ切っていた。疑いようも無かった。イヴニスへの贄、それこそが"正しい行い"で、引いては騎士国全体の為なのだとこれまで渋々自分を納得させ続けて来た。だから、悲しむ理由など何処にも無い。それなのに、本当に"正しい行い"は、喩え全てに抗ってでも彼女に最期まで強く寄り添ってあげる事だった。どうしてあの時、自分が真に望んでいたそれを彼女にしてあげられなかったのか。ほんの一歩だけでも、真相に踏み込む勇気を持てなかったのか。どうして。
(──本当に、大好きだったのに)
若き獅子は彼女を失ってから初めて、滾々と静かに咽び泣いた。
「お帰りなさい」
レルゼアが来国者向けの宿の部屋まで戻ると、何時もは束ねている長い黒髪を解いて緩やかな寝間着に身を包んでいた少女がパタパタと足音を立てて部屋の扉まで寄ってきた。その男は見たところ言を俟たず痛手を負ったような様子は無かったものの、彼女は念のため問い掛ける。
「……大丈夫でした?怪我はされて無いです?」
「──ありがとう。そして遅くなってしまい済まない。もう朝も近いし、詳しい話は明日にしよう」
彼が中に入って厚い外套を脱ぎ置きながら伝えると、彼女は首を横に振り、
「それって危なくなかったって事ですよね。良かった」
そう零して相好を崩す。レルゼアは軽く頷いてから、先ずは彼女を寝床へと促した。
あの後落ち着いたガヘラスは、贄の、ラピスの結末を英雄に直接会って確かめる必要があるとして、必ず神殿の地下に続く道を突き止めるから1週間くらい待って欲しいと申し出てきた。疑い出せば切りは無かったが、死を覚悟でやって来たという彼を信じる外無く、その想いの深さからして、謀られる事は恐らく無いだろう。以前何度も言葉を交わしていたし、手合わせもした。あの2人が番う事は、見た目、立場、性格、互いの戦士としての技能、何から何まで全てが理想的過ぎたから、当時はどうせ周囲から持て囃されて交際しているだけなのだろうと浅はかに考えていた。まさか雄々しい彼が傍目も気にせず、ラピスに対して深い情愛の涙を見せるとは。上辺や色眼鏡に捉われていたあの時の自分が余りに情けなく、慚愧に堪えなかった。それでも秘密裏の単独調査は時間が掛かってしまうらしく、以前少し調べてみた事は有るそうだが、その時は何の手掛かりも得られず失敗していた様だ。今回イヴニス神殿の地下と大凡の見当が付いた事は大きく、長くとも1週間程あればという事だった。
レルゼアとリテュエッタの2人は歓楽街とまで行かないものの、幾つかの大きな酒場や劇場といった娯楽施設を有している魔女達の通りと呼ばれる地区に宿を取っていた。恐らくイヴナードの中で最も活気に溢れ、異邦を含め多くの人々の行き交う場所だったため、身を潜め易い。夜の帳が下りてから大衆酒場の1つ、宵闇亭と言う店に遅い夕食兼何らかの情報収集がてらやって来ていた。顔が割れない様にレルゼアがイヴナード在住時に訪れていない店を態々選んだのだが、入ってみると名の割に照明が煌々と明るく、さざめく喧噪の心地良い人気店の様だった。
「あれ、やっぱりリティーだよね!」
黄金色の長い髪を大きく結い上げた給仕が羊乳2つと牛肉料理を幾つか運んで来た時、頭上からは聞き憶えのある声がした。手早く並び終えるとそのままレルゼアの向かいに座っていたリテュエッタに横からばっと飛び付く。
「ちょ…ちょっと、クリスタちゃん?」
「会いたかったー!元気してた?」
彼女へと頬擦りしてからすっと離れ、壁際にいる彼等とは反対側、店の奥のカウンター付近に居た別の女中に手振りで何らかの合図を送っていた。手近に有った空き椅子を手繰り寄せ、2人用の手狭な卓を3人で囲む。
「──少しの間、サボる事にしちゃった」
彼女は小聡明く舌を出し、頭巾を解いて膝の上に置くと、両手で頬杖を突いて暫く居座ると意思表示していた。
「どうしてこんなところに…」
リテュエッタは相当困惑していたが、彼女はそれを意に介さず妄りに料理の一切れを指で摘んで口にする。その割には行儀良く咀嚼し、きちんと飲み込んでから、
「前に居た所、何だか飽きて来ちゃって…リティーも居なくなっちゃうしさ。それで気付いたら此処に来ちゃってた」
彼女は軽く指先を舐め、暫くの間もごもごとそのまま口に銜え続けていた。
曰く、レルゼアの格好を見て東の騎士国の人だと察したらしい。それで自分も良い人を探そうかなとか、ひょっとしたらリテュエッタに会えるかもと安易に考え、放浪し始めたのだという。
「こんな時間帯にお酒以外を頼む人が居て、しかも羊乳だなんて。ピンと来ちゃってさ。配膳代わって貰ったんだよね」
羊乳は彼女の好物で、酒を飲まない時はレルゼアも何となく同じ物を頼む様になってしまっていた。
「まさか、ホントに会えるとは思わなかった」
彼女は花の咲く様な満面の笑みを浮かべ、傍らに座する娘の顔を具に眺めている。
「私も…会えて嬉しいな」
漸く驚きが安堵に変わり切った様で、2人の年端も行かない少女らは他愛ない歓談を始めた。レルゼアは先のクリスタの行動を見て、特にお互い痛がる様子を見せなかったため、ティニーのように浮蝕耐性のある珍しい人間も居るのだろうかと少し怪訝に思いながらも、特に拘泥する事なく目深にフードを被ったまま、遅い夕食に手を付け始めた。
彼等の旅の大元、竜髄症の事や永久浮蝕の出来事には触れず、これまでの互いの路程の事を話し合っている。
「お金、困ってるの?」
ふと、クリスタが尋ねて来た。寝泊まりしている所の話題になった時、元手が心許無くもうじき別の所にとリテュエッタが話したからだ。実際に明日からはイヴニス神殿からは少し遠離るものの、青銅街という職人が多く住む地区に移って安宿を探す予定だった。諸侯領で稼いだ分はまだ残っていたが、滞在が1週間より長引く可能性も鑑み、出来るだけ出費は抑えておきたかった。
「私が工面してあげよっか?…宿代なら、1か月分くらい」
そこで初めて、彼女は蒼玉の様な瞳でレルゼアの方を覗き込む。それを見たリテュエッタは酷く慌てて、
「い、いいよ…それに、あれでしょ?やっぱり、この流れって…」
そう言いながら懸命に両手を振ってクリスタを宥め賺している。状況が飲み込めないレルゼアは首を傾げてリテュエッタの答えを待っていると、
「あのですね、レルゼアさん。クリスタちゃんって無類の賭け事好きで……こういう時は必ずいざ勝負ってなっちゃうんです」
彼女はもじもじしながらそう告げた。
「しかも、滅茶苦茶強くて。ホント、滅茶苦茶なんですよ。私今まで1回も勝てた事ないです。それに酔っ払ったお客さんにふっ掛けてた勝負でも最終的に負けてるの見たことなくて…」
ふっ掛けてるとは失礼な、あっちから挑んで来たんだぞ、とクリスタは彼女に気易く抗議していたが、レルゼアとしても早晩尽きるであろう資金を早々に減らすのはご寛恕願いたかった。そんな彼の思考を察したのか、この瑞々しい給仕は、
「大丈夫。相手がお金に困っている人なら、"面白いもの"を賭けてくれたらそれで善しとしてたよね」
親友の誼だしさ、と先ずはリテュエッタから籠絡しようと懸命に慫慂していた。
傍らの術士はそんな仲睦まじい2人を見て1つの妙案が浮かぶ。
「では彼女を……リテュエッタの身柄を賭けるというのはどうだろうか」
「れっ、レルゼアさん!?」
「もし君が勝てば、懐いている飛竜も一緒に付けよう」
正直な所、そこまですると宿代1か月分程度では全く割に合わなくなってくる。だからクリスタは必ず乗って来る、そう軽く踏んでいたが、うら若い給仕はレルゼアの方を向き直って
「そんなおじさんの両得みたいな賭け、詰まんないよ…」
と、けんもほろろに、歯牙にも掛けない様子で彼の提案を斬って捨てた。
「どうせやるなら、もっと真剣になれるもの賭けてよね」
彼女は犀利に富む瞳で墨々と術士を見詰め続けている。リテュエッタが胸を撫で下ろしていると、女給仕は唐突に微笑み、降って湧いたアイディアを当意即妙とばかりに言い放った。
「じゃあさ、こういうのはどうかな──貴方がリティーに隠している事、洗い浚い全部話すの!」
ふふ、と笑って艶やかな自身の唇を撫でる。言われた彼は、然りとて隠し事など全て話し切ってしまっているような、と顎に縦拳を当てて呟いた。
「そんなもの…今更何かあっただろうか」
「無かったら無いでも良いよ。でも本当に無いか真剣に考えてね。後は…そうだなあ。流石に物足りないから、"逆"もどう!?」
今度はリテュエッタの方にぱっと向き直って、
「リティーもこのおじさんが負けたら、隠している事、あったらで良いから全部打ちまけてね」
無邪気に微笑みながら、それならぐっと面白くなりそう、などと心踊らせて嘯いている。
「まあまあ、そんなに心配しなくても大丈夫だって…もし勝っても私は聞かないからね。2人だけで──怪しい秘密の交換ね!」
彼女はリテュエッタに意味深な目配せをしていた。
何という事だろう、本当にこの娘は賭け事に関しては悪魔の様に貪婪になる。ここでもし私が形振構わず止めてしまったら、それこそ隠し事があると自白しているのと同じ。一先ずは彼と同じ様に、"隠し事が本当に無いか悩む振り"をしなくてはならない。あろう事か鉱石術士のこの男は、彼女に押し負けて到頭挑戦を受けてしまっていた。抑もそんな事を私自身も考えない様にと、今まで散々苦労してきたのに。それは本当に小さな事かもしれないけれど、もし彼が負けたら、彼から問われてしまう。
少なめの食事は既に各々済ませてしまっており、食器類を粗方クリスタに引き上げて貰うと、彼女は甲斐甲斐しく食卓を布巾で拭きながら、
「じゃあ、何にしよっか?私は何でも良いんだけど…如何様も"見付からなければ有り"で良いからね。騎士国の人達ってホント真面目で詰まらないんだよね」
「……済まないが賭博には余り詳しくない。任せよう」
ふぅん、と彼女は改めて値踏みするようにレルゼアに視線を注ぐ。そうしてリテュエッタと席を交代して向かいに座ると、結い上げていたその髪をざっと下ろした。キラキラと光る金糸の様なそれを彼女は軽く指で撫で梳く。解いたばかりというのに不思議な程に癖が全く付いていない。
「詳しくない、任せるだなんて言いつつ、静かなその目──負ける気がしないって言ってるよ?そういうの大好き、惚れちゃうかも」
そう言いながら彼女はフードに隠された彼の視線を覗き込む。
(──クリスタちゃん、乗り気だ…)
大好きとか惚れちゃうというのは、興が乗ってる時の彼女の口癖だった。更に勢いに任せて自身の身体を賭け出してしまう事すらあったが、そうした時は大抵リテュエッタが傍に居て必死に止めたのだった。然しそうした時に限って彼女は無類の強さを見せ、負け越した相手は不正を疑って怒りを露にするより、どんなに些細で偶発的な賭けですらまるで結果が吸い寄せられる様に彼女を勝利に導いたから、皆畏れ慄くばかりだった。
「……じゃあさ、High&Lowにしよっか」
彼女は懐から事前に用意してあった大アルカナのタロットを取り出し、ニッコリと微笑む。
「ルール、分かるよね?一発勝負で。私が親で良いよ、貴方が決めて」
卓上に大きく広げて攪拌し、さっと澱みなく一所に整えて再び手元に戻す。そうしてゆったりと閑雅な手付きで手札を混ぜながら、優しい子守唄の様に、誰に宛てるともなくぼんやりと呟いていた。
「──私ね、これから起きる事に対して運命って言葉を使うのは、大嫌いなの。運命なんてのは、我武者羅に最善を尽くして、あれこれ悩んで、ぶつかって。色々と起きた後にふと振り返ってみて、そこで漸く、あ、あれって運命だったんだって分かるものなんだよね。事前に色々決めつけるのは、そんなの全然運命なんかじゃなくってただの諦めと言い訳。そういうものなんだよ」
周囲の喧噪も少し減ってきており、そうしたクリスタの独白は2人の元に確りと届いていた。白く澄明でマーガレットの花弁を思わせる指先が礑と止まり、綺麗に整えられた山札がそっと置かれる。
「こんな運命に負けない、こんな運命なんかに負けるもんかって自分を奮い立たせるのに使うのは好き。でもね、そうして頑張った結果の方が本当の運命なんだよね」
彼女は微笑んだ口元のまま、強く憂いを帯びた瞳に黄金色の睫毛を被せながら、札の集まりから手早く1枚目を引く。
「あちゃー、愚者<0>か、引き直しするね。もし魔術師<1>だったら、殆ど勝ってたも同然だったのに…惜しかったね」
見目麗しき給仕は、場都が悪そうに笑いながらそれを戻し、また静かにシャッフルを始める。その間ずっと、リテュエッタは両の拳を膝の上でぎゅっと握って俯いていた。一方のレルゼアは、混ぜている手元ではなく、終始楽しそうな女給仕の相貌をじっと見据えていた。再び山札が置かれ、最上段から1枚目が取り出される。
「塔<16>、だね」
そう言ってそのまま2枚目を引き、伏せた状態で横に並べた。
「──さあ、どうぞ」
彼女は裏返しの札に手を差し伸べ、レルゼアにその答えを促した。
彼は一呼吸し、「"High"だ」そう断定して答える。
「うわ、勝負師さんだね。Lowじゃなくて本当に良い?」
改めて問われたレルゼアは静かに頷く。本当にただの直感で、何時もなら絶対に信じないその感覚に彼は今だけ従ってみる事にした。
彼女の細い指先が札の表を撫で付けつつ翻す。結果は──世界<21>の逆位置だった。
「勝ち、だろうか。札の向きは関係ない筈だが」
レルゼアはただ安穏と呟き、リテュエッタは両手を口元に当てて目を白黒とさせている。
「あのクリスタちゃんが…」
そこから先に言葉は無く、ただ絶句してしまっている。彼女に取ってこの結果は想像だにしていなかった。負けた方のクリスタも息を呑んで、開かれた2枚目を無感情にじっと見詰め続けていた。
暫くしてクリスタはその固い面持ちを崩すと、戯けながら、
「あはは……実は私、内心Lowかなってずっと思ってたの。だから…何だか完敗って気分。折角こっちに来てからも連勝街道続いてたのになぁ。とうとう私の十八番がぁ」
机に一旦突っ伏す仕草をしながら、また直ぐ勢いよく顔を上げ、
「ちゃんと責任取って貰う様に、"私の身体"も序でに賭けとけば良かったかも。ねぇねぇ…今からでも貰ってくれたり、しない?」
そうぼやきながら眼前の男に柔らかな媚眼秋波を送っている。
「…もうっ、クリスタちゃんたらっ」
黒髪の少女は顔を真っ赤にして彼女の嗜癖を咎めると、冗談冗談とクリスタはくすくす笑って表面だけ反省した素振りを見せ、また黄金色の長い髪を大きく結い上げ始めた。
(でも、良かった──)
心弛び、俄に喧噪が遠退いていく様にも感じられる。絶対に勝てないと思っていた。本当に一体全体何が起きてしまったのだろう。そうして遅まきながら自身の心臓が早鐘を打っている事に漸く気付いた。
「じゃあこれ、受け取って」
クリスタが素っ気なく何か取り出そうとするのを見て、レルゼアは片手を翳して急ぎそれを止める。
「元々勝てても貰う心算など無かった。収めてくれ」
「もう、そんな莫迦な事言わないでよ、"勝者の義務"なんだから。それに私…お金持ちだもん」
小さく舌を出し、色んな人から一杯巻き上げてるしね、と小声で付け足しながら、ゴトリと大きな拳くらいの革袋を山札の横に置いて、彼の方へと差し出して来る。その重量感からして、恐らく1か月分どころか、数か月分の宿代でも余裕な額だろう。
「こんなには貰えない。こんな大金何時も持ち歩いているのか?」
「……いざって時の乙女の嗜み、かな?あとコレ、あげるんじゃなくて"貸す"んだよ。利子は要らないから、気の向いた時にきちんと返しに来てね。リティーにもまた逢いたいしさ」
同じ街に居ると分かったからか、以前の別れより随分あっさりと、頭巾まで整え終えた彼女は悠々とした所作で持ち場に戻って行く。
「…うん、またね、クリスタちゃん」
彼女はそう呟きながらも、本当に次の機会が来る事を信じ切れてはいなかった。