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第4章 背中合わせと穏やかな嘘 (前編)



 レルゼアとリテュエッタは、騎士国イヴナードへと向かう前に、一旦皇都グラドリエルに立ち戻る事とした。

 誰そ彼時、中央広場の鈴蘭亭にて改めて宿泊の手続きをしていると、そこに長い銀髪の少女"ジゼル"が姿を現す。彼女は彼等が出立した後も定期的に探し訪ねて来ていた。何れこちらから赴く予定だったので、彼女を連れ立って2人は今し方手配の終わった宿の部屋へと向かう。

 その間ジゼルはずっと俯き黙ったままで、その表情は杳として窺い知れない。先程から彼女の隣を歩くリテュエッタも、何も話し掛ける事はなかった。1人少し先を進んでいたレルゼアは、余りの静けさと響く足音に、何となく死刑執行台へと歩まされる罪人の気分を感じていた。

 3人が部屋に着いて直ぐ、レルゼアが一通り荷物を床へと下ろしてから振り返ると、而してそれは執行された。


 大きな銀糸の塊──"ジゼル"の頭が突然こつりと彼の胸の中央を打ち、それを見て最後に入ってきたリテュエッタは部屋の扉をそっと閉ざす。彼の目の前で頭を寄せてくる少女は、何も言わないまま、小さく震え続けていた。


 長い沈黙が首を擡げる。


 幾ら愚鈍なレルゼアでも、この沈黙の責め苦は流石に(こた)えた。せめて彼女から1つでも非難の言葉が浴びせられたなら。1度でも、その裏切りとも言える愚行を断罪してくれたのなら。


「済まなかった」

 沈黙に耐え切れなくなった術士の口から自然と謝罪の言葉が漏れる。黙って奈落へと向かった事と、その間心配を掛けていた事。今まで一体何処に行っていたんですかとか、一体何をされていたんですかとか、そんな激しい取り乱しを想定していたが、ロレアはただ静かに、まるで頭を彼に(こす)りつける様に首を振るだけだった。


「……実はもう、私からは伝えてあったんです」

 漸く口を開いたのは、傍らの立会人、少女リテュエッタの方だった。

 "何も告げずに来て良かったのか"、彼女は以前彼に対してそう呟いたのだが、それは自問ではなく、今の彼が望んでいた非難そのものだった。

 彼への小さな断罪は、捨て置かれたロレアに代わって、彼女が疾うに済ませてしまっていたのだ。


 先程から俯き続けているこの小聖女は、今度こそ彼の前で情けなく泣きじゃくってしまわないように、顔を直視して感情が溢れないように、少しでも成長した姿を見せるために、両手を目一杯使っても抱え切れない程の安堵を必死に受け止めようとしていた。

 ようやく終わった長い恐怖。2人が奈落へと去ったまま、そのまま帰らぬ人となる、そんな底冷えする妄執。全ては杞憂に終わり、それでもまだ消えきらぬ恐怖を、頭の先から伝わる彼の温かい鼓動で何度も何度も拭い去りながら、心から聖母神フローマに感謝していた。


 更に立会人の口からは、彼女が秘かに外套や長剣に加護(エンチャント)を授けてくれていた事まで告げられる。

「そう言えば、吸血刺草を斬り払った時、随分と切れ味が良かった。確かに外套も、何だか温かく包まれているような感じがしていたな…」

 碌に研ぎもせず、もし抜かざるを得ない状況に陥ってしまったら後はもう手遅れとばかりに諦めていたあの(なまくら)。まさかあれも彼女のお陰だったとは。

 鉱石術による付与と感触が全く違ったから、彼は終ぞそれに気付く事が出来なかった。


「──良かった、です……」

 彼女は声を震わせ、更にぎゅっと強く目を瞑り、また瞳から"何か"が零れ落ちないよう必死に耐え忍ぶ。

 あの時、どうか彼等を護って下さい、どうかお願いしますと、身を切る様な祈りで施したそれが実際に役に立っていた。

 その新しい事実を、更に胸を締め付ける様な事実を知らされ、彼女は先程よりもずっと、心弛びの涙を(こら)えなければならなかった。



(やれやれ、敵わないな…)


 この儚げな聖女に対し、引き止められる事を厭わず、これから受けるであろう彼女の悲しみと恐怖を全て真正面から包み込み、予め伝えていたリテュエッタ。

 そして立ち去る自身らの事を信じ、不安に打ち震えながらも心を強く持ち続け、戻って尚非難や不満の1つも口にせず、(ひとえ)に全て許してしまった銀の手の巫女。

 翻って逃げるように無言で出立し、戻るや否やどんなお咎めを受けるのかと戦々恐々と構えていてた自分に比べ、この2人は何て気丈で高潔なのだろう。

 あの時あの状況で忽然と姿を消したら、何処に向かったかなど自明の()

 行き先を告げない方が、何も言わずに去った方が相手の為だとか、そんなのは弁明ですらなく我が身可愛いだけの保身だったと改めて気付かされ、奇しくもそれが彼への一番の断罪となっていた。



 そして今度こそ彼女らに負けない様に、ロレアに暫しの別れを告げようと心に決める。


 イヴナードへと戻る。一時的に国外追放されている自分に取っては無謀極まり無い試みだったが、これまで翻弄され続けて来た過去と決別するため、戻らなくてはならない。


「神から言伝を賜った。だから一度、故国へと戻る」

 事実に基づいて単刀直入に、先ずは必要最低限の結論を伝える。

「その神とは…」

 少し間を空けて補足しようとした彼を遮って、眼前の少女は漸く顔を上げ、今度は彼を真っ直ぐに見据えた後、また静かに首を横に振った。


 奈落の底での詳細を知らないロレアに取って、その言葉は彼の決意に対する比喩と捉えられたのかもしれないが、実際の所その説明が事実かどうかなんてどうでも良かった。

「──どうか、お気を付けて」

 両手でレルゼアの手を取り、そのまま胸元近くへと寄せる。(そもそ)も先程までは、彼等が生きて戻ってきてくれるかも分からなかった。

 先の事なんて想像すらしていなかったけれど、ここに来て直ぐ、レルゼアが何時になく鋭い目と覚悟を滲ませていたから。それは恐らく、(かつ)て自身が描き続けてきた憧憬と同じ位、強い何かなんだろう。


「…またお会い出来る事を、心待ちにしています」

 聖女たるそれは雨模様の瞳で、嫋やかに微笑む。

 具体的にそれは何時なのでしょう、そう訊きたくても訊けず、心折れそうだったけれど、駄々に過ぎない言葉は確りと胸の奥に留め置く。

 きっと戻ってきてくれる、これからそう想い続ける日々は、恐らく実際出会うまでに過ごしてきたそれよりずっと、幸せな日々なんだろう。

 何となく、そう信じられる気がしていた。


「こんな私を…(いや)、何時かまた来よう。私もまた次に会える日を楽しみにしている」

 普段なら決して自ら進んでしないであろう口約束。自身は待つに値する者であると到底思えなかったが、彼女の言葉は決して社交辞令では無い。

 今もし自分を卑下すると彼女の全てを否定してしまう事に繋がってしまうため、自縄自縛の約定を彼女と取り交わさざるを得なかった。



 "ジゼル"が宿の部屋を去った後、鉱石術士たる騎士は念のため、傍らの少女に対しても改めて意思の確認をする。道は2つ。此処グラドリエルに残るか、共にイヴナードへ向かうか。正直な所、ラズラムから使命に限れば彼1人でも全く問題は無い。

 ただリテュエッタは皇都に来る前に予め概要を聞いており、もう彼に答えを示していたので、

「…そんなの、また改めて訊かないでください」

 軽く息を()いてから、笑顔でそう応じた。

 もしティニーも置いて行ってくれるのならちょっと考えようかな…などという軽い冗談は、彼が真に受けて悩みそうなので止めておくとして。


「──さっきの遣り取りを見て、レルゼアさんて何だか成長されたんだなぁって。ついそう思っちゃいました。出会ったばかりの頃なら、帰りも絶対ロレアさんを避けていた気がします。あとそれだけじゃなくて、あんな少し格好良い約束までしちゃって。ふふ」

 エリュシオンの花弁(はなびら)を腐食と乾燥防止の薬液に浸しながら、リテュエッタは心底愉しげに本音を漏らした。


「…後から色々と知らされるのは、ラズラムと話して嫌という程懲りた。だから彼女とは事前に言葉を交わしておこうと思った。それだけだ」

 あの冥府神との非現実的な、何処か実感の無い対話を思い出す。

 銀の手の巫女がその"恩人の死"を告げられた時は、あんな気持ちだったのだろうか。彼は今更ながらに自らの過ちを強く悔悟した。


「ふふ、ああいうのはもし本心でなくても、あんな風に約束してくれるだけですっごく嬉しいものなんですよ。…もちろん実現出来れば、それに越した事ないんですけど」

 今頃銀の手の巫女に取って、あの約束は何より大切な掌中の珠となっている事だろう。


「…彼女には悪いが、精々あれ位が今の私に出来る最大最良のけじめだ」

 そんな遣り取りをしてから、リテュエッタは心がぎゅっと痛んだ。もし本心でなくても──そんなのは欺瞞だ。もう戻れないかもしれない可能性を覆い隠してはいるけれど、彼に取っては(れっき)とした本音だった筈。そしてそれはロレアの方も当然分かっている。

 あの優しい約束に対して、自分は今、不意に何て冷たい嘘を()いてしまったのだろうと。



 どうして、私の方が彼の国まで赴く事になってしまったんだろう。

 何故あの一途で真っ直ぐな聖女様の方では無いのだろう。

 彼女が立場上皇都から動けないのは勿論理解している。

 でもそんな"成り行き"、本当に下らない。


 ──英雄イヴニスという男に会って、本当に治療の糸口なんて見付かるのですか?

 ──身請け先はまだ見付からないのだけれど、彼に滞在費を工面して貰って少しでもこの街で安静にしておいたら如何でしょう。

 ──そして本当なら、私の方が代わりに…。


 ロレアなら決してそんな事を言わないと分かっているのに、頭の中で誰かの幻影と重なって、殊更に諫めてくる。



「あ、今からはあっち向いててください。良いって言うまでこっち見ちゃ駄目です、絶対に駄目ですよ!?」

 リテュエッタは含羞しがちに顔を伏せて告げると、彼が背を向いた後、花弁を自らの痣、左太股の付け根に当てて、幅広い布で確り固定しておく。

 先程ロレアから教わったものだが、元を辿れば例の女官リゼルが大図書館で調べてくれたそうで、エリュシオンの花の効果的な使い方だった。


 彼がこちらを向き直すと、彼女は何となく「──手を、繋いでみませんか?」そう無意識の内に言葉にしていた。自身で提案しておきながら、何故そんな事を…と内心酷く途惑っていたが、彼の方は直ぐ効能の試験と解してその手を差し伸べて来た。

 そうして指と指がほんの少しだけ触れ合った時、彼女はさっとその手を引く。


「…あはは、あんまり変わってないですね、やっぱり直接触るのは……痛いです」

 ほんの一瞬だったし、レルゼアとしては心持ち痛みが軽減された様に感じていたが、彼女がそう言うのなら、痛覚ではなく内臓への侵食を主に和らげてくれているのだろう。

 彼女は苦笑いを続けながら、触れた方の手をもう片方の手で緊く握り締め、今し方の苦患(くげん)をやり過ごしているようだった。



「一先ず、バルシア諸侯領を目指す」


 レルゼアはリテュエッタにそう告げた。バルシアとはオルティア大教国の南東に隣接する諸侯領で、具体的には3人の諸侯が分割統治している。それぞれが小さな国としての機能を有していたが、全てを合わせても他に劣る程度の国力だったため、対外的には集合体として漸く国家の体を為していた。


 なお彼等がオルティア大教国に至るまで通ってきた交易路と、彼等の出会った交易都市ミルシュタット、つまり先日までリテュエッタが暮らしていた街も、厳密に言えばバルシア諸侯領の一部だった。

 ただ交易都市についてはかなり特殊な立ち位置で、諸侯領に属すると言うのはほぼ名目のみ。

 北部のバルシア諸侯領以外に、北西の大教国や東の騎士国、南東のナズィヤ国とは陸路で、更に騎士国とは大弓湾を介した海路でも繋がっており、これらの綱引きによって、自治権を持つ独立的な都市国家、即ち各国の互恵地区の様な扱いの地域となっていた。

 だから彼の発言したそれはミルシュタットの事ではなくバルシア領本体の方、つまり3人の諸侯領の何れかの事を指していた。



 訪れる第1の目的としては、これまで文書交換所から故国に宛てて数日置きに任務報告を行っており、これを欺くためだった。

 というのも、最近では余程の機密を除き、封蝋した手紙が直接運ばれるケースは少ない。

 基本的には遠耳(とおみみ)術士らが読み上げと口頭筆記する事で、文面のリレーを行っていた。

 これでは幾ら遠くとも精々数日のスパンで報告がイヴナードまで届いてしまい、彼等がこれを追い抜いて先に到着するのは困難となる。

 また重要な内容であれば、実際に(したた)めた(ふみ)を追送し、術士間の伝達に対する補完や等価性確認が行われていたものの、幸いな事に彼の任務は国外追放の名目として割り振られた無益なものだったから、こうした厳密な手続きまでは求められていなかった。

 従って内容の捏造は勿論、発信者も自称で良く、後は彼等の位置に関するもの、即ち発信地とその日付を何らかの形で偽装出来れば特に問題は無い。

 ただ皇都グラドリルでの任務に関する報告がほぼ終わってしまっていたので、少なくとも一度場所を変えておく必要があった。


 第2の目的は路銀の確保で、こちらの方が寧ろ比重としては大きい。

 出立時に支給された資金は多くなかったので、騎士の責務として日銭稼ぎもそれなりに行ってきた。

 ただ幾ら元手とある鉱石術といった技能があろうとも、イヴナードの騎士という後ろ楯があってこそ請け負えたものが多い。


 これからは流石に全行程を野営とはいかないので、イヴナードまでの宿代や2人分の食い扶持、飛竜草や厩舎代といったティニーの維持費、術関係の材料や装備の保全費などが必要となってくる。

 バルシアは交易都市に最も近い都合上、他国より宝石商工組合(ジュエラーズギルド)の力が強く、出来るだけ"無名の旅人"となる前に効率良く稼いでおきたかった。

 小型飛竜を手放してしまえば収入含めかなり楽にはなるが、飛竜を使えば移動日数の大幅な短縮が見込めるため、差し引きするとそこまで足は出ない事だろう。

 またリテュエッタがあれだけ撫で(かしず)いており、流石に今更引き離すのは忍び無かった。

 更にレルゼア自身も今では似た様なものとなっており、これまで強い苦手意識が有ったものの、一旦慣れれば空路ほど楽で快適なものは無く、もう手放せない身体となってしまっていた。

 その然したる所以は、やはりティニーという個体の並外れた利発さや人懐っこさが大きな要因で、今となっては彼自身、当時の彼女の慧眼に(ほとほと)感謝していた。



 2人はトリスタン領、3つある内の南西側にある通称"森の諸侯領"に一旦腰を落ち着ける。

 正に風雨を凌ぐだけといった二束三文の宿を借り、彼はギルド直轄のアトリエ"虹工房"へと足繁く通った。

 ティニーは別途やや値の張る厩舎を確保したが、人数として考えるとそちらの方が高価なくらいだった。

 そうしてリテュエッタにはただの留守番ではなく、鉱石術に造詣が無くとも出来る様な持ち帰りの作業補助を任せる事にした。


 更に粗悪な(ねや)では有ったが、日々の炊事や洗濯などは自前で出来る様な造りになっていたため、彼女にはこれらも殆どお願いせざるを得なかった。すると、

「──これまでにお店でがっつり鍛えてきた腕、到頭お披露目する日が来ちゃいましたか…ふふ、美味しいの、期待しててくださいね!」

 などと意味深に息巻いている。

 以前は給仕だけでなく、結構な頻度で調理も手伝っていたらしい。中でも肉や魚といった焼き物全般、加えて香草(ハーブ)香辛料(スパイス)の扱いが得意分野のようで、実際頼むとその通りだったし、それ以外にスープや和え物、質素な焼き菓子もこれらに負けず劣らず。

 多少贔屓目となっていたかもしれないが、実際その腕前は掛け値無しに良いものだった。


「お料理だけは昔からお姉ちゃんよりも得意だったんですよ」

 そう胸を張って面映ゆげに微笑む少女は、竜髄症の影響なのかこれまでより食が細くなってしまっているようだ。

 更に手の空いている時には、日がな1日ティニーの世話や"空の散歩"まで甲斐甲斐しく行ってくれていた。



 そんな風にして3週間程、沙門(さも)しくも心地良い、長閑な生活が続く。路銀の方はあと2、3日も滞在すれば十分だろう。


 故国イヴナードへの報告も、同行者の事は引き続き伏せ置くにしても、こうした日々の何気ない労務作業の中に、敢えて"定住の企図"を滲ませておく。

 恐らくこのまま野垂れ死ぬかこのまま国には戻らず何処ぞに骨を(うず)めてくる事が薄ぼんやりと望まれていたため、故国に対してお誂え向きな話だろう。

 実際本当に居心地が良く、平穏そのもので、終ぞ彼女の疾病を忘れてこうした生活がずっと続くような錯覚を覚えてしまう時すらあった。


 先日摘み取ったエリュシオンの花は20輪程。既に皇都で全て薬液による下処理はしてある。痣に当てていると穢れに煽られて1日程度で枯れ落ちてしまうが、合弁花ながらその1輪からは千切って数枚の花弁を分け取る事が出来たため、少なくともまだ2か月位は余裕を持って使う事が出来るだろう。

 こうした対症療法の後押しや、彼女と居る時間が少しずつ積み重なっていった事で、以前オルティアへの入国で足止めされた時とは打って変わり、レルゼアは彼女への、竜髄症への警戒が随分緩んでしまっていた。



 その日彼女が目覚めた時の気怠さは、当初、菓子を焼き過ぎてしまった時のそれと同じ位に軽いものだった。

 明日か明後日にはトリスタン領をいざ出立という日、リテュエッタは珍しく、レルゼアと共に旅をしてから初めて大きく体調を崩した。

 食事は昨日の作り置きがあったため、彼はこれまで通り朝から出掛けていたが、彼女の方は横になって安静に過ごしていた。


 僅かに覚醒したのは昼の少し前、"彼"と思しき人物が帰ってくる。

 服装が一新されており、目深に被っていたフードを含め、まるで森林探査隊(レンジャー)のようだ。

 乾期の真っ直中、今日は偶々(たまたま)冷たい雨が降っていたため、ざっと涓滴(けんてき)を払ってその素顔を晒す。そこで漸く本当にレルゼアだと判別する事が出来た。


「……もう、誰かと思っちゃいました」

 横になったままで彼を見ていたテュエッタは、安心した風にまた瞳を軽く閉じ、自らの額に右手の甲を当てて弱々しく呟く。

「──イヴナードの衣服は一式、引き渡してきた」

 故国の装身具(オーナメント)を全て譲り渡してしまう事が、イヴナードの騎士に取ってどれだけの重みを持つ事なのか、彼女は知る由も無い。


 文書交換所でもフードを被り、言葉少なに(ふみ)を渡すだけだったので、後は同じくらいの背格好の者が同じ衣服を纏えば、簡単に彼の名を騙れる事だろう。

 宝石商らによる訳有りの伝手を使い、このまま徐々に報告間隔を広げ、1か月程度で溶暗(フェードアウト)するよう依頼してある。

 多少後ろ暗い行為でも、商業神ユグースラントの名の元にと敢えて誓いながら請け負ってくれた彼等なら、きっと首尾良く(こな)してくれる事だろう。


「……それにしても、全然似合わないですね、ふふ…けほっけほっ」

 改めて見ると、つい笑ってしまいそうで、乾いた咳と喘鳴が肺の奥から漏れ出てくる。

「…そうか、そこまで不自然となると今後の移動中も怪しまれてしまうだろうから、もう少し考えないといけないな」

 そういう問題では無かったから、そんな真顔で深く悩んでまた笑わせないで欲しいなと思いながら、リテュエッタは気怠げに上体を擡げた。


「完全に起こしてしまって済まない」

 彼は林檎と貧者の桃(オウレル・プラム)を買ってきてくれた様で、椅子をベッドの横に持ってくると、不慣れな手付きでもたもたと皮を剥き始める。

「ありがとうございます…私、自分でやれます」

(いや)、いい。昔修道騎士らによくこうして貰っていたから、その恩返しの心算(つもり)だ。ただ不格好になってしまうのは許して欲しい」


 彼は生来身体が弱く、特に幼年期の時分は今のリテュエッタの様に体調を崩す事が屡々(しばしば)あった。

 一方彼女の方は丈夫で、風邪などで寝込む事はこれまで殆ど無かったが、体調を崩した際、一度だけ幼い姉が母親の見様見真似で看病してくれた時が有った。あの時と全く同じように、凸凹に剥かれていくそれを見て、

(ああ、だからか。だからこの人のこと、何となく"好き"だけど、何となく"嫌い"だっんだ──)

 最初は全く似ていないと思っていたけれど、やっぱり心の何処かで重ねてしまっていた事に気付き、慌てて話題転換を試みる。


「私にはイヴナードに一緒に行くのか確認してましたけど…けほけほ、(そもそ)もレルゼアさんはどうして戻るんですか?」

 ()()れながら何とか話し切ったものの、何度か途中で深く咳いてしまう。

 レルゼア側の複雑な事情は善く分からないが、確かラズラムから賜ったという英雄への言伝は。


 "死を願わば、与えん"


 先日彼が呟いているのをふと耳にしてしまい、迂闊にも深堀して聞き出してしまった不穏極まりないその言葉。

 神の面前では嘘は()けないだろうし、その場では(まつろ)うしかなかったのは想像に難くない。

 ただこうして日が経った所で、まだその気は変わらないのだろうか。

 騎士国イヴナードは確か、今尚生きる英雄イヴニスの加護で浮蝕やら魔物やらを遠ざけていた筈。

 そんな英雄がもしも死を願ってしまったら。当然また人の寄り付けない土地に直ぐ戻ってしまうだろう。彼は態々(わざわざ)故国を滅ぼしたくて帰るのだろうか。


「以前話したのだが、不死のイヴニスから竜髄症の治療法に繋がる糸口を見付けられたら、そう考えている」

「……そんな風に、他人に理由を押し付けないで…ください」

 彼女はまた苦しそうに咳き込みながらも、真剣な眼差しで更に(ただ)してくる。


「もし会えたとして、あの御言葉(みことば)、本当に伝えちゃうんですか?」

 レルゼアは彼女の詰問に対して答えに窮していた。

「……体調が悪いのに、全く手厳しい限りだ。一先ず無茶は会話をしないで欲しい」


 ヴォルドー家の者に求められる至言、即ち血の掟は、"弱きを助け、廉潔であること"。

 まさか知らず知らずの内に、(かしこ)くも封じられた英雄を自身から見て弱き立場と感じてしまっているのだろうか。

 そしてリテュエッタの方も、"弱き者"だったからここまで面倒を見て連れ回してしまっているのだろうか。

 彼は軽く(かぶり)を振ってそんな高尚な考えを大元から否定しておく。

 恐らくは、400年という長い年月の中で自身以外の全てを失って拘束され続けている哀れな英雄と、今の自分の境遇を重ねてしまっているだけに違いない。

 それですら、本来なら相当に畏れ多い事なのだが。


 過去との決別、渦巻く思考に終止符を打つために英雄の答えを楯にする。

 そんな破滅的な我執、ただそれだけの事。

 他人頼りの願望で故国を多大な危険に曝し、果ては瓦解させてしまう可能性を秘めた愚かな行為である事など、十二分に分かっている。


「説明が難しいのだが…英雄の出す答えが知りたい。そういう事なのかもしれない」

「…よく、分かんないです」

 囚われの英雄の意思なんて今は関係無い。それを知った上での"彼自身の答え"。即ちレルゼアが望んでいる真の結末が知りたかったリテュエッタは、釈然としないまま時間を掛けて小皿のそれを食べ終えた。


「…ありがとうございました、美味しかったです」

 流石にまだ余裕綽々とは行かなかったものの、少しだけ虚勢を張って明るく微笑んで見せる。ベッド脇に小洒落た棚などの置き場は無く、彼女がレルゼアに皿を返そうとした時、また少し指先だけが触れる。

 この時触れた側の男は、彼女からの痛みよりも未だ下がり切らないであろう体熱の方を強く感じていた。



 何時もより随分と多い盗汗と共に翌朝からは一転して快方へと向かったため、予定より3日程遅れて安宿を出立する事となる。

 例の小型飛竜の所に行くと、レルゼアはまるでどちらが主人か分からないような対応をされてしまった。

 彼女が床に伏せっている間はきちんと彼が日に1回様子を見に行っていたのだが、その時とはまるで違う素っ気なさに、改めて聡い個体だと舌を巻く。


 ミルシュタットは騎士国イヴナードと陸路で直接繋がっているとは言え、かなり長い行商の大帯(マーチャント・ベルト)を東へと遠く渡って行く必要があった。恐らく飛竜でも20日程度は掛かってしまうだろう。

 当初はミルシュタット港とイヴナード港を結ぶ海路も考えたが、通常の陸路なら馬を使っても早ければ2か月程の所、海路では凡そ2週間半と大差ない。船内の閉鎖空間で身元が割れてしまった時の事や、イヴナード側での検疫リスクまで考えると、やはり空路が最善と思われた。


 また大教国とを結ぶ比較的細い交易路に比べ、こちらは宿には事欠かないし、追剥ぎ(バンディット)匪賊(ブリガンド)らの危険性もそこまで高くは無い。

 飛竜は積荷を運べないから彼等以外の往来は少なかったものの、1日に数回程度は見掛ける事があった。


 所々ある浮蝕のうち大きく侵食が進んでいる地域は陸路と同様に迂回しておく。そこさえ避ければ魔物の脅威も少なく、野生動物も今の時期は大した問題にならないだろう。

 唯一厳しいのは併走する赤火(せっか)山脈からの吹き下ろしで、特にこの時期は北方の草原地帯(グラスラント)を勢い良く越えて来て、冷たく乾いた突風が吹き荒ぶ。

 寒さは流石に大教国で過ごした事もあってそこまで問題にはならなかったが、風で大きく横に煽られてしまうため、飛行はこれまでよりもずっと注意深行う必要があった。

 日に日に行き交う人種や建築様式、朝市の規模、そこに並ぶ食べ物といったものといった文化の緩やかな変遷が有り、リテュエッタはそうした違いに気付く度、楽しそうに彼へと報告していた。


 特に目に付くのは人種で、此処まで来るとオルティア系の薄い色の肌や体毛がかなり減ってきている。イヴナードも地理的にナズィヤ含めた南方系の人種が比較的多く、肌の色は濃淡豊かな一方、彼自身もそうだったが、髪は黒かそれに近い暗褐色など濃い色のものが殆どだった。

 その中でもリテュエッタは六花のように透けた肌と濡れ烏の様な美しい髪の組み合わせで、恐らく混血と想像出来るが、外界との交流が少ないと言われるスノーステップの村々では、かなり珍しい部類だったのではないだろうか。


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