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第3章 奈落の花と冥界(ラヴィス=マイス) (後編)

翌日真昼の少し前、彼等は到頭奈落の底へと足を踏み入れる事となる。


その日は比較的天候も良く、仄暗い浮蝕の大地に於いては、ここまでで最も明るかった。命綱は"遊び"を目一杯少なくし、殆ど彼等2人とティニーを固めるが如くきつく結んでおく。ティニーに下げてあった道具袋も口を固く結び、首に巻き付けるように確りと固定してあった。

「──そろそろ行こう」

飛竜が羽ばたくと、その身体は瘴に塗れた地表から、少しずつ、ゆっくりと離れていく。大穴の中央上空くらいにまで来ると、そこからは徐々に下降へと転じた。レルゼアが足下(そっか)を覗き見ると、先の見えない昏々とした薄い闇が広がっている。そして間もなく、飛竜何頭分か位に浅く潜った所で、その異変は突如として起きた。


彼等の視界に突然大きな影が落ち、殆ど脊髄反射に空を見上げる。


そこには翼を広げた巨大な鱗の塊──猛火の翼竜(ワイバーン)が彼等の頭上で陽光を遮り、こちらを()め付けていた。少し距離はあったものの、目測でティニーの10倍程はあろうかという巨躯。この場での逡巡は死を意味してしまう。当然大穴を塞ぎきる程ではなかったが、忌みじくもそう錯覚してしまう程のそれは、腹の底をビリビリと震わせる悍ましい咆吼を上げ、真っ直ぐにこちらへと向かって来た。墨々(まじまじ)と眺めている暇は勿論無かったが、その口元に小さく赤い赫灼の収斂が見て取れると、彼が反応するよりもずっと速く、ティニーは軽々とその身を翻す。

「──わわっ」

虚を突かれたリテュエッタは振り落とされそうになりながらも、レルゼアの乗る鞍の後輪(しずわ)や彼の外套を端を掴んでぐっと(こら)える。翼竜の口からさしたる予備動作も無く放たれた焔の球は、差詰(さしづめ)伸ばした腕4つ分くらい先を掠めて行ったが、それでも空気の薄膜は溶け落ち、まるで直接肌を()ったかのようなヒリヒリとした強い熱と、大気の焦げた臭いを彼等に残した。

「……まずい!」

このままこの大穴の底へと向かえば、袋の鼠となってしまう。かと言って穴の外に逃げたとして、この体格差で逃げ(おお)せるというのか──。刹那の(せめ)ぎ合いに対し、身を預ける飛竜が少しだけ首を落としたため、素直にそれに従う事とした。

「思い切り屈んで頭を下げろ!」

突発的にリテュエッタに指示し、彼も行動を同じくする。彼等は流線型に、まるで解き放たれた矢のように一直線に、幾つかの薄い瘴気の雲を突き抜けて、奈落の底へと加速していく。そうして勢いを殺すことなく、殆ど体当たりに近い衝撃で着地した。彼は手早くナイフで命綱を断ち、倒れ込んだ飛竜の背から(まろ)び出て、急ぎ頭上を仰ぎ見る。遠く見えた翼竜は、暫くの間大穴の入り口付近に(たむろ)していたが、やがてその長い首を折り返し、ゆったりとした動作で遠離って行った。


「痛ったた…」

着地時の震盪で少し気を失っていたリテュエッタは、頭を擡げ半身を起こす。

「ここは…」

睫毛に付着した土埃で少しだけ視界が霞んでいたため、手の甲でそれを拭いながら、自然とそう呟く。

「──地獄…ではないな、本当に直ぐその入り口だろう」

鉱石術士の男は片膝を立てて傍らからこちらを見ており、彼女の問いに応じてくれた。どうやら彼が命綱を()き、寝かせてくれたのだろう。気が付いた時に頭の後ろが少し柔らかかったのも、彼が外套を脱ぎ、枕代わりに包めて置いていてくれていたからだった。

「ここが、奈落の底…」

大きさからして反響する程小さくも無いため、声は直ぐに周囲の闇へとするりと溶け込んで行く。そうして、短い静寂(しじま)が訪れた。円く切り取られた空から僅かに光は届いているが、薄暗くてあまり遠くまで見通せない。ただ起伏は殆どなさそうで、瘴気の気配も無く、何となく嫌な感じはしなかった。それどころか気付けば寧ろその逆で、温度なども心地良く保たれており、何処となく清潔な礼拝堂に似た雰囲気だった。オルティアの調査団が以前到達した事もある筈なのだが、辺りを見回しても、特にこれまで人が立ち入った様な形跡は見受けられず、彼等が初めての来訪者の様な、極めて静謐で神秘的な地。


「エリュシオンの花は…」

彼女は思い出したかの様にその事を口にするが、傍らの術士は言葉では無く上体を捻ってそれに応じた。黒髪の少女の視線は誘導され、彼で遮られていた少し先を覗き見ると、薄黄色の布を大きく広げたかの様に、かの花はひっそりと其処に佇んでいた。湖位の大きさはあろうこの地下全体に対し、咲いている範囲は精々大きなベッド3つ分位だろうか。小さく身を寄せ合っているその可憐な花弁は、天から真っ直ぐ届く陽光に煌めいており、風も無いのに小さく揺れて見える。

「──何て綺麗なの……」

彼女は指を真っ直ぐに組んで暫くそれに見蕩れていると、男は邪魔をしないようにと、緩慢な動作で立ち上がる。

「再び飛べるようになるまでまだ掛かりそうだ。少し辺りを見回るとしよう。花の方は任せたから、その間に適当に見繕っておいて欲しい」

特に魔物の脅威は無さそうだったが、何時何処で闇に溶け手薬煉(てぐすね)を引いて待っているかなど分からない。目覚めてからずっと淡い夢の中に居るような心境だった彼女は、その言葉で急に現実へと引き戻され、先程からティニーの姿が見当たらない事に気付く。然し何のことはない、彼女の後ろの方に居ただけなのだが、振り返るとその長い首をぺたりと地面に着けてぐったりと横たわっていた。

「…ティニー!だっ…大丈夫?」

彼女は反射的に立ち上がって駆け寄ると、飛竜は翼を微かに動かして生きている事を示して見せた。落下の衝撃で打撲でもしたのだろうか。息は少しだけ荒かったが、きちんと意識がある事に一先ず安堵し、窮地脱出の立役者に対してゴツゴツとしたその頭をそっと撫でてやる。

「致命的な打ち傷はなさそうだったが、無茶な飛行による疲れが出ているようだ。一応滋養の薬も先程少し与えておいたから、直ぐ回復して来る事だろう」

レルゼアは去り際にそう言い残す。花の採取と、愛くるしい飛竜の介抱と。彼女の優先事項については言うまでもなかった。


レルゼアは少女らが見えなくなるギリギリ位まで距離を置くと、そこから時計回りに警戒しながら歩いて行く。野営の時に使っていた蛍火(けいか)の粉を少しずつ撒いて足跡(そくせき)を残し、先の"花園"から(いたずら)に遠離ってしまわない様、用心深く進んだ。丁度を半円を描いた辺りだろうか。彼の眼前を薄い人影が過ぎる。

(──!)

浮蝕の最奥とは思えない程に寂寥とし、清冽(せいれつ)な世界だったから、何もないだろうと意図せず侮ってしまっていたため酷く狼狽えたが、ただ暗がりの錯覚だったのかもしれない。そう思い込もうとした所で、またしても何かの人影が通り過ぎ、彼はその横顔を(つぶさ)に見てしまった。

(ラピスッ…!)

つい声を上げそうになったものの、危険を感じ、(すんで)のところで(はた)と飲み込む。先程見た聖騎士ラピスは気丈で、凜とし、誰にも負けない強さと輝きを放った彼のよく知る姿だった。裏を返せば、彼が最後に見た姿と大きく異なっていたとも言える。思い出したくもないが、あの時の彼女は窶れ果て、瞳には深い怯懦の色を浮かべ、まるで別人の様な姿だった。ここは冥界(ラヴィス・マイス)の入り口。だから"そういう事"なのだろう。もしも──もしも先程見た彼女が悪しき死霊でないのなら。少しでも、また離別してしまう前にその魂と会話出来たのなら。どんな言葉を掛けるかすら決め兼ねたまま、彼が無意識にほんの1歩だけ、人影の消えていった方へと足を踏み出したその瞬間、更に先の地面が音もなく隆起を始めていた。


大地の隆起は彼の数倍程の高さにまで達すると、今度はボロボロと土塊(つちくれ)が肉片のように剥がれ落ちていき、雄々しい骸の姿を顕現させた。骸とは言っても大気に晒されているのは殆ど顔と左腕だけで、身体は幾重にも重なった慧解(えげ)法衣(ローブ)で覆われており、其処彼処(そこかしこ)に黒と白の折り重なった複雑な紋様が編み込まれていた。頭は橄欖石(ペリドット)紫水晶(アメジスト)が煌めく星の様に鏤められた漆黒のフードに覆われている。中に覗く相貌は殆どが骨と皮で肉が非常に薄く、歯の根まで全て剥き出しになっていて、まるで木乃伊(みいら)のようだった。フードの隙間からは、竜胆色の細い髪が蛇のように幾何も広がり、うねっている。一方で剥き出しの左腕は肉が厚く、土気色の肌の奥が薄く光っており、水銀の血液が脈打って見えた。その指先には鋭く長い爪が生え、先から真っ直ぐに絹の様な糸が垂れ、黒曜の真玉(またま)が2つ縦に連なり、不規則に振れ動いていた。幽玄且つ禍々しく、ともすれば猛々しい体躯に揺るぎない知性が滲み、畏怖の力の放っている。


(なん…なんだ……これは)

思考が追いつかない。レルゼアは魅了されたように立ち竦んだまま、眼前の彼を見上げる事しか出来なかった。而してかの者は、こちらを覆い隠さんばかりに弓の様に背筋を撓ませ、真暗に沈んだ瞳のない眼窩で静かにこちらを見ていた。


≪──(おの)が結びに惑いし子よ、この先、肉を以て()ること(あたわ)ず≫

頭の底に直截響いてくる声無き声。そこで漸く、彼は強い悪寒がして足が竦み始める。人語を(かい)す高貴で高位なる存在、且つ、精神への直截的な介在。一先ず、この事を急ぎリテュエッタに──

≪…芽吹きし童女、傅く小竜へと、その憂虞を手向けんとすか≫

振り返って何かを叫ぼうとしたその瞬間、更に深く意識の底へと語り掛けられ、喉元まで出かかっていたそれは意図せずまた行き場を失う。

(思考を、読まれた…?)

彼は愕然としたが、そこから(にぶ)っていた頭は急速に動き始め、眼前のそれを彼の"理解できるもの"へと変化させようと試みていた。粗暴なる闇の座(バエル)腐敗巨人(レヴナントオーガ)死せる死術士(アンデッドネクロマンサー)。知識のどれとも噛み合わない。単なる悪魔やアンデッドにしては高貴過ぎるし、人が何らかの死霊術を使ってその身を作り替えたものとも到底思えない。


≪……我が名はラズラム、冥府の統治者にして、冥界(ラヴィス・マイス)それ自身≫

レルゼアの思考に率直に答えを呈しただけだったが、彼の背筋は、太い氷柱を無理矢理捻じ込まれたかのように、一瞬にして凍り付いた。今、かの者は何と答えたか。それはエスト神族、フレア=グレイスの七柱のうち一柱そのものの名ではなかったか。どういうことだ。然しながら、この風格やこの重圧。偽りは微塵も感じられない。神とは実際にこの世界に姿を持ち、姿を顕すものなのか。神殿にある偶像は、想像の産物では無かったのか。今度こそ本当に、まるで思考が廻らなくなった。


果たして夢幻(ゆめまぼろし)の中にでも居るのだろうか。畏れ多くも自らを神と言い放つものが、三つ首の業犬(ケルベロス)の様に冥界の入り口に座するとは。一体何の冗談だと言うのだ。

()も、同源たればこそ、此処に在りて此処に無し、最奥に在りて最奥にも無し、故に先の鏡に同じ≫

"先の鏡"とはレルゼアが見たラピスの事を示していた。それは彼が心根で望んでしまった像であり、漂う自我無き冥魂の霧が呼応して形成されただけであったが、その(とうと)い示唆についてレルゼアが気付くことはなかった。

≪好奇の意業(いごう)は人たるが故、誇れこそすれ、努々(ゆめゆめ)恥じるなかれ≫

その言葉は、レルゼアの思考の少し先に対して示されたものだった。自身の自動的な思考が全て冥府心への問いとなってしまう事に"畏れを感じようとしていた"その矢先。冥府神は彼自身がその考えに至る前に、これに応じてしまっていた。


何故、かの尽瘁(じんすい)の動乱で敵対した神が──。レルゼアは自らの安全を顧みる前にはまた思考が"関心"に、即ち無意識の内に眼前の神たる存在への問い掛けへと傾いてしまった事に気付き、歯噛みする。

(くだん)の戦は我が手落ちにて、助けこそすれ、何ぞ必ずしも争わん。ニベルに紛いし篤き日ぞ≫

そうして、彼はその関心を口火として、奇しくも極一部の者しか知らない故国最大の秘密、偽りの歴史へと辿り着いてしまった。ラズラムと名乗るものはその間微動だにせず、ただその左手にある2つの縦の振り子と、そこから滴る黒い雫だけが時折蠢いていた。


一般に広く知られている騎士国イヴナードの歴史、それはまず400年程前に奈落の底から溢れた不死者らとの長き戦い、即ち尽瘁(じんすい)の動乱に端を発する。当時英雄たるイヴニスには大賢者と黒の魔道士という2人の心強い仲間がおり、共にこれを制する事となった。大賢者の名はグリムクロア、黒の魔道士はニベルと言った。その後イヴニスは現在のイヴナード領へと移り、魔獣らの跋扈する平原の一部に多大なる加護を齎し、騎士国を興す。その結果、雄々しい英雄は人ながらにエスト神族の一柱へと迎え入れられた。高齢のグリムクロアは当時イヴナードの建国を助け、開国当初は内政に於いてもその力を如何なく遺憾無く発揮したとされる。他方ニベルについては、かの動乱終結と共に忽然とその姿を消し、謎の魔道士とされていた。英雄であるイヴニスは勿論、賢者(セージ)グリムクロアについても騎士国ではその存在を広く知られているが、魔道士ニベルについては殆ど忘れ去られてしまっており、怪しげな術、失われた魔法に近いものを行使していたという不確かな記録だけが残っていたため、一部の好事家がその存在について未だ研究を続けているだけだった。


そしてラズラムが無知蒙昧なる彼に示した真の歴史とは。400年程前の尽瘁(じんすい)の動乱、これは冥府神が不死者を人の世界(テリス)へと侵攻させたと一般には考えられていたが、当のラズラムは、生者と死者の何れをも深く尊び、不用意に行き来する事を是としないのだという。彼の持つ役割は冥界の厳正なる統治のみ、即ち死者の魂を一所(ひとところ)に集めて浄化し、運命と回帰を司る女神リヴァエラに引き渡す事、ただそれだけ。生者が無為に死する事、また死者がリヴァエラの元に辿り着き新たな命を得る前に生者の世へと(まろ)び出てしまう事は禁忌と考えており、全ての魂は、(おごそ)かなる"生"と"死"という2つの明確な境界によって正しく隔てられている事を佳しとしていた。だから彼が人の世界(テリス)に不死者らを敢えて侵攻させる筈も無く。実際には当時栄華の神エファーシャの力が僅かに増大して神族間の均衡が僅かに崩れてしまい、冥界(ラヴィス・マイス)に綻びが生じてしまったのだという。その際彼の力を以てしても不死者の流出を完全には防ぎ切れず、黒の魔道士ニベルに扮して人に対して助力し、これを収める事としたらしい。一方その遠因(えんいん)となったエファーシャは、彼が自ら収拾を付けようという事案に直截手を下すのは憚られた様で、1人の男、即ちイヴニスに対して彼女がその力を授け、支援したのだという。


ただ、話はこれだけで解決しなかった。戦渦が予想以上に長引いた事で、男の魂は殆ど力と同化してしまい、既にエファーシャの手によっても引き剥がす事が難しくなってしまった。栄華の女神から授かった生の力は、"竜髄症の利点"、即ち不老不死を齎していた。然し大賢者グリムクロアは、人に似つかわしくないその力の濫用を危惧し、ラズラム自身も生と死の厳然たる理の外にあるものを好ましく思っていなかったため、冥府神として手を貸すことで、イヴニスは遠く東の地、今のイヴニス神殿の地下深くへと封じられたのだという。そしてその封印を長きに亘って監視させるべく、大賢者は先ず地上に新たな国を興す事を画策する。魔物が断続的に跋扈して殆ど人の寄り付けない地だったが、封じられた英雄の力を逆に利用する事で大規模な結界を形成した。これはイヴニスから少しずつその力を吸い上げ、弱らせていく事も兼ねていたのだと言う。加えて廻し子の制度を作り上げ、血統などに依らず、こうした"企図"を次世代へと確り継承させるよう仕向けたのだった。そうして数多の記録を改竄し、英雄が国を興したように見せ掛けて、現在に至るのだと冥府神は眼前の矮小な術士に対して語った。そしてこれらの真実は円卓に着く者、即ち極一部の為政者と、直接封印の維持に関わる者くらいしか知り得ないものとなっていった。


(なんて…ことだ…)

ラズラムが彼に語った真意など計り様もない。ただ彼は騎士国の殆どの人間と違わず、英雄には多少なりとも羨望を抱いていた。廻し子についても、これまで両親や妹ラピスとの難解な力関係が強く心を(さいな)んできた。今の自らの境遇と、これからについても、それは同じ事だった。

(──だからと言って矛を向ける先など無い。仮に知っていたとしても、結果が変わる訳ではない。それは十分に分かっているのだが──)

彼は爪が食い込み血が滲む程両の拳を握り締め、言葉に出来ない遣る瀬無さと、宛の無い忌諱を感じていた。喩え力強く踏ん張っていたとしても、その足元からガラガラと崩れていく様な、(ちゅう)に浮く悍ましさ。今この胸に去来しているのは、果たして何の感情なのだろう。


そしてこの一柱は、エファーシャが授けた力の事を「芽吹かぬ種」と、リテュエッタの事を「芽吹きし童女」と呼んだ。彼の管轄外であり、其は語る可くも無しと躱されつつ、これらはただ人の手の外にある"同源の(たぐい)"と告げられる。ただの病で無いのなら、人知を上回る何かに巻き込まれただけであれば、ひょっとしたらそこに何か彼女を治す糸口が有るのかもしれない。生死の理に相剋し、彼女をイヴニスの様な不老不死にしたい訳では無く、何とか"人の在り方"に戻してやりたい。ただそれだけの事──。


≪怜悧なる無辜の子よ、(くゆ)る事なく枢要なる同胞(はらから)の元に向かわんと欲すれば、我が箴言を持て≫

封じられたという英雄イヴニスに、彼を以て一体何を伝えようと言うのか。イヴナードの鉱石術士は、無言のまま謹承し、それを拝受する。


(──私に、亡国の担い手にでもなれとでも言うのか…)

成る程、と彼は自嘲した。これまで彼の関心事に(やや)もすると饒舌に答えてきた冥府の神だが、今は肯定も否定もせず、ただこちらを見下ろしている。ざわついた彼の心が漸く静まってきた所で、永久浮蝕の縁くらいまでは守護、即ちラズラムの数少ない命有る従者を付けてやろうと促してくる。命有る従者とは、入り口で襲ってきた猛火の翼竜の事だった。それを聞いたレルゼアは、恐らく、本当に何の根拠も無く、冥府神が自身らをここまで導き入れたのではと感じた。入り口での警告、不可思議な撤退、そしてこの場所に冥府神自らが赴いてきた事。少なくとも大教国の調査団がエリュシオンの花を命辛々持って帰った時は、このような事は起きなかったであろう。またそう考えてしまった所で、これ対してもラズラムは何も応じず、ただ静かに土の中へと去っていくだけだった。


ティニーはもうすっかり回復してしまっているようで、姿勢を正しており、その向かいに黒髪の少女が居た。彼女の方はと言うと、無骨な外套を傍らに脱ぎ捨て、はしたなくその場に割座(わりざ)で座り込んでいた。そうして楽しそうにお喋り、とは言っても殆ど一方的にティニーに何か話し掛けていた様だ。

「あっ!お帰りなさい」

座り込んだ少女が近付く足音に気付くと、半身だけ彼の方へと振り返る。その胸元には、先程摘み取ったであろう薄黄色の花束が、まるでブーケのように小さく纏まって顔を覗かせていた。小さな花園を背に、微かな砂埃が上空からの薄い陽光が煌めいている。その姿はまるで

(──エリュシオンの…花、嫁…)

瀟洒なドレスやヴェールに身を包んでいなかったものの、ただ花婿の到来を心待ちにしている、ふとそんな風に感じ取れてしまった。


「見て見てこれ、凄いでしょ!何だか可愛くって…摘み取るのが申し訳なくて。持って行けるの、このくらいかなって」

すっくと立ち上がってブーケを彼の方へと突き出しながら、にこにこと屈託無く、満足げに破顔している。

「……あ、ああ、良い香りだな」

いきなり馥郁たるそれを鼻先へと近づけて来たので、粗忽で的外れな返しがつい口から零れ落ちてしまった。すると彼女は嬉しそうに、

「そう!香りも凄く柔らかくて良くって…」

と改めて自らの胸元に抱き寄せ、あどけなく瞳を閉じて静かに芳しい匂いに浸っていた。果たしてそれは、誰に()する花嫁なのか。こんな小さな花束を持っただけで、普段より何倍も可憐に、美しく見えてしまう少女を前に、何故だか彼は、どんな伴侶に向けて送り出してやれば良いか──ただずっと誰かを待ち続けるだけの寂しい姿を想像してしまい、終ぞ考える事は出来なかった。


レルゼアはティニーの首に下がっている大袋から薄布を取り出し、彼女謹製のブーケをそっと(くる)んで仕舞いながら、先程冥府神に遭遇した事と、彼の手駒たる(くだん)の巨大な翼竜が送ってくれる事を掻い摘んで話す。

「え、すごい」

あまりにも掻い摘み過ぎたのかもしれない。彼女は外套を纏いながら毒気を抜かれた様にきょとんとし、それだけぽつりと答えた後、何度も瞬きながら真顔で固まっていた。恐らく、彼が突如神たるものに出(くわ)した際と全く同じで、頭の中が追いついてこないのだろう。もしもリテュエッタからの返しで「さっき医療神ディリジア様に()って、この花の効能について詳しく教わったの」などとさらっと告げられたら、きっと彼の方も同じ反応を示していたに違いない。つい今し方の邂逅は、改めて思い返してもそのくらい突拍子もなく非現実的な出来事だった。


復路にて、一片が大きく厚い鱗に覆われた翼竜の巨躯は、ティニー毎背に乗ってしまっても問題がない程頑丈で、帆船の様な大きな翼による速度は凄まじく、このまま1日と掛からず安全に永久浮蝕を脱出する事が出来そうだった。一方小さな飛竜の方は、一緒に運ばれている間ずっとお株を奪われていたため、何だか拗ねた風に退屈そうに空を眺めてばかりで、リテュエッタが流れる髪を手で抑えながら、只管(ひたすら)声を掛けて構ってやっていた。そんな1人と1匹を見て、レルゼアは戻ったら騎士国とイヴニスの関係、そしてこれから自身が為すべき事についてどう説明を切り出すものか考えていた。

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