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第3章 奈落の花と冥界(ラヴィス=マイス) (前編)

 浮蝕の訪れ、最初は色が剥がれ落ちるように、気付けば景色が灰色味を帯びてきて、草木は次第に枯れ、大地は濁り、独特の異臭を放つ瘴気が流れ込むようになる。やがて魔獣、悪魔、死霊などの魔物らが腐敗に拐かされ、跋扈するようになる。晴れていく時はこの逆で、跋扈する魔物が次第に減り、瘴気は薄れ行き、草木が芽吹くようになって、徐々に景色がその色を取り戻していく。そうして常に移ろい行くものだったが、それには1つだけ例外があった。


 "永久浮蝕"。


 浮遊大陸(ステアフロート)の直下で、常に広大な影と瘴気を湛えると言われている大地の最果て。かのオルティア大教国以外では、(そもそ)もその存在すら伝説と思われている節があったが、実際には皇都グラドリエルから入り組んだ(おおとり)峡谷西端を抜けた先に、高踏的に広がっていた。大教国はその尊大な名の割に実際の領土としてはかなり手狭で、敢えてそう名乗っているのは教義やその歴史、フローマの加護などの事もあったが、この広大な浮蝕の事を暗に含んでいたからなのかもしれない。そして"奈落"とは、その永久浮蝕にある、冥界(ラヴィス・マイス)への入り口と言われている巨大な穴の事だった。


 永久浮蝕の端は皇都から程近いものの、飛竜を目一杯飛ばして少なくとも3日分程度の離隔距離が有った。余程の事がなければ大教国の領土内にその脅威が及ぶ事はない。ただ人に取っては、知見や見識の無い、不識である事の方が恐怖を掻き立ててしまうもの。更にそれが彼等の近くに横たわり続けるものであれば、尚の事、識らなければならない。それ故オルティア大教国は、定期的に永久浮蝕へと調査団を派遣していた。それらは有事に対する訓練を兼ねた行軍で、浮蝕が生じない事による安寧で軍の力が低下しないよう、引いては外界からの攻撃を招かない事も目的としていた。


 彼等──レルゼアとリテュエッタ、それに飛竜のティニーは、今正にその東端、少し小高い丘に立って、その寂寞とした浮蝕の大地を眺めていた。見渡す限り殆どが藍縷のようにずくずくと爛れおり、瘴気は夜霧のように濃く、驟雨の如く荒々しい風が時に吹き抜ける。ここ迄にあった降雪は殆ど見受けられず、時折地面には薄く、その白い痕跡が見受けられるだけだった。視線の先、遠く瘴気に紛れて動く幾つかの影は、何らかの魔物の群れだろうか。


「……ロレアさんに何も告げずに此処まで来てしまって、本当に良かったんでしょうか」

 長い黒髪をふわりと1つのお下げにし、頭全体をすっぽりと温かそうな頭巾で覆った少女リテュエッタは、限りなく独白に近い形で彼に問い掛ける。少しだけ、怖じ気づいたのだろうか。傍らに立つ鉱石術士の男レルゼアは、彼の背の方を一旦振り返ってはみたものの、彼女の問いに答える事はなかった。


 皇都を出立する1週間程前、"エリュシオンの花"の存在を知ったリテュエッタは、その日の夜、秘密裏にティニーと共に単独で向かう事を決意していた。今は冬の初め、ロレアによると、次の永久浮蝕の調査はまだ数か月先の様だ。そうなると彼等は、少なくともそれまでの間に暇を持て余し、無聊を託つ事となる。その間に竜髄症の症状も随分と進行してしまう事だろう。また次の調査団は奈落の底まで行く事を予定していない様で、彼女を慕うロレアからは、念のため掛け合ってみますと告げられていた。


 永久浮蝕の奥地に在るという"奈落"と呼ばれる大穴、人の世界(テリス)と亡者の地、冥界(ラヴィス・マイス)とを隔てているその穴の底に、かの花は咲くのだという。1日のうち天頂の極僅かな時間帯だけ届く脆弱な陽光を頼りにしながら、柔らかなアゼリアにも似た薄黄色の花弁を絨毯の如く低く敷き詰めて、細々(ほそぼそ)と群生しているらしい。その存在はこの世界で唯一、浮蝕の瘴を和らげる事が出来るとされ、幾つかの幻の秘薬の原料とも言われていた。

 幾星霜の歴史を持つこの大教国にあっても、奈落の底から運良く持ち帰る事が出来たのは、恐らく10数回程度のみ。花を株毎持ち帰っても育つ事がなく、その余りの稀少さ故、一部の魔術家に取っては垂涎の逸品とされ、花束1つで小さな国が買える程の値で取引された事も有ったのだと言う。


 リテュエッタは夜更けにごそごそと寝床から這い出し、静かに外套を羽織って部屋の外へと出て行った。浅い眠りで警戒していたレルゼアは、直ぐにそれと気付き、身を潜めて跡を付ける。彼女の向かった先は案の定宿の厩舎で、世話人の女性とは既に打ち解けていたのか、脇の植え込みに隠してあった非常用の鍵で難無く侵入して行く。

 手持ち燭台(キャンドルホルダー)による僅かな明かりの揺らめきを頼りに、彼女は彼の所有する飛竜が入っている馬房の方へと澱みなく進んだ。中に入っていたティニーは、人には聞き取れない程小さな"複数の"足音に気付いて既に目覚めており、微睡みがちにクヮーと小さな声で鳴く。彼女はそれを見ながら、近くに掛けられていた轡と手綱に手を伸ばした。


「──ごめんね、ティニー」

 これから向かう、とってもとっても危ない場所に、どうか一緒に。その謝罪。

「…謝る相手を(たが)えているのではないか?」

 レルゼアが(おもむろ)に後ろから声を掛けると、彼女は分かり易いくらいにビクリと肩を震わせた。

「れっ…レルゼアさん」

 彼女はこちらを振り返り、ははと笑って、疚しい事など何もしてないですよとばかりに、確りと彼を見詰め取り繕った。

「こんな夜分に、寂しくなったのか?それとも"散歩"だろうか」

 長期滞在の際は世話人に頼んでおけば定期的に歩いたり飛ばしてくれたりするが、此処にはまだ到着して3日程度。早々に鈍ることは無いだろうし、無論こんな真夜中に行うべき事では無い。彼は自白を促す為にやんわりと諭してみたのだが、リテュエッタは一昨日に有った彼の愚鈍な言動を思い返し、まだ言い逃れが出来るのではと口を開き掛ける。


「それとも…誰かの所有する飛竜を黙って拝借し、何処ぞに向かおう、そうした腹づもりだったろうか」

 改めてそう問い質されると、漸くそこで彼女は観念し、逃げ場無しとばかりに心に白旗を掲げた。

「…ティニー、起こしちゃってごめんね。また明日」

 馬房から少し頭を出し、眠たげに様子を窺っていたティニーの頭を軽く撫でてから頬を寄せると、彼女は大人しくレルゼアに連れられて厩舎を後にした。


「案ずるな、私も一緒に行こう」

 部屋に戻り悄気返っていたリテュエッタは、予想外の彼の発言に困惑させられた。少女は即日行動に出たが、実のところレルゼアも、次の春まで待つ心算などなかった。何れにせよ竜髄症はエリュシオンの花を以てしても精々症状の緩和位の話で、完治まで望めなそうに無い。念のため皇都来訪の当初の目的、リテュエッタの身請け先も宛が無いか小聖女に尋ねてあったが、だからと言ってその答えを座して待つ訳も無く。

「えっ……でも…!」

 彼女はてっきり、先の件を窘められ、このまま皇都で暫く無為に、大人しく過ごす様言い聞かされるとばかり考えていた。

「──(そもそ)も奈落の詳細な位置が分かっていない。それに飛竜の浮蝕耐性の件もある。だからもう少し、準備させてくれ」

 後者については、もしロレアの感じた仮説が正しければ、即ち彼女の中に有るのが本当に小さな浮蝕と言うのなら、これまで竜髄症との接触反応が殆ど見受けられなかったティニーが或る程度の耐性を持っているのは自明の事だろう。ただその度合いは分からなかったし、問題となるのは主に前者で、詳しい場所も分からず危険な浮蝕内を長期間彷徨うのは避けたかった。だからこそ、彼は明日から改めて行動に出る予定だったのだが。


 永久浮蝕の内情や地理については、酒場(パブ)で管を巻いている憲兵に適当な金に握らせると、これまでの調査結果が詳しく記された地図をあっさりと入手できた。これまでオルティアが多数の命を賭けて構築してきた貴重な情報だったが、この国以外から敢えてあんな危険な地に踏み入ろうとする者など居ないと考えられていたため、機密扱いすらされていなかったのが幸いした。更に運が良い事に、その憲兵は頼まずとも多数の助言を与えてくれた。


 まず浮蝕内では魔物が獰猛化するだけでなく、人に対する嗅覚そのものが上がるようで、芸事の神ヴァルネリットの眩惑術や隠伏術、若しくは風の精霊術による空気の皮膜などで確りと自衛しておかないと、命が幾つあっても足りない事。その関係で往路と復路は違えた方が良い事。また瘴気を出来るだけ肺に吸い込んで溜めないよう、常に口元を外套で覆っておくか、出来れば予め薬に浸しておいた専用の当て布を誂えて貰った方が良い事。

 更には具体的な野営の方法や適した場所、地図に示されていない危険箇所や留意点、これまでの調査で分かっている経年変化の状況など。どうやら彼は何度か調査団に編成され、そのうち一度壊滅的な被害に遭ってしまい、命辛々(からがら)逃げ帰ってきた経験があるらしい。

 事情は敢えて聞くまいが、あんな所へ自ら飛び込みたがるなんてと、深い憐憫の情を浮かべ、安酒を一気に呷りながらレルゼアの肩を何度か叩いた。加えて馬や飛竜の浮蝕耐性確認についても軍関係の伝手を紹介してくれるという手厚いフォローもあり、酔い潰れていく彼に、レルゼアは当初の3倍ほどの金額を添えておいた。


 浮蝕耐性、即ち瘴気酔いの程度は、実際に浮蝕から採取した土を元に調合した薬剤を嗅がせて反応を見るのだが、後日調べてみたところ、ティニーは恐らく100日程度滞在しても問題ない程の強い耐性を持っていた。検査を依頼した商人によると、良好な個体でも精々30日程度らしい。

 余りに驚異的な数値だったため、是非譲ってくれないかと執拗にせびられたが、売り払う気など毛頭無かったし、(そもそ)も大教国直々の行軍だったとしてもそこまで滞在はしないだろうから、一体誰がそんな個体を欲しがるんだと率直に尋ねてみたところ、それもそうだなと、金にならない事に(はた)と気付いてあっさりと引き下がっていった。


 その間、銀の手の巫女ロレアは多忙にも関わらず殆ど1日置き位に顔を出して来たが、彼女は彼から受けた勅命、即ちリテュエッタの当面の身請け先探しで頭の中が一杯だった様で、口を開けばその話ばかり。当初依頼した時は、相当に厄介な内容であるにも関わらず、彼からの、大切な恩人からのお願いという事で、まるで恩賜(おんし)の御言葉でも授かったように息巻いていたため、こうした水面下での2人の雄図について取り沙汰される事は無かった。


 やがて数日間の綿密な準備を終え、レルゼアがいざ"1人で"出立しようという時、今度は彼がリテュエッタに捕まってしまう。何時も溌剌としつつ穏和な彼女だったが、その時は珍しく静かに怒気を滲ませ、彼我の差を追及してきた。

「──あの時"一緒に行こう"だなんて優しく言っておきながら、一体1人で何をされているんですか?」

 彼女の生まれ故郷では精霊術が盛んだった事から、風の薄膜は任せるという偽の申合せがされていた。自身が端緒の事といえ、迷惑を掛けるばかりでなく、彼から頼りにされる事もあるんだと秘めやかに喜んでいたため、彼の独断行動を見咎めた時、リテュエッタは思いの外深く落胆してしまっていた。


「魔物()け、どうするつもりだったんですか」

 匂い消しの調合は既に済ませてあるのだが、と詭弁を弄してはみたが、

「……魔物の嗅覚に、その位で対抗出来る訳、無いですよね?」

 彼女はそこまで話して、漸く自身の瞳がほんの少しだけ潤んでいる事に気付く。頼られないだけでなく、一人置いて行かれる、見捨てられる、彼だけを危険に曝してしまう。言葉には出来ないし、したくもない色んな感情が綯い交ぜになっていた。そんな彼女の内心は露知らず、分かった分かったとばかりに投げ遣りに、唯々諾々(いいだくだく)と宥め(すか)してくる。


「実を言うと、やはり1人では不安だった。心苦しいが…改めて甘えさせて貰いたい」

 何時もは理屈っぽくあれこれ変に考えるのに、こういう自分の本音を吐露する時だけは、余りに飾らず愚直なのを知ってしまっているから。だからこの言葉も、嘘偽りない本音と分かってしまうから。そんなの狡いと感じながらも、認めたく無いその感情が表へと溢れ出てしまう前に、彼女は急ぎ彼を赦してやる外無かった。


「……ここから見ても、同じなんだ」

 少女は誰にも宛てず、呟く。永久浮蝕は浮遊大陸(ステアフロート)の真下に当たる影と言われていたが、何の事はない。それは彼等の頭上などなく、まだ遠く西の空の向こうに浮かんだままだった。この旅の出発点、交易都市ミルシュタットや彼女の故郷ラダの村、果ては東のイヴナード騎士国などから見た姿と、何ら変わってなどいない。

「…熟々(つくづく)曖昧な存在だ」

 レルゼアはそう応じながら地図を手元に広げ、眼前の光景、横たわる永久浮蝕の景色と注意深く見比べていた。リテュエッタが不安げに手元を覗き込んで来て、連られて小型の飛竜も何故かその長い首を突っ込もうとしてくる。


「──悪霊の丘、黒の幻蛇の縄張り、それに…死兆大鷲の巣。何だか、凄く物騒な単語ばかりですね」

 厳しい寒さもあってか少女はほんの少しだけ肩を震わせ、手近にあるティニーの頭を軽く撫でて制すと、飛竜は満足げに首を擡げ、これから飛ぶであろう薄暗い空を見上げた。恐らくこの飛竜でも往復8日程度は掛かってしまうものと思われる、大教国の調査団が到達した最奥の地。そこに示されていた"奈落"という小さな文字。

 永久浮蝕と言うこの最果ての地の、その更に果ての果て。無論そこよりも先に大地は広がっているのかもしれないが、今の所この奈落が、人の到達し得る最遠点である事は疑い様もなかった。


 この奈落の底、そこから横に伸びた細い洞穴(どうけつ)の先に、人ならざる世であり死者の世界、冥界(ラヴィス・マイス)が在るのだと言う。冥界を統べる者は、フレア=グレイスの七柱の内で最下の序列、冥府と水銀を司る神ラズラム。厳密に言うと冥界は亡者らの棲む世界全体、冥府はそこに唯一在るという統制機関の事を示していたが、一般的にはほぼ同一視されてしまっている。そしてこの奈落からは、400年程前、突如として大量の不死者(アンデッド)共が溢れ出した。


 数年に亘って英雄イヴニスらが戦いを続け、最終的にこれを制したもので、後に尽瘁(じんすい)の動乱と呼ばれている。幼少の頃に見た御伽話や物語の舞台が直ぐそこに在り、まさか自らここに立ち入る事になろうとは、あの時も今も想像だにしなかった。

「……分かっていると思うが、私は戦闘が余り得意ではない」

 リテュエッタはそう聞いてくすりと笑い、

「そんなの、言われなくても分かります」

 と優しい声で慰めた。ただ、だからこそ、ひ弱な彼はリテュエッタを連れて来た。無論、直截的な戦力を期待してという意味では無い。もし彼1人なら野垂れ死ぬのも簡単だろう。この聡明に過ぎる飛竜も争いに巻き込まれる事無く、確りと彼女の元へと舞い戻ってくれる筈だ。当初はそんな心づもりだった。然し今となってはもうそれが出来無い。喩えどんなに見苦しく足掻こうとも、1人で簡単に野垂れ死ぬ事など出来ない。

 ──それが、"騎士の強さ"という事。

 (むべ)なるかな。以前妹のラピスが繰り返し熱く語っていて、まるで絵空事にしか感じられなかった騎士たる在り方を、彼は俄にその心根に掴む事が出来た。そしてあの時の彼女の"それ"は、一体何だったのだろうか。恋人の、若き騎士ガヘラスの事だったとして、互いにそう思い合っていたのだろうか。もう知る由も無いのだけれど。


 彼等は今正に飛び立つため、改めて飛竜の背に跨る。以前は1つの大きな鞍だけだったが、今は小さな物を2つ前後に連結にし、彼女は彼の後輪(しずわ)部分をしっかりと握り締めた。

「──頼む」

 レルゼアは短い一言で、彼女に風の精霊術を促す。こんな所にも精霊が居るのだろうかと当初思っていたが、存外その力を十分に保っている様で、問題無いとの事。

「シルフさん……お願い」

 片方の手を胸に当て、暗い空を仰ぎ見て彼女がそう口にすると、2人と飛竜の肌は、柔らかい羽根に包まれた様な少し温かい感触を帯びる。細かな指示を出さなくても精霊はその意図を汲み取っており、如実に薄い空気膜(エアスクリーン)を顕現させていた。息苦しさは特になく、呼吸も普通に出来るようだ。


「我々と同じ言語なんだな」

 声の通り具合の確認がてら尋ねてみる。レルゼアの故国では殆ど使われていなかったため、彼にとっても非常に珍しい経験だった。

「私、精霊語(エンシェントディール)は全然分からなくって…」

 彼女は、はにかみながらそう答えた。

「お母さんは難しい事を頼む時とか、たまに使ってたんですけど。薪に火を熾すのとかその位だったら今みたいに普通に頼んでて、基本的には心が通じ合えば大丈夫みたい」

 精霊術は精霊との対話により一時的にその力を借りるもので、全ては精霊様のご機嫌次第。言ってしまえば、100%彼等の気紛れに由るものだった。一方の鉱石術は誰がやっても結果は同じ。足して引いて、合わせて砕いて、溶かして燻して、これらを厳密に正確に、星の数程在る鉱石と試料で無限に積み重ねて行く、ただそれだけ。

「精霊さん達って目には見えないけど、いつも(そば)に居てくれて。ただ普段は誰も話相手になってくれないから、それだけで嬉しいみたいです」


 特にこの辺りは人気(ひとけ)がなく、人ほど複雑な知性を持った魔物も居なかったため、日々とても退屈しているらしい。だから今も、喜んで相手をしてくれている、と。彼女は、まさか自分がこの理屈好きな男に対し、何かの仕組みについて逆に講釈を垂れる事になるなんてと思い、小さく楽しそうに笑っていた。

 先程は風の力の行使だったので"シルフさん"と呼び掛けていたものの、実際に代表的な4精霊など、全ての精霊は同源とされ、その1つの根源に対して"人が見方を変える"事によって種類が変わっていく。それは種類だけで無く、術士から見た精霊像についても同じ事が言えるため、要するに彼女の中で此処にある精霊は"そういった個性の相手"と感じられているというものだった。

 精霊術に不佞(ふねい)な彼からすれば、結果が厳密に制御し切れないものに頼るのは御免被りたかったが、彼女がそれに気付いたのか、「大丈夫です」とそっと呟いてくれたので、彼は漸く踏ん切りを付ける事が出来た。

(──ともかく、今の所問題は無さそうだな)

 纏わり付く不思議な感覚を何度も確かめながら、レルゼアは手綱を少し引く事でティニーに飛翔を促し、彼等は永久浮蝕の中空(ちゅうくう)へとその身を投げた。


 懸念していた行程は、綿密な準備と対策によって予想外に順調に進んでいた。幾つかあった途中の危険としては、野営の為に飛竜から降りる時リテュエッタが泥濘(ぬかるみ)に足を取られて転倒してしまい、危うく地表近くの濃い瘴気を吸いかけた事。

 また明くる日、野営に使っていた巨石の陰から、通常なら子供位のサイズなのだが大人の倍程にも成長した吸血棘草(ヴァンパイアソーン)が忍び寄っている事に気付かず、彼女の足首に巻き付かれてしまったものの、竜髄症の拒絶反応で動きが緩慢になった一瞬の隙を突いて、レルゼアが触手のように蠢く蔓を幾つか薙ぎ払い、急ぎティニーに乗って忌みじくも逃げ(おお)せた事くらいだった。

 主に陸地を行く調査団と違って、野営以外全て空路だった事も大きく、ルフ鳥といった突如飛来する魔物の類については、注意深い目視と風の精霊術による気配遮断で何とか()け続ける事が出来ていた。


 やがて2人は、奈落の"縁"に辿り着く。


「これが──冥界への入り口…」

 珍しく鉱石術士の方が先に、感嘆の声を漏らした。眼前に大きく口を開ける大穴は、水平に見るとまるで漆黒の湖を彷彿とさせた。飛竜から降り立ってみて、地平線の手前位に向こう側の縁が見え、相当に巨大である事が分かる。

 底は少し覗いた位では何も見えない深淵で、所々に澱んだ瘴気が薄雲の様に見て取れた。先日のオルティア憲兵に依ると、奈落はほぼ真っ直ぐの平たい筒状で、底の方がほんの少しだけ狭くなっているとの事。縦横の幅に比べて高さは然程でも無いが、それでも大人400人分位はあるらしい。壁面は多少の凹凸くらいで、断崖絶壁に程近く、重装備で体重を掛け続けるのは心許無い。

 もし人力だけで降りようとすると、そうした断崖を少しずつ螺旋状に下る必要があり、殆ど丸1日掛かってしまうらしい。また時折魔物や亡霊が壁に巣食っているので、飛竜であっても、降りる時は壁から離れ中央を真っ直ぐ一息に下降するのが良く、特に夜は視界が悪くなるため、できれば真昼に近い時間帯に素早く往復するのが一番安全という事だった。


 ここまで3日半、元々弱い陽光の中、既に日も暮れかけており、実際に潜るのは明日の昼という算段になる。近くに背丈ほど波のように隆起し、片側が切り立った小壁(こかべ)のようになっている所を見つけ、早速野営の支度を始めた。

 支度と言っても場所を見繕うまでが殆どで、後は少しの土均しくらい。それと焚き火は魔物に位置を知らしめてしまうため、手元が見えるよう微弱な発光材と瘴気中和石の混合砂を少し撒いて概ね完了だった。これまではティニーが中央だったが、この時だけはリテュエッタを真ん中の僅かな窪みへと促した。小さな飛竜は元より、彼でも窮屈そうだし、風除けの位置としても彼女が最適だろう。


 レルゼアも風上側に陣取って壁に背を預け、特殊な金属容器に入れてあった水を一口飲み、簡素な干し肉を囓る。彼女にも水分摂取を奨めると、

「──私は大丈夫です、何てったって、あの竜髄症ですし」

 と昨晩や一昨晩と同じように酷く遠慮していた。確かに渇きに因って直ぐに死ぬ事は無いだろうが、それでも苦しい事には変わりないし、時折外套の奥に覗く唇は相当乾いている様だから、無理にでも数口飲ませておく。冷え切った喉元を更に切るような冷たさだった。


「飲み水は意外と現地調達出来ているから、気にするな」

 何故か浮蝕内では喉の渇きが早い。恐らくは瘴気濃度に対する全身反応だろう。今の路程は当然ながら再び浮蝕を出るまで補給する地点が一切ない。ただ幸い鉱石術に長けていた彼は、根雪(ねゆき)や霜だけでなく湿地からの抽出や濾過、大気中の水分凝結についても或る程度技能と知識を有していた。更に事前に拵えてあった水筒には、強力な解毒と浄化機構──と言ってもそうした特性を持つ特殊な結晶を幾つか中に落としているだけだったが──を持ち、これに由って濾液なども完璧では無いが殆ど安全に飲む事が出来た。


 一方食料は只管(ひたすら)節約するしかなく、(ひだる)い思いをさせて済まないと心の中で詫びつつ、彼自身も空腹気味の腹へと死なない程度に乾物を押し込んでいるだけだった。

 家畜化して久しいものの、ティニーの方は流石に元来野生種と言うべきか、人と比べても1週間程度は飲まず食わずで全く問題ない逞しさらしい。加えて出立前に足らふく飛竜草を与えてきているし、生まれて直ぐに草食で調教されるものの、本来は雑食で最悪小さな魔物位なら何とか餌にする事も出来る。また乾燥地帯では自然と鱗の隙間が狭まって体内からの水分の放出を防ぐようで、更に内臓に蓄えた分を代謝するなどして賄う事も出来ているようだ。


 束の間の簡素な"夕食"を終え、後は明日に備えて十分な睡眠を取るだけという段階になって、ふと彼女は小さく語りかけてきた。

「どうしてこんな所まで……世界の果てまで、一緒に来てくれたんです?」

 指の先が冷たく(かじか)んでくる。空には既に星が瞬き始めていた。特に禁じてなどいなかったが、周囲を警戒し、これまでは自然と会話が必要最低限になってしまっていたので、今の様な雑談めいた問い掛けに彼は少し驚いていた。


 顎に手を当てて理由を思索しようとしたが、口元まで覆う外套によりそれは物理的に阻まれてしまう。そうして上手く思考が纏まらないまま、

「──そうだな…正直なところ、成り行きとしか言いようがない」

 そう率直に答えていた。確かに皇都グラドリエルで、(いや)、寧ろその前でも彼女を捨て置く事は出来た筈。今更ながら特にこれといった理由が無い事に、彼自身が気付かされた。然し全く無い訳ではない。敢えて言うなら、ただ目の前の事に集中したかったと言うそれだけ。

「変なの」

 彼女の口元も外套で確りと覆われていたために見えなかったが、何だか微笑んだ様な、澄んだ声音だった。

「ホント、こんな地獄みたいなところまで……ふふ」

 彼女は今度こそ明確に小さく笑っていた。白い吐息が彼女の肌に近い薄膜に当たって拡散する。

「そういえば此処って、本当に"地獄の一歩手前"でしたよね」


 彼自身としては、父が幽閉中に自ら命を絶ち、母は気が触れ、妹は呪いで命を落とし、当て()無く放浪していた所に、偶然この少女という当面専心出来る何かを手にしただけという感覚。ヴォルドー家は既に自分1人となってしまっていたが、廻し子制度のお陰で幾らでも復興する余地は残っていた。

 それでも家の掟を背負う事、次へと継承していく事、そうした重圧に正面から向き合えず、ただ闇雲に逃げ続けていた。直視したくはなかったが、きっとそれが一番の理由なのだろう。そうして逃げてきた先が、偶々(たまたま)この地獄の手前だったという。恐らくそれだけの話に過ぎない。


「でも…何だか凄く、納得出来ちゃいました」

 心の底に秘めていた彼の自戒を、彼女はそんな一言であっさりと許容してしまった。きっとこのしがない術士の事だ。情に絆されたのを照れ隠しなんて気の利いた事は出来ないだろうし、本当にただの"成り行き"なのだろう。それでこんな所にまでやって来てしまうなんて。彼女は内心可笑しくて仕方なかった。

 そして私自身もそうした"成り行き"なんかに身を任せ、こんな人の住めない世界の果てまで一緒に来てしまったのだから。


 今此処に居る人の子は、彼等2人きりだった。頼り甲斐のある飛竜も、つい巻き込んでしまったけれど。リテュエッタはふと暗い夜空を見上げる。星は雲間にキラキラと瞬いており、昨晩、一昨晩とこんな所でも星空は綺麗なんだなと思っていた。


 父にしては雄々しさに欠け、兄にしても一向に頼りなく、少し歳が離れ過ぎてしまっている隣の男。仮に長い幽閉生活、社会に加わっていなかった年月を差し引いたとしても、彼女より7つ位は年上という事になるだろう。貴族社会ではこの程度の差など珍しくもない──寧ろ貴族社会だからこそ、複雑な血縁によって相手との距離を測り兼ねるのだが、高貴な出自でない彼女に取っても、距離の見定めづらい所に位置していた異性だった。

 1つ目の家族は、故郷の村のお父さんやお母さん、お姉ちゃん。

 2つ目の家族は、自らも幼いのに母親代わりに頑張って育ててくれた姉。あとは酒場(パブ)で凄く親身にしてくれたクリスタちゃんも。

 そして彼は、私に取って3つ目の家族なのだろうか。ティニーの方はきっと間違いないのだけれど。隣の男は果たして父なのか兄なのか、未だ判別が難しく、(そもそ)も家族に含めて良いのかすら甚だ疑問だったけれど。


「エリュシオンの花……もし沢山持って帰れたら、私達大金持ちになっちゃいますね」

 ほんの少しだけ、遅い眠気がやって来た。

「仮にオルティアの民以外が持ち帰ったら、お尋ね者になるのは目に見えている。ロレアにまで飛び火し兼ねないし、君が使うに留めておいた方が──」

 彼女の他愛ない睦言にレルゼアが真面目に答え始めた所で、話し掛けた方から早速寝入った振りをする。そうして父とも兄とも言えないその男の肩にそっと頭を預け置いた。

 永久浮蝕(ここ)に立ち入ってからは、接触時の痛み緩和で例の緩衝剤を粉のまま服用し続けている。常用は余り良くない物らしいけれど、突発的な危機を想定した已むを得ない措置だった。だから、少しくらいなら平気だろう。そう高を括っていたのだが、予想外に彼女の胸中はぐずぐずと痛み、隣の彼もまた同じ様な痛みを感じていた。

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