第2章 フローマと銀の手の巫女 (後編)
この間唯一の年長者は常に針の筵だったのだが、1つだけどうしても払拭できない疑問があり、懊悩としていた。それはこのジゼルという少女が、何故そこまで自分に対して恩義を感じているのかという事。誰も意図しないまま、結果として大きく救われたのはロレアという奇跡の巫女ではなかったか。ただの友人という割には深く感情移入し過ぎているし、親類か何かにしても、まるで自身の事の様な入れ込み具合が何だか乖離し過ぎている。眼前のジゼルと、当時の幼子だったロレアの事件とが、どうしても記憶の中で上手く結び付いて来なかった。
(そういえばあの時の子は、この娘と異なる不思議な髪の色をしていたな──)
当時咄嗟に抱え込んでしまったロレアという幼子は、ひょっとして亜人か魔物の子かと、一瞬警戒してしまった事を俄に思い出す。あの時はオルティアに来たのが初めての事で、皇都に到着して間もなかったから、きっとこの国にはそうした人種も居るのだろう位にしか考えていなかったのだが、2度目の来訪を以てして、そんな事は無いと断言出来た。
(──竜髄症の件もある。銀の手の巫女…伝手を作っておいて損はないな)
消し切れない焚き火の如く話の余韻に燻っていた2人に向け、少し打算的に切り出してみる。
「君にとって、ロレアとは一体どんな存在なんだ?」
「……?」
不意の質問を投げ掛けられた銀色の少女は、きょとんとして彼の方に居直り、そしてふと何かに思い至る。
「──ああ、そうでした。私、うっかりしちゃってましたね……私の本当の名はロレア。銀の手の巫女とも呼ばれています」
彼女はするりとウィッグを外して本来の髪色を見せ付ける。聖女という渾名の方は、気後れしたのでこっそり割愛しておいた。あんなにも恋い焦がれていた、憧れていた人だから。その想像とはちょっとばかり、いや、大分違っていたのだけれど。それでもきっと、絶対に悪党じゃないと言い切れるこの恩人に、もう何か隠し立てしておく必要など無かった。レルゼアは内心酷く驚きながら、彼女の爪先から頭の天辺まで何度か見直していると、ロレアは恥ずかしそうに肩を竦め、身動ぎしている。そんな2人を黙ったまま澄まし顔で観察していたリテュエッタは、先より一層半目になると、彼女なりに極致の圧力を送り付けた。
「まさか、ホントに気付いてなかったんです…?時々主語が変わってましたし、こんなに意地らしくて素敵な想いを真っ直ぐぶつけられて、その当の御本人さんが──嗚呼、そんな事って。可哀想なロレアさん…不憫過ぎて、見ているこっちまで胸が痛いです……」
まさかそんな事有り得ないですよねとばかりに、大袈裟なくらいに首を横に振って見せると、ロレアは隠していた自分が悪いだけですと遠慮がちに事を収めていた。自身は今晩だけで何回、リテュエッタに失望されただろうか。確かに時折文脈のおかしさは気に掛かっていたのだが、それは彼女が錯乱していたからだとばかり考えていた。更に今日中に舞い戻って来るなど露も思っていなかった事については、流石に尋常ならざる何かを察知し、固く口を噤んでおく事にした。
実際にはロレアの方がリテュエッタより1つだけ歳が上だったが、先程来何かあるとぐずぐずと泣きじゃくっていたロレアに対して、隣に座って優しく見守り、こうして憎まれ役まで買って出ている彼女は、最後の最後まで面倒見の良いお姉さんという印象だった。きっと姉のミレイユがこんな風に彼女に接してくれていたからこそ、自然に出来た芸当なのであろう。
「──ともかく、本当に…本当にありがとうございます。私は貴方に救われたんです」
静かに、そして深々と、世界にたった1人だけの髪色をした頭を垂れる。
「ずっと…お礼が言いたかった…」
ようやく顔を上げたロレアは、再び目尻に涙を浮かべ、正に聖女と違わぬ哀婉な笑みを浮かべていた。彼女のそれは、長年言いたくても言えず、何時もただ浮かんでは消えていたけれど、今ようやく行く先を見つけた心からの謝意だった。奇しくも日中リテュエッタが衝動的に述べた離別のそれと少しだけ重なってしまうところがあったが、それについてはリテュエッタ本人もどうやら気付いてしまったらしく、複雑な気持ちで照れ隠しに俯いていた。
「…っと、そろそろお開きかな」
ぱんぱん、と態とらしく長いエプロンスカートの端を両手で叩いてから、さっと立ち上がる。
「明日も朝から大神殿でのお仕事なんでしょう?もう随分遅くなっちゃったし、直ぐに戻らないといけないんじゃない?」
「実は──それなんですが…一旦馬車を返してしまっておりまして……あの、深夜の聖堂への出入りは見張りが厳しくって」
彼女は徒に小さく笑う。
「だから明朝、日の出と共にお迎えに来て頂く事になってるんです」
要約すると、泊めて欲しいということなんだろう。
「この部屋…に?」
リテュエッタが最低限の言葉でその意思を確認する。無論、此処に置かれているベッドは2つだけ。
「最悪宿の方にお願いして、別の空いたお部屋にとは思っておりましたが…」
その様子から察するに、恐らく周囲には無断か、適当に言い包めて飛び出して来てしまったのだろう。常日頃から大層な金品を持ち歩く様な性格にはとても見えず、大聖堂関係者として最悪1泊の付け払い位ならと踏んでいたに違いない。レルゼアがまだ当の恩人とは露知らず、更に年齢、性別共に不詳の同行者が居ると分かっていて、あんな短時間によく単身乗り込む決意を固めたものだと、リテュエッタは内心甚く感心していた。
「ロレアさんって、結構勇気ありますね」
意図せず笑みが零れる。強く憧れ、追い求め、それだけ人知れず懸想していたという事なんだろう。何だかちょっとだけ羨ましいなと、彼女の心は何故だかチクチクと波立っていた。自身が嘗てこの得体の知れない男に同行を願い出た時は、追い詰められた鼠そのもの。食うか食われるか、殺るか殺られるかの心境。それと同じ位、つまり彼女は自身の命と同じ位に、掛け替えなく大切に想って追い掛け続けていたという証左。
(もし私が一緒に居なかったら…もしこの人が彼女に単身だと告げていたなら…ううん、この場合、結局どう転んでも私は彼女の運命のお邪魔虫に──)
ほんの刹那だったが、ぼんやりと自虐へと傾き掛けていた彼女の思考は、レルゼアの言葉によって引き留められた。
「…1つ、問題がある」
それは短い旅をしてきた2人に取って至極当たり前の話で、リテュエッタとは誰も同衾出来無いという事。極力肌同士が触れ合わない様に一定の措置くらいなら出来るかもしれないが、衣服越しでも恐らく負担は掛かるし、彼女の持つ奇跡の力との相性も不透明だった。更に一晩中ということであれば、幾ら何でもリスクが勝ち過ぎる。もしロレアがそれを知りつつ"誰か"との同衾を願い出ていたのなら、それは小悪魔の所業としか言いようが無かったものの、ただ今から別室の手配が面倒なだけで、宿の主人らにも迷惑だろうし、頼もしい"リテュエッタお姉ちゃん"に悪戯心で少し甘えてみただけの事だった。然しこうなってしまうと、ロレアに対しても彼女の呪いについて明かさざるを得なくなり、誰かが椅子で仮眠を取らなければならない。畢竟、それは年長者であって騎士たるレルゼアが引き受ける外無かった。ロレアは最後の最後まで私がと強く抵抗したものの、もう夜明けまで長くないという事で、渋々折れたのだった。
3人とも浅い眠りのまま朝の暗がりを迎える。
窓の外の朝霧は少し氷混じりで、まだ弱々しい陽光に照らされてキラキラと煌めいていた。最初に動いたのは何時も朝の早いロレアで、ともすれば本当に真っ暗な頃から支度を始める朝食当番の日より少し遅い位だった。彼女は音も無く起き上がり、少し離れていた椅子の方にそっと歩み寄る。微かな衣擦れの音で誰かの動く気配を悟り、術士はほんの少しだけ目を開けたが、眼前の影は人差し指をこちらの唇に当てて声を出さないように促してくる。そうして座っていた男の方に覆い被さるようにし、小さな聖女は当てた指先の手前側に、優しく口付けをした。指一本分。彼女の方からもう少しだけ強く押し付けてみても、決して互いの唇が触れ合う事は無い。これが今の彼女に取っての、目一杯の勇気だった。リテュエッタもその時僅かに覚醒し掛けており、その光景を、暗がりに重なる2人の姿をうっすらと目の当たりしていた。朧気に霞む意識の中で──ああ、こんな時に目なんか開けなければ良かったなと。一頻り後悔してから、再び消えない夢に沈もうとして、ゆっくりとその瞼を下ろした。
衝撃的な邂逅から2日後、レルゼアとリテュエッタは、小聖女に取り付けた約束通り、フローマ大聖堂前を訪れていた。
「わぁ…何だか心が引き締まる感じの所ですね…」
荘厳な造りの神殿を見て、彼女は感嘆の声を漏らす。胸元で指を真っ直ぐに組んでそれを見詰めていた。
中庭の低木は綺麗に切り揃えられ、美しい対称を形成している。雪解けの露が深い緑に紛れて時折光を放っていた。真ん中を突き切る小道の先には、巨大な白い柱が幾つも綺麗な胴張りの輪郭で雄大に聳え立っており、それらは一般的な神殿の2倍と言わず、10倍程の大きさがあるように見受けられた。周囲を囲む外回廊は既に人々が行き交い、それは真っ白な柱に比べて蚤のように小さく、柱の奥にはそれぞれ同じ高さで偉大なるエスト神族やシエラ神族が彫り込まれていた。また向かって右の奥には、これらをそのまま小さくスケールダウンし、質素にした様な別館が幾つか肩を並べながら居を構えていた。
抑も"神殿"とはエスト神族らの一柱を祀る建造物の事で、フローマはこれら含めた全ての者の母、オルティア大教国ではこのフローマこそ唯一にして絶対の聖母神とされていたため、その名の通り"大聖堂"と呼ぶのが正式な名称となる。
今は世界──フローマから賜ったとされる"人の大地 テリス"の殆どに於いては、加護や恩寵の分かりやすいフレア=グレイスの七柱が主に人々の信仰を集めていたが、世界で最も古い歴史を持つ大教国では、喩え七柱であってもそれはフローマの子であり、直截的な信仰が禁じられてきた。というのも、オルティアは建国以来約3500年間、浮蝕がほぼ生じておらず、非常に安定していたのがその主な要因だった。そうは言っても冬季の生活環境は特に厳しく、また居住できるのも精々峡谷の川沿い位しか無いのだが、それでも浮蝕が来ないというのは類い稀な強みで、大教国の人々は、これもフローマの加護に因るものだと信じて止まなかった。
一方の騎士国イヴナードは、領土内の殆どが肥沃な平原だったが、その全てで浮蝕の移ろいが早く、また大嵐の魔狼と呼ばれる小さな砦ほどもある巨躯の獣も多数跋扈していたため、嘗ては殆ど人の寄り付けない土地だった。英雄イヴニスが冥界を相手取った戦渦を収めた後、この広い平原の一部に多大なる加護を齎し、こうした魔獣らも避けるようになった事で、急速に発展して来たと言われている。イヴナードに於いてはこれらの功績によりイヴニスがエスト神族の一柱に迎え入れられたものと伝えられ、特に騎士国内の人々からは、人から神となった唯一の存在として尊ばれ、信奉されて来ている。然しながらイヴニスは純粋な戦神、またフローマは失われた魔法や奇跡といった人の扱えない力を加護の拠り所としていたため、何れにせよ信仰術としては専らフローマの子であるエスト神族、フレア=グレイスの七柱の恩寵が行使されていた。
「はえー…」
鉱石術士の後を付いて、とぼとぼと歩きながら、リテュエッタはとことん気の抜けた返事をする。大聖堂の扉付近で、更なる荘厳さに圧倒されていたのか、それともレルゼアの仔細な蘊蓄に面食らったのか。恐らく今は単に後者であろう。そしていざ中に踏み入ると、今度は前者の嘆息が漏れる。フローマ大聖堂の構造としては、まず一番外側が白い巨柱による吹き晒しの拱廊、そして建物のすぐ内側はそれを随分と小さくしたような穹窿による細い内回廊となっていた。そして中央の礼拝堂に至っては神殿の8割以上の敷地を占め、最奥には大理石で象られた聖母神の像が、悠然と優しく佇んでいた。
その像は膝まで凡そ大人5人分位の高さはあっただろうか。全体ではティニーに乗っていた時程にもなる。人の大地を形作った原初の神としては、これでもまだ小さい部類と言えるのかもしれない。礼拝堂と内回廊を繋ぐ開け放たれた扉の手前からでも、その姿は顕然としており、美しさの余り初見の彼等を惹き付けて止まなかった。目を凝らすと、石造りとは思えない位に撓やかに作られた衣服の端々には、何かしら古代文字と思しきものが散逸的に刻まれており、この聖堂に対して結界か何かの役割を果たしている様に見受けられた。
「──あれが…フローマ様…」
リテュエッタは信徒と同じく祈るように囁く。それは慈悲深く、柔和で、伏し目がちな面持ちだった。
(…何だか、大人になったロレアさんみたいかも)
恐らくレルゼアも同じ事を考えてしまっていたであろう。もう少しの間だけ、遠くからでも心が洗われるようなその佇まいに見蕩れていたかったのだが、後ろ髪を引かれる思いで彼等は踵を返し、礼拝堂を取り囲む左手側の中回廊へと向かった。
玄関や廊下より一段と白い漆喰の扉に入ると、まるでそこは医療神ディリジア神殿にある措置室の様だった。寧ろ全く同一の機能を有していたので、其れ自身だったとも言える。中に待ちかまえていたのは初老のベリズン枢機卿と銀の手の巫女ロレア、そしてそれらの付き人と思われる者が数名程。
「お待ちしておりました、お客人、ええと…」
「──レルゼア様と、リテュエッタ様」
最初口火を切ったのはベリズン枢機卿の方で、両の手を大仰に広げて恭しく歓迎の言葉を述べ、少し詰まった所を傍らに居たロレアが卒なくフォローする。男はこの中で明らかに序列が高く、幾つもの金刺繍が所狭しと鏤められた朱色の外套を纏っていたが、煌びやかでこそあれ、奢侈で嫌味な雰囲気は全く感じられない。そして本人に至っては、この外套に勝るとも劣らず威風堂々としており、然しながら為政者特有の傲りや威圧感のようなものは鳴りを潜め、2人の胡乱な客人を丁重に迎え入れていた。見知った聖女の方は、一昨日の夜に逢った時よりもほんの少しだけ凜とした表情を湛えている。彼女の身を包む白の祭服も枢機卿に合わせたものなのか僅かに華美なものとなっており、たったそれだけの事でまるで別人のように、儚く、美しく見えた。これがオルティア内でよく知られる、銀の手の巫女、聖女ロレア様本来のお姿だった。
「お忙しいところお呼び立てしてしまい、大変申し訳ございません」
聖女は軽く会釈する。実際に呼び立てたのはレルゼアの方だったのだが。それを滑り出しとしてベリズン枢機卿は、
「重ね重ね恐縮ですが、私めは、これで」
彫りの深い眼窩から改めて客人らを一瞥し、再び恭しく首を垂れる。そしてそのまま付き人らを引き連れ、彼は手狭な小部屋を後にした。古老ばかりの枢機卿の中、突出して若かった彼は、殆ど引退状態となっている司教レドラスに代わって、手ずから聖女の義務に係る辣腕を奮っていた。実は彼女を"銀の手の巫女"と呼び始めたのもこの男で、白く銀色めいたその指先が黒の穢れを取り込む様を以てそう名付けたのだという。そして昨日、この聖女の方から非常に珍しく、恐らく初めての事として、"客人"を招きたいという申し出があったため、体裁上出張らざるを得なかった。ロレアは当初彼等2人と自分だけでと願い出たのだが、流石にそこまでは許容できなかった様で、女性神官を1人だけ付け置く事となり、畢竟、聖女とその神官、加えて客人2人の計4人がこの室内に残る運びとなった。
銀の手の巫女たる少女は軽く息を吐き、微笑む。
「……ふぅ、堅苦しくてごめんなさい」
彼女は一昨日と部屋に着いてからの中間位、どちらかと言えば一昨日の夜に近い解れた表情を見せる。
「あのね、"この御方は"リゼル。何時もお勤めを──治癒の儀式を手伝って貰っているの」
腰の辺りまで真っ直ぐに伸びた深い藍色、ロレア程ではないが此処では相当珍しい髪色の彼女に対し、ロレアなりの冗談を言うと、未だ枢機卿が傍らに居るかの如く堅い表情のまま、吟ずるように受け流した。
「この御方、とは随分畏れ多い事ですね。私リゼルの事は、どうぞお気になさらずに」
そう聞いてロレアは負けじと、
「だって、私より6つも年上で先輩なんだもの」
態と甘えた風に口を尖らせると、連られてリゼルも漸く小さな微笑みを零していた。
「私より更に上の"御方"に、その様な言葉遣いはなさらないでしょう?」
彼女は丁度顔の下くらいに位置する桃色をした聖女様の頭を優しく撫でると、それだけで彼女らの気易い関係が見て取れた。最初は少しだけ年上の姉妹程度に感じていたものの、能く能く見ると仲の良い母子の様にも見えてくる。まだうら若く淑やかな彼女に対しては、大変失礼な話なのかもしれない。心地良さそうに撫でられていた少女は、改めて客人らの方へと向き直って告げた。
「実は先日のジゼルという名前、咄嗟にこのリゼルを捩って付けたものなんです」
そうだったんだ!と少し楽しそうなリテュエッタ。成る程、とかなり興味無さげなレルゼア。変装時の偽名については、本人を除けば養祖父のレドラス、それからこの女性神官位しか預かり知らない事だった。そもそも"咄嗟に使い出した"のはもう5年程前の話で、2人はその言葉の綾に気付く事はない。裏を返せば、そうした内緒話もするすると出来てしまう程に気心が知れていたから、今日の付き人はロレアから指名したとの事だった。そしてこの小聖女曰く、女性の神官ではロレアの次にこの大聖堂での生活が長く、当時から見た目が殆ど変わっていないらしい。それは私が老け顔という事なのでしょうか?と今度は母の側が子を困らせている。実際はその正反対で、最初はロレアやリテュエッタらと余り変わらない程度にしか見えなかった。
「──そろそろ本題の方を。私リゼルは、耳を塞いでおりますので」
彼女はロレアの元から少し離れ、後ろを向いて本当に両耳に手を当てていたが、きっとあれ位なら全て筒抜けで、全て聞かなかった事にするという意味であろう。大聖堂に籠もり切りの聖女様と、抑もどうやって知り合ったのかさえ伏せた状態で、更には長年一緒に過ごしているにも関わらず、彼女が恐らく初めて見るであろう何処ぞの馬の骨とも知れない客人との会話について、この女性神官は一体どうやってあの男に報告するつもりなのか。レルゼアはその事が酷く気に掛かっていたが、それも詮無き事だろうと、そうした些細な疑念は今だけ頭の隅へと追い遣っていた。
抑も今回、オルティア大教国を来訪した目的は幾つかあった。1つはリテュエッタの身請け先、慈悲深いフローマの関係者で引き受け手が居ないか探す事。次いで大図書館にて、あわよくば治療法や症状の緩和策などが無いか古い文献等を漁る事。更に故国からの命として──特に進んでやるつもりなどなかったが、竜髄症の発露、即ちラピスの件が漏れ伝わっていないか調べる事の3点。そこにもう1つ、銀の手の巫女の力で何とかならないか模索する事が加わる。
ロレアは先ずリテュエッタを部屋の片隅に設置してあるベッドに腰掛けさせる。日々のお勤め、治癒の儀式と全く同じ始まり方だった。具体的には、聖女に救いを求めて来た者に対し、まずは最初に怪我や疾病の程度を検め、何かしら他の医療神ディリジア神殿で日々行われている類の措置で対処出来そうであれば、神官らがそうした処置を。もし対処仕切れないものであれば、最終手段である奇跡の行使を、といった流れ。最初の内は全て奇跡で治癒していたのだが、それでは余りにも聖女の負担が大きくなり過ぎてしまうため、途中からこっそりと振り分ける事となった。然しながら患者からの不平不満を想定し、奇跡を起こさずとも彼女が必ず立ち会い、最後に何かしら"軽く触れる"事で、体裁を保っていた。ロレアはそんな如何様ばかりでは良心が痛むからと、見様見真似で医術を学び、最初は簡単な手伝いも行っていた。そうして今となっては、医術師としても経験が浅めの神官らに比して遜色ない腕になってしまっていた。
「痛み憑き……竜髄症、でしたね」
ロレアは直ぐに言い直すが、オルティア大教国内では兼ねてから前者の名で呼ぶ者が多い。余りに珍しい難病だったので、彼女自身もこれまで文献くらいでしか目にした事はなかったが、何時か関わる時が有るかもしれなかったので、症状などについて或る程度は把握していた。
「──まず、穢れの元を見せてはいただけないでしょうか」
"穢れの元"とは、竜髄症の罹患者に必ず顕れるという竜の鱗の様な痣の事で、誰かに触れた時に不快な痛みが最も強く出る箇所の事だった。リテュエッタは最初その指示の意味が分からず、痣の様なもの、と聞いて漸く、あああれかと得心する。呼び名の一部に痣だとか痕と入っている事が多いのはこの為で、寧ろ"竜髄症"や"痛み憑き"など全く入っていない方が珍しいかもしれない。
そういえば妹のラピスは、背中の中央、心臓の裏くらいだったかと考えながら、レルゼアは2人の遣り取りを神妙に眺めていた。最初はそうした痣が自身に見受けられないから、これは違うとラピスが強く主張していた事。彼が彼女の願いによって一旦手に掛け、"失敗"してしまった時は、丁度あの辺りを前から刺突短剣で刺し貫いたという事。そしてその時の、指を伝う温い感触と鉄の匂い。
気が付けばリテュエッタは、頬を林檎の様に染めて深く俯いていた。
「あの…その…」
「──済みません、レルゼア様も…どうか少しの間だけ後ろを向いていていただけませんか?」
恐らく彼女の事を心配し、注視し過ぎていたのだろう。ロレアはそう思いたかったが、何だか湿った感情が少しだけ邪魔をしつつ、察知も反応も遅い彼に一先ず言葉を掛けて行動を促した。
「あ、ああ…済まない」
彼がこちらに背を向けたのを確認すると、リテュエッタは思い切ってエプロンスカートの裾を摘み、大きく捲り上げた。裾を胸元まで手繰り寄せると、真っ白な太股とその奥、小さな下穿きすらも殆ど見えてしまう状態となった。痣は左太股の内側辺り、陰部から小指の長さも下がらないところに、赤黒く浮かび上がっていた。発症直後は爪程もないサイズだった様な気がしていたが、今では赤子の手をその場で潰したかの様な大きさとなり、曖昧な輪郭をしている。ロレアは、想像していたよりずっと禍々しいその痣を見て、
(左太股、確か以前彼が私を庇って怪我をした所……)
こんな所まで"彼と一緒"だなんて。余りに下らない嫉みが一瞬頭を過ぎってしまい、彼女は首を振って気を取り直す。
「仮にその痣を全部抉り取っしまったら、どうなるんだ?」
後ろを向いたままレルゼアは考え無しに尋ねてみる。勿論そんな事で完治したら誰も苦労しない訳だが、ロレアは突然の問い掛けに対し、自身がそれを彼女に処置してしまう姿を想像し、言葉に詰まった。一方有られも無く痴態を晒し続けていたリテュエッタは、急な彼の声に驚き竦み、摘んだ裾で逃げる様に顔全体を覆い隠した。ただそれに因り更に大きく下半身を開けさせてしまった事に気付き、慌てて手の位置を戻す。
「きっとそのまま、痣ごと治ってしまうのでしょう」
先程来押し黙っていた付き人の女官、リゼルがふと助け船を出した。狙って話し掛けた訳で無いのだが、やはり聞こえているなとレルゼアは内心舌打ちする。幾ら国外でとはいえ、またイヴナードの騎士が竜髄症に関わった事になると次はどうなる事だろうか。
(──否、今はもうそんな事はどうでも良い。元々帰るべき場所はないし、目指すべき先も無かったのだから…)
各々に短い沈黙が続いたが、暫くしてロレアがそれを破る。
「触れて…みますね」
痣を眺めているだけでは、もうこれ以上は何も得られない。一度踏み込んでみる必要があった。幸い此処は彼女の生活拠点であり、心強い味方が沢山居る。仮に何か有っても、少し位なら大事には至らないだろう。
「…ロレア様、お気を付け下さいませ」
透かさずリゼルが後ろを向いたまま声だけで彼女に注意を促す。銀の手の巫女はリゼルの方を顧みず、微笑みながら告げた。
「…大丈夫、取り敢えず普通に触ってみるだけだから」
無論、奇跡の行使はしない、という宣言だったが、それでも多少なりとも危険を孕んだ行為である事に違いはない。然しながら彼女には、この1つ年下の少女をそのまま見捨てるという選択肢など無かった。
まずは、痣から少し離れた場所を。リテュエッタは微かに眉根を寄せたが、ロレアの表情には全く変化が無かった。大きな問題は無い。それでは次に、痣の方を。リテュエッタは先程より強い痛みにほんの少し苦悶の呻きを漏らし、ロレアの方も少しだけ眉根に皺を寄せる。そのたった2回の僅かな試行だけで、ロレアは概ね全てを理解してしまった。
触れた時の痛みは、痣に直接かどうかで強度が変わるものの、間違いなく彼女が奇跡を発露させた時の其れと同じ。恐らくこの"病の穢れ"が強過ぎて、誰彼構わず、それこそ奇跡の力を持たない一般の人に対しても溢れて出て来てしまうのであろう。更に言うと、この竜髄症の穢れの源泉については──喩え彼女の力を以ってしても、この少女から引き剥がす事など出来ない。その穢れの強さは、そんな奇跡の力よりもずっと"高位"にある存在の様に感じられた。もし仮に引き剥がすことが出来、全てを自身が一手に受け止めてしまえば、即死は免れないだろう。ただ抑も水が低い方から高い方に流れない様に、彼女自身も他の人と同様、溢れ出た分を被るのが精々。その一部を切り出す事さえ、恐らくどう足掻いても出来そうには無かった。
「……ごめんなさい」
聖女が最初に口にしたのは、弱々しい謝罪の言葉。慚愧に堪えず、両の拳を強く握り締める。今まで様々な治癒を施してきたのだから。完治は無理にしても、痛みと苦しみを少しでも引き取ってあげて、彼女の負担を緩和してあげられる、そうに違いない。そして何より──リテュエッタ本人からではなく、その事で彼から感謝され、褒めて貰えたのなら。知らぬ間に心の何処かに棲み着いていた、そんな高慢で邪な感情まで詳らかにされてしまった様で、彼女は内心強く打ち拉がれていた。
一先ずロレアはリテュエッタに居住まいを正させ、先の試行結果を3人に語っていると、ほんの少しだけ思い至る事があった。
(…そういえば永久浮蝕の調査団の方。あの時の皆さんと何だか似ている様な気が……)
皇都から程近い"永久浮蝕"に対しては、定期的に大教国から中隊や大隊程度の調査団が送り込まれていた。あの時は予定されていた道程から僅かに逸れてしまった様で、運悪く死兆大鷲や黒の幻蛇などの大群と遭遇し、夥しい数の死傷者が出てしまっていた。帰還者に対しては聖女の奇跡が湯水のように行使され、彼女の中にはその時の穢れの感覚が強く根付いている。あの時に多数の兵から受けた傷の穢れの感覚と、先程触れた竜髄症の穢れの類似性──。
「ひょっとして竜髄症って、小さな浮蝕なのかな…」
何気なく頭に浮かび、そのまま呟いてしまった憶測に対して、一番驚いたのは当の聖女本人だった。
「まさかそんな、人の中にだなんて……そんな事、有り得ないですよね」
ううん、と首を振って否定してみるが、応じたのは先程から壁に凭れながら思索していた鉱石術士だった。
「成る程──兼ねてより"浮遊大陸の影"くらいに言い伝えられてきたが、そもそも一体あれが"何"なのか、知り得る事は無い」
それは殆ど彼自身が頭の中を整理する為の自問自答だった。先の永久浮蝕という例外を除き、長ければ数百年、短ければたった数年にも満たない間。その大きさも、国家の領土クラスから数十歩程度で1周できてしまうものまで、実に大小様々。一度発生すれば、その範囲は概ね変わらず、確かに大地に落とされた影か何かの様にも見える。ただ世界中の至る所で時期を同じくしながら発生し続けており、そんな極めて得体の知れない自然現象を、大地にしか生じないと断定する方が、些か早計なのかもしれない。発生機序については謎に包まれたままで、数多の文献にあるのは生じた結果と、去った後の大地の変化。而して、その対処法は──。
「それでしたら」
彼の到達よりも先に口を開いたのは、傍らのリゼルだった。先程来、既にこちらへと向き直っており、一度は耳を覆っていたその陶器のような指先も、元の通り丹田辺りに添え置かれている。彼女は周囲からの瞠目を集めたまま、小聖女へと微笑みを浮かべ、
「──奈落の底に咲いている"エリュシオンの花"、あれでしたら、多少なりとも彼女の症状を緩和できるかもしれませんね」
まるで夕食の献立を伝える時位の穏やかさで、そう口にした。