エピローグ-3 貴方と一緒に
夜明けが遅くなり始める季節とはいえ、気付けばもうすっかり朝日が顔を出してしまっている。
レルゼアと思しき老骨は、彼女の荒れた呼吸と意識が一通り落ち着くまでの間、彼女の頭に枯れ枝のような手で撫でながら、白くくすんだ眼差しで仄白む逆さまの空を見上げていた。
一方のレナリアは、瞳からポロポロと溢れ続けるものを拭う事も出来ず、何度も何度も鼻を啜り、しゃくり上げている。
男の胸元は、まるで飲み物を零してしまった時のように、酷く濡れ濡ってしまっていた。
そうして彼女は、こんなに沢山泣いてしまったのは、恐らくレナリアとして生を受けてからは初めてだったかもしれないと、自身の嗚咽に紛れながら、そんな事ばかりぼんやりと考えていた。
どのくらいの間、そうしていた事だろう。
やがて根負けした男は、掠れた声で淡々と語り始める。
* * *
あの時運命と回帰の神、即ちクリスタという少女が彼に提案してきたのは、〝彼女に再び生を与えたいかどうか〟だった。
しかし彼女の魂は生まれ変わる事すら出来ず、既に事切れてしまっている。
僅かに残った抜け殻も、ただ静かに消滅を待つのみ。
だから本来ならそんな事は不可能だったが、二人には英雄イヴニスと、引いては栄華神との微かな縁の力が残っていたため、何とか出来るかもしれない、と。
そして、自身の命を賭してまでそれを望むのか、と。
そう問い掛けてきた。
もし新たに生まれ変われたとしても、当然それは彼女ではない。
それでも、冥界を介す事なく、長期間に亘る浄化もなく、ただ急ぎ、その根幹たる存在が失われてしまわないように。
単なる我欲の悦に過ぎない行為であったとしても。
たとえそれが上手く行かなかったとしても。
彼はそれを願った。
そうして自身の魂を大きく削り取り、それを足掛かりにして転生を試みるという、女神の提案してきた荒業を受け入れる。
その結果、術士の男は代償として、常人よりもずっとずっと速く老化する身体となり、更にかつての古傷によって、左足も不自由となってしまった。
「そん、な……そんな事って…………!!」
レナリアは顔を上げ、改めて彼の顔を見遣る。
その表情は、まるで興味の無い世間話をしている時のような、とても平坦なものだった。
「安心して欲しい。今の生まれ変わった君におかしな影響など無い。ただ……特に転生前と同じ年齢なるまで、何が起きるか分からなかったから、念のため私が見守る事にした」
他人の魂を足場とした事自体、新たに生まれ落ちる者、即ちレナリアに対して悪影響は無い。
しかし彼女は、当初リヴァエラが予想していたよりも、何故かひ弱に生まれる事になってしまった。
身体はしっかり育つ事がなく、その髪も、本来ならもう少しだけ以前の色に近いものになる筈だったという。
そして一番の問題は、急拵えの転生の結果、彼女が最後まで心を、以前の記憶を手離そうとしない事だった。
だからこの先、少なくとも以前と同じ十七くらいになるまでは、運命神にすらどうなるかは見通せないと告げられてしまう。
「上手くは言えないが……君がここまで生き抜いてくれて、本当に良かった……」
あの時の竜髄症の少女と、既に声も見た目も全く違うのだけれど。
何処となく仕草や振る舞い、表情の変化など、薄れ掛けていた彼女の面影が、どこか残っているようにも感じられる。
しかし、問題はそれだけでは無かった。
レナリアの生まれ落ちる地は、リヴァエラから予め伝えられていたものの、奇しくもそれは騎士国領内だという。
イヴナードは最低限設けられた公法によって、他国の者が新たな民となるのは比較的容易だったけれど、一度国を捨てた者が再び属する事は固く禁じられている。
騎士たる印、装身具を誰かに明け渡すという事は、即ちそういう事だった。
短期間の滞在くらいなら可能かもしれないが、もし長期間彼女を見守り続けたいのであれば、何かしら手を打たねばならなかった。
而して、かのナズィヤの巫蠱の力を借り、偽りの名と身分を手に入れ、この地に静かに暮らす隠者として、遁世する事となる。
加えて、身体の弱い彼女を裏で支えて行くために、先立つものも必要だった。
ナズィヤの巫蠱はそうした身分や対価と引き替えに〝簡単な仕事〟を与えてくる。
作業自体は確かに容易で割の良いものだったけれど、その中身は殆どが〝鉱石術による毒〟や〝遺体に関する禁忌〟。
墓地というのはそうした隠れ蓑としても色々と都合が良く、彼自身、国家元首に何かしら裏の伝手が必要というのも十分に理解していた。
そして何より、ここには彼女の、レナリアの実の両親が眠っている――。
だからそんなフィーカの事を批難する謂われなど無く、寧ろ深く恩義を感じている位だった。
「それと、私はもう長くはないだろう……本来なら、ここまでも生きられないかもしれないと思っていた」
別の記憶を掘り起こし、その混乱から抜け切れてもないというのに。
機微に疎いこの男は、次々と苛烈な真実ばかりを彼女に突き付けてくる。
緊く瞳を閉じ、俯き、胸の奥底から搾り出すようにして、彼に問い質す。
「じゃあロレアさんは……ロレアさんとは、どうされたんです……?」
彼女なら当然、こんな彼を見捨てておく筈が無い。
「…………魂の欠落なんて酷い穢れの者が、銀の手の巫女の傍らに侍るなど、流石に危険が過ぎるだろう?」
然も当然とばかりに言って退ける彼に対し、遣る瀬無い怒りが湧いてきて、寧ろ、そう思い込みたくて、トン、トンと弱々しくその胸を叩く。
「何で……何でそんな風に他人の心配ばっかりする位なら、私の事、放っておいてくれなかったんですか…………」
再びじわりと目頭が熱くなってきて、ぐずぐずとまた駄々を捏ねた子供みたいなしゃくり上げが再開してしまっている。
彼は顎に縦拳を当て、かつてのように一通り思案する。
「……やはり私が誰かの幸せを願ってはならないのだろうか」
それは、殆ど苦い自問自答だった。
本当は〝誰か〟などではなく、この少女の幸せを願いたかった、ただ、それだけなのに。
酷く拙い弁明、何たる詭弁と、レルゼアは内心忸怩たる思いでいた。
恐らく昨日、自身と出会ってしまった事が切っ掛けで、彼女は全てを思い出してしまったのだろう。
――もし叶う事なら、知らないままで済ませてやりたかった。
最後の寄付を小さな修道騎士に渡した時、何となく嫌な予感がしていた。
これまで出来るだけ付かず離れず、用心深く、直接的な干渉は避けてきた心算だったのに。
最後の最後でまた失敗し、深く傷付けてしまった。
もしあの時出てきたのが、彼女以外の誰かだったなら。
何も言葉を交わさず、結果として何も思い出さなかったのなら。
悔やんでも、悔やみきれない。
「まさか君が出てきて応じるとは、思いも寄らなかった……本当に迂闊だった。また酷く辛い思いをさせてしまい、済まない…………」
彼女は先程退いてくれと言われた時と同様に、顔を胸に埋め、大きく首を振る。
「でも……何も思い出さないままより、全部忘れちゃってるより、ずっとずっと良いです……」
その言葉は、彼にとって救いであり、罰だった。
これまで〝レナリア〟という名と、大まかな容姿しか聞き及んでおらず、生まれ変わった彼女が実際どんな顔や姿なのか、目にした事は無い。
しかしあの時、この年端も行かない少女を見て、次第に色褪せていく彼女の幻影と何処か重なった気がして、つい懐かしんでしまった。
そしてその事に耐えきれず、今朝、逃げるようにここを立つ心算だった。
もしこうして彼女が間に合っていなければ。
自身が目の当たりにしなかっただけで、もっともっと心細く、寂しく、辛い思いをさせてしまっていたかもしれないと考えると、深く胸が締め付けられる。
フィーカの依頼も卒なく熟し、ここまで生き長らえて来たというのに。
老獪に近付くどころか、まるで時が止まったように、何も成長していなかった自分に気付かされ、慚愧に堪えなかった。
* * *
キラキラと三稜鏡を通したような光が辺りに降り注いでいる。
傍らでずっと出立を待っていた飛竜は、最近はもう余り長くは起きてはいられず、空々浅い眠りに就いているようだった。
飛竜と同じく年を重ねた術士は、縋り続ける小さな少女に対し、精一杯の虚勢を張って伝える。
「…………君には近々、星の導きが示されるだろう――――ユメリーの所だ」
きっとあの女性なら、これから先も立派にこの少女を育ててくれる。
安心して任せられる。
そう考えたレルゼアが裏で手を引いたものだった。
金を積めばどうにかなると知っていたものの、騎士国の民として、実際にそうした取引を行うのは複雑極まりないな心境だった。
今まで彼女が神殿に取り残されてしまったのは単なる偶然だけれど、以前の年齢に達し、自身が間もなく去る以上、どうしても心安らぐ家に迎えられて欲しい。
ユメリーは今の彼女が特に慕っていると伝え聞いていたし、彼女の方も満更では無いという噂だった。
少し遅くなってしまったけれど、自身からの最後の後ろ盾として。
「やだ、そんなの絶対、嫌です…………」
浅はかに、てっきり喜んでくれるとばかり考えていた黒の術士は、か細い声ながら頑なに彼女から拒絶され、途惑いの色を滲ませる。
彼女はあの時のように、術士の首にそっと両手を回す。
もし〝レナリアだけ〟なら、この少女は喜んで受け入れていたのかもしれない。
かつての記憶を取り戻してしまった以上、全てを思い出した以上、そんな大逸れた事、出来る訳が無かった。
それに、ユメリーさんの家の至上の法。
〝悲しみは自身の中だけに留め置け〟
自分だけで抱えきれない苦しみや悲しみは、誰かと分かち合いたい。
一人きりでは、もう耐えられない。
そして本当は〝誰か〟なんかじゃない。
分かち合いたい人は、こうして直ぐ目の前に居る。
思い出すまでは十分幸せだったのに、今はもう、それだと満足出来ない。
だから彼女の所には行けないし、行きたくなんかない。
「私は、私は貴方と……レルゼアさんと一緒が良い…………」
年老いた彼の弱々しい鼓動が、この胸に染み込んで来る。
かけ離れていた二人の鼓動が、次第に重なっていく。
「――――私の事、また遠くまで連れて行ってください」
あの時、色んな世界を見て回った。
とても短かったけれど、それまで過ごしてきた日々より、ずっと沢山の事を知り、心に刻んだ。
「生まれ変わる前の事を急に思い出して、その時一緒に居たのが寄付してくれてた信者さんで……それでまた私達だけで旅立ちますなんて。そんなの突拍子も無い事、きっと誰も信じてくれないです……」
「それは……確かにそうだな」
彼女の勿体付けた言い回しに、レルゼアはつい苦笑してしまう。
レナリアの中に、いつの間にこんなに優しく笑うようになったんだろうという悔しさと、私だけがこうして笑わせてあげられるという誇らしさが同居する。
「最初はフィーカさんの故郷に……ナズィヤに行きましょう? それからまた、見た事もない場所、草原地帯に行って、東の果てにも行って、それから、それから…………」
二人分の記憶を持った少女は、段々と自身の声が詰まり、再び嗚咽に変わっている事に気付く。
老いさらばえた男は、時折静かに背中を摩りながら、その続きを促す。
そうしてリテュエッタたるレナリアは、思い付く限りの行きたい所を口にする。
生まれ変わる前も、レナリアとして生まれてからも、これまで一番大切なものを全部後回しにして来てしまった気がする。
誰かとの最後のお別れは、たった一度きりの筈なのに、もしもう一度訪れてしまうというのなら。
そんなの、出来るだけ先が良い。
そうに決まっている。
だからどうか、私達に、あとほんの少しだけ猶予を。
叶う事なら、彼の死と共に、あの時みたいな優しく甘い眠りの毒を。
「どんなに大変でも、絶対に付き合って貰います……最後まで、絶対一緒に居て貰いますから」
「……相変わらず、頑固で手厳しいな……君は」
この人と一緒に居て訪れる安息は、きっと束の間の物なんだろう。
でも、先なんか見えなくても。
眼鏡なんかなくても。
今みたいに、ずっと近くに居れば良い。
一度終わりを迎えた少女は、健やかで何も無いこれからよりも。
今を与えてくれた愚鈍な老躯と、穏やかで、何故か心逸る温かい夢の続きを望んでいた。
思い出の数を増やせば、きっとそれは明日という日を――果て無き終わりを生きる糧になってくれる。
(だから…………だからまた一緒に、新しい旅に出ましょう?)
彼女は目一杯の力で、老いた術士の事を抱き締めていた。
最後までお読みいただき、誠にありがとうございました。
書き始めた当初は、6章(の最後の台詞無し)で終わる構想でした。
読んで良かったと思える作品になっていたら、幸いです。
次ページは文字数・人物・用語などの簡単なまとめのみです。




