エピローグ-1 一人きりのレナリア
眺める空は滲んだ茜色で、光は部屋の奥まで浸透してきて、雨期から乾期への移り変わりを告げている。
沈み行く眩しい西日の少し上方には、一筋に棚引く細長い雲みたいに、何食わぬ顔で横たわる浮遊大陸の影が見て取れた。
離れの二階からオウレル神殿の方を見遣ると、女性と思しき姿が目に入って来る。
眼鏡を掛けていなくても、誰だか直ぐに分かってしまった。
「……ユメリーさん? こんな時間に戻って来て、忘れ物でもしちゃったの?」
精一杯大きな声で呼び掛けてみると、年配と称すには早過ぎる彼女も声を張って応じてくれた。
「色々あって、今日はこのままこっちで夕食を摂る事にしたよ! 今から準備するから、大人しく待ってておくれ!」
ユメリーと呼ばれた女性は食材を詰め込んだ革袋を思い切り高く掲げる。
力強い返事を受け取った少女は、ぼんやりと形を失った遠い輪郭から、にっこり笑い掛けてくるいつもの温厚な表情を想像していた。
恐らくまだ、収穫祭の準備で忙しないだろうに。
それに、心配していたお子さんの熱は、もう下がり切ったのだろうか。
最近、この離れにずっと一人きりだったから、きっと態々身を案じてくれたのだろう。
他の家事は扨措き、火や刃物を使った調理は、自分一人だけではまだ余り慣れなかったから――。
小さな少女は、少しだけ安堵していた。
騎士国の、その首都の名でもあるイヴナードの東端、この国ではやや珍しい農耕神オウレル神殿の離れで、少女レナリアは一人慎ましく暮らしている。
日中はユメリーを含めた複数の神官騎士、修道騎士らが切り盛りをしており、他に幼い廻し子の居る間は、本殿に当番制の宿直も在中していた。
だから、この敷地内で本当にたった一人になる事は、案外少ない。
そんなレナリア自身、星の導きが示されないまま、間も無く十六に手が届いてしまう。
ここまで成長して星の導きが無いのは、恐らく廻し子が始まって以来初めてに近いだろう。
本人としては至って気楽に構えていたものの、流石に周りから見てそろそろ完全に自立出来る年齢として、体調の優れない時を除き、レナリアだけなら宿直も不要とされていた。
* * *
ユメリーと呼ばれた女性神官はその夜遅くに帰宅してしまったため、まだ朝日が顔を出し切らない頃、レナリアはいつものように小豆色の修道服に着替える。
小柄ではあったものの、廻し子の印である星の子の衣装は疾うに身体に見合うサイズなど無い。
だから、十二になった〝誕生日のお祝い〟にと、当時の修道騎士らが贈ってくれた大切な物。
これを着ていると何だか大人になれた気がするし、誰かと入れ替わりで新しい騎士が着任する時などは、必ず〝小さな先輩〟と勘違いしてくれる。
何だか身に纏う度、一人前になれたみたいで、自然と誇らしかった。
しかし、他の神官騎士や修道騎士は皆身体にフィットした大きさなのに、育ち盛りの将来を見据え、ほんの少し大きめに誂えて貰ったのが仇となってしまう。
初めて袖を通した時は喜びの余り想像もしていなかったけれど、どうせならこのゆったりとしたサイズが丁度ぴったりになる位には大きくなりたかった。
だから、敢えて自身の得意な裁縫で仕立て直しはしていなかった。
いつものようにそんな事をぼんやりと考えながら、修道頭巾に肩口くらいで乱雑に切り揃えてあった薄い錫色の髪を仕舞い込んで、全体を整える。
それから木桶と器だけ金属になった柄杓を持ち、中庭へと足を運ぶ。
小鳥達がようやく囀り始める中、日課になっている草木への水遣りを済ませた。
序に女官らの仕事である山羊や鶏といった家畜への水や餌も補充も分かる範囲で終わらせてしまい、いつものように神官騎士らの出仕を待つ。
苦手だった騎士の基礎訓練は、大きくなるに連れ、同年代に比べて小さ過ぎる体格、どの家系にも属さない境遇により、一部の座学を除いて全て免除された。
最初は免除される事で、同年代の遊び相手、話し相手に会えない不自由さばかりを強く感じていた。
しかし以前から何かしらの指遊びが好きだった彼女は、次第に一人でも手先を沢山動す事の出来る裁縫や刺繍に没頭していった。
特に自身の名の由来でもある〝姫金魚草〟をワンポイントで入れ込むのが好きで、修道服の襟元や自身の使う布地などには概ね施してある。
顔も名前も分からない、実の両親との絆として――。
実の両親が誰だか分からないのは、彼女が捨て子で、廻し子として取り成されたのではなかったからだった。
とある冬の真っ只中。
温かな毛布に手厚く包まれ、〝どうかこの子をお願いします〟、ただそれだけ書かれた手紙と共に、姫金魚草の一房が添えられ、この神殿の入り口に取り置かれていたという。
元から身体の弱い方だったけれど、見付かった時は既に体の芯まで冷え切っており、仮にもう少し発見が遅かったら、助からなかったともいわれている。
赤子の肌や髪色は薄く、顔立ちもこの辺りでは殆ど見掛けない純粋なオルティア系のようだったけれど、ここから先の東の地は開拓中の閑静な平原。
イヴナード領外からの人の往来は無いため、出自は不明。
また騎士国は廻し子制を布いているため、国内で生まれた赤子ならこんな辺鄙な場所に置き去りにする理由も無く、何故捨てられたかは未だ謎だった。
更に言えば、添えられていた花も本来は春に咲く筈のもので、神殿付近には自生していなかったし、彼女と共にあったその一房は不思議としばらく枯れなかったという。
いずれにせよ怪しい事だらけだったが、当時は他の廻し子の赤子も二人居たため、併せて引き取られる事になった。
他の二人は数か月と経たず星の導きによって巣立ってしまったけれど、彼女だけが今に至るまでの間、この神殿に取り残されてしまう。
それでも数年に亘り星の導きの示されない子は稀にあったため、彼女自身、ほんの少し変わり種として、このオウレル神殿における生活を謳歌し、満喫していた。
神殿に属する騎士らは概ね五年から十年以内の配置換えで去ってしまうものの、その誰もが優しく、特にユメリーはまるで我が子のように可愛がってくれていた。
もし叶うなら、星の導きがユメリーの所になれば良いのに。
そう考える日も最近は少なくなかった。
刺繍という没頭出来る趣味のお陰で、乾期の夜長も退屈せずには済んでいたけれど、幼い頃から手元ばかり見続けたので、かなり目が悪くなってしまった。
しかし幸いな事に、イヴニスの信奉者が殆どの騎士国に於いて、毎年多額の寄付を収めてくれる熱心なオウレル信者が付近に存在したようで、修道服よりずっと高価だった眼鏡も直ぐに買い与えて貰えた。
当初はその重さや着脱が煩わしく、どうしても気になってしまっていたけれど、慣れてくるとそれも些細な事として、今では僅かな不便さなど全く気にならない位、生活や趣味の場で重宝している。
そして成長するに連れ、神殿内の小さな託児室では暮らし難くなってきたため、その多額な寄付を遣って物置小屋と化していた今の離れを改築し、単独で二階に住まわせて貰えるようになった。
今となっては既に物置小屋というより完全に住居の見てくれで、下手をしたら貧しい家々に比べて何倍も立派な造りになってしまっている。
そうした事から、本来であればその信者には感謝こそすれ、疎む理由など全く無い。
しかしその信者は街外れの小さな墓地に住む墓守と聞き、顔を隠した黒装束の男が訪れているのを何度か目にした事もあったため、何だか薄気味の悪い存在に感じられてしまっていた。
* * *
季節は巡り、気が付けばあれからもう一年近くが過ぎた。
その間に預けられた赤子は三人。
いずれもたった二週間程で、遠く離れた中心市街へと引き取られていった。
そうして今年もまた、収穫祭の時期が近付いて来ている。
先日ユメリーは、神殿長の命によって、急遽別の修道院へと移ってしまう。
昨年は、あの後自分が風邪を引いて寝込んでしまったから、彼女と一緒に回る事は出来なかった。
それだけでなく、お祭りの間、付きっきりの看病まで甘えてしまったというのに。
中庭に一本だけ植えられた貧者の桃の木には、色鮮やかな果実が撓わに実り始めている。
小鳥達に啄まれないよう、半分くらいは薄布を被せてあったので、オウレル神の豊穣なる恵みに感謝しつつ、背丈程もある階段状の踏み台に乗り、中の大きそうな袋を幾つか選び取る。
ユメリーと入れ替わりに配属された神官騎士の女性は、自身より一つ下、即ち十五くらいと飛び抜けて若く、しかも桃が好物だと聞く。
追熟には多少時間が掛かるだろうから、また食べ頃になったところで、彼女も誘おう。
ユメリーの去り際には、感謝の証として、新しい裁縫道具を買うのに取ってあった小遣いで細やかな花束と、真新しい手巾に姫金魚草の刺繍を小さく配った物を手渡す事にした。
「こんな綺麗な贈り物、初めてだよ……ありがとうね。ただ、今生の別れって訳でも無いんだし、ちょっと遠くはなるけど、いつでも遊びにおいで? お星様の導き、レナにも早く届くと良いね!」
カラッと笑いながらのお別れだったけど、それでも目尻がほんの少しだけ潤んでいたのを見てしまう。
彼女の家に於ける至上の法は、〝喜びは常に誰かと分かち合って生きよ、悲しみは自身の中だけに留め置け〟。
以前旦那さんが開拓地と浮蝕の境界を警備していた時、逸れた魔獣に襲われて大怪我を負ってしまった時も、彼女は泣き言一つ漏らさなかった。
だから、湿っぽくならないよう、こちらからも精一杯の笑顔で送り出す。
きっと会おうと思えば、またいつでも会えるのだから。
収穫祭を間近に控えた夜更け、ふと窓の外を見遣ると、今までに一度くらいしか見付けた事の無い、流れる星の輝きが見えた。
(――――お星様の導き、か……)
あの星の落ちる先は何処だろうか。
特に見付けた感慨は無く、逆にユメリーの別れの言葉をふと思い出してしまい、今更誰かの家族になれるのだろうかと、改めて陰鬱な気持ちになり、自然と溜め息が漏れる。
このままで良い。このままが良い。
年齢的にも後輩となる新しい女性神官は、一か月と経たず職務に慣れ、神殿に奉仕する騎士として、与えられた仕事を日々立派に熟している。
あんなにも若く神官に抜擢されるなんて、とっても優秀な人材なんだろう。
翻って自分はというと、今までと変わらず内向けの誰でも出来る簡単なお手伝いばかり。
そして自身の家事ですら碌な腕では無かったから、彼女がやって来てからというもの、何だかずっと気後れしてしまっていた。
地道に刺繍の下絵と向き合っている時だけは無心になれたけれど、最近はそれも先の流れ星の時のように雑念に遮られ、手を止めてしまう事が度々あった。
* * *
騒がしかった収穫祭の日々も終わりを告げ、恒例の仕来りとして、深夜に代々受け継がれてきた古代衣装のご奉納が行われ、それを少し手伝う。
〝ご奉納〟なんて大袈裟に言う割には、来年またそのまま取り出すというのに。
これからの閑散期は、種子の選定や苗床の準備、農耕具の修理や点検を一通りしておく位で、圃場の整備などはまだ少し先の話。
収穫祭の翌日は例年殆どお休み状態になるけれど、これまでは面倒見の良いユメリーさんが買って出てくれていたので、敢え無く例の若い彼女がそれを引き継ぐ事となった。
流石に来たばかりの新人一人は心許無いとして、もう一人眉雪の神官騎士が終日付き添う形になる。
しかしそのお爺さん騎士は、〝夕べは飲み過ぎた〟などと延々愚痴を垂れつつ、日が南に上り切る前には上機嫌そうに体調不良を訴えて帰ってしまった。
残された彼女も、初めての収穫祭を恙無く終えられ、その事を逸早く母に報告したかったのだろう。
〝貴女も体調が優れないんだよね?〟と囁いてみたら、最初は怪訝そうな顔で見られてしまう。
〝後は私が居るから大丈夫だよ?〟と更に強く背中を押してみたら、ようやく意図を悟ってくれたようで、顔を綻ばせ、何度も何度も頭を下げながら帰路に就いていた。
小さい頃は、たとえ凶作でも〝豊穣〟を祝う意味なんて全く分からなかったけれど。
こうして未だ浮ついた空気に一人取り残されてみると、ほんの少しだけ大人になって、それが理解出来るような気がしていた。




