6章-6 風に消えない灯火
「レルゼアさんの手って、意外と温かいんですね……ねぇ、笑っててください、今はそんな難しい顔……しないで欲しいな」
そう指摘した自身は、今、しっかりと笑えているだろうか。
〝温かい世界〟から〝冷たい世界〟は簡単に想像出来ても、それは単なる想像で。
〝冷たい世界〟から〝温かい世界〟は想像すら出来ない代物だったから。
青空のずっと手前にある彼の顔は、逆光の翳りの中、複雑そうに歪んで見えた。
「レルゼアさんがもの凄く臆病なの、ちゃんと知ってます……でも大丈夫、実は〝私も〟なんですよ?」
ぐずぐずと濡れ濡つ胸中を直隠しにして、少しだけ楽しそうにしてみる。
術士の男は、最後に見た妹と重なってしまい、まるであの胸に刺突短剣を突き立てた時のような気分だった。
「一緒に旅をした時間…………何だかずっと、楽しかったな……」
残り火が小さくなってきているのか、彼女の声は既にか細く、今にも消え入りそうだった。
男は聞き漏らすまいと、自然に彼女の上半身を抱き寄せ、右手でその背を支える。
そうして騎士たる男が話し掛けようとしたところで、彼女は人差し指で彼の口元に小さく蓋をしてきた。
少しだけ間を置き、その指を自身の唇に当て直しながら、
「もう何も喋っちゃ駄目です。絶対…………絶対ですよ?」
そう言って彼の発言を柔和に制す。
しかし男は、空いた手で彼女の唇に添えられた指を握ると、勢いに任せ、何の返事も求めず、ただ身勝手に吐露する。
「私も…………私も幸福で、安らいで、今思えば、ずっと心が救われたような気分だった。共に居られて、楽しかったんだ」
押しに弱く、流されるとばかり思っていたリテュエッタは、彼の明け透けな本心を聞き、目を丸くしていた。
「何で…………何で今、そんな事言っちゃうの?」
ずっとずっと、心の奥底に秘めて、我慢し続けていたのに。
そんな言葉、今更聞きたくなんか無かったのに。
気が付けば、彼女の瞳からはポロポロと温かい感情の粒が零れ始めていた。
そして一度溢れ出すと、止め処なく、後から後からひっきり無しに溢れてくる。
人は……いや、私はただ、底知れぬ寂しさを紛らわすためだけに生きて来た。
こんな惨めな事など、他にあろうか。
ぐじぐじと両手で涙を拭ってみるけれど、それでも全然足りなかった。
「絶対、何も言わないでって、お願いしたのに…………私だって、私だけだったら嫌だし…………私だけじゃなかったら、また消えたくなくなっちゃうし……今更、寂しくなってきちゃうし…………」
一度口を衝くと、これまでずっと抑え続けてきた何かが決壊して、留まる事はなかった。
「もっともっと、一緒に居たかったなって……生きていたかったなって……今更そんな事、考えちゃう……折角、もうこれで全部お終いって、心に決めてたのに……何で……どうして今、そんな事言っちゃうの……」
あの時も、この時も。
出会ってから、大切な姉とお別れをして、オルティアに向かって。
ティニーと一緒になれて。
ロレアと出会って。
奈落なんて悍ましい場所にまで連れ立って。
慣れないお仕事を沢山手伝って。
得意な料理を一杯披露して、一緒に食べて。
ずっとずっと東の方へ、見た事もない建物や生活を目にして。
英雄さんを解放して。
ナズィヤの不思議なお姫様にも出会って。
そしてこんな、創世樹なんて突拍子のないところまで一緒にやって来て。
そこには、大切なクリスタちゃんが居て。
しかも彼女は、運命の女神様で。
その間、ずっとずっと一緒に居てくれて。
――――しかもそれが、楽しかっただなんて。
胸が一杯で、これ以上はもう何も言葉にならなかった。
どれだけ頑張ってみても、嗚咽は止んでくれなかった。
レルゼアは、ラピスの時のように何も言えないままが嫌だっただけとはいえ、余りに利己的な発言で、最後に彼女を苦しめてしまったと深く後悔し、懺悔する。
「済まない……それでも、どうしても伝えたかったんだ……あの時のように、後悔したくはなかった、だから……どうかこの我が儘を、許して欲しい」
それを耳にした灯火の少女は、更に強く胸を打たれたような気分だった。
この男は、姉とは似ても似つかなかった。
〝こんな時〟ですら、耳障りの良い嘘を並べられず、隠し事すら出来ない。
そんな簡単な事に、私は気付けていなかった。
悲しくて、凄く申し訳無いのに。
何だかちょっぴり、嬉しくて。
遣る瀬無さで、一杯で。
もうたった一人きりで、こんな非凡な寂しさを受け止め切れないと、心が悟ってしまっていた。
「ねえ……さっきクリスタちゃんがしてくれたみたいに、ギュって、してください……」
涙は先程から零れ続けており、声に力も入らず、あえかに呟く。
これ以上は情けない泣き顔を見られたくない。ただ、それだけ。
内心そんな下らない言い訳をしている自分に殆呆れながら、傍らに居る男の首に何とかしがみ付く。
レルゼアは途惑いながらも、竜髄症だった少女の背に両腕を廻し、不器用に抱き返して身体を支えた。
そうしてただ鮮やかで、稚い感情だけが、彼女の中に目一杯詰め込まれていく。
「――――それじゃあ、戻ったら……ロレアさんの事、大切にしてあげてくださいね」
「否、それは……」
咄嗟に反論し掛けた術士の声は、さざめく風音に掻き消され、リテュエッタは弱りゆく腕に何とか力を込め、深く彼の頭を抱き寄せる。
結局私は、何処に行っても誰かのお邪魔虫なのだろう。
また卑屈に考えてしまい、鼻の奥にツンと来る想いの丈が湧き上がってくる。
「……あんな素敵なキスまでしちゃってるんだから、ちゃんと答えてあげなくちゃ駄目ですよ?」
何とか落ち着いてきた落涙を繰り返さないよう、緊くその瞳を閉じる。
そうして心から、ただ彼と彼女の幸せを願ってみる。
「見て……いたのか……」
諫められた無自覚な男は、胸の奥を握り潰されたような気分になって、掠れた声でそう独白していた。
そういえば、イヴナードに戻り始める頃位だったろうか。
思い返せば、彼女は次第に、殆ど自らの意思や望みを口にしなくなっていたような気がする。
あれは自分を抑え込んでいたからだったのかと、勿忘草色の遠い空と地平線を眺めながら、ようやく悟る事が出来た。
やがて思い至るよりも先に、腕に掻き抱く少女が、顔の直ぐ横で静かに首を振っている。
「今度こそ…………今度こそ何も言っちゃ駄目、です」
心音の間隔が少しずつ乖離していき、命の火が消えゆくのが分かる。
それは死ですらなく、神さえ届かぬ、深淵に澱むもの。
その時の彼女は、一体どんな面持ちをしていたのだろうか。
「ちょっと疲れちゃったから…………ほんの少し、ほんの少しの間、肩を借りているだけなんです」
たとえ何も無くても、もう大丈夫。
澄んだ水面のように、心の波が穏やかに消えていく。
意識が濁っていく。
音も景色も、感覚も想いも、ゆっくりと何かに溶けて落ちていく。
どうして出会った時には、終わってしまっていたんだろう。
どうして彼は、こんなにも一生懸命に寄り添ってくれたのだろう。
いつの間に私は、果てない寂しさに一人押し潰されてしまっていたのだろう。
何故こうなる事が、最初から決まっていたのだろう。
どうして幸せになる事を、寂しく無くなる事を、ずっと昔から諦めてしまっていたのだろう。
もしも全部、運命の所為なんかにしちゃったら。
〝運命の女神様〟に――――クリスタちゃんに、怒られちゃう。
これは間違いなく、自ら選び抜いた答えで、ずっと前から望んでいた事。
だからきちんと、受け容れなくちゃ。
「――――さようなら。レルゼアさん……ありがとう。クリスタちゃん……」
最後は、囁くよりもずっとずっと小さな声だった。
これまで父以外の男に抱擁された事の無かった少女は、少しだけ擽ったい心地に包まれ、揺蕩うような揺籃の中で。
静かにその息を引き取った。
* * *
彼女の身体から力が全て抜けきった後。
その亡骸を抱いたまま、一体どれ位の時間が過ぎ去っただろう。
ようやく目を開いてみても、空はただ晴れ渡って、彼女だったものの肩越しに見える景色は、何も変わってなどいない。
これが終わりで、これが始まりなんだろう。
まるで眠っただけのようにも見えるそれを術士が気怠げに解くと、仄白き花の棺へと再び横たわらせる。
彼女だったものの遺骸は、あの古き英雄のように直ぐに崩壊する事はなかった。
給仕の格好をした運命の女神は、何かを覆い尽くしたかのような面差しで、二人の離別を見守り続けていた。
「…………ねえ、リティーは満足してくれたかな? 私からのせめてもの餞に」
その無感情な言い草を耳にし、居ても立っても居られなくなったレルゼアは、ようやく立ち上がる。
代わりにリヴァエラたるクリスタが、もう起きる事の無い眠り姫へと静かに歩み寄り、骸の冷え切った頬をそっと撫でた。
触れる瞬間、彼女の蒼玉にも似た双眸に宿る光が一瞬淡く揺らめいた事を知る者は無い。
そうして屈み込んだまま、傍らの弱く頼りない男へと小さく告げた。
「折角だから、おじさんにも命を賭した選択をあげる。大切なリティーを看取ってくれた人だし……ね」




