6章-5 背反
「好きなものを時に嫌っても良いし、それが決して悪いとも思えない……否、きっと誰もが時に思う事だろう。だから……どうか、そんな事で自分を責めないで欲しい」
そうレルゼアから安直に慰められると、リテュエッタは不意に強い耳鳴りがして、外套を両手でぎゅっと包み込み、無意識に顔を埋めた。
「それって……それって、亡くなった妹さんにも、面と向かって言えますか? ラピスさんはきっと貴方を強く慕い――憎んでいたんですよ?」
予想外の詰りに、術士はしばし言葉を失う。
ただ、渋面を浮かべていたのは、動揺の結果、反射的に言い放ってしまった少女の方だった。
――――〝そんな事で〟。
それは奇しくも、彼女に対して、最も忌避すべき言い回しだった。
* * *
少女の故郷は小さな村で、交流範囲は狭く、それ故時折〝外の血〟を取り入れる習わしがあった。
だから、自身と姉は似ても似つかない。
こんなにも漆黒で、呪われたような髪をした者など、〝ラダの村〟では自身を差し置いて、他には誰もなかった。
肌は、母と同じオルティア系。
髪の色や顔付きは、名も知らぬ南方系。
そしてこんなにも異質で極端な組み合わせなど、多くの場所を巡った今、村外ですら殆ど見掛けないと知った。
自身の出自を糺す度、両親を含めた周囲の大人達は皆、〝何も心配は要らないから〟〝そんな事で何かが変わる訳じゃないよ〟と、いつもいつも逸らかされてきた。
同年代からの揶揄いは、いつも姉や大人達が庇ってくれた。
もうあんな言葉、全然辛くなんかなくて、疾っくの昔に慣れたとばかり思っていたのに。
ふとした瞬間、幼き日の幻影が、暗澹と胸裡に渦巻いてしまっていた。
「ごめんなさい……ちょっと意地悪が過ぎちゃいました……」
あの模範的な慰め方が、まるで大好きで憎むべき姉そのものだったから。
弱々しく謝罪しながら、竜髄症の少女は再び抱えた外套に深く顔を埋める。
自身は、母や姉達と半分だけ繋がっている。
裏を返せば、半分しか繋がっていない。ずっとそう思っていた。
ただ血縁なんか全く無いのに、それ以上にしっかりと〝繋がっていた〟家族の事が、兄妹の事が、心の何処かでずっと嫉ましかったのかもしれない。
少女は余りに歪んだ醜い羨望と気付き、内心窃かに落胆していた。
「否、良い……ありがとう……言われるまで、全く気が付かなかった。それにどうしようもなく今更の話だった。君がどうして自身の事を苦しめているのか、全く分かっていなかった」
レルゼアは自身が何か傷付ける発言をしたのだろうと、疑う事も無くただ自省する。
妹と若き騎士ガヘラスは、想像以上に仲睦まじかったし、両親との軋轢も無く、他の誰とも上手くやっていた。そんな風に見えた。
ただ一人、自身との関係を除き。
つまり自己矛盾の相手、強い愛憎の矛先は、自分だった可能性が非常に高い。
叱咤と思慕。憤りと敬愛。思い当たる節など幾らでもある。
だから、至極納得の行く指摘だった。
加えて、少し位の愛憎など誰にでも有るというのに、こんな非業の病を背負ってしまうなんて。
その重みを全く理解出来ていなかった事に、改めて臍を噛む。
(――――そういう中途半端な優しさ……他人の弱いところに堂々と踏み入ってくる真面目さが、より一層、ラピスさんを苦しめたんだろうな……)
まだ温かい贄を頬張るが如く、心根の奥底で何かの潰れる音がする。
両手を腰の辺りに当てながら、無言で二人の遣り取りを見守ってくれていた女神に対し、鉱石術士の男は改めて希う。
「本当に……もう本当にどうにもならないのか?」
縋れるものはこれで最後だったから、幾ら情けなくても、無様でも、必死になって訴える外無い。
そんな哀れな男には目もくれず、女給仕は寂しがりの少女に歩み寄ると、ずっと顔を上げられないままの彼女を優しく抱擁した。
「リティーの心はいつも分からなくて、不思議で、一緒に居て、本当に楽しかった……でも今思うと、それってやがて生と死の理を放棄するからだったのかな」
言の葉の終わりに恵風が駆け抜け、地吹雪のように数多の花片が舞い上がる。
クリスタたるリヴァエラは、そっと竜髄症の彼女を解放し、微かに怯懦したような親友の様子を、蒼く翳った瞳で見据えていた。
「悠久と共にあるエストの一族……そこに意思は存在するけど、命は無いの。ただ〝役割〟があるだけ。だからこんなの、本当は良くないんだけどね……大切な、大好きな友達だから」
彼女はそう言って両膝を揃えて折り、屈み込むと、辺りの白い花弁を一枚だけ摘んで、立ち上がる。
そしてまだ仄かに湿ったそれを唇に当て、自らの黒髪を疎み続けてきた少女へと差し出す。
「……さあ、そろそろ頭を上げて顔を見せて? 私が今から貴方に、一つの大切な選択をあげる。私から理の外に食み出すのを認めるなんて、例外中の例外なんだからね?」
優しく諭された彼女は、塞いでいた視線を上げ、怖ず怖ずと同じ位の高さにあった知己の友人の顔を見る。
彼女は黄金色の髪を靡かせ、今まで見せた事の無い、息を呑むような、女神然たる蒼い憂懼の眼差しでこちらを見詰めていた。
「これに触れれば、二つの理は直ぐにリティーから剥がれ落ちる。今の苦しさや寂しさから、直ぐに解放してくれる……でも、でもね。そうしたら貴方の存在も消えてしまうの。あのイヴナードを護っていた、古い英雄みたいに」
英雄と違うのはただ一点、もう〝生まれ変われない〟という事だけ。
運命神リヴァエラは、殆ど聞こえない位のささやかな声で、そう付け足した。
(そうか、私はきっと、最初からこれを…………)
「…………なっ、何を言っている!」
レルゼアが慌てて引き留めるべく手を伸ばすと、ケーリュケイオンの頭が少女らを護るべく割って入った。
「何故――――どうして止めようとするの?」
クリスタが凍り付くような警告を発したところで、彼は透かさず身を引くと、双頭竜は再び首を擡げて視界を開く。
そうして女給仕の格好をした女神は、こちらを一切見咎めないまま、静かに苦言を呈した。
「心を賭した選択に、他の誰かが口を挟んで良い理屈なんて無いんだよ。それに、貴方のためなんて黴の生えた自分勝手な謳い文句、今時酔っ払った詐欺師だって使わないよ」
去りゆく上風に戦ぐ草と葉の音だけが、周囲を包む。
天つ大樹から溢れた木漏れ日は、季節外れの六花のように、辺り一面降り注いでいた。
「リティー……貴方に残された僅かな時間は、貴方が選べば、今ここで私が引き取るよ?」
――――ああ、そうか、私はあの日。
あの日、必死になって彼に同行を願い出たのは、今ここで、こうして。
もうこの先、何も望んでなんかないし、フィーカさんにも、私の未来など視えてはいなかった。
そっか……私はずっと、こうなる事を待っていたんだ。
心の何処かで、この最期を、ずっと待ち続けていたんだ。
こうなる事を、切に願ってしまっていたんだ――――。
そうして少女はゆっくりと、言われるが儘に、震える心で、震えない手を真っ直ぐに差し伸べていた。
「――――リテュエッタ!!」
レルゼアは眦を決しながら、思いの外声を荒げていた自分に途惑う。
差し出された花弁に触れる直前の彼女は、一旦手を止め、さして驚いた様子も無く、ただ穏やかに微笑みを返す。
しばらく黙ったまま、それから、〝今日は少しだけ早起きなんですね?〟、そんな有り触れた朝の会話みたいに、満ち足りた口調で囁いた。
「レルゼアさんのそんなに大きな声、初めて聞きました――――」
「これから自分が何をしようとしているのか……本当に理解しているのか!?」
愚昧に過ぎる確認と自覚しつつ、改めてそう尋ねる外無く、歯噛みする。
当たり前過ぎる事を問われた旅の終焉を望む彼女は、まるで駄々を捏ねた子をあやす母親のように、眉を曇らせ、どう言い含めたものか逡巡していた。
ここに向かうと知ってから?
フィーカの言葉を聞いてから?
それとも……もっと、ずっと前からだったのだろうか?
何となく、こうなる気がしていた。
こうなる事が、心の何処かで分かってしまっていた。
きっと私はここで終わるために、こんな遠い所までやって来てしまったのだろう。
この男と連れ立って、旅をしてきたのだろう。
あの見晴らし塔から転落して以来、今までずっと、心地良い夢の中だった。
ただこの日が来るのを、心の何処かで待ち望んでいた。
きっとそれは、何物にも代え難い幸せな〝猶予〟だったんだろう。
そんな、晴れやかな気分だった。
あの時は不意の事故だったけれど、今は違う。
しばらく悩み抜いたものの、結局短い旅を共にしてくれたこの男には、笑顔以外、何も返す事は出来なかった。
自ら生じた相反の綻びから抜け出すべく、彼女は女神から差し出された〝剥離の花弁〟にそっと触れる。
自身をここまで導いてくれた鉱石術士は、予てから揺るぎようの無いその選択を、ただ、遠巻きに見守る事しか出来なかった。
小さく触れた瞬間、音も光も、何も生じない。
竜髄症だった少女は、糸の切れた操り人形のように、力無くふらりと蹌踉めく。
距離にして、たったの五、六歩。
見晴らしの塔から転落した時よりもずっと近く、クリスタと共に駆け寄って、彼女の背に両腕を差し込み、その軽い身体を支えた。
奈落の底のように、自身の外套を敷き、そっと横たわらせる。
その姿はまるで、暖かな春の雪原に沈み込んでいるようだった。
「何て、馬鹿な事を……」
「あはは……馬鹿だなんて酷いです。英雄さんの時みたいに、直ぐ消えちゃう訳じゃないんですね……」
天を仰ぐ少女は、片膝を突いて覗き込んできていたレルゼアの頬に軽く触れる。
大樹の隙間から漏れる麗らかな陽光に照らされた彼女を見て、レルゼアは不覚にも、何だか美しいなと思ってしまった。
顔色も様子も、普段と余り変わらない。
ただほんの少し吐息が弱くなっており、表情が薄く、左の頬に触れた手も僅かに冷たくなって来ているように感じられた。
何故……何故こうなってしまったのか。彼は自然と強く歯を食い縛っていた。
「やっと…………やっと普通に触れました…………全然、痛くないです」
柔らかく微笑みながら、撫で付けるようにして少しずつ角度を変え、ゆっくりとその輪郭を確かめる。
レルゼアは不意にその手を握り、殆ど自問自答の如く託つ。
「まだもう少し、生きられたかもしれないというのに――――」
それを聞いたリテュエッタは、悪戯っぽく顔を綻ばせ、目を細めていた。
「だって……苦しいのも寂しいのも、嫌だから……それに、私だけの大切な思い出、誰にも上げたくないですし。このまま生まれ変わらなければ、大切な思い出も失くさずに済むんですよ?」
それは綺麗なだけじゃなくて。
怒ったり、悩んだり。落ち込んだり、羨んだり。
本当に色々な事があった。
だからこそ、素敵だった。
両親も姉も、これまでずっと、近くて遠かった。
誰に対しても、心の何処かで顔色を窺ってしまっていた。
一緒に居て良いのか、いつも何となく自信が無かった。
クリスタと過ごした日々も楽しかったけれど、人ですら無い彼女は、やはり肌に感じるものが何か違っていたような気がする。
そんな中、いつまで経っても他人行儀で弱気なままのこの男は、他人行儀だからこそ、何だか今までで一番、近しくなれた気がした。
生まれ変わりで、幾つもの大切な思い出まで消されてしまうのなら。いっそ。
「何だか最近…………一人でいる寂しさを思い出しちゃって。最後に寂しいのって、やっぱり嫌ですよね?」
生まれてからずっと、温かい人達に囲まれていたのに、どうして寂しかったんだろう。
周囲が温かかったからこそ、それとは異なる自分が、より一層寂しかったのかもしれない。
不可解で、意志薄弱で、それでも優しい鉱石術士と、頼もしい小さな飛竜と。
一緒になって先の見えない僅かな時間を過ごし、そうでない日々を知ってしまった。
少しずつ、自身の鼓動が弱まっていくのが分かる。
何となく、胸が締め付けられる。
意識が次第に輪郭を失い、浅い眠りの入り口のようだった。
気が付くと、右手が痛い程緊く握られていた。
意識を繋ぎ止めてくれるその優しい痛みが、今は寧ろ心地良かった。




