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6章-3 月の舞う湖上

 明くる朝、体調や準備などが万全である事を確認すると、日の上り切らない内からティニーの背に乗り、北方へと出立する。


 酒の方はすっかり抜け切っていたのだが、竜の嗅覚は鋭敏だったようで、騎乗を初めて嫌がられ、リテュエッタが苦労して(なだ)めてくれていた。




 緩く眩しい朝焼けの中、街道は遙か遠く地平線の彼方へと(いち)()に続いている。


 溶々(ようよう)と流れるスレイ川に寄り添うように、昇ったばかりの低い冬の日差しに照らされながら、空の道を進んで行った。


 都鄙(とひ)の境は曖昧で、眼下にある(まば)らな灌木(かんぼく)は少しずつ密度を増し、人の住む小屋の類は徐々にその間隔を広げ、放牧された牛や馬も徐々に姿を消していく。



「この辺り、乾期なのに草木が青々と茂ってる…………凄い」


 生まれ故郷のスノーステップの初冬には決して見る事が出来ない牧歌的な光景。


 それを目の当たりにし、彼女は自然とその(きょう)()を呟く。



 後ろに乗った彼女は、何故だかいつもより少しだけ高揚して(はしゃ)いでいるように感じられた。


 気が付けば、今までに無く笑っている気がする。


 巫蠱(ふこ)の元から戻った時くらいからだろうか。



 レルゼアはそうした機微の変化に気付いたものの、その原因にまで思い至る事が出来無かった。


 ただ純粋に楽しみなんだろう。そう楽観的に考えていた。



 朔月(さくげつ)()は首都イヴナードの中心部から殆ど真北の方角だったが、川の支流に(なら)い、大きな風車小屋が林立する麦畑で、一度小さく西に折れる必要がある。


 騎士国に戻るまでの間はずっと西を背に移動してきたため、薄い冬の雲と(せっ)()山脈の間に浮遊大陸(ステアフロート)が再び顔を出す。



 そのまま(せっ)()山脈の東端に沿って北に進むと、本格的に草原地帯(グラスラント)へと向かう北方街道(ノースロード)へと入ってしまう。


 冷たい通り雨が来そうだった事もあり、街道の分岐点に位置する小さな宿場町で一泊しておく。


 翌日、太陽が頂点に昇り切る前に、彼等は目指すべきその湖畔へと辿り着いた。




 * * *




 かの湖は底が見える程に(ちょう)(めい)水面(みなも)(たた)え、周辺は深い常磐(ときわ)色の針葉樹が覆っている。


 大きさは奈落の大穴よりも少し小さい位だろうか。


 その透明度は非常に高く、少し遠くからでも、キラキラと照り返す陽光の隙間に小さく動く沢山の魚影が見て取れた。



「わぁ……本当に綺麗な場所……」


 彼に続いてティニーの背から降り立った少女は、先程から周辺をぐるりと見渡しながら、感嘆(しき)りだった。


 (せっ)()山脈の麓側、即ち北西の(ほとり)にある集落からは念のため距離を置いたが、ここにも釣り人向けと思われる(ひな)びた低い桟橋が(しつら)えられていた。



 レルゼアは湖の中央部には遠く届かない桟橋の先端へと向かう。


 そこから改めてざっと周囲を見渡してみても、確かに風光明媚ではあったものの、特に異質さや不可思議な気配などは一切感じられなかった。



 この湖面に月が映らない事ですら、知識として持ってはいたものの、実際目の当たりにするまで信じられない程、何の変哲も無く、ただ自然に溢れただけの長閑(のどか)な景色だった。




「今のところ何も見当たらないな……少し場所を移そう」


 湖の東側が小高い丘になっていたため、再び飛竜に騎乗して上り、湖全体を見渡しながら早々に野営の支度を始める。



「……何だかこういうの、久しぶりですね」


 少女の弾んだ声音に内心同調し掛けていたレルゼアは、自然と苦笑する。


 熊や狼の出る時期は終わりつつあったものの、念のため小枝に獣除けの香を(まぶ)し、先ずは焚き火だけ(おこ)しておいた。



「少し早いかもしれないが、仮眠を取る事にしよう。もし月が関係しているとすれば、何か糸口が掴めるのは恐らく夜の筈だ」



「じゃあ、私はもう少しだけ……この素敵な風景を心に仕舞ってからにしようかな」


 彼女はそう告げてレルゼアらを先に寝かすと、遠い西の方角、その空に浮かぶ不思議な大陸をぼんやりと眺めていた。


 総じて温暖な森だったけれど、それでも徐々に空気は冷たくなり、日暮れと共に風も出て来て、吐く息には白い濁りが混ざり始める。



 こうしてあの大陸を見上げられるのは、ひょっとしたらこれが最後(・・・・・)かもしれない。何だかそんな予感がしていた。



 こうして懐かしさで胸を一杯にして眠りに就けば、もう少しだけ、この温かい陽溜まりの夢に居るような心地でいられるのかもしれない。


 夜が更け切るまで少し時間が有ったため、そんな風に思いを巡らせつつ、黒髪の少女は無意識に術士と飛竜から距離を取った場所に腰掛け、月を待つ浅い眠りに就いた。




 * * *




 夜の(とばり)が下り切った頃、二人と一匹は示し合わせたように、やおら目を覚ます。


 レルゼアが丘の下を覗くと、湖面には薄く霧が掛かっていたものの、その()われの通り、霧の下の湖面には月の影など一切見当たらなかった。


「成る程……確かにそうだな」



 しかし一緒に肩を並べて湖面を覗き込み始めたリテュエッタは、それとは逆の感想を口にする。


「わぁ、綺麗なまん丸お月様……満月の日って、例外なんですか?」



 術士の顔色を窺ってみると、彼は静かに首を振り、それだけで二人は事情を察する事が出来た。


 再びティニーの背に乗って湖岸に降り立つと、辺り一面低く漂っていた霧は淡く輝いて色を帯び始め、まるで()(こう)(うん)の上に立ったようだった。



(〝私から歩み出せば良い〟って、確かフィーカさんはそう言ってた……)


 桟橋の先に向かおうとする彼女に対し、ティニーが小さく鳴きながら、急にその長い首を彼女に絡めてくる。



「……急にどうしちゃったの? ごめんね、少しの間だけ、しっかりとお留守番しててね?」


 いきなり甘えてきた飛竜の頭を(しき)りに撫でて落ち着かせてやると、ティニーはようやく彼女を解放し、それでもまだ不安そうに彼女の方を見ている。


(……大丈夫。貴方のご主人様は、きっと、ちゃんと戻ってくるから)


 同じくレルゼアも何故か無意識にその背に声を掛けようとしていたが、何を話すべきか分からず、逡巡したまま思い留まっていた。




 そうして桟橋の端まで進んだリテュエッタの横に、術士は並び立つ。


 彼女は巫蠱(ふこ)の言葉通り、一歩、(くら)水面(みなも)に向かって(おもむろ)に踏み出す。


 すると芝よりも柔らかく、綿よりも硬い弾力が足先に返ってきて、まるで新雪を踏み締めるかの如く、霧の湖上に自立する事が出来た。



「わわっ、何だか変な感じ……!」


 そうして彼女の周りに真円を描くように、霧の輝きが色めき立つ。


 湖面に立てるのは、月が映って見えた彼女だけなのだろうか、と、幾何(いくばく)か躊躇していたが、氷晶石(クリオライト)に似たその光の中に意を決して踏み出してみたところ、無事、同じ輪の中に立つ事が出来た。



 これまで奈落や始祖の英雄、冥府神など、幾つもの御伽話の出来事を目の当たりにしてきた。


 しかしまさか、自身が夜霧に立つなんて曲芸を披露する事になろうとは。


 全く泳げない訳では無かったものの、決して得意とは言えなかった術士は、今尚湖面と同じ位に、内心底冷えしていた。


 ただ、今は薄氷よりも余程しっかりした感触に、身を委ねる事にする。




「全く……不可解な事ばかりだ」


 知らず知らずの内に愚痴が口を()く。


「でも……このまま進めば、何だかケーリュケイオンさんの所に行けそうですね」


 彼女は自身の影と舞い踊るようにして、とん、とんと軽くステップを踏みながら、湖の中央へと進み始めた。


 その足取りに呼応するが如く、波紋のような(まる)い輝きが広がり、彼女の歩調に付き従っていく。



 レルゼアがその光から少し外れ掛けると、急に足を取られたような感覚に陥り、慌ててリテュエッタの後ろを追った。


「何だか、夢の中みたい……」


 彼女から付かず離れず歩いていたところ、少女は時折稚拙なターンを交ぜながら、三拍子のステップを踏んでいた。


 長く大きな一つのお下げが、振り子のように揺れている。


 詳しい知識は無かったものの、恐らくあれは、円舞曲(ワルツ)小歩舞曲(メヌエット)辺りだろうか。


 以前聞いた話によると、姉のミレイユの方は幼少期から歌や踊りが大好きで、時折教わる事もあったらしい。


 かつて住み込みで働いていた交易都市の大衆酒場でも、姉は余興としてそれらを披露して客を持て成す事も屡々(しばしば)


 ただ妹の方は芸事(げいごと)には余り興味が持てず、結果として全然上達しなかったため、〝実利優先〟として、(もっぱ)ら調理ばかりだったという。




 そうして道中の昔話を思い返していると、彼女が(つまず)いて転ぶのが目に入った。


 つい手を差し伸べようとしてしまったものの、不慣れな少女は照れ隠しに少しはにかみながら、自分の力だけで立ち上がっていた。



 固い地面と違い、頬に当たる霧はとても柔らかかったようで、〝幾ら転んでも大丈夫そう〟と。


 それはまるで、故郷のスノーステップでいつも触れていた雪原のようだという。


 (ほの)かな冷たさが、動いて火照った今の身体に心地良いらしい。




 ――――このまま……このまま竜髄症の元凶であるという双頭竜の元まで首尾良く辿り着ければ、本当に彼女からその病を(そそ)いでやれるのだろうか。


 そして自身は、その後どうするのだろうか。


 レルゼアは彼女と会話しつつも、そんな別の事ばかり考えてしまっていた。




 軽快に隣を行く少女に(いざな)われながら、少しずつ(つごもり)の湖の中央に向かっていく。


 しかしふと振り返って見ると、先程より一段と(かん)(じゃく)な闇が辺りに広がってきている。


 湖面には、もう星々すら映ってはいない。


 湖岸からそこまで遠離(とおざか)ってはいない筈なのに、既に飛竜はおろか、桟橋の影すら見えなくなっていたし、北東にある筈の集落の光も、黒に溶けてしまっていた。



 そうして気が付けば、あの奈落よりもずっと(くら)い。


 天に(またた)く星々と、満ちた月明かりと、彼女の足元に広がる夜霧の輝きだけしかなかった。


 地平の境は消え行くように曖昧で、遠く微かに響いていた木菟(みみずく)()き声も、いつの間にか聞こえない。



 とうとう神秘が牙を剥いて来たのか、と、レルゼアは周囲への警戒を強めるが、不思議と嫌な感じはなかった。



「…………レルゼアさん? そんなに心配しなくても、きっと、大丈夫です」


 疑心暗鬼の彼を見るに見兼ねた黒髪の少女は、そこでようやく立ち止まり、辺りの変化に気付く。


「あれ? 何だか真っ暗……こっちで良かったんでしたっけ?」


 そう言いながらも、彼女は元から周りなんか見ず、星が平たく欠けた西の空だけを目指していたから、小さなステップ再開しつつ、再び踊るように歩き始める。




 やがて彼女が二回目に転んだ時、何の前触れも無く、異変は生じた。


 リテュエッタが倒れ込むのと同時に、足元の霧が、目も開けられないくらいに(まばゆ)く拡散していく。


 そうして再び目を開けると、辺りの景色が一変してしまっていた。

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