6章-2 夢の欠けた器
「私の事は気にしないで? 貴女がこっち」
フィーカはぽんぽんと手近な方のベッドを手で叩くと、佇んだままそこから動こうとしない。
仕方なく示された方に遠慮がちに入って横たわると、これまでの寝床とは比べ物にならない程ゆっくりと柔らかく沈み込んでいく。
リテュエッタは驚きの余り、少しだけ声を上げてしまった。
巫蠱は微笑みながら水鳥の羽毛が一杯に詰まった掛け布団を顔の辺りまで目一杯引き上げてくれる。
そうして彼女は同じベッドの縁に腰掛けると、ただ無心に、煌々とした暖炉の灯りをぼんやりと眺めていた。
「…………フィーカさんは、眠らないの?」
気を紛らわすため、不穏な将来の影から目を逸らすために、沈黙を部屋の隅へと追い遣り、問い掛けてみる。
「私? 私はもう十分寝たよ? 貴女がお風呂に入っている時くらい……かな」
不確かな橙によって浮かび上がった彼女の横顔は、何の感情も表してはいない。
「私ね、殆ど眠らない――眠れない、と言った方が正確かな。だから貴女の倍近くは生きてると思うけど、それよりもずっと沢山の夜を見てきた。でもこうした日なら、昼間より静かで、大好きなんだけどね」
そこでようやく尖晶石を思わせる瞳が、ほんの少しだけ物憂げに翳る。
火の揺らめきに合わせて両足をゆらゆらと揺蕩しながら、彼女はぼんやりとした呟きを続けた。
「それにね、多分今までに夢を見た事が無くて……私には今も未来も同じように感じられちゃうから、実は未来の方が本当で、今この瞬間を逆に夢見ているのかもって、つい考えちゃう」
彼女はぐっと背伸びをしてみせると、寝ている少女の方を振り返り、あえかに微笑む。
「そもそも本当の夢なんて見た事無いのに、変な話だよね?」
今と未来が交錯する白昼夢の中に在って、記憶が混同するのは好くある事。
ただそんな時には必ず、誰にも分からない位の僅かな自傷の痛みで、今と未来を区別する。
そして、そうしなければならない瞬間ですら、五年も前から既に分かってしまっている。
横たわる少女の方は、照れ隠しに羽毛布団で口元まで覆うと、素直に本心を吐露した。
「何だか凄く難しくって…………どんな感じなのか、全然分からないです」
自身の体温から来る心地良い温もりに包まれながら、頭を酷使している。
普段こんな状況なら、疾っくに眠りに落ちてしまう筈なのに。
何故だかこの時だけは、将来の死を意識する静かで強い鼓動により、逆に目が冴えてしまっていた。
「そう? 皆が見てるっていう普通の夢の方が、よっぽど不思議で、私にとっては全然想像も付かないものなんだけど……」
本当にただの町娘にしか見えない幼子は、こちらに向かって一旦顔を綻ばせ、改めて火元に視線を戻す。
そして娘とも妹ともいえない齢の少女を眠りへと誘うべく、子守唄のように優しく語り掛けた。
「きっと私は貴女よりも頭が悪くて……中身もずっと幼いままだよ? 今までに何の感動も無くて、何の驚きも感じた事が無くって。全部事前に識ってしまっているから、きっと精神の成長に繋がる事なんて何も無いの」
そんな精神に合わせるようにして、身体という器も一向に成長せず、発育して行かない。
彼女は真剣に、そう考えていた。
現に未だ初潮すら訪れておらず、恐らく生涯に亘って自身の子は成せない。
文字通り特異的な唯の〝徒花〟。
そう信じて止まなかった。
やがて冗談交じりに微笑みながら、〝これっておばさんの負け惜しみじゃないからね〟などと小さな諧謔を添えている。
「――そうそう、こうやって笑うのは好き。簡単だから。怒るのも何とか真似出来てる……かな。でもね、悲しい気持ちなんて好く分からなくて。涙を流すのなんてどう頑張っても無理。真似なんて出来なさそう。だから、凄く嫌いなの」
リテュエッタは、諦観気味にそう零す彼女の横顔を見詰めながら、〝こんなにも寂しくて悲しそうな顔をしているのにな〟などと、曖昧な感傷に浸っていた。
パチ、パチと薪の弾ける音と、燻された楢の香りが微か漂って来る。
「双頭竜の処に行きたいんでしょう? それなら――」
急に今までと異なる歪な単語を耳にし、寝床の少女は突如自身の意識が落ちかかっていた事を知る。
靄のように釈然としない彼女の声を、姿を、必死になって結び止めようと努めた。
「――放浪癖のある兄から聞いたんだけれど。〝夜の光と昼の影が消え結ぶところ〟、そこに貴女の方から勇気を出して一歩を踏み出せば、きっと行けるよ?」
「あり……が…………とう……」
自身の声は覚束無い夢現へと解けては消えて行く。
「ふふ、眠いの? 無理しないでね。おやすみなさい――――……」
最後に優しく、何だか聞き馴れない名で呼ばれたように感じた竜髄症の少女は、朧気な迂遠の夢へと、深く深く沈み込んで行った。
* * *
窓の開く音と共に、陽光が差し込む。
中の空気と入れ換えに冷えた朝の香りが一気に流れ込んで来て、浅い覚醒が促された。
レルゼアは囚われていたその虚ろからようやく脱し、薄目を開けると、傍らで外套を拾い上げつつ、黒髪の少女が剥れながらこちらを見咎めていた。
「何だか部屋中凄くお酒臭いです。全然迎えにも来てくれなかったですし……途中から心配を通り越して、段々腹が立ってきちゃいました」
起きあがろうとして上体を起こしかけた矢先、〝昨日出来なかった花弁と当て布を取り替えたいから、もう少しだけ目を瞑って寝ててください〟と釘を刺される。
正直なところ、こんなに茫っとした意識のまま、中途半端に横になって睡魔に抗い続けるのは余計に辛かった。
しかしこちらに瑕疵があるのは間違いなさそうだったので、甘んじてその責め苦を受けておく。
「まさか、こんなに深酒をされてるだなんて……一体どうされちゃったんです?」
終日着けていた手当の帯を淀み無く取り払い、残り少なくなってきた新しいエリュシオンの花弁を広がる痣に当てながら、彼女は突然思い出したように男の不義理を自ら擁護した。
「あ、そっか……! 英雄様が天に召されたお祝いをされてたんですね? でも、一人だけ勝手に豪華な晩餐だなんて、ちょっと狡い……お酒は弱くて好きじゃなさそうって思ってましたけど、こういう時だけは例外なんですね」
そう言って迎えの約束を反故にした男に微笑み掛けながら、居住まいを正し終える。
「起こしちゃってごめんなさい。もう少しだけなら、寝てても大丈夫ですよ?」
彼女はまるで難解なパズルでも解き終えた時のように、満足げに上体を左右に少し揺らしていた。
「――――否、大丈夫だ。こちらこそ済まなかった……」
無理をして少し起き上がると、鼓動が脈打つ度、まるで自身の不甲斐無さを代わりに責め立てるようにして、目の奥と頭全体が疼き痛む。
昨晩は祝杯どころか正反対に位置する陰鬱な気分だったけれど、敢えて否定はしない。
それこそが真に小狡い立ち回りだったかもしれないが、天真爛漫な彼女と接する内に知った、相手の想像に委ねておくという計らいであり、信頼の印だった。
やがて額に手を当てたままでいるのを見るに見兼ねた彼女は、冷えた早朝の水を汲んで来てくれる。
ゆっくり飲み込むと、ヒリヒリと浅く焼けた喉を心地良く潤してくれた。
今朝のリテュエッタは目覚めが少しだけ遅く、その時ナズィヤの巫蠱は普段と変わらぬ出会った時のままの口調と姿に戻っていた。
まるであの夜伽が全て夢だったかのように悠然と構えていたため、不安に駆られ、双頭竜ケーリュケイオンに至る手掛かりを改めて確認してみる。
〝夜の光と昼の影が消え結ぶ場所〟、そこに主の方から歩み出せば良いのじゃ――。
巫蠱は飄々とした時知り顔で、〝あの男にそのまま伝えれば、直ぐに分かるじゃろうて〟などと嘯いていた。
そうして祖国に向けた出立の序とばかりに、我が身にそぐわぬ奢侈な馬車で、この宿まで送り届けてくれたのだった。
「夜の光と昼の影が消え結ぶ――」
レルゼアは普通なら晦渋なその言い回しを改めて呟いてみたが、謎めいた示唆の准うところなど、労せず分かってしまっていた。
かつて妹が、〝夜の明かりを消したみたいに、水面には月の影だけがなかった〟、そんな風に珍しく詩的に表現していた場所だったから。
「朔月湖、か……」
その示唆は、巫蠱が自身の兄、国王ハバルから教わったものだという。
確か、彼女とは双子だった筈。
若くして王に推挙されたという人物で、曰く、当代の巫蠱を据え付けるためだけに祭り上げられた、何の鬼才も持たぬ愚鈍なる傀儡。
更に施政の全てを占星術士たる巫蠱に任せきりにして、国王にも拘らず、各地を巡っては放蕩の限りを尽くしているらしい。
その王たる人物が、何故我が妹ラピスの言葉を――。
レルゼアは顎に縦拳を当て、殆考え込んでしまっていたけれど、実は兄から聞いたというのは態の良い逸らかしで、フィーカの遊び心だった。
それは将来、レルゼア自身から彼女に教えられる事だったから。
謀ろうとする意図は無く、ほんの少し戯れとして方便を施しただけの事――。
「あの……そこって、凄く大変なところ、なんでしょうか……?」
ベッドに腰掛けていた自分に対し、リテュエッタが近付いて来て、不安そうに顔を覗き込んで来る。
レルゼアは即座に取り繕った。
「あ、ああ、済まない……少しだけ不思議な湖だが、とても安全な場所だ。ここからなら、一日か二日程だろう」
イヴナードの北、赤火山脈の麓に広がる鬱蒼とした森を少し入った所に位置する、スレイ川の水源の一つ。
そこでは何故か月だけが湖に映らないため、〝朔月湖〟と名付けられていた。
以前は巨大な大嵐の魔狼らの水場、また浮蝕に覆われていた時は幻惑の人魚まで多数棲息していたらしい。
ただ騎士国イヴナードが興り、イヴニスの加護を得てからは、至って平穏な場所に生まれ変わっていた。
一般的には避暑地として、軍部では初心者向けの野営地及び水難訓練の場所として広く親しまれていた。
その他、長石を始めとした様々な鉱物や薬草の採取地としても知られており、特にこれといった危険は想定されない。
寧ろ騎士国の民なら一度は訪れた事がある位に平凡な場所だったから、一体そこからどうやって双頭竜の元に至るのか、逆に皆目見当が付かない位だった。
そうした事情を洗い浚い少女に伝えると、
「あのフィーカさんが態々教えてくれたんだから、きっと何か有るんだと思います……悪戯っぽくて、掴み所も無くて、凄く変な方でしたけど……」
そう言って苦笑を浮かべ、尻窄みがちに彼女の事を高く評価する。
僅かな時間ではあったけれど、レルゼアにとっても、特に無闇やたらと他人を陥れたり、誣言や奸計を弄するような人物には到底感じられなかった。
至って無害で無邪気な悪戯心は、多々あったようだが。
「それに……そんな風光明媚な場所なら、そんなの関係無しに、ちょっとだけ行ってみたいな」
いつになく直截的に強請られたので、昨晩酔い潰れていた術士の男は、内心少し動揺する。
進むべき道に悩んでいた彼としても、善は急げとばかりに飛び付きたいところだったものの、漠然と何かが気掛かりで、心の片隅にぼんやりとした小さな痼りが残っていた。
ただ頭を搾り続けられるような疼痛に苛まれ続けていたため、それ以上は思考が回ってくれない。
常時心配そうな彼女の奨めに従い、出立は明日以降に延期し、今日一日は素直に休息を取る事にした。




