表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
3/13

第2章 フローマと銀の手の巫女 (前編)

日課のお勤めに向かうため、ロレアは少しだけ早足で、他の女性神官らと寝泊まりを共にしている大聖堂の別館を後にした。嫋やかな桃色に染まった髪は、襟首がほんの少し見えるくらいで丁寧に揃えられ、彼女の歩調に合わせて忙しなくふわふわと揺れている。オルティア大教国の皇都グラドリエル、更にその中心部、フローマ大聖堂とその周辺が彼女の世界のほぼ全てだった。されど彼女には外界への羨望や興味などこれっぽっちもなかったから、それで不自由はしていなかったし、寧ろ"治癒巫女"としての厚遇には満足していた。ただ1つ、あるとき彼女を救った謎の男の存在を除いて。


もう10年ほど前になるだろうか。そういえばあの時も、こんな濃灰色の曇天だった。


彼女は生まれながらにして奇跡の手を授かっており、しばらくの間は自身でそれが制御出来なかった。それは人知を越えた神に近しい"癒しの力"を齎し、触媒や贄、祈祷、魔術の陣といったものは何一つ要らない。奇跡の手で軽く触れると、忽ち深い傷は癒え、疾病は霞みの如く消え去り、歳相応の健康な身体になる。見かけ上は、太古の昔にあったという魔法そのもの。怪我に限らず慢性的な疾病すら治せてしまうため、或る意味それを上回るものとすら言える。但しこの奇跡は魔法よりも深い代償が必要で、彼女は怪我や疾病を"穢れ"として全てその体内に取り込んでしまっていた。詰まるところ、怪我や病気の質的な変換と移動。かつての治癒魔法であれば、魔力といった謎の力の消費、一時的な精神の損耗だけで済むようだが、彼女の持つ奇跡の力は、まるで聖女の様に、ただ相手の苦しみをそっくりそのまま引き受けるだけのものであった。


また制御できないという事は、仮に触れればその意思に関係なく、誰彼構わずどんな穢れをも取り込んでしまうという事。多少の布によって隔てられていても、その事は大きく変わらない。逸早くこれに気付いた当時の司教レドラスは、幼い彼女を大聖堂に引き取った後、出来る限りその存在を匿い、養ってきた。レドラスは彼女の力で運良く死を免れた最初の人物で、陰ながら奇跡の子を独占しているといった類の誹謗や中傷は絶え間無いものだった。生来心臓の悪かった彼に誤って触れてしまった幼き日のロレアは、その直後から何度も何度も胃液の如く血を吐き続け、その後1週間以上もの間高熱に魘され続けた。何とか一命を取り留めたものの、敬虔なレドラスを以てして、何故自身ではなくこの幼気(いたいけ)な少女を苦しめるのかと、初めて聖母神フローマに恨み事を漏らし、天に唾を吐いたものだった。それでも何とか彼女を護りながらに1年を過ごして分かった事は、穢れは時間と共に徐々に浄化され薄らいでいくようだが、深刻な穢れを受けた時は、吐血や下血によって体外へと排出を急速に促している様だ、という事くらい。特にその時期のロレアは初潮を迎えていなかったため、体内に澱のように沈殿していく穢れの除去には相当な時間が必要だった。酷い時には、本人すら気付かない内にはらはらと血の涙を流し続けている。


そしてある日突然、幼い彼女は奇跡の発露を自身の意思で制御出来るようになった。


(…あの時は本当に嬉しくって、レドラスお爺ちゃんの頬をぺたぺたと触り続けていたっけ──)

午前のお勤めを終え、軽い昼食を挟んで午後のお祈りに向けた支度を始める。然し、今日は何故こんなにも昔の事ばかり思い出すのだろう。今では月経の周期に合わせ、お勤めの負荷を調整して貰うくらいには(こな)れたお仕事になってしまっているのに。穢れによる負荷、即ち恒常的な心身の苦痛についても、全く存在しない方が非日常となってしまっていた。


彼女を引き取った歳の彼は中老で、伴侶もなく、従って孫どころか子も持たなかったが、ロレアの事は孫の様に目に入れても痛くないほど溺愛していた。ただ幾ら溺愛しているとは言っても、彼女も相当に幼かった事から、躾などでの些細な衝突は日常の事だった。何が原因だったのか、当の本人らですらもう憶えてはいない様だが、年端も行かない少女はある日激しい口論を境に急に大聖堂を飛び出して行った。そして大通りに飛び出し、不意に通り次る馬車に轢かれそうになった。偶然その時、遠い東の騎士国から聖堂補修に係る修繕騎士の使節分隊が訪れており、その中の1人が咄嗟に彼女を庇って左の大腿骨を折る大怪我をしてしまった。小さな少女はこの時ばかりは自身の持つ奇跡の力に感謝し、抱き抱えられたまま苦悶に呻く彼の頬に急いで軽く触れた。然し、"何も流れ込んでは来ない"。改めて怪我に近い方が良いのだろうかと彼の太股辺りに触れてもみるが、それでも何も変わらなかった。何だか薄皮を1枚隔てている様で、おかしな感覚だった。助けた側の騎士はこの時少しだけ自暴自棄に陥っており、この幼子を庇ったまま死んでも良いとすら考えていた。無意識の拒絶が"怪我の移動"を妨げ、結果、ロレアに初めて普通に触れるだけの感覚を齎した。一度経験し、感覚さえ掴んでしまえば、それを意識的に行うのは立って歩くのと同じくらい簡単な事だった。後から聞いたのだが、国使も同然の若い職人を傷付けてしまった事で、レドラス曰く、その時は相当事を収めるのに奔走したらしい。


(──あの人、今頃何をしているのかな)

今にも雪が降り出しそうで、中々降り始めない厚い曇天を仰ぐ。彼の事は名前すら知らないまま。更に10にも満たない幼少期だったため、記憶に残る相貌も曖昧極まりない。


触れるだけか奇跡を起こすか、自身で振り分けられるようになったのは、彼女に取って革命とも言えた。唯一無二である彼女の力は、難病を患った権力者達からすれば喉から手が出る程手に入れたいもの。然もただ触れさせるだけで良いから、これまではどうしても幼い子の命を省みない愚行を防ぐ事が出来なかった。それが或る意味本人の機嫌次第と言える様になり、立場が大きく逆転してしまっていた。ロレアの心根は優しく、当時から我が儘を言うような娘では無かったものの、自らの命を自らの意思で守れるようになったのは非常に大きな変化だった。神経質に両手を石の様に強く握り締めて過ごしていた気苦労が無くなるのは勿論の事、今迄は"息苦しい"を通り越し、呼吸のタイミングすら他人に指示されて過ごしている様な辛く厳しい日常だった。だがこれからは、好きな時に目一杯息を吸い、吐く事が出来る。こんなにも素晴らしい事が他に有るだろうか。


だから、彼は命の恩人。


今ではフローマの再来とまで言われる程、聖女然たる立ち居振る舞いを崩さないロレアだったが、一度(ひとたび)お勤めが終われば、まだ20に満たない、夢見がちな少女となる。生きる事に色々とゆとりが生まれた彼女は、空いた時間に色んな本を読み漁っていた。奇跡の治癒巫女、"銀の手の巫女"として教国から必要とされているのは分かっているし、自身としても生涯それに応えて行く気だったから、レドラスの庇護下に入って以来この大聖堂内で暮らざるを得なかったけれど、物語はそんな彼女に色々と新しい世界を教えてくれた。


特に創作か叙事詩かに関わらず恋物語の類が大好物で、そうした彼女があのイヴナードの若い修繕騎士を"運命の人"と信じ込むのは実に容易かった。あの時からすれば既に薹が立っている年頃なのだろうけれど、それでも彼女の中で彼の時間は止まり続けている。敢えて他の誰かと結ばれてしまっているだろうなんて事は考えもせず、また何時か何処かで巡り逢えたら。きっと、素敵な恋に落ちるんだろうな。そう耽溺して止まなかった。そうした乙女心は忙しない日々の中で浮かんでは消え、消えては浮かび、秋の空の様に移ろい続けていたが、そんな風に過ごしている内、深層心理の奥底に、強い憧れの対象として焼き付いてしまっていた。立場的に出不精にならざるを得なかった彼女が、もし長期的な(いとま)を与えられるのであれば、あの遠い国まで探しに行ってみたいと思える位には。


日暮れまで未だ少し間がある頃、彼女は腰まである銀糸のウィッグを確りと冠って、血の繋がらない祖父に束の間の外出を告げる。

「じゃあまた行ってくるね」

「おお、気を付けての」

薄い鼠色の口髭、更にはふかふかの長い顎髭を蓄え、眉毛や頭髪も伸ばし放題。確かイゾルデの叙事詩(イゾルディアン・サーガ)に出てきた魔法使いというのは、こんな見た目だった気がする。笑い方もふぉふぉふぉと描かれていたそれに近くなり、後は聖杖ではなく大きな樫の杖でも携えていれば完璧かもしれない。彼女の小さな頃は清潔且つ理知的、まるで射殺すような鋭い目付きで、博識な医術師や敏腕の商人達を彷彿とさせていたのに。ロレアが自身の身を守れる様になってからは、徐々にその鋭さは角が取れてしまっていた。


初冬のグラドリエルは日が落ちるのが早い。ロレアは今朝と同様に小走りで、カンテラを片手に馬車へと乗り込み、大図書館へと向かう。質素な木製の客室(キャビン)に入っても吐く息は未だ少し白かった。今日は久し振りに両親に会いに行こうかとも思っていたが、かなり小さな頃からレドラスの元で別居していたため、温かい家族団欒というよりは、どうしても銀の手の巫女様をお迎えした静かな夕食会といった体裁になってしまう。更に今朝はやたらと昔のことが思い返されていたので、一先ずまた何か新しい恋物語でも探そうかという気分だった。


愛ある物語の登場人物に心重ねれば、ロレアは何時でもあの憧れの人に逢う事が出来る。到着までのほんの僅かな間、車窓から改めて空を仰ぎ見た。今日は西の浮遊大陸(ステアフロート)も厚い雪雲に遮られてしまい、所々しかその姿を見せていない。


彼女の特徴的な桃色の髪は、オルティア大教国の中でも類を見ないどころか、世界広しと(いえど)も、現在過去含め他に例など無かった。オルティアの人々は概ね灰色じみた銀に近い体毛をしているが、彼女の頭髪だけが例外だった。眉といった体毛や目の色素などはあまり代わり映えが無く、髪色だけはその奇跡に呼応し、白子症(アルビノ)虹彩異色症(オッドアイ)の様に変異してしまったのであろう。ロレアは希少な能力とその立場により、これまでに何度か、少なくとも片手で数えられる位命を狙われた事が有ったものの、逆にその特徴的な髪色さえ上手く隠してしまえば、市井に紛れて出歩くは比較的簡単だった。以前は侍女に頼んで何冊か定期的に届けて貰っていたのだが、大聖堂は人の移り変わりが激しく、既に読んだ書物をあれこれ伝えるのも面倒だし、書籍の選別傾向から、聖女様の神秘的なイメージが崩れてしまう事を危惧して、いっそ手ずから書架まで見に行きたいと随分前に編み出した変装方法だった。ただ守りたかった彼女自身の聖女像については、当のロレア本人を除くと比較的疎遠な者達に限られ、本当はラブロマンスが大好きな可愛らしいお姫様というのが専ら周囲からの口外されない心証だった。


不断(ふんだん)に使われた鐵材に因って非常に動かし難く、何時も面倒に思っていた荘重な大図書館の扉を解き放ったロレアの先には、分厚い外套を脇に抱えた先客の男がおり、近くの司書に話しかけようとしている所だった。その男を見て、何時も伏し目がちだった彼女の円らな瞳は大きく見開かれ、何だか胸の奥底の柔らかい部分をいきなり鷲掴みにされた気分だった。そうしてつい、反射的に声を掛けてしまう。

「あっ…あの!!何かお探しでしょうか?」

彼女は仕事着である真っ白で緩やかな祭服を身に纏っており、翻って先に話しかけられていた男性司書は煉瓦色で角の整ったカッチリとした制服。ただこの利用に慣れない先客は、これらの違いに明確な意味を見出せず、実年齢より一回りは幼く見える彼女の方を顧みて、きっと司書見習いか何かなのだろうと勝手に推測していた。

「……よ、よければそのっ…ご、ご案内をっ」

何かと吃りがちだったが、その声色はまるで小さな鈴の音ようで、透き通った心地良い響きだった。男性司書は必死そうな素振りの"常連"を一瞥し、ああ知り合いだったかとばかりに透かさず中座する。この時は既に人が少なくなり始め、早めに撤収の準備を行いたいといった気も漫ろな態度を隠し切れていない。然し厳つい見た目のこの司書が決して怠慢だった訳ではなく、それだけ彼女がこの建物で顔が利く程通い詰めているというだけだった。

「そうか、なら──」

先客は顎に縦拳を当てながら逡巡する。その刹那、彼女は彼の出で立ちを(つぶさ)に観察し、

(──間違いない、この人はイヴナードの人だ)

と、内心当たりを付けていた。

室内は明かりを抑え気味で、厚いカーテン越しに刺す陽光もほぼなかったため、彼の顔付きは杳として知れなかったが、その所作から判断するとあまり若くはない者だろう。また数年前に生じた教国と騎士国とのちょっとした軋轢から、最近はめっきりイヴナードからの客人を見掛けなくなっていた。

どうしよう。やっぱり今日は"そういう日"だったんだ。あの人の事、何か分かるかな。何から尋ねよう。親切な人かな。何をしに図書館(ここ)に来たんだろう。などと一人歩きし始めていた思考から一転、

(……そういえば私から案内を申し出たんだっけ)

そうしてふと初心に立ち返った時には、彼の言葉が既に幾つも続いてしまっていた。

「……聞こえているか?緊張しなくても良い。もし慣れていないなら他に──」

申し出を丁重に辞退されそうになり、彼女は慌てふためく。

「いっ…いえ!大丈夫です!不死の英雄が出てくる叙事詩…でしたよね?それでしたら」

ほんの少しばかり落ち着きを取り戻しながら、2階の奥、彼女のお気に入りが並ぶ棚の向こう側を手の平で指し示し、司書らのそれより多少なりとも慇懃に、案内をし始めた。


レルゼアは少しばかり辟易していた。先程から手に取ってパラパラと中身を捲り確認しているが、その間も白服の少女は付きっきりで離れて行かない。然も、1冊につき少なくとも3件は(つらつら)と質問が飛んできている。暫く投げ遣り気味に応じて粗放に相槌を打っていたが、曰く、

大図書館(ここ)には来たことがあるのか。──厳密に言えば否定(ネガティヴ)

ではグラドリエルには以前?──肯定(アファーマティヴ)

イヴナードから来たのか。──肯定、このとき横目に見ると、彼女は心から嬉しそうな微笑みを浮かべていたのが印象に残っている。

この冬の初め、何のために此処へ。──見ての通り、調べ物のために。

1人で来たのか。──少し間空け、否定。

誰と来たのか。──"フローマに助けを希う者"

どうやって来たのか。──空路、騎乗用の飛竜で。

陸路ではなく?──肯定。

同行者はイヴナードの者?──否定。

何を生業にしているのか。──見ての通り、術士を。

具体的にどんな職務だった?──沈黙。


全て可愛らしい少女としての言葉遣いだったとはいえ、内容だけ切り取ってみれば、軍の尋問か何かといった類だった。この純真無垢に見える長い銀髪の少女は、まさかこの図書館の警邏なのでは?と強く訝しんでしまう位には。然しながら質問に応じる度、淡い薄墨色の瞳を無邪気にキラキラと輝かせ、うんうんと頷いたり、時に首を小さく振ったりして悩んでいる。そうした様子を見て、純粋な興味、ともすれば何かのごっこ遊びに興じている様にしか見えなかったから、一切拒絶してしまうのも酷く躊躇われていた。


最後の質問への応答がなくなってから、彼女は頻りに小首を傾げ、こちらの書を捲る指先をじっと見詰めて答えを待ち続けている。聞き漏らしたのか、本の内容に集中しているのと慮り、甚だ遠慮しているのだろう。ただ彼の方は、そんな彼女を横目に、眼前の書に集中など出来ようもない。やれやれとばかりに漸く顔を上げ、逆に尋ねてみる。

「私の事がそんなに気になるのだろうか──」

「はいっ!!とっても!!」

語尾まで言い放つ前に、喰い気味に一段と愛らしい声で勇ましい答えが響き渡った。ただ、先程から声量の調節がかなりおかしい気がする。まるで、緊張気味な愛の告白を受けている様にすら思えてしまう。時間も時間だったし、元から人気(ひとけ)のない古典系の書架だったようで、近くには自身と彼女しかいない。もし他に誰か居たのなら、蕭条としたこの館内に於いて、相当な顰蹙ものだったであろう。

「……イヴナードの騎士がそんなに物珍しいか?」

「は、はいっ!それで…あの…その…ど、どんなお仕事をなさっているのでしょう、具体的には──そう!建築!ですとか…ご興味は、ございます、でしょうか…」

途切れ途切れ、語尾も明白(あからさま)に窄んでしまい聞き取り辛い事この上無かったが、それ以上に質問の意図が杳として汲み取れない。まさか、間者に対する詰問の仕上げではあるまい。果たして見合いの場では、こうした遣り取りが行われているのだろうか。彼には一切経験はなかったが、故国の、特に名家ではよくある話だったので、ふとそう思い至ってしまった。ただ彼女の場合、お互い少しずつ心の距離を詰めて行こうといった姿勢は全く見受けられず、ただ単に"聞き取りたい何かがある"だけ。そんな風に感じられていた。

「取り敢えず、鉱石関係なら何でも一通り。宝石類の鑑定、石材調薬、魔術効果付与(エンチャント)とそれに係かる修復、冶金、石切場での作業、他には確かに建築物の修繕と設計補助に携わった事も有るには有るが…」

最後は苦々しい思い出だったので軽く流そう試みたが、無駄だった。


(──皇都(ここ)に来たこともあって、以前建物の修繕にも携わった事が有って、そんなそんな……どうしよう、どうしよう…今日は本当に福音の日なのかな)


実のところ、ロレアの探し求め、恋い焦がれていた相手は、当のレルゼア本人だった。当然彼女はまだその事に気付いてすらいなかったが、大きく顔を綻ばせ、彼の余っていた左手を両手で強く握り締めている。

「…じゃあじゃあ、10年くらい前、イヴナードからこちらの大聖堂に、何人かでお越しになった事はご存じでしょうかっ?」

もう言葉の端々からも狂おしい程の喜び振りが漏れ出し始めてしまっていた。そうして一足飛びに核心へと近付く問いを投げ掛けてくる。彼女の中では正に大事件で記憶に刻み込まれてこそいたが、一般的にはそんな些末な国交行事など、直接的な関係者しか知る事も無かったから。


目線を少しでも近付けようと、また早く答えを教えて欲しくて、彼女は無意識にぴょん、ぴょんと何度も小さく飛び跳ねていた。余りの警戒心の無さに、成る程あの事かと、レルゼアは却って冷静になっていた。ここ暫くの間、似た様な年頃の娘と行動を共にしていた事も落ち着いた精神的対処の強い後ろ楯となった。

「ああ。その事なら知っているが」

「──!!」

彼女は声にならない長い呻きを上げ、益々火照った頬を紅潮させていった。

「──なら、それなら、あのとき大怪我をなさった方は…」

矢継ぎ早に続けようとするが、それは即座に制止させられてしまう。

「ああ、あいつか。少し前に死んだよ」


レルゼアは何となく、そう訊かれるであろうと確信していた。何故ならあの後は恙なく補修が行われたと聞いており、人目を惹く事件と言えばあの事くらいだった。彼は到着したばかりなのに、そのまま担がれる様に強制送還されてしまい、大聖堂の補修には一切関わらなかった、否、関われなかった。


当の本人としては、あの件に関して何かしらの誹りこそあれ、褒め(そや)される事など決して無いと考えていた。実は助けた、助けられたというのはロレアによる記憶の美化が少なからず含まれており、あの件は9割方若い修繕騎士のうっかりだった。彼はその時、心此処に有らずで、勢いのある車輪に半身が巻き込まれ、偶然近くを走り過ぎようとしていた幼子を抱えて保護した体になってしまっただけだった。世間体を気にしないレルゼアではあったが、流石に遠い昔のゴタゴタを蒸し返されるのは勘弁して欲しかったので、ここで初めて"先手"を打つ事にしたのだった。


「──え…?」

先刻異国の騎士を目にした時よりずっと強烈に、彼女はいきなり心臓を握り潰されたように感じ、(はた)と息を飲んだ。

「…え?…あっ…」

彼女にとっては永遠とも思える時間、端から見て暫くの間固まってしまっていた。頭の中は一気に洗い立てのシーツのように真っ白になり、而して視界は徐々にぐにゃりと歪んでいった。大きくて円らな目を見開いたまま、ぽろぽろと、大粒の涙が零れ始めていた。その瞳は残念ながら彼を映しつつも彼を捉えてはおらず、ロレア自身は落涙し始めている事にすら気が付いてはいなかった。


旅の男は、軽薄な自身の発言で不意に彼女を泣かせてしまった事を悔恨する。

「……(いや)、実はもし訊かれたら、そう答えておくよう前々から頼まれていて──」

彼女は胸を穿った痛打の余韻により、その後に続けられた訂正と謝罪など頭に入って来てはいない。奇跡による穢れ以外、生来の純真さに引け目を感じてか、精神的な悪意に晒される事の全く無かった彼女は、まさかこの男が逸らかすために先んじて嘘を浴びせて来たなどとは露とも思わなかった。徐々に動き始めた頭の芯は、賢しくも、後からの取り繕いの方が優しい嘘だよと冷静に彼女に対して告げていた。悲劇にも満たない悲恋なんてよくある話。沢山"見て"きたのに。どうして自分に当て嵌らないなどと愚かにも思い込んでしまっていたんだろう。浅はかで、迂闊で、道化にも程がある。


彼女の頭の中は今こんなにも底冷して穏やかなのに、先程来何処かから聞こえてくる謎の嗚咽は一向に止んでくれない。両の拳が勝手にグリグリと溢れる涙を拭う。ロレアは自然と立っていられず、ゆっくりと座り込んで蹲り、膝の間に顔を(うず)めて外界の情報を遮断した。旅の男は暫くの間躊躇いがちに、あえかな少女の背中を時折摩ってやっては、無言のまま見守っておく事くらいしか出来なかった。


一頻り涙が涸れ、反射的なしゃくり上げも収束してきた頃合いで、漸くロレアは虚ろげな顔を上げる。経ったのは四半刻程度だろうか。彼女は傍らの男に促されるまでもなく、1人よろよろと立ち上がった。既に閉館の時刻が間近に迫って来ている様で、レルゼアは思い切って"今生の別れ"とならないよう、話し掛けてみる。

「……私の名はレルゼア。中央広場の鈴蘭亭という宿に暫く滞在する予定だ。もし詳しい事を聞きたいなら、後日訪ねて来て欲しい。知っている事は全部話そう」

司書見習いと思しきこの少女は、多少落ち着きを取り戻したように見えたが、視線は未だ酷くぼんやりとしていて、自身の言葉が届いた様には見えなかった。仮にこれが少女の一芝居、果ては何かの謀略か何かだったとして、一旦自らを詐称する事も考えたが、先程来"彼女の大切にしていた何かを土足で踏み躙ってしまった様な感覚"が、これ以上嘘を重ねる事を許さなかった。気高き妹は自身の涙など一切見せなかったし、女性の涙に慣れていないとはいえ、不用意にも程が有るだろうと内心彼は自省していた。

「……私は、"ジゼル"」

翻って彼女の口から発せられたのは、本の借りる時に何時も使っている偽名の方だった。この場で無意味に"銀の手の巫女"という身分を明かしてしまうといった愚直さはなく、その点で言えば、この術士より衰弱しきった少女の方がに強かで、一枚上手(うわて)だった。それでも彼女は大海原で航路を見失ったかの如く途方に暮れており、何とか去り行く彼に対して追い縋る様に問い返す。

「──1つだけ。あの方は…あの方は本当にまだ生きていらっしゃるの?」

少女は祭服の前合わせの所を、まるで赤子が差し出された指を握る様に緊く握り締めている。(よし)んば否定されたとしても。そんな諦観気味な面持ちで彼の背中を見詰めていた。

「そこは…間違いない」

内心頭を掻きながらそう答えておく。もし仮に何かの策略なら、本名を名乗った時点で直ぐに付け入って来ただろう。彼女の平凡な反応に少しばかり安堵しながら、済まなかった、と改めて心の中で付け加える。何れにせよ、レルゼアは彼女が何とか自力で立ち直ってくれる事だけを祈っていた。


「私、その一言が凄くショックで…取り乱して何時の間にか泣いちゃってて……」

その夜、ベッドの縁に腰掛けたリテュエッタの隣に銀の長い髪の少女が仲良く並んで座っていた。少女は先程の事案を思い出し、再び激しくなる内なる情動によって強くその瞳を滲ませている。目元から数滴、それが零れ落ちる前にゴシゴシと両手で強く拭うと、また堰を切って止まらなくなってしまっていた。冗談みたいに無心な躱され方だったが、それでも今の涙は、深い安堵と喜びから生じているものだった。リテュエッタは健気に過ぎるこの少女の代わりに、ザックリと音が出そうな位の勢いで、鋭く深い棘の言葉を遠慮無く突き刺してくる。

「レルゼアさんがこんなにも女誑しで、女泣かせの方だとは思ってもみませんでした…。何だか臆病そうな人とばかり思っていたのに…この先ずっと、軽蔑してて良いですか?」

この場にたった1人の男の方を向き直って、ニコニコとのっぺりとした笑顔で佇んでいるのが不穏で仕方無い。彼女はそれこそ再び泣き出した"ジゼル"に対して深く抱擁し、慰めてやりたかったのだが、改めて自身の病の事が頭を過ぎり、(すんで)のところで思い留まる。対するレルゼアは、少し離れた木製の椅子に腰掛けたまま、居たたまれず視線を外して窓の外にある冬の真っ暗な空を見遣っている外無かった。まさか彼女があの後直ぐ、宿に戻って丁度夕食を摂り終えた頃にもうやって来るだなんて、想像の域を遥かに越えてしまっていた。そして先程から続いているこの話題は、そろそろ3周目に入った頃だろうか──。


少女の来訪に気付くと、彼とリテュエッタは食後の寛ぎを早々に切り上げて部屋へと戻り、過去の失態を洗い浚い説明する事となった。今度は落ち着いてゆっくりと話を聞いていた彼女は、図書館での冷え切った涙とは打って変わり、今度はぽろぽろと春の様な涙を零し始めた。その意味を理解しきれていないリテュエッタを尻目に、騎士国の術士が所在なく天井を見上げていると、彼女は

「良かった…本当に良かった…」

譫言(うわごと)の様にそれだけを繰り返し始めてしまう。大聖堂修繕の使節分隊に関する事の顛末に限って説明していたのだが、リテュエッタが心配そうな顔で何か言いたげにこちらを見遣って来るので、已む無く先の図書館での一件についても説明せざるを得なくなってしまっていた。やがて訪れた少女の口からも、男の安易な虚言に対し何故ここまで深刻に反応したのか、その経緯(いきさつ)が歴々と語られた。

「……そっか…それは大変だったね…」

リテュエッタは彼女の身空に甚く同情し、半目がちにレルゼアを非難しつつ、直接触れられないもどかしさを感じながら、言葉だけでジゼルを慰めていた。ここまでが約1周。

起こった事案とその顛末、積年の想いに対し、事実周りの簡素な説明のみで余りに駆け足だったから、各々反芻し、逐一振り返る様に2周目。

そうしてジゼルの淡い憧憬と想いが再び顔を出し始め、彼女の口からより一層詳しく、まるで何処ぞの見飽きた恋物語の様に鮮やかに語られ始めたのが今の3周目──。


評価をするにはログインしてください。
この作品をシェア
Twitter LINEで送る
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

この作品はリンクフリーです。ご自由にリンク(紹介)してください。
この作品はスマートフォン対応です。スマートフォンかパソコンかを自動で判別し、適切なページを表示します。

↑ページトップへ