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5章-5 閉じる願い

「…………気が、変わった」


 まるで冥府神に乗せられたようにも思え、少しだけ口惜しくもあったが、きっと今が人としての最期を迎えられる最初で最後の機会だと、そう強く確信する。



 何の巡り合わせか、これまでどうしても手を伸ばす事が出来なかったものまで、彼等は与えてくれた。


 人として、ここに繋ぎ止めてくれた。


 もし今を逃してしまえば、神でも人でもない禍々(まがまが)しき存在となって、未来永劫生き続けてしまう事になるだろう。


 英雄イヴニスは一拍を置き、その言葉を口にする。




「――――死を(・・)望もう(・・・)



 そう宣言した瞬間から、突如横殴りの猛烈な睡魔が襲い来る。


 半ば予想していたものの、即座に死が侵食(・・・・)してきた。


 歪み掛けた視界に入る三人は、今し方発した言葉に、強烈な不安を呈している。




 ああ、願う前に、礼の一つでも伝えておけば良かった。


 そう少しだけ後悔する。


 ――全く、そう不安げな顔をするな。


 お前達の心配くらい、当然分かっている。


 あの若い方の男を(ののし)った時、あちらは形式的にも、謝辞をくれたというのに。




 死を願うのは、ここに居るかつての動乱に消えた名も無き男、ただそれだけ。


 お前等の知る〝英雄〟には、決してそう願わせない。


 決して(・・・)



 力と誓い(・・・・)が全てのこのイヴナードで、その()たる男が、最後に誇り高き心を、誰にも負けない意地を見せずしてどうするというのだ。




 彼は、自身の底から染み出てくる微かな弱気を一笑に付す。


 四肢から急に力が抜け、目も耳も、五感の全てが一気に衰弱し、耄碌(もうろく)していく。


 もうまともに声を出す事すら叶わない。


 何も見えないし、何も聞こえない。


 意識を真っ(さら)に塗り潰すような(おぞ)ましいまでの睡魔と、浮遊感もなく中空に閉じ込められて行くような感覚に抗い、何とか唇を強く噛み切って意識を繋ぎ止める。


 ()うに痛みすら感じなくなっているものの、何とか思考の渦をこの場に押し留めようとして、必死だった。




 失った四百年を一瞬で体内に取り込むかのような、尋常ではない倦怠感が、自身の存在ごと(まと)めて押し潰しに来る。


 しかし――――依り代を失ったケーリュケイオンの力が自身と共に消失など、そんな事は絶対にさせない。



 あのぶっ飛んだ神の()(わざ)が、この取るに足らないたった一人の男と共に逝くだなんて。


 〝生の力(・・・)〟が死ぬ(・・)だなんて。


 余りに滑稽過ぎるだろう?



 消え去るのは、俺だけで良い。


 名も無き、ただ誰かを忘れられなかっただけの、詰まらない男。




 メルクメリー、イリージア、愛しいお前達が生きたこの地と営みを、決して(つい)えさせやしない。


 英雄に与えられた神の力が、加護が、築き上げてきたその歴史が露と消えるのは、この地に住まう者達の全てが、そう望む時だけ(・・・・・・・)だろう。



 しかし、そんな日など金輪際来ないし、来させやしない。


 今へと続く末裔らよ、ここを護る柱は、必ずここに置いていく。


 何が何でも、絶対に。


 神の力よ、この地の加護よ、この大地そのものを、皆の心を依り代に、皆の心の中にこそあれ。



 さあ、栄華の神エファーシャよ、今だけはお前に願ってやる。


 その名の通り、改めて〝栄華なる日々〟を、この地に(たま)え。



 矮小な人間一人を(ほしいまま)に、(とこ)しえに弄び続けるなど、もうそろそろ飽いた頃だろう?


 いいか、耳の穴をかっぽじって()く聞け。



 ――――英雄(・・)は、死など望まない(・・・・・・・)




 生温かい感覚が、身体の芯からズルリと抜き取られて行く。


 心も身体も、まるで凍り付くように寒く、それでいて何も感じない。


 そうして思念の最後の一滴が死の海に溶け落ちる時まで、彼は強く念じ、止観し、そう深く祈り続けた。





 先のイヴニスの言葉を聞き、黒髪の少女は両手を口元に当てながら、瞳を見開いて唖然としていた。


 今し方、この青年は何と述べたのか。


 直ぐに理解する事など到底出来なかった、(いや)、理解する事を理性が強く拒絶していた。


 レルゼアもガヘラスも酷く動揺し、視線を泳がせている。



 グラム家初代当主の名を聞いて、憑き物の落ちたような顔をし始めた時、何となくおかしな予感がしていた。


 ただその時感じ取れた彼の決意は、決して後ろ暗いものでないと、リテュエッタはそう自分に言い聞かせていた。



 かの言葉の直ぐ後、(かす)れてもう声にもならない声で、


〝――心配するな、英雄にはそう願わせない〟


 ほんの少しだけれど、かつての優しい彼の声で、確かにそう聞こえた気がした。




 イヴニスが冥府神ラズラムにその望みを提示した直後、彼が死の侵食と戦っている時。


 その双眸は(またた)く間に深く(くぼ)み、頬は()(びと)のように()け、髪は殆ど抜け落ち、身体中の肉が剥がれ落ちていく。


 骨が皮がぴったりと張り付き、まるで今まで生きた永い永い年月を一気に収束させるように、醜く変化していった。


 彼を繋ぎ止めていた白く輝く魔人(ネフィリム)の鎖は、より一層光を強く(まと)っていく。


 二つの鎖は、彼が変化する最中も、まるで大きな両手で(すく)うようにして吊し上げ続けていた。




 殆ど(むくろ)となってしまったそれ(・・)は、繋ぎ止められていた右手を強引に手枷から引き剥がすと、指先の全てを左胸に突き立てた。


 ドス黒い血に染まった手が、透明に(きら)めく欠片を引き抜くや否や、光輝く鎖が大蛇のように大きくうねり始める。


 かつて青年だったものは、微かに震えながら掴んだ欠片を天に掲げると、鎖は彼の左手も解放し、透明な欠片をそれぞれ両側から捕まえるように咬み付いていた。



 英雄だった青年がズルリと地面に倒れ込むのと同時に、欠片を掴んだ二つの手枷は甲高い音を発しながら(まばゆ)(かく)(しゃく)し、弾ける様な音と光の渦を撒き散らした。



 やがてそれが消え去る頃には、まるで天から吊り下げられた一つの美しい首飾りのように姿を変えていく。


 そうして垂れ下がる宝飾部分(ペンダントトップ)は、幾つもの柔らかい光の()となり、まるで太陽の(かさ)のように温かく輝いていた。




 彼等が(まばゆ)さを避けるために顔を覆っていた前腕や外套(がいとう)を払うと、その光景を前にし、言葉を失う。


 最初に行動に出たのはレルゼアで、口の悪い青年だったものの元へと急ぎ駆け寄った。



 (ふく)()する彼の遺骸を持ち上げようと試みるも、その身体は衣服の中で()うに朽ち果てており、まるで()(じん)のように音も無くゆっくりと瓦解していく。


 その(がん)()からは、濁った(のう)(じゅう)のようなものが一筋、垂れ落ちていた。




 ガヘラスはそれを横目に、魔人(ネフィリム)の鎖の方を眺めながら、不安そうに呟く。


「イヴニス卿…………貴方は双頭竜の力から、無事逃げ(おお)せたのでしょうか…………」



 当然ながら、それに答えられるものなど無い。


 永劫の夢の中に居た英雄は、たった今、永劫に人々の夢の中へと消えていった。




 そうして近い将来、加護の委細を知る者らから、今日この日こそが真のイヴナードの始まりの日であると――かつて大賢者や王妃らがその日が来るのを切に望んでいた、(いしずえ)たる英雄の犠牲を必要としない、第二の始まりである、と。


 歴史の影でそう語り継がれていく事を、この時の彼等は、まだ知らずに居た。




 * * *




 三人が呆然としながら各々の胸に去来するものを確かめていると、やがて後ろから、玄室(げんしつ)の扉が重く開く音が聞こえてくる。


「――――さて、頃合いのようじゃの」


 (がん)()無き娘子と(おぼ)しき愛らしい声が響き渡ると、レルゼアは膝の砂埃を払って急ぎ立ち上がり、ガヘラスと共に警戒の意識を向けた。



 扉には全身を覆う(じゅう)(がい)(まと)った大男と、その孫にしか見えない小さな童女(どうじょ)が並び立ち、こちらに向かって来る。


 大きく口髭を蓄えた初老の巨漢は、禁色(きんじき)である(こん)(じょう)外套(がいとう)に身を包み、腰からは剥き身の波刃剣(フランベルジュ)を提げていた。


 加えて鋼鉄の胸当てには、天命(オーダー)騎士(ナイト)たる証である大きな太陽と天秤の紋章が描かれている。



 一方傍らに従う孫娘の如き幼子は、そこかしこに華美な装飾の施された緩やかで真っ白い絹の衣装を身に(まと)っていた。


 両腕から伸びる(たもと)は足先に届きそうな位で、両肩や腰の辺りに深い切り込みが入れられており、微かに琥珀めいた濃い象牙色の肌が(あら)わになっている。


 長く艶やかな(くろ)(つるばみ)の髪は大きく結い上げられ、鮮やかな瑠璃の差し色が時折顔を覗かせていた。


 更に幾つもの木製の腕輪や、摩訶不思議な紋様の髪飾りなどを身に着けたその姿は、どこか(まじな)い師のようにも感じられた。

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