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5章-3 王妃の残影

「礼を言います、イヴニス卿…………では、そろそろ戻りましょう」


 どの位の沈黙が頭を(もた)げていたであろう。


 そう切り出したのは、まだ悲嘆さの抜け切らないガヘラスだった。




「さて、聞く事聞いて用済みになったら、とっとと退()くってか。神々のクソ共が、さんざっぱら人間共(・・・)をぞんざいに扱って来た理由が、少しだけ分かった気がするな」



 両腕を繋がれたままの古き英雄は、途端に鼻白(はなじら)みながら、濁った硝子のような(まなこ)で、そう吐き捨てる。


 そうして傍らにはもう誰も居ないが如く、再びだらんと弛緩し、訪れた時のように浅い眠りに就こうとしていた。



 それを見て先に(きびす)を返し始める若き騎士と、()(じろ)ぎ一つしないまま立ち尽くす鉱石術士。


 そして黒髪の少女は、その術士を祈るような瞳で不安げに見詰め続けていた。




 レルゼアは努めて平静に、二人へと告げる。


「……私にはもう少しだけ話したい事がある。だから二人とも、先に部屋の外で待って居てくれないだろうか」


 リテュエッタは予期していたそれを聞き、彼の外套(がいとう)を両手で懸命に掴み、大きく首を振ってから非難の視線を送った。



「駄目……ですっ、私も居ますっ……! それにガヘラスさんだって……一緒に聞き届ける権利があると思います!」


 必死さが思いの(ほか)大きな訴えとなり、意表を突かれた若き騎士の歩みが止まる。



 術士と少女はお互い強い視線だけで、声無き声で牽制し合っており、何事かとガヘラスは立ち戻りながら、動向を窺った。


 剣呑(けんのん)とした静寂が訪れる。




 自身の瞳に真っ直ぐに射抜かれた竜髄症の少女は、これから自身が()そうとする暴挙を敢えて止めようとせず、自身もここに残ってただ聞き届ける、そう告げた。



 この黒髪の少女の意図は、まるで真っ白なミルクに落とした水滴のように判然としなかったけれど、外套(がいとう)をぎゅっと掴まれ続けていた男はやがて観念し、短く嘆息する。


 彼女の瞳に映る自身は、今どのような表情をしているのだろう。




 そしてかの英雄イヴニスに向け、無拍子に言い放った。


ニベル(・・・)殿から……貴殿に言伝(ことづて)(たまわ)った」


 (やつ)れた青年はようやく自身に掛けられた言葉に呼応し、気怠げに右目を薄く開き、無言で続きを促す。



「〝死を願わば与えん〟、貴殿にそう(こと)()けよ、との事だ」



 レルゼアは後戻り出来ない恐怖を今更に感じ始め、四肢を強張らせる。


 一方それを聞いていた隣に立つ若き獅子ガヘラスは、その言葉の意味する所まで瞬時に理解出来ず、一瞬思考停止する。


 やがて彼の騎士としての本能は、一足飛びにそれを悪と断じ、故国の敵と見倣(みな)し、咄嗟に術士の胸倉に掴み掛かっていた。



「――なっ! 貴方は一体、何と? 正気かっ!?」


 この国に加護を(もたら)す英雄に、死を(・・)


 ――意思薄弱そうなこの男は、やはり、逆賊だったか。


 最愛の恋人の兄だからといって、軽々(けいけい)に信用し過ぎていた。油断し切っていた。



 自身はまた同じ過ちを、真実を見誤って(・・・・・・・)しまったのかと、思考はただただ渦巻く怒りと悔恨(かいこん)で紅蓮に染まって行く。



 若き騎士が鉱石術士の首元を掴み片手で吊し上げていると、かつての英雄は俯いたまま、その口元は笑いを(こら)えきれず、次第にくつくつと薄い音を漏らし始める。




 やがてそれは高らかな(こう)(しょう)へと変貌し、最後はまるで気が触れたように、声を上げて大きく笑い続けていた。


 しばらくの間、玄室には彼の笑い声だけが()(だま)する。




 そうして一頻(ひとしき)り笑い終えた後。


 彼は鈍色(にびいろ)(しな)()れた髪の隙間から、ナイフで切り裂いたような双眸でこちらをギロリと射抜き、()(そん)な来訪者らの事を見据え続けた。




「全く面白い冗談だ……一体何十年、何百年ぶりだろうな、こんなに可笑しいのはよぉ……! 今更……今更俺に、死にたいか(・・・・・)、だと……?」


 再びニタリと口の端を上げ、出会い頭にエファーシャの名を耳にした時とは打って変わり、湖面の如く(しず)かで果ての無い感情が、じりじりとこの場に広がっていく。



「…………巫山戯(ふざけ)るのも……大概にしろよ」


 (ほの)かに沈痛さを孕んだその独白は、()(こと)()の主、即ちラズラムに向けたものだった。


 しかし今、間に立つ(・・・・)この三人に対しても、その肌を薄く削り取るが如く、不快な重圧を(もたら)していた。




「悪趣味な冗談は、それだけか――?」


 今すぐ()ねと言わんばかりに、強く唾棄(だき)する。


 その返事を聞き届け、ガヘラスは少し安堵して手を解くと、首を締め上げられていた()(ほん)の術士は足を着き、()せ返って何度か咳き込む。



 そうだ、鬱屈としたこの英雄の答えなど決まっている。


〝俺をこんな目に遭わせたあのクソ忌々しい神々共(やつら)に一矢報いてやる、それまでは、決して死ねない〟



 本人を含め、この場に居合わせた全員が、意図せずそう悟っていた。


 ――――その筈だった。




 怒り、郷愁、笑い、憎悪。


 そんな久しく感じていなかった人間らしい下世話な感情が、イヴニスを再び人たらしめてしまったのだろうか。


 心の(たが)が外れてしまった英雄は、彼等を去らせる前に、最後となるであろう問いを投げ掛ける。


 どうしても心の奥底で踏み込む事が出来なかったそれ(・・)を知る事により、〝神々への報復〟以外の全てを、その(きょう)()から消し去るべく。



「……メルクメリー、その名に聞き覚えはあるか」


 それは彼をここに人として繋ぎ止めていた最後の(えにし)にして、今までの贄達には終ぞ尋ねる事の出来なかった、最愛の者の名。


 似通った境遇の騎士を前に、ようやくその最期を受け容れ、死の訪れないまま、人ならざる邪悪に身を(やつ)そうと心に決める。



 今この鎖が捕らえているのは、恐らく人としての最後の心。


 ()わば、二度と帰らぬ遠い過去に縛られ続けているのと同じ。


 だから、この〝人の心〟さえ捨て去ってしまえば。


 この亡者のようなしみったれた愛惜(あいせき)を、全て捨て去る事が出来れば。


 時の流れに置き去りにされた青年は、これまで〝生の力〟に食い物にされて来た自身の潜在意識を変容させ、悪鬼羅刹の如く、自らを縛り続けるこの(おり)を食い破るつもりでいた。




 (しか)して顎に縦拳(たてけん)を当てながらそれに応じたレルゼアの言葉は、彼の想像とは真逆のものだった。


「…………王妃(・・)メルクメリーの事か?」



 知らない、だとか、その死に様だとか。


 果てはあの後、誰それに(めと)られた、だとか。


 自身から離れ行く方向ばかりを想像していたため、イヴニスは内心虚を突かれる。


王妃(・・)……だと…………?」


 レルゼアは事も無げに肯定する。


「貴殿の(きさき)であったと。そう伝え聞いているのだが」




 記憶の外に追い出そうと、()り潰して消し去ろうとしていたのに、まるでその言葉の方から彼に歩み寄ってくるようだった。


 それは史実として英雄イヴニスの妻とされ、君主制を取らなかった騎士国に於いて最初で最後となった王妃(エンプレス)


 尊大に過ぎるその呼称を聞き、色褪せた英雄は一瞬にして毒気を抜かれてしまっていた。


(…………ったく、王妃と来たもんだ。ちっともそんな柄じゃねえのにな……)


 一体何処までが真実で、何処までが美し彩られた幻想なのか。


 彼は意図せず、その瞼の裏側に在りし日の彼女の姿を想い描いてしまった。





〝――――イヴニス、今日も無事で良かった〟


 儚く透き通った心地良い声色と、柔らかく綻んだ笑顔。


 何故今日はこんなにも、昔の事(・・・)ばかり思い出してしまうのだろうか。


 その整った目鼻立ち、淡い唇、明るい菜の花色じみた美しい髪、そして軽く手を取った時の、(ほの)かに冷えた指先。



 先の幼子の時とは違い、あの時の全てが(つぶさ)に甦ってくる。


 たった百年も生きられないであろう人の子など、もう()うに老いさらばえ、死すべき定めに従っている筈。


 だから、あの可憐な姿を憶えている者など、もうここにいる哀れな男くらいだろう。


 それなのに、自身には、この記憶の中には、まるで久遠の残影のように、その美しくも儚い姿が色濃く焼き付いてしまっていた。




 * * *




 彼女は皇都グラドリエルにある小さな仕立屋の看板娘だった。


 日々(かん)()(どり)()き、貧困とまでは行かなかったものの、毎日両親と慎ましい暮らしをしていた。



 見た目は噂になる位の()(じん)だったのに、話すと余りに(いとけな)く、彼の好みとは正反対だったから、第一印象はお世辞にも良いとは言い(がた)かった。


 それでも傭兵稼業で生傷の絶えなかった青年は、安価なこの店に足繁く通わざるを得なくなる。



「あーあ……またこんなに滅茶苦茶にしちゃって……折角この間、綺麗に直してあげたばかりなのに……」


「見た目なんてどうだって良いんだ。きちんと役に立ってくれた。それが一番大事なんだよ。だから、毎度助かってる」


「ダメよ、貴方は私の為……じゃなくってね、私達のお店の為にも、いつも格好良く居てくれなくちゃ」



 冗談なのか本気なのか。


 常連に対するおべっかだとは薄々気付きながらも、心底気立ての良い彼女に惚れ込んでしまうのは、時間の問題だった。


 一方の看板娘が、イヴニスの何処に惹かれたのか、今となってはもう誰にも分からない。




 傭兵の方は、最初は然程好ましく思っていなかった彼女に対し、顔を合わせる度、次第にその全てが愛しく思えるようになってしまっていた。


 たった一年ほど。彼の今まで生きた四百分の一にも満たない僅かな時間に、幾度と無く(おう)()を繰り返し、湧き上がる愛情を積み重ね、やがて彼女はその身に新しい命を宿していた。



「ねえイヴニス…………私、身籠もっちゃったみたいなの…………」


 伏し目がちで面映ゆげにそう告白すると、告げられた方の男は内心頭を抱えていた。


 まだ、正式に(めと)ってもいないというのに。


 その日暮らしの男の心配を余所に、彼女の両親は彼等の事を心から(こと)()いでくれた。


 (わし)らも似たようなものだった、当事者同士で問題がなければ、それで良い、と。



 そんな温かな家庭を知らなかったイヴニスは、彼女を誰も居ない城壁の外へと連れ出し、たった二人だけで、誓いの言葉しかない(ささ)やかな挙式を上げた。


「…………実はね、もう名前も決めてあるの」


 彼女は深い慈しみを(たた)えながら下腹部を撫で下ろすと、そんな風に呟いた。


 言葉と共に、一陣の薫風(くんぷう)が吹き抜ける。



「〝イリージア〟――どう? 可愛らしい名前でしょう?」


「……まだ男か女かも分からないだろ? 男だったらどうするんだよ」



「大丈夫、きっと女の子に違いないわ……何だかそんな気がするの。もし男の子なら……その時はまた一緒に考えましょう? あ、そうだ! イヴニス二世とかどうかな? 凄く格好良いと思うんだけど……」


 時に意外なほど剛胆で、破天荒な彼女なら、本当にそう名付けてしまい兼ねない。


 悪い冗談は止してくれとばかりに、彼等は額を寄せ、小さく笑い合っていた。




 そうしてその一か月も満たない後、かの尽瘁(じんすい)の動乱が勃発する。


 不死者の元凶となる奈落、それを内包する永久浮蝕に近しい皇都グラドリエルは、地理的にどうしても大きく(せん)()()き目を(こうむ)る羽目になった。



 幾らフローマ大聖堂の護りがあったとは言え、大半に累が及ばないよう、当時の教皇は民草の殆どに対して疎開の命を下さざるを得なかった。


 そうして()(おも)にも(かか)わらず、二人は長期間に(わた)って離別せざるを得なくなってしまう。



 彼女は両親の()を頼り、共に国外へ。バルシア諸侯領の辺りまで一旦身を退()く事となった。


 イヴニスは無け無しの僅かな蓄えを全て彼女に託すと、〝必ず戻る〟、ただそれだけを約束し、動乱の中へと身を投じていった。



 先遣隊として賢者(セージ)グリムクロアや謎の魔道士ニベルらと共に最前線を切り開き、退()いては市街を死守し、栄華神の助力を経てこれを鎮め切るまで、その数年間はあっという間の出来事だった。



 風の噂で無事に子を生んだ事を伝え聞いていたものの、敢えて性別までは知らずにおいた。


 楽しみは、自ら目の当たりにする方がずっと良い。


 また逢えた時に、男だろうが女だろうが、彼女の前で驚いて抱き上げてやりたかった。


 しかしそれは、叶わなかった――――。





 恐らく彼女の、メルクメリーの存在は騎士国イヴナードの歴史から消し去られている。


 もう彼女の行く末を知る(すべ)など無い。


 そう悟っていた彼は、かの存在を心から追い出す事で、自身の(おぞ)ましさを全て受け入れ、人としての未練を捨て、心の底から神に仇為す悪鬼となる心算(つもり)だった。



 それなのに、レルゼアの答えを聞き、すっかり気勢を削がれてしまっていた。


 更には欲をかいて、あの日知らずにおいた事実に対しても、不用意に言及してしまう。



「…………なら……それなら、俺とあいつの子はどうなった?」


 鉱石術士は、英雄からの不可思議な問いにどう答えたものか逡巡した挙げ句、何の脚色もなく、今ある知識をそのまま伝える。


「聞くところによると、貴方と王妃の間で実子は儲けられなかった、と。そう伝え聞いている。しかし慈愛の王妃は〝廻し子の喧伝(けんでん)〟という名目で、自ら多数の孤児(オーファン)を引き取ったそうだ。その子らの事だろうか?」




 王妃に、実子は無い(・・・・・)




 その言葉を聞き、イヴニスは(いきどお)るより先に、思考が真っ(さら)に消えてしまっていた。


「な……に…………?」


 (にわか)に内蔵を全て(えぐ)り出されたかのような感覚が襲い来て、冷たく熱い業火の(もう)(しゅう)が自身を包み込んでいく。


 英雄の血を()(ぶん)(おそ)れた大賢者が、まさか五つにも満たないであろう子を手に掛け、文字通り歴史の闇に〝葬った〟とでも言うのか。


 もしそうだとすれば、王妃の下りも、耳触りの良い巷談(こうだん)かもしれない――。




 ここに繋ぎ止められた時は、張本人であるグリムクロアの事を腐る程憎み、飽きる程に(えん)()していた。


 しかし永い時を経るに連れ、人と相容れないのは自身の方だったと理解出来るようになって来ていた。



 あのまま不老不死にも(かか)わらず野放図にされていたのなら、見えざる傲慢さに心を深く蝕まれ、人としての価値観は次第に崩壊し、(あまつさ)えその事に気付く事すら出来なかったかもしれない。



 恐らくメルクメリーとも、彼女の死を待たずして、早々に(たもと)を分かつ事になってしまっていただろう。



 こうして囚われ続けるのも、不自然なまでに怖れられるのも。


 亡霊のように永く生きた結果、あの時既に()(ぎょう)の一部に成り下がっていて、こうして封じる(ほか)に手が無かったのだと、心の何処かでそう分かってしまっていた。



 死を待つ者達が()す当然の自衛であり、当然の()(ぎゃく)


 かつては人の(がわ)であった身だからこそ、分かりたくなくても、それと分かってしまう。


 もう(おの)()われを知る者の無い世界で、真に忌むべきは、元凶を創り出した不条理な神々共――――。


 しかしその考えもまた、過剰に過ぎる我欲の凶行を知ってしまった以上、改めねばならなかった。

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