4章-3 瓜二つの敬愛
その日、少女が目覚めた時の気怠さは、菓子を焦がしてしまった時と少しだけ似ていた。
いざ明日か明後日にはトリスタン領を出立という頃になり、リテュエッタは珍しく――レルゼアと共に旅をしてから初めて、体調を崩してしまう。
今朝の食事は昨晩の作り置きがあったため、男はこれまで通り朝から出掛けて行くと、彼女はその方が安心とばかりに、日がな一日横になって過ごす事にした。
* * *
僅かに覚醒したのは、昼の少し前。
〝彼〟と思しき人物が帰って来た。
衣類が一新されており、目深に被ったフードを含め、まるで森林探査隊のようだ。
乾期の真っ直中、今日は偶々冷たい雨が降っていたため、ざっと涓滴を払い、その素顔を晒す。
そこでようやく、共に短い暮らしをしている術士だと判別する事が出来た。
「…………もう、誰かと思っちゃいました」
横になったまま男の姿を見ていたテュエッタは、弱々しくそう零す。
そうして安心した様子で、再び瞳を閉じ、額に自らの右手の甲を当てた。
「イヴナードの衣服は、一式引き渡してきた」
故国の装身具を全て譲り渡してしまうという行為が、イヴナードの騎士に取ってどれだけの重みを持つのか、彼女は知る由も無い。
文書交換所でもフードを被り、言葉少なに文を渡すだけにしていたので、後は同じ位の背格好の者があの服装を纏えば、簡単に自身の名を騙れるだろう。
宝石商らの訳有りの伝手を使い、このまま少しずつ報告の間隔を広げ、一か月程度で溶暗するよう依頼してある。
多少後ろ暗い行為ではあったけれど、〝商業神ユグースラントの名の元に〟と、態々誓いの言葉を口にしてから請け負ってくれた彼等なら、きっと首尾良く熟してくれる事だろう。
「それにしても……全然似合わないですね、ふふ。けほっけほっ……」
改めてその姿を目にすると、つい笑ってしまいそうになり、乾いた咳と喘鳴が肺の奥から漏れ出てくる。
「そうか……そこまで不自然となると、今後の移動中も怪しまれてしまうかもしれないから、少し考えないといけないな」
彼の反応に対し、そういう問題では無かったから、そんなに真剣に悩んで、また笑わせないで欲しいなと思いつつ、リテュエッタは気怠げに上体を持ち上げた。
「起こしてしまって済まない」
彼は林檎と貧者の桃を買ってきてくれたようで、ベッドの脇に木の椅子を持ってくると、不慣れな手付きで皮を剥き始める。
「ありがとうございます……大丈夫です、自分でやれます」
「否、良い。昔、修道騎士らによくこうやって貰っていた。だから、その恩返しの心算だ。ただ慣れないので、少々不格好になってしまう点は許して欲しい」
彼は生来身体が弱く、特に幼年期には今のリテュエッタのように体調を崩す事が多かった。
一方の彼女は丈夫で、風邪で寝込む事などは殆ど無かったけれど、幼い頃に一度体調を崩した時、姉が母の見様見真似で看病してくれたのを思い出していた。
あの時と全く同じように、酷く凸凹に剥かれていくそれを見て、
(ああ、だから…………だからこの人の事、良い人だなって思ってたけど、何となく嫌いだったんだ――――)
最初は全く似ていないと思っていたのに。
やはり心の何処かで姉に重ねてしまっていた事を不意に悟り、慌てて話題を変える。
「そういえば、私にはイヴナードに一緒に戻るか確認してくれましたけど……けほっけほ、そもそもレルゼアさんは、どうして戻るんですか?」
嗄れ嗄れながら何とか最後まで話し切ったものの、途中何度か深く咳き込んでしまう。
この術士の複雑な事情は分からないけれど、ラズラムから賜ったという英雄への言伝、それは、
〝死を願わば、与えん〟
彼が先日そう呟いているのをふと耳にしてしまい、迂闊にも何の事か問い質してしまった。
神の前では嘘など吐けないだろうし、その場で服うしかなかったのは想像に難くない。
あの時もずっと深く思い悩んでいたようだけれど、こうして日が経ち、まだ伝える気は変わらないのだろうか。
騎士国イヴナードは、今尚生きる英雄イヴニスの加護で、浮蝕やら魔物やらを遠ざけていると聞いた。
そんな英雄が、もしも……〝死〟を願ってしまったら。
加護が消失してしまえば、いずれまた人の住めない土地になってしまう。
彼は態々、故国を滅ぼしたくて帰るのだろうか。
「――それは以前話した通りだ。不死のイヴニスから、竜髄症の治療に繋がる糸口を聞き出せたら。そう考えている」
「そんな風に、他人に理由を押し付けないで…………! ごほっごほっ!」
彼女はまた苦しそうに酷く咳き込みながら、真剣な眼差しで更に追及してきた。
「もし英雄さんに会えたとして、本当に……本当に伝えちゃうんですか?」
レルゼアは彼女の詰問に対し、答えに窮していた。
「体調が悪いのに、手厳しい限りだ……ただ、無茶を押してまで喋らないで欲しい。治りが遅くなってしまう」
ヴォルドー家の者に課せられた至言、即ち血の掟は、〝弱きを助け、清廉であること〟
まさか知らず知らずの内に、畏くも、封じられた英雄を自身から見て弱き者と見倣してしまっているのだろうか。
そしてリテュエッタもまた、〝弱き者〟だったからこそ、ここまで面倒を見て連れ回してしまったのだろうか。
彼は頭を振って、そんな高尚に過ぎる下賎な考えを自身から追い出す。
恐らくは、四百年という長い年月い亘り、自分以外の全てを失ったまま拘束され続けている哀れな英雄と、今の自身の境遇を重ねてしまっているだけ。
そんな陳腐な同情ですら、本当なら相当に畏れ多い事なのに。
過去と決別し、自身の胸中に渦巻く不可思議な感情に終止符を打つため、英雄がその御言葉にどんな答えを出すのか、聞き届けたい。
そんな、破滅的な我執。
他人任せの、無責任な願望。
余りに下らない目的で、故国を重大な危険に曝し、挙げ句根本から瓦解させてしまう愚かな行為である事など、十二分に理解している。
「とても説明が難しいのだが……英雄の出す答えが知りたい。そういう事かもしれない」
出来るだけ正直に、かつ婉曲に説明する。
「そんなの、よく分かんないです……」
囚われの英雄の選択や意思なんて今は関係無い。
それを知った上で、〝彼自身の望む答え〟が知りたい。
即ちレルゼアの願う〝故国の結末〟を知りたかったリテュエッタは、釈然としないまま、ゆっくりと時間を掛けて幾つかの果実を食べ終えた。
「ありがとうございます。凄く美味しかったです」
流石にまだ余裕綽々とは行かなかったものの、少し虚勢を張って、彼に明るく微笑んで見せる。
ベッドの脇には小洒落た棚など一切無く、彼女がレルゼアに小皿を返そうとした時、また少し指先だけが触れた。
この時彼は、少女からの例の痛みよりも、未だ下がり切らない体熱の方を強く感じていた。
* * *
明くる朝、彼女はいつもより随分多い盗汗と共に、一転して快方へと向かって行った。
そうして予定より三日程遅れ、ようやく安宿を出立する事となる。
支度を調えて小型飛竜のところに行くと、レルゼアはどちらが主人か分からないような態度を取られてしまった。
彼女が床に伏せている間、きちんと毎日様子を見に行っていたにも拘わらず、少女と共に来るや否や、いきなり素っ気なくされ、改めて聡い個体だと舌を巻く。
ミルシュタットは騎士国イヴナードと直接陸路で繋がっていたものの、かなり長い行商の大帯を長期間渡って行く必要がある。
当初はミルシュタット港とイヴナード港を結ぶ海路も考えたが、船ならば凡そ二週間程度、飛竜なら少し遅く二十日程だろう。
また陸路なら大教国とを結ぶ比較的細い長老の道に比べ、行商の大帯であれば宿にも事欠かないものの、馬を飛ばしても最悪一か月半位は掛かってしまう。
陸路は論外として、閉鎖的な船内で身元が割れてしまった時の事や、イヴナード入国時の検疫のリスクまで考えると、やはり空路が最善と思われた。
空路であれば、追剥ぎや匪賊などに出会う危険性も低い。
実際に進み始めると、飛竜は馬ほど運搬力が無いため、空の往来は少なく、見掛けるとしても一日に数回程度。
所々ある浮蝕のうち、大きく侵食が進んでいる地域は陸路と同様に迂回しておいた。
そこさえ避ければ飛行系の魔物の脅威も少なく、野生動物も今の時期は大した問題にならない。
唯一厳しかったのは、併走する赤火山脈からの強い吹き下ろしで、特にこの時期は北方の草原地帯を越え、急速に冷やされた突風が断続的に吹き荒れる。
寒さは大教国で慣らされたため余り問題にはならなかったが、強い横風によって大きく煽られてしまうので、飛竜の制御はこれまでよりもずっと注意深行わなければならなかった。
日に日に行き交う人種や建築様式、朝市の規模、そこに並ぶ食物といった地域色が緩やかに変化していく。
リテュエッタはそうした移り変わりに気付くたび、楽しそうに彼に報せてきた。
特に目に付いたのは人種で、ここまで来ると肌や体毛の色が極端に薄いオルティア系は殆ど見掛けなくなってしまっている。
イヴナードは地理的にナズィヤに近い南方系が多く、肌の濃淡は豊かな一方で、彼自身もそうだったが、髪は黒かそれに近い暗褐色ばかり。
そんな中、リテュエッタは六花のように透けた肌と、濡れ烏のような美しい髪といった両者の特色を兼ね備えており、余りに極端なその組み合わせは、他に類を見なかった。
外界との交流が少ないといわれるスノーステップの村々に於いては、恐らく尚の事珍しい部類だったのではないだろうか。
そうして長旅の末、ようやくあと一日でイヴナード西端という所まで到達する。
ようやく明日には国境越えとなり、逸る心を抑えつつ、入国時の詐称方法や口裏合わせについて、彼女と綿密に打ち合わせておく。
故国の手の内は知れており、入り込むだけなら極簡単だろう。
但し、問題は入国した後。身を潜めながら、如何にして英雄の元まで辿り着くか。
先の読めない賭けではあったものの、彼には一つ腹案があった。




